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第一章 孵化 (2)

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2007/07/15 Sun.


「飼え、てか?」
 キアは僕が持ち込んだケージが半畳分のスペースを占拠しているのを見て渋い顔をした。
 広東料理店の厨房から帰宅したのが、たぶん昨夜の十二時過ぎ。今朝は本業の清掃会社で始業が七時。今はとっぷり日が暮れて、ようやくほっとできる時間のはずだった。
 ケージは勇が幼稚園児の頃にハムスターを飼っていたものだ。底部のプラスチック板に赤いクレヨンで「ちいちゃんのおうち」と落書きされている。
 母グモはその中、段ボールを折り曲げて作ってやった隠れ場にひそんでいた。夜行性なので活発に動き出すのはこれからだろう。
「もとの飼い主がさがしてるかもって思ったら、逃がすの、ためらっちゃってさ」
 愛想笑いをつくったつもりだったが、醒めた視線を返されて頬がひきつった。
「僕んとこはちょっと……もう無理っぽくて」
「主食はアレやろ」
「昨夜はテントウムシの幼虫を食べたよ。今日はコオロギをつかまえてきたし」
「クモ飼うためにムシ採り。矛盾してへんか?」
「うちの町内は明日薬剤散布日だから。食物連鎖に乗っかれたほうがムシも浮かばれると思う」
「逃がしたれよ。もとの狩り場に戻るだけや」
「狩り場って、あの、一軒おいて隣の……」
 キアは人差し指を唇にあてて、壁の向こうを目でしめした。耳をすませると、どこかの部屋のTVの音にまじって、チチチ……というかぼそい鳴き声が聞こえた。
「熱帯ヤモリだ。どこから来たんだろ」
「餌のみつけやすいところはよう知っとう。も少ししたら、ウシガエルも鳴き出す」
「堂島(どうじま)さんとこって、そんなに多いのか?ゴキ……」
 国道の方向から重量級のリズミカルな排気音が急接近してきて、僕の声はかき消された。
 アパートのすぐ外でその音は止まり、続いて階段をどすどすとあがってくる音、ドアを開閉する音が近所中に鳴り響いた。つかのまの静寂のあと、今度は外廊下をどかどか走ってくる音がしたと思ったら、この部屋のドアがばんばんと叩かれた。
「おい、おるんやろぉ、滋!開けんかい!」
「噂をすれば……」
 キアの顔がまた渋くなった。
 がちゃりとノブがまわって、ごつい体格の中年男性がのり込んできた。とたんに室温が摂氏〇.五度ほど上昇したようだ。
 白いものがまじりかけたイガグリ頭の下で、日本人離れした大きな目がぎょろりと動いた。
「開いてるんなら、はよ言え」
「堂島さん……」
「誰がはいってええ言うた」
「お前に許可がいるかい」
 本人に悪気はないのだろうが、声はでかいし動作もでかいので、けっこうな威圧感だ。堂島さんは手にしたハエ叩きをキアの目の前につきだした。
「戻ってきよった。ちゃんと見とかんかい」
 ハエ叩きの上には、ぺしゃんこになったアシダカグモが貼りついていた。ケージの母グモよりひとまわり小型だ。たぶん雄だろう。
「うちに来たやつとは別や。よその家の見張りまではしてへん」
「ふん。まあええわ。前の一匹を見逃したったんは、子持ちやったからや。もともと俺はムシ嫌いなんや」
 堂島さんはハエ叩きをぱしっとゴミ箱に叩きつけてクモを落とし、そのままあぐらをかいて座り込んだ。ワイシャツの袖をまくり、ネクタイをゆるめてため息をつく。襟ぐりにじっとりついた汗じみがわびしい。日曜日だというのに、出勤してきたようすだった。
「餌を片づけんと、いくらでも寄ってくるで」
 キアは堂島さんの鼻先すれすれの位置から一歩もさがらず、ちゃかすような声をかけた。
「うるさいわ」
 僕はじりじりと尻を動かしてケージと堂島さんの間にまわりこんだ。
「うちにゴキブリが多いんは、真下のゴミ置き場のせいや。ムシの話はもうええ」
 部屋の隅に立てかけてあった竹刀袋を指さす。
「いいかげん道場に出てこんかい」
「おっさんの指導日は土曜の晩やろ。桂花園のバイトがはいっとうわ」
 それって確信犯だ。
「来月末の審査会、またすっぽかす気か」
「段位なんかいるか。うっとうしい。腹の足しにもならん」
「あほ。あれはお前みたいなんの首に札つけて縄につないどくためにあるんじゃ」
「手が後ろにまわるようなことはしてへん。デスクワークほったらかしてうろうろすんなよ、生活安全部」
「少年課や。好きで刑事部から転勤したわけやない。お前の張り番は通常業務外のボランティアや。東南海地震は起こってもたらしまいやからな」
「俺はナマズやないわ。あの化けもんバイクの騒音のほうがよっぽど近所迷惑や」
「俺のベムベの悪口は許さんぞ、こら」
 二人の声がだんだんヒートアップしてきた。はらはらしていると、床下からどすどすと突き上げるような衝撃を感じた。
「一階の長池(ながいけ)さん、部屋におられるみたいですね。ちょっとご迷惑だったかも」
 正直、助かった。堂島さんは仕方ないという顔でハエ叩きを拾い上げ、僕に向き直った。
「聡くんも、よう我慢してつきおうてくれてるな」
「世話になってるのは僕のほうですから」
「滋には過ぎた友達やで。ほな」
 来た時と同じように唐突に出ていってしまった。せっかちなのは四年前からちっとも変わっていない。
「ラス。何がおかしい」
「毎朝、出勤前に素振りしてるんだろ。ちょっとは安心させてあげなよ」
「あいつのためやない」
「堂島さんと話してると、中坊みたいにむきになってさ」
「おっさんが成長せえへんからや」
 キアは本気でいやがっているようだけど、僕にはこういうつきあいも悪くないんじゃないかと思える時がある。
 最近、こいつがまた口数を減らしてきているようで、気になっていたからかもしれない。
「しかし、一匹いなくなったらちゃんと次の一匹がやって来るもんなんだな」
「自然は真空を好かんて。ニッチは必ず埋めにきよる」
「母さんグモ、やっぱり逃がせないね。狩り場に戻ったらハエ叩きだ」
「餌とりは手伝えよ」
 堂島さんに感謝。おかげでケージを手元に置く気になってくれたようだ。
 追放を免れたのが嬉しいのか、拘束されているのが不満なのか、母グモはそろりと脚を伸ばして夜の活動を始めた。

 部屋を出て階段をおりると、エプロン姿の長池さんが箒を持って立っていた。
 目の前には僕のMTBと並んで、ばかでかいバイクが停めてあった。漆黒のカウル、特徴のある排気筒……。堂島さん自慢のBMW・R1150GT。千CC超クラスの輸入車だ。重量感をオニヤンマに喩えれば、MTBはハッチョウトンボか。
「さっきはうるさくしてすみませんでした」
 僕が声をかけると、長池さんはあんたのせいじゃないよ、というように首を振った。
「また堂島さんでしょ。こんなオートバイにお金をつぎこむくらいなら、もっとお家賃の上等なとこに住めばええのにねえ」
 僕ははっきりとした返事はせずに、ちょっと会釈してからMTBにまたがった。
 堂島さんが寿荘に住み続けているのは家賃をけちっているからではない。事情は知っていたけれど、それを聞かれもしないのに長池さんに説明するつもりはなかった。


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