第一章 孵化 (6)
2007/07/23 Mon.
昼下がりの寿荘二〇五号室は、窓とドアを全開にしても、まったく室温が下がりそうになかった。
チイちゃんのケージは外廊下に出してもらっていた。熱帯原産の種なので、あまりこたえてはいないらしい。
僕らはちゃぶ台に向かい合わせに寄っかかって、それぞれの作業に黙々と取り組んでいた。
ノートPCのキーボードを叩く音と団扇であおぐ音だけがさっきから続いている。さすがのクマゼミもこの時間帯は休憩中らしい。指先からしたたった汗がキーのくぼみにたまって薄黒い染みを残した。
四つの営業所の集配区域は全部調べ上げて、四つとも重なる地域を地図上にマークしてある。けっこう広大なエリアなので、現地を片っ端から調べていくことは難しい。
もっと情報が欲しくて、夜中に自動ダウンロードソフトを動かしておいたのはいいが、山積みになった生データから役にたちそうなものを探し出すことのほうが骨だった。
僕はポロシャツの裾で両手を拭き、そのままひっぱりあげて顔を拭った。
キアはTシャツを脱いであぐらをかき、ぱたぱたと団扇を使っていた。左肩には薄紅色の紐を貼りつけたような切創痕。それが団扇の動きにつれて見え隠れしていた。胸の打撲痕はもうほとんど脱色して目立たなくなっていた。
眺めているつもりはなかったけど、なんとなく手を止めてぼんやりしていたらしい。目の前に問題集をつきつけられてはっとした。
「ラス。ここ、ヒントくれ」
「……両辺を二乗して差が正なのを証明する」
「ああ……」
気を取り直してもう一度ディスプレイに集中しようとした。
「悪い。もひとつだけ」
「両辺の差を因数分解して実数の二乗になればいい」
「サンキュ」
キアはそれからしばらく口をつぐみ、さらさらと鉛筆を走らせていた。僕はといえば、集中力をとりもどすのがかなり難しくなっていた。
「暑い。なんでこんなに暑い」
「夏やからな」
言われなくてもわかっている。狭い部屋の中に六十キログラム超、摂氏三十六度超の発熱体がふたつと、PCのCPUとHDDがぶんぶん動作中なのだ。嗅覚はとっくに麻痺していたが、男の汗が湿度をさらに上昇させ、飽和脂肪酸をまき散らしているのが目に見えるようだった。
キアはアルマイトのヤカンを持ち上げて口の中へ麦茶をじかに流し込み、そのまま僕の前につきだした。
「飲めよ。脱水おこすぞ」
「扇風機くらいあっただろ」
「昨日こわれた」
「僕が修理してやる」
「……ドアの外に放り出したったけど」
ドライバー片手に部屋を飛び出したものの、結局は何もせずに引き返すことになった。製造年月日が僕らの誕生日より前の卓上扇風機は、電源コードを交換され、風力切り替えボタンが取れたあとを配線し直され、台座のゴムが剥がれたあとに消しゴムを貼りつけてあった。本体のカバーもはずされていたので、モーターの回転軸がひんまがってしまっているのが丸見えだった。
サウナと化した部屋に戻ると、僕はACアダプタを引き抜き、PCを畳んでデイパックのインナーポケットに固定した。
「図書館に行こう」
「家に帰ったほうが早いんちゃう?」
別につきあってもらわなくても、と続きそうな口ぶりだったが、キアは部屋の隅にまるめて放り出していたTシャツに手を伸ばした。
「今日は勇の友達が宿題しに来てる」
「小六女子か。宇宙人やな」
「お前のこと、タレントの臥竜天睛に似てるって勇が吹聴してたぞ」
「誰や、それ」
「日曜の朝っぱらから母さんと一緒に観てる特撮ドラマの……」
「もうええ」
市立図書館の西部支所はJR駅前の踏切を渡って南に降りたところにある。さすがにこの時間の自習室は満席だったので、僕は二階の閲覧室でビューアーを借り、瀬戸日日新聞のマイクロフィルムをチェックしにかかった。クモ関連の記事も、ナイロン糸のヒントも、みつからなかった。
キアは書架から野外活動やアウトドアスポーツの雑誌をごっそり抜いてきて、捕虫網だの防虫ネットだのの色を調べていたが、そちらにもたいした収穫はなさそうだった。
館内はエアコンがきんきんに効いていた。冷房が苦手な相棒は、半時間もすると雑誌を片づけてベランダに出ていってしまった。
小一時間後、僕もマイクロフィルムを返却して閲覧室のガラス戸を開けた。キアは手すりにもたれて目の前に広がるなだらかな斜面を見おろしていた。
もとは一面の水田だったはずの土地に、幼虫のはみ跡が瘤をつくったように、ちまちました建売住宅が点在している。図書館の並びは真新しい公園だ。児童向けの遊具のあるあたりは親子連れでにぎやかだが、ウッドデッキに囲まれた大きな池のほとりは人影もまばらだった。水辺ではコサギが低く舞い、セグロセキレイのつがいがちょんちょん跳ねていた。クサガメが甲羅干しをしているのも見えた。あそこがもとは灌漑用のため池だったなんて、まわりの家に住んでいる人たちは知らないだろう。
サクラの葉陰でミンミンゼミが鳴き始めた。湿った南風がキアの髪をなびかせて吹きすぎた。
「潮の匂いがする」
「海風。この辺まで届くんだ」
国道沿いのビルが視界をさえぎっているのでここから海は見えないが、夏の太陽に焼かれた地面が海面より熱くなり、気流を生んでいるのだ。
キアが背筋を伸ばした。何かを思い出しそうだ、という表情を浮かべていた。
「ラス。浜に行こう」
いきなり手すりをまたいで前庭の芝生に飛び降りると、そのまま坂を駆けおりていった。僕は不意をつかれて一瞬かたまったが、あわてて駐輪場へ向かった。
JRと国道の間までは車道が整備されていても、そこから南は震災前の古い家並みのままだ。軽四がやっと通れるくらいの狭い道が、隙間なく建ち並んだ木造住宅を縫って、曲がりくねりながら浜に降りていく。一筋まちがえればどんづまりの迷路だ。
キアは潮の匂いに惹かれるように、脇目もふらずに走っていく。
犬や子供がいつ飛び出してくるかもわからないので、MTBの速度をあげられない。下り坂なのになかなか人の足に追いつけない。瓦屋根とコンクリート屋根の連なるかなたにちらちらと青い断片が見えだした。と、思う間に坂道が防波堤の手前で車道にぶつかり、視界がひらけた。
海だ。
坂道を走り降りた勢いのまま、キアは防波堤のコンクリート斜面を駆け上った。そのままテトラポッドの並ぶ波打ち際に飛び込みそうにみえてひやっとしたが、堤の上で膝をためて急制動をかけ、まっすぐ立ち上がった。
僕は坂道の途中でMTBを降り、同じ目線の高さで海を見た。浅瀬のはなだ色、その向こうの群青色。打ちつける波だけが白い。しぶきを浴びたテトラポッドに点々とついた水滴は、太陽にあぶられてすぐに消える。
南東のかなたに見える対岸は大きな島だ。西には埋め立てでできた人工島があって、水平線は見えない。狭い水路だから、表層の波はおだやかに見えても潮流は速いはずだ。
海風が強まり、髪をまきあげ、Tシャツの裾をはためかせた。潮と重油と腐りかけた魚の匂いがした。目を細めて水面を見つめていたキアは、右九十度身体をまわして幅五十センチほどのコンクリの上を駆けだした。横殴りの風を受けながら、足元はぶれない。
僕も海沿いの車道にMTBを乗り入れてあとを追った。つきあたりは小さな漁港だった。
キアが地面に飛び降りるとフナムシの群がざわっと逃げ出した。
明智市の漁業はタコ漁が有名。あとは小型の漁船を使った引き網漁か、海苔の養殖。春先はイカナゴ漁。するすると記憶の糸がほどけだした。
市内の小学生はみんな、宿泊体験学習でこの近くの青少年臨海研修センターを利用している。子供の頃、一度は見たはずの風景なのだ。
船着き場を歩く僕らの左手には並んでもやわれた漁船。右手には目のつんだ白い漁網が、いくつも並んだ竹竿にひっかけて干してあった。使い古された網や漁具をごちゃごちゃと積み上げた一角で、キアはやっと足を止めた。後ろからとぼとぼとついてきた僕は、ポチに引かれた花咲か爺さんの気分だった。
「これや」
ゴミの山の下からひっぱりだされたのは、ぼろぼろに痛んだ漁網の切れ端だった。長年海水にさらされたせいで、かなり褪せてはいたが、その色は最近使われている漁網とはずいぶん違っていた。
「カッチ色、だったっけ。昔は防腐や補強のために柿渋に浸けていたから、こんな色が漁網の定番だったんだ」
宿泊体験で地元の漁師さんに聞いた話だった。柿渋が使われなくなってからも、見慣れた色に染められた網が長いこと使われていたと言う。
キアは手にした網のはじをほどいていた。結び目を解いて一本の紐にし、縒りを戻して三本の細い筋にする。もう一度、反対向きにねじって、五本の糸にまで分解した。頑丈そうにみえた繊維も、ここまでばらすと簡単に爪で切り取ることができた。できあがりは、まさしく僕のポケットにしまいこまれた物と同じだった。
振り向くと民家の屋根越しに国道沿いのビルが頭を出していた。このあたりの国道は海に近い。すとん、と腑に落ちるものがあった。
「瀬戸日日新聞のウリは、神部港の大型船の出入りと、この辺の潮汐表を載せていることだ。それに、宅配の地野菜を買うのは農家じゃないだろう」
地図にマークしたエリアを思い浮かべ、頭のなかで海に近い地域だけをピックアップした。これでかなり、対象地域が狭まった。
「ピザなんか取ってるとしたら、たぶん、若い人のいる家族構成だ。老人世帯や単身者は考えにくい」
ふいに寒気がして首をすくめた。今までなんとなく、クモを放した人は僕らよりずっと年上だろうと想像していた。ひょっとしたら、僕らと何年も違わない時期に臨海学校に来た人かもしれない、と思い直したのだ。
「そろそろ机上調査は終わりだ。フィールドワークの計画を立てるよ」
「毎日はつきあわれへんぞ」
「下準備はひとりでできる。今まであんまり来たことのない地区だから、地盤をかためるのにちょっと時間がかかるだろうし」
「慎重に動けよ。お前の憶測があたっとったら」
「ヤバそうだとわかれば、深追いはしないよ」
心配をかけまいとして言ってみたものの、本気で引くつもりがないことはバレバレだっただろう。
これはたぶん、警察を呼ぶだけでかたのつく話ではない。堂島さんが聞いたら怒るかもしれないけど、クモのメッセージは受けとり手を選んだのだという気がした。
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