第2章 雫石事故の実像 〜その内面にあるもの〜
- 雫石事故の実像をより知るために重要と思われる事柄をここに留めておきたい。
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第1節 マスコミ
- マスコミは事故発生当時、まだ詳細が判然としない間から一斉に自衛隊批判を展開した。朝
日・読売・毎日の三大紙は、事故当日、昭和46年7月30日夕刊で既に自衛隊機の過失を全面的に報じ
ている。自衛隊は、マスコミに同調した世論により集中砲火を浴びることとなった。過失が存在したという意味では結果として事実であったといいうるにせよ、過失の背景にある要因や過失に至る経緯、過失が起こった状況といった詳細が分からない時点で断定的報道を行うことは、世論のミスリードにつながり、ひいては事故の真相を見えにくくするもので、不謹慎であったというべきである。
現在でも、航空事故が発生すると初期の段階で「ベテラン機長がなぜ」といった論調の報道が為されることがある。原因が何か分からず証拠もない段階で、パイロットによるヒューマンエラーを示唆することはやはり賢明ではない。もっとも、統計的には航空事故の事故原因の大半には何等かのヒューマンエラーが介在することが知られているが、ヒューマンエラーはベテランでも訓練生でも誰しもが人である限り犯しうるエラーなのであり、その意味でもこのような論調の報道はヒューマンエラーの本質を捉えていない。
マスコミが本来明らかにしなければならないのは、そのようなヒューマンエラーがなぜ引き起こされたのか、エラーがなぜ事故に発展したのかといった部分のはずである、本件においても、事故当事者の訓練生と教官にマスコミの関心と激しい批判が集中したが、実際には教官に臨時訓練空域におけるジェットルートの存在と危険性について松島派遣隊の上層部が指導していなかったこと、松島派遣隊には古い航空地図しかなく、ジェットルートの正しい位置を知ることが出来なかったことといった組織的なエラーが背景にあった結果として、ジェットルートは現在位置からは少し離れた位置にあるという教官の誤った認識につながっていったのである。
わが国には、歴史的に「誰が悪いのか」と責任を追求したがる国民性がある。従って、わが国のマスコミもまたその国民の知る権利を実現すべくその国民性に染まっている。しかし本件でも明らかなように、個人の責任追及では、事故の本質的原因に至ることもなければ、事故の根幹を成した不安全事象を取り除くことも出来ず、あまりに不毛である。マスコミは視野を「誰が悪い」から「何が悪い」に転換して活動することで、より国民が知るべき真相に深く迫れ、さらには事故再発の抑止という形で、国民の利益に資するものになることを知るべきである。もっとも、それ以前にマスコミが国民の知る権利を担保するものである限り、国民の意識が何処にあるのかがマスコミのあり方の鍵を握るのはいうまでもなく、我々国民の意識改革も必要となろう。
なお、マスコミの事故発生当初の報道の偏向に関係して、当時東海大学教授であった井戸剛氏が昭和46年7月31日付朝日新聞で、自衛隊機は常識はずれの無謀操縦をしており、防衛庁には弁解の余地がない旨発言した翌日、事故調査委員会委員に任命されており、もし偏見を持ったまま調査に入ったとすれば、結果が左右された危険性がある (この点については足立東著「追突」16頁〜27頁が詳しい)との指摘がある。世論のミスリードの危険性は、同時に事故調査の方向性のミスリードにつながる虞があることを示しており興味深い。
- ちなみに本件事故を全部ないしは一部に取り上げた書籍として、内藤一郎著「真説日本航空事故簿」や足立東著「追突」などがあるが、いずれも内容は自衛隊全面擁護、全日空全面批判に等しい内容となっている。この点は、マスコミが自衛隊側に一方的な非があるとの姿勢に基づいた報道を展開したことに対する反動と捉えることが出来る。マスコミによる自衛隊批判とこれらの書籍による全日空批判の双方を理解することで、初めて本件事故の実像が鮮明に浮かび上がるものと思われる。
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第2節 割愛制度
- 昭和30年代半ばから始まった高度成長期の影響で、航空需要はすさまじい勢いで増大した
。この需要に応えるべく航空各社は輸送力を増強していった。しかし、パイロットの数は決定的に不足し
ており、また、当時の航空会社には、新たに採用して一から訓練するほど時間的にも経済的にもゆとりが
なかった。そこで日本航空(現日本航空インターナショナル)は、昭和34年即戦力として、自衛隊パイロットの採用を始めた。ところが精
鋭ばかりが引き抜かれていくのに驚いた防衛庁は運輸省・大蔵省と相談して、無制限流出を防ぐ方策を巡
らせた。そして登場したのが、この割愛制度である。簡潔にいえばこの制度は、防衛庁から民間へのパイ
ロット推薦制度であり、この制度により自衛隊を退職して民間に流れたパイロット達のことを割愛組という。とこ
ろが実態は、自衛隊の精鋭パイロットが民間航空会社に引き抜かれるのを抑制し、且つ、自衛隊の訓練に十分についてこれ
なかったり、技量の不足する者の人員整理をも図ろうとするものであった。実際、日
本航空が、これら自衛隊退職者に対しても、一般入社希望者と同様に入社試験を課そうとしたところ、試
験をするなら割愛制度はやめると防衛庁から反発されたという経緯を持つ。もちろん彼らの中にも、民間航空
会社においてすばらしい成果を収めた者が数多くいることはいうまでもないが、適性を欠く者もまた少なくなかったのも事実である。なお、昭和47年の日本航空連続事故計5件の内4件など当時の航空事故の約半数強は
、彼ら割愛組が機長を務める機であったこと、ちなみに、日本航空全パイロット数に占める割愛組の割合
は、昭和47年当時で僅か2割5分であったというところからも明らかである(割愛制度については、柳田邦男著「続マッハの恐怖」470頁〜473頁が詳しい)。そのような理由から、航空自衛隊員は、民間機のパイロットを見下す傾向にあったことは否定できない(海外においても戦闘機のパイロットが民間機のパイロットに対し優越感を抱いている旨の指摘がある。米軍の事例が加藤常夫・上田恒夫共著「機長席からのメッセージ」シリーズに記載されている)。また割愛組とは別に、優秀な自衛隊パイロットの中には民間航空会社に直接引き抜かれていく者もおり、このような者に対して自衛隊員らは裏切られたような思いを抱いており、どちらにしても当時彼らが民間機のパイロットに良い感情を抱けるような土壌にはなかったことは確かである。
- 昭和46年8月のNHKの取材によると、民間機のパイロットは、少なからず自衛隊機とのニアミスや危険な行為を受けた経験を持ち(柳田邦男著「続マッハの恐怖」122頁〜145頁に航空関係者の座談会の内容が記されている)、このような場合、対象が編隊機などのとき、民間機は身動きひとつ出来ずに、自衛隊機が回避して去っていくのを待つしかないこともあるとされる。また、自衛隊機がインターセプト(国籍不明機など不審機の識別のために戦闘機が接近し監視すること。)をかけてきたと民間機のパイロットが判断した場合は回避せずに水平飛行を継続すべきであるともされている。このようなことから、本件全日空機は、回避することができないまま
事故に至ったのではないかという可能性は否定できない。また、インターセプトなどの訓練のための標的機(仮想敵機)とし
て民間機を利用することが日常的に行われていたとする元航空自衛隊員の告発もあり(朝日新聞などが記事として取り上げた。ボーイング727がソ連の領空侵犯機に似ていたために迎撃訓練をしていたことなどを述べた。この報道について防衛庁は否定した。)、それが本件事故
の真相である旨の主張もある。但し、これらの主張はいわば極論であり、直ちにこれらが本件事故の真相であるとすることには慎重であるべきである。しかし、訓練空域の近傍がジェットルートであり、民間機が行き交うことを知りながら、ジェットルートの正確な位置を確認することもなく訓練機と教官機を危険な空域での訓練に送り出した松島派遣隊上層部の対応を思うに、いずれにしても、本件事故においては自衛隊の内部に潜む民間機、人命軽視の風潮が実際の危険として体現したものであると思えてならない。(この項で述べた割愛制度等の事項については補遺にて、追考することとする。)
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第3節 全日空苦悩の歴史に見る雫石事故
- 全日空が産声を上げたのは昭和33年(1958年)3月、ローカル線1社体制という国策
による日本ヘリコプター輸送と極東航空の合併によってであった。政府の保護を受けて日本航空が順調に
成長するのに比べ、何らの保護も受けない民間エアラインの経営は極めて苦しく、継続する赤字に「現在
窮乏・将来有望」を社訓に社員達は頑張った。その結果昭和36年には累積赤字を一掃。昭和39年4月
には、リースではあったが念願のジェット旅客機ボーイング727型機を入手、更に翌年には初の自社機
として同型機をボーイング社から受領した。幹線ジェット化に伴い、同社は大々的な宣伝活動を展開し、
巨人日本航空に対し国内幹線においてではあるが、正面から戦いを挑むまでになった。ところが、昭和
41年2月4日、同社のボーイング727ー100型機が羽田沖に墜落し、乗員乗客133名全員死亡。相次いで
同年11月13日には、同社YS−11型機が松山沖に墜落し乗員乗客50名全員が死亡した。事故調査はそれぞれ
の事故技術調査団で進行したが、前者においては、ボーイング727型機のグランドスポイラー作動機構
の構造上の欠陥が明らかになったにもかかわらず、同型機を運航する日本航空に迷惑がかかること、それ
以前にボーイング727型機を航空各社に推薦したのは当時航空界での権威であったこの事故技術調査団
員の大学教授らであったことから、自ら道義的責任を問われるのをおそれ、パイロットミスを濃厚ににお
わす原因不明という結論に逃れたといわれている(この経緯については柳田邦男著「マッハの恐怖」が詳しい)。後者については、事故技術調査団の構成がYS−11
の設計・製造を手掛けたメーカーなどの利害関係者でほぼ占められており、結成当初から被告が裁判官席に座っていると
の批判を受けていた。現に彼らは、YS−11の設計段階以来のエンジン推力不足と、事故機が左エンジンプロ
ペラに不調を起こしていたことを認識しながらも、これを無視して、やはり同様にパイロットミスを濃厚
ににおわす原因不明という結論に至ったのである(この経緯については柳田邦男著「続マッハの恐怖」96頁〜118頁が詳しい)。
- 国の国策により差別を受け続け、いつも日本航空に溝を開けられ、全社を挙げての努力の結果、やっとその後ろ姿を、
はるか彼方にであれ捉えることができたと思えば、今度は、国の機関である調査団員の保身のために、パ
イロットミスを頻繁に起こす航空会社の烙印を押され、業績は落ち込み悶々とした日々を送らねばならな
くなった。その後1年間の社員の努力で、業績は回復、大阪万博など航空需要増加の追い風を受けてやっ
と会社が立ち直ったと思ったところに起こったのが本件事故である。いつも国に成長を阻害されるのが会社創設以来事故当時までの全
日空の宿命であり、これまで忍耐を重ねてきた全日空も本件事故により、あまりの仕打ちにやむにやまれず、本件訴
訟に及んだものである。
- これにより、国と全面戦争に入った全日空であるが、本件事故による痛手を克服し、日本航
空連続事故を追い風にして、遂に昭和49年、平均座席利用率で日本航空を抜いた。しかし、その直後の
昭和51年、今度はロッキード事件が表面化、全日空はダーティーなイメージに染まり大打撃を受けた。
その際、国は、全日空に若狭会長の辞職により責任をとるよう迫り、これに対し全日空側は国の身勝手な
要求に激昂、全社一丸となって要求を拒絶した。国は、本件事故以来の全日空の反抗的な態度に、これま
で認めてきた全日空の国際線チャーター便の運航に否定的な態度を示すという事実上の制裁措置をとった
。
- こうした歴史の中で築かれてきた全日空の反骨精神は、今日でも全日空の社風に息づき、また、それ以前に本判例の全日空の主張の中にも生きているのである。
(注:この部分の文面について、読者の方から、「全日空が反体制的とはどういうことか」とのご批判を受けたことがある。そもそも反骨精神とは、「不当な権力に反発する気概のこと」であり、反体制「既存の政治形態・支配機構に対し、それを改革または否定すること」とは全く意味が異なる。これ以上誤解をされる方がいないように敢えてここに注を付する。)
- 全日空にとって雫石事故は悲劇であったことに変わりはないが、その苦い経験から、相手が例え
国であっても、黒いものを黒といい、白いものを白といえる正義感、告発する勇気を得たの
である。そして本件事故やそれ以前の事故の結果を厳粛に受け止め、空の安全に努めたからこそ、今日の
世界の翼としての全日空が存在するのである。そういう意味において本件事故とその経過は、
現在の全日空の礎を為す重要なものといえ、この理解なくして、今日の全日空とその内面に秘められた力
を理解することは到底不可能なのである。
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(C)1996-2004 外山智士
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