自衛隊の安全に対する取り組みについては、既に昭和30年代初頭には、米空軍が研究していた安全管理の提要を翻訳し、航空機事故から労災事故までを視野に入れた膨大な安全のためのマニュアルを策定し、日々の訓練や隊員の教育に役立てていた。民間航空が安全についての取り組みを積極的に始めたのは、自衛隊がこれらの取り組みをはじめてからかなり後のことで、その際も、自衛隊でのノウハウがかなり民間に持ち込まれたとも聞いている。現在においては、ヒューマンファクターズやコックピット・リソース・マネージメントといった新たな概念が航空安全を議論するときのベースになっているが、当時の自衛隊の安全への取り組みは当時の最先端のものであって、今なお安全対策として通用する部分は少なくない十分なものであった。
法的な問題は別にして、戦闘機パイロットの視点から見ると、戦闘機パイロットは空中戦を想定し、何時如何なるときも背後を取られないように飛行するのが大前提であり、巡航中の民間機に背後を取られた本件は、戦闘機の飛行法としては落ち度があったといわなければならない。とりわけ、本件のような編隊飛行では、編隊機同士で互いの死角を補いながら飛行することになっており、衝突した訓練機よりも教官機の責任が重いものと考えてよい。
自衛隊に在籍していたころ、基地に帰る際、基地上空を飛行する民間機に遭遇し、安全に必要な距離をとりながら、雁行して飛行することがあった。民間機は計器飛行で定められた航空路を正確に飛行していたが、その航空路は基地の真上にあり、自衛隊機のエンジン停止を想定した緊急着陸訓練を開始する地点と重なり、同高度でしばしば遭遇していた。敵意といったものは全くなく、空を飛ぶ者同士が空中で挨拶を交すという気持ち、寧ろ好意があった。
確かに、割愛組の中には入社時にパイロットとして到達しているべき一定のレベルに達していない者もいたことは事実であるが、航空会社にとって安全は絶対であり、彼らの訓練は徹底して行われた。また不適格者の罷免も行われており、パイロットソース(自衛隊出身者であること)が安全に影響を与えたということは考え難い。
本稿第2章第2節には、「なお、昭和47年の日本航空連続事故計5件の内4件など当時の航空事故の約半数強は、彼ら割愛組が機長を務める機であったこと、ちなみに、日本航空全パイロット数に占める割愛組の割合は、昭和47年当時で僅か2割5分であったというところからも明らかである」との記載があるが、いわゆる昭和47年の日本航空連続事故は、主に南回りの欧州線で発生しており、当時南回りの欧州線を担当する機長の大半は割愛組であったことから、南回りルートで事故が起これば必然的にかなり高い割合で割愛組機長ということになり、単に日本航空全体に占める割愛組パイロットの割合と連続事故における割愛組パイロットの割合を比較するだけで、割愛組の安全性を述べることは出来ない。南回りルートは若きパイロットが技術を磨く登竜門であり、一時期に割愛組によりパイロットを積極的に補充していたため、南回りルートに機長昇格間もない割愛組が集中したのであった。南回りルートは不安定で過酷な気象条件と貧弱な地上の航法援助システム(NDBなど)といった具合で難易度の高い路線であり、その過酷さゆえに登竜門として位置づけられていた。
パイロットソースが安全性に直ちに影響することはないものの、反面パイロットソースによって一定の性質があることは確かである。例えば、自衛隊出身者はどちらかといえば、アウトサイド・ウォッチ(飛行中の機外監視)は得意だが、計器飛行は苦手であり、逆に非自衛隊出身者は、どちらかといえば計器飛行は得意だが、アウトサイド・ウォッチは苦手であるといえる。
もっとも、このようなパイロットソースによる性質の違いが連続事故に影響したかについては微妙である。比較的計器飛行の経験の浅い機長が、南回りの貧弱な航法援助施設の誤作動の洗礼を受ければ、事故につながる可能性は計器飛行に熟達した機長よりも高まるかもしれない。しかしながら、このことは、本稿が指摘しているような割愛組であるから事故率が高いかのような論旨とは直接結びつかないと考えられる。
お話を伺いまず驚いたことは、自衛隊での安全への取り組みは、マスコミ報道から受ける「安全軽視」の印象とは180度異なり、高度で繊細なものであったということである。後日、別の現役自衛官の方から伺った話では、自衛隊では現在でも、事故事例の研究が民間軍事の別を問わず続けられており、安全に関する書籍が庁内で定期的に刊行され、安全の教育や啓発が行われているそうである。
もっとも本件では、松島派遣隊の組織的な過失が事故の下地になっており、これらの安全への取り組みが結果的には効を奏さなかったとも言える。折角日々現場の隊員が真面目に安全への取り組みを行っていても、組織としてその精神が浸透しなければ、組織としてのエラーは防ぎようがないことの証跡であり、学ばなければならない教訓である。
自衛隊において、日々安全対策が行われていたとの今回の対談の内容からすれば、一般の隊員に至るまでが安全を軽視し軍事を優先しているかのようなマスコミ等が歴史的に展開してきた批判は成り立たないように感じられる。ここに至って本件事故その他第3章第2節で例示した事例などを振り返れば、防衛庁におけるクライシスマネージメント、クラッシュコントロール(リスクマネージメントにおける概念のひとつで、事故などの危機的状況が実際に発生した後に如何に事態を収束するかという次元のマネージメントのこと)が適切に行われたかという点が最大の問題点として浮かび上がってくる。事故後の対応が適正でなかったがために、マスコミの論調や国民の不信、それに続くものとしての本稿第2章、第3章における自衛隊像を醸成したとは言えないだろうか。また、そのような意味では本件訴訟を控訴審に至るまで長年にわたって争ったこと自体が、判断として適正であったとは到底思えない。
大村氏のお話は、本件をマスコミの報道や書籍などからの情報に依存していた筆者に多面的な視座を提供し、筆者が本稿を再加筆・修正するきっかけとなった。同時にマスコミや書籍が示す事実が必ずしも事実の全てを反映し得ないことを痛感した。このことは私個人の今後の教訓とさせて頂きたい。
末筆ながら、このようなお話ししにくい事柄について快く長時間にわたり丁寧にお答え頂いた大村氏に心から感謝の意を述べつつ筆を置きたいと思う。
(平成16〔2004〕年5月)