大野郷十番頭について(写真は春日神社)

 当地海南市の海南高校の近くに春日神社があります、
一帯を昔は紀伊の国名草郡大野庄三上郷と云われていました.
 大野郷十番頭とは
、伝承によれば、 聖武天皇の天平3年(731年)天皇の命により、
南都(奈良)から春日大明神を勧請して来た由緒ある
小豪族集団を指して称されたものと言われています。

 祭神は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)を始祖としている。
 その他の文献からも、和爾氏の同族である春日氏、粟田氏、小野氏、柿本氏、に連なる後裔が
この地に祭神を移し祭ったものと思われる。
 大野十番頭は、その後、宮座の形式を構成し、輪番で神職を勤め、その経営に当たる「神官団」で、
鎌倉時代から室町時代に大野郷を支配し、荘園内の土地を区分して、その領内に3反歩規模の屋敷を構え、
室町時代には守護畠山氏の被官として、勢力を保持していたが、
天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州攻めにより、その勢力は衰えた。

 注、宮座....主に神社を中心に、一定の家格を持つ有力農民が結集し、
宗教、祭祀のみならず、政治的、経済的、社会的な諸特権を持ち、村落共同体を支配した組織を云う、村落の始まり。
 
 その十番頭の各々の屋敷跡を、当地名高浦の専念寺の第14世住職、全長の書き記した「名高浦四囲廻見」、
紀州初代藩主 徳川頼宣公の命によって書かれた、「紀伊続風土記」の記述によると。

 藤田豊後守.........幡川の禅林寺西方、奥の谷から流れる小川と交差する西の蜜柑畑と宅地。
 中山出羽守.........高畑の山名氏館跡北西隣の田地、現在岡本氏宅。
 宇野辺和泉守.....大野中の旧熊野街道筋に沿った東側、蓮花寺北側の道跡を挟んだ前面辺り。
 三上美作守.........鳥居の如来寺前方辺り、美作守は大野春日の神主。
 田嶋丹後守.........三上屋敷の東、今の浄土寺(日限地蔵)前の道を隔てた正面。
 稲井因幡守.........内海小学校がその後。
 坂本讃岐守.........熊野一の鳥居の北側でJR線辺り。
 井口壱岐守.........井田の地蔵寺山南麓、松代橋北西の地。
 石倉石見守..........内海小学校北側で安養寺付近、石倉氏は代々地侍で十番頭の筆頭頭であった。
 尾崎尾張守..........日方の神田 海南第二中学校北方と云われている。

(写真は春日神社拝殿)
 大野十番頭の考察....
 かつて「海南市史研究第2号、第3号」の中で、
当時市史編纂委員であった池浦正春氏が「大野郷と土豪大野十番頭について」の考察を
載せているが、史料として「紀州名草郡大野庄拾人番頭記」「譲状事」「尾崎家系譜」よれば、
 前述の南都より春日大明神を勧進して来た供奉人が、十番頭の祖としている。 

 いずれも藤原姓を名乗り、神社安置後神官として定住し、天慶時代(938-946) 
より三上庄に基礎をおいて、64人の中臈(宮仕えの女官、巫女)を支配して、
春日社を守護して来た様である。

 応永7年(1400年)の「三上庄大野郷御年貢帳」に「番頭十人給分」等と見える事から、
室町期に在地の有力農民層を年貢諸公事収納の末端に位置付けたものであろう。

 これが、後世、春日神社の宮座的なものの母体と成ったと思われる。 
 春日神社は、応永7年の年貢帳には、日方の「歳越大明神」とあり、
文亀三年(1503)六月「紀伊国名草郡大野庄三上郷 春日粟田大明神座配之事」にも書かれていますが、

春日粟田大明神、即ち、上の宮春日大明神(三上山)、下の宮粟田大明神(井田)の両宮の「宮座」の席順と
出座の定法を規定して各自署名、花押した文書で、
 此れによると十番頭は宮座を構成し輪番で両社の神職を勤め、その経営に当たる「神官団」であった事が判る。

 では、これらの神官団である十番頭が、春日明神の荘園の仕組みと、大野郷と云う郷村の仕組みの上で、
如何なる地位を占めて居たのであろうか。

 この事を知る上で鍵を握る史料として、
十番頭の郷支配所で在った「禅林寺」が所蔵する「三上庄大野郷御年貢帳」(応永7年.1400)を挙げる事が出きる。
 この年貢帳は十番頭の支配していた大野郷の土地の制度を知ると同時に、村落の構造を知る上で、
極めて貴重な資料である、此の中で大野十番頭が神領畠の中に「番頭給」と名付けられた不輸租畠、
 つまり租税の免ぜられた給田があり、
中臈にも同様無神領畠の中で「中臈屋敷」と呼ばれる免税の屋敷地が与えられている。
 
 こうした領主権は当時の土地制度の上に残された荘園制の名残りと受け取れる、
大野十番頭は荘園制の中で或る種の荘官的な地位に有ったと伺われる。
「郷支配」の上での地位を知らせて呉れる史料として、

 1、「まいらせ置山之事」).....長亨三年(1489)尾崎家文書
 2、「売渡状」...........................明応三年(1494)〃
 3、「売渡状」...........................天文八年(1539)〃

 1、は庄屋即ち百姓の持山の「永代売券状」を保存している事を示す文書で郷の沙汰人である大野十番頭の
連名加判によって、売渡状の効力の保証がなされている事を示している。

 2、3、は小野郷(大野郷)の山銭、即ち山の税金の売渡證文を保存している事を示す文書である。これらの諸史料によると、
「神官団」である大野十番頭は、実質的に庄家=百姓の代表と化した、中臈と共に大野郷の支配即ち、
大野郷の行政を切り盛りしてゆく責任者で、その支配所は、春日明神の奥之院に当たる「幡河寺]即ち「禅林寺」であった。
 こうした郷支配の体制は少なくとも十四世紀後半(南北朝動乱期)には確立していた事は明白である。

 「紀伊続風土記」「海南市史」「海南郷土史」等に記載されている、元弘二年三月大塔宮護良親王の熊野落ちの時、
春日の奥之院幡河禅林寺に詣給へるとき十番頭を頼み給いて、
 其の由緒を聞き給いて自ら「春日大明神」の御名を書き給い其の脇に先祖の受領を書き給いて
一幅づつ賜るを身の守りと放たず所々の戦場に出たりといえり。(大塔宮御真筆)..............長さ一尺七寸幅五寸5分

春日大明神   宇野辺和泉守直久

 其の10人の祖の名と受領した国名が、前記のそれである。
「紀伊続風土記」に収録の十番頭の家に伝わる次の文書から、土豪として、南朝方に味方して居た事、
鎌倉時代末期には既に名字を名乗って居た事が窺える。

 日方浦 藤田家文書.....(1335)
   今度為一戦餞別黒革鎧星甲贈給令大悦候、尚追而可申述候也、
      建武二年八月二日       (楠木) 正成  判
        藤田左衛門尉殿

 日方浦 田嶋家文書.....(1322)
            御判
      三上庄大野郷番頭職名字之事
 右於相元為俊子孫者、宛行名字於三上令准諸侍者、依状如件、
    元亨二年三月八日


 次に 武士団、土豪として大野十番頭の存在を史料の上で知らしてくれるのは、14世紀末以後である。
 1、大内殿奉行「沙弥道助書状」 謹上幡河寺衆徒御中  宛  明徳三年(1392).................尾崎家蔵
 2、畠山殿守護代「遊佐基成書状」 大野十番頭中     宛  応永七年(1400).................尾崎家蔵

  1、の文書は紀伊の国守護大内左京大夫殿の奉行平井殿のもので、守護の入国に当たって、
幡河寺の衆徒に宛てた別当職と寺安堵状で、幡河寺の衆徒とは、大野十番頭を指している。

 2、の文書は、大内氏討伐の功により、大和、河内の他に新たに紀伊国の守護職と成った 
畠山右衛門佐基国が入国後程無く守護代の遊佐基成を遣わし、大野十番頭に与えた「安堵状」で、その大略は、
入国後まだ日が浅いが、根来寺の帰服の事は紀伊惣国へ通達しておいた。
 同様に此方、つまり「大野十番頭并に郷中に帰服要請を通達して郷中を調べた所、無二の御味方で有る事が判った。
 誠に結構な事で有るから、率直に帰服せよ」と云う意味であり、国中で最大の土豪である、根来寺の帰服を布告して、
大野十番頭に対して、帰服の要請してゆくと云った、当時の守護大名の取った常套的なやり方を取っている。

 しかし、此の大内、畠山両守護の十番頭宛ての安堵状の書式や内容は、
当時の土豪に対する守護の関係を示す史料としては、誠に興味深い。
 つまり、所領の恩給を伴わないで、幕府の権威を背景にして、軍事統率権だけで、
主従関係を編成してゆかねばならなかった、元来 紀州は、

 中世細川氏(正平頃...1360年代)、山名氏(永和五年....明徳二年.....1379-91)、大内氏(明徳三年−応永六年...1392-99)と、
室町幕府派遣の守護が数ケ国を兼務する上、短期間で交替したことは、結果的に守護大名の勢力の定着化を阻止し、
十番頭の土豪としての地位を強化する条件を作り出している様にさえ思われる。
 従って応永七年(1400)以来、畠山が守護として、定着化したかに見えても、数ケ国を兼務し、
実質的には守護代に委ねる政務の為、
 大野十番頭が郷の氏神である、春日明神の神官団と云う、精神的な信仰の核である事と相俟って、
其の勢力を戦国期迄、根強く保ち続けたものと思われる。 

  戦国期は軍事集団としての大野十番頭の威力を明瞭に示す時期であるが、この時期の史料として、
 1、織田信長三男  「三七信孝書状」   雑賀五搦中  宛  永禄拾一年八月(1568).........尾崎家蔵

 此れは、織田信長上洛直前に雑賀衆と共に、大野拾番頭にも上洛を促した書状と思われる。
こうして大野十番頭は、信長、秀吉といった天下統一の覇者の紀州における拠点武士団として、時には、日高の湯河氏を始め、
国中の諸土豪とも気脈を通じ活躍していた事が窺える、
 2、豊臣秀吉朱印状............尾崎家蔵
 3、豊臣秀吉禁制 .............尾崎家蔵
 4、湯河左衛門大夫春定書状 数通........尾崎家蔵

 信長、秀吉の時代と、その後の十番頭の動向について。
 永禄11年(1568)......信長上洛
 元龜元年(1570).......信長、姉川の戦いで、浅井長政、朝倉義景を破る。顕如が一向宗徒に呼び掛けて信長に対抗、
紀州の雑賀衆が鉄砲戦団として石山本願寺に荷担する。
 天正五年(1577).......3月、信長は紀州雑賀の一向一揆を討つ、雑賀五搦(雑賀荘、十ケ郷、中郷、南郷、宮郷)の内中郷、南郷、宮郷、と
根来衆が信長に味方する。 八月十番頭の内信長方の日方勢と、反信長の名高勢に分かれて、海南駅周辺の井松原合戦が行われ、
名高方には、雑賀衆始め国中の豪族、一向宗徒が加わり。日方勢は大敗する、十番頭の多くは討死し、その他200余名の死者を出す。
 天正八年(1580)........石山合戦の終結、信長、顕如(本願寺光佐)と和議、
 天正十年(1582).......本能寺の変で信長倒れる。秀吉、山崎の合戦で明智光秀を破る。翌年、秀吉は、賎ケ岳の合戦で柴田勝家を破る。
 天正十二年(1584).........秀吉が 徳川家康と織田信雄の連合軍と、 小牧、長久手の戦いで対立、のち和睦。
紀伊の雑賀衆、根来衆始め多くの豪族は、家康の要請に応じ、家康に味方して、秀吉の大阪城や和泉の岸和田城を攻め、秀吉方の後方撹乱した。
秀次が大敗したことも有って、後顧の憂いを除くため、翌年。
 天正十三年三月(1585).......秀吉が 紀州征伐、根来衆、雑賀衆、及び国中の豪族を平定、和歌山城を築造する。
この時、十番頭の石倉氏は、春日神社のご神体の一部の御鏡を持つて、紀伊長島へ逃げ延びる。紀伊伊長島で磐倉(石倉)神社を建て、
春日神社と同じ氏神である、天押帯日子命をお祭りし現在に至る。
 慶長三年(1598).........秀吉死去。五年関ケ原の戦い。家康方の東軍が大勝する。
 慶長八年(1603)........徳川家康征夷大将軍となる。江戸幕府の成立。
 慶長拾九年(1614)........大阪冬の陣 徳川方と豊臣方が戦い、和議により終結。
 元和元年(1615)...........大阪夏の陣 豊臣秀頼、淀君が自殺して 豊臣氏が滅亡する。

紀伊長島の 磐倉神社 奈良朝時代の作と云われる御鏡

 紀州は元来守護不入国の国にて、大小の豪族がその勢力を誇り統治し難い国と云うことで、徳川頼宣公(南龍院)元和五年御入国に当たって、
大阪夏、冬の陣に大阪方に呼応して二度にわたって蜂起した紀州の大一揆を意識せざるを得なかった。ご入国以来、
「国中の地侍の武辺、武功ないしは名族、舊家の由緒等をつぶさに吟味され、(紀伊続風土記はこの時代に編纂された) 
熊野八庄司の孫裔、畠山、湯河、宮崎、貴志氏の遺臣、被官、大野十番頭の跡、小牧の役に御味方仕った国士等六拾人を抜擢して、
元和八年(1622)に、各々新知行五拾石宛てを賜り大番頭に付属せしめられた」とある。 此れを「六拾人者」と称したものである。
 治世の始めに当たり、藩内領地内にあって隠然たる勢力を有する在地土豪を調査し、厳選して、「六拾人者」として、御切米を与え藩士に準ずる、
大番頭与力の資格を与え、これらの者には、在地の警備等の役務を課し、在地の者とは一線を画する立場に置いた。
 この事は、在地における有力者層を懐柔する巧みな地域支配の方策として、実施されたもので有ったと云われている。「南紀徳川史より」
 大野十番頭の孫裔の内、「六拾人者」として召し出されたのは、名草郡大野庄畠山の被官 井口善大夫、稲井左兵衛、尾崎次左衛門、の僅か三氏であった。
 しかし、その後(元禄14年1701年)において上記三氏以外の大野十番頭の孫裔で、地士として召し出された者には、
名高の石倉久太郎、日方の藤田伊七郎、鳥居の坂本金大夫、中村の宇野辺又三郎の面々がある「南紀徳川史拾一」
 こうして、海南市域における在地の土豪層は、藩側の巧妙な懐柔策によって地士に取り立てられ、権力の末端に組み入れられていった。
 そこで 藩は藩体制確立への自信を示すと同時に、藩財政の窮乏を救うため、正保元年(1644)地士の切米を召し上げ、
名誉職としての「地士」の資格だけが残される事となった。

 「大塔宮十番頭まつり」
 当時のこの地(現在の海南市西部と和歌山市南部の一部)を統治していた士族で、
大塔宮護良親王から受領名を賜った、海南の十家の豪族の末裔の大野十番頭の子孫が、
時を越えて、毎年6月第1日曜日、地域の歴史と文化を知ってもらい、
子孫に語り告いで行きたい願を込めて古式ゆかしく行われる お祭りです、
中世のころまでは、1年毎に春日神社の神主を勤めていましたので、
それにちなんで、毎年輪番制で、一日春日神社の祭主を勤めます、

1999年第1回
大野十番頭祭り
 祭主 尾崎尾張守



2000年度祭主となられた宇野辺和泉守
2002年度
祭主大野十番頭田嶋丹後守(左側):
三上美作守宮司

2002年は大野十番頭頭末裔 元ミノルタカメラ名誉会長 田島丹後守英雄氏が執り行なわれました。
今年も、和歌山県大塔村から 餅が寄贈されます、
    和歌山県大塔村の 名の由来は、大塔宮護良親王から 付けられています。
    その昔、北朝方天皇の命により、もし 誰が来ても、食料を与えるなの「おふれ」に依り
    空腹の親王に お餅をさし上げられず、
    その 苦しみを一緒に味あうとの願いて、近世まで 「餅つかぬ村」となったいたそうです。
    海南市と 大塔村との 親睦が 計られます。

講演は海南市埋蔵文化財担当の上岡法彦氏による
紀伊大野城の歴史と発掘状況を判り易く詳しく説明されました。
紀伊大野城......名草郡藤白山系の高所に築かれ(現海南市と下津町にまたがる)、
東城と西城とに分かれ、築城は残念乍ら不明、南北朝時代にその名を現している。
豊臣時代になって和歌山市に城を構えるまでは 紀伊の国の守護の居城しとて
南朝方畠山国清、北朝方守護細川業秀(なりひで)貞治3年(1364)、
南朝方山陰山名時氏の子義理(よしまさ)、
足利三代将軍義光の明徳の乱で大内義弘の守護と(康暦2年1380)
幾度もの変遷のもとに栄えて来ました。との事です。


2003年6月1日は
祭主大野十番頭末裔 現紀伊長島漁業組合長、石倉岩見守実氏が執行されました。
講演は、「海南中世史講座」 大野十番頭をめぐって 大阪堺市にお住まいの
講師 中野 隆 氏  (近畿民俗学会、会員) 
春日神社の祭神、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)は
「日本書紀」では考安天皇の兄で和珥臣の祖とし、
「古事記」では春日臣、粟田臣、小野臣、柿本臣等16氏の始祖としている、
海南市の春日神社の創建は731年とも768年とも史料にあり。
奈良春日大社の創建は768年とされている。この事から
奈良三笠山を以前から御神体山とする信仰があった事は、磐座や祭祀遺跡にも見出せるが、
春日の神を藤原氏が奉斎する迄に、在地の氏族が神祭りをしていた史料がある。
「万葉集巻3」ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に栗蒔かましを(404)
春日野に栗蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し留むる(405)
和珥臣や春日臣らが在地神を祭祀していたらしい事、
八世紀に入って権勢をふるって台頭してきた藤原氏に世代交代により、何等かの理由で
そこを追い出され、その人達の一部が後の大野十番頭となって
紀伊の国に移住を余儀なくされたのではなかろうか。と考察されました。
その後の大野十番頭は宮座として、中世に於て最も繁栄し、近世になって、
在地の有力層の台頭と自らの勢力弱体化を見る。多くの宮座が辿る典型的なコースを歩む。
注目に値するのは、奈良時代大和から紀州に移住した、その時代と地理的環境から、
春日三笠山麓をめぐって、歴史のドラマが演じられていた事が解る、と講演されました。
2003年度祭主、石倉岩見守実氏

 平成16年度は  講師  水島 大二 氏 (城郭史研究)「海南中世史講座」大野城について
     大塔宮護良親王から受領名を賜った十家の豪族の末裔達による祭典、
      今年は井口壱岐守敏雄
氏が祭主を勤めました。

 
2004年 大野十番頭祭典
祭主   井口壱岐守敏雄氏
祭主 井口壱岐守を囲んで
大野十番頭末裔の方々
2005年6月5日大野十番頭祭り祭主は
稲井因幡守遊山氏が勤められました。
海南郷土史講座に
「松煙墨」について講演された平岡繁一氏
松代王子社のご神体は「なぎの葉型の松煙墨」
2005年9月16日春日神社で大野十番頭の活躍を
後世に伝える為「大塔宮御逗留旧址」の
石碑建立除幕式と「護良親王」もりながしんのう
講演が行われました。
祭主因幡守
朝日新聞
2005年12月18日
我が町自慢の史跡、記念碑

「護良親王かくまう」
として掲載されました。

平成18年6月4日 大塔宮十番頭祭

海南郷土史講座「宮座と当座」について
講師 伊藤信明先生(県立文書館)

祭典 中山出羽守利美氏が
    祭主を勤められ
    祝詞奉上しました。
第12回 大野十番頭回
平成21年6月7日 
尾崎尾張守林太郎が
再度祭主となりとり行われました。
 

 第13回大野十番頭回 平成22年6月5日 

講演中の郷土史家平岡繁一氏 祭主中山出羽守 と 三上宮司

  春日神社に以前有った釣鐘に刻まれていた。紀州徳川公の指南役、李梅渓の父母状に因んで
 平岡繁一氏が講演されました。


 父母状と その由来。
「父母に孝行に、法度を守り、謙り(へりくだり)、奢(おご)らずして、面々の家職を勤め、正直を本とする事 
誰も存じたる事なれども いよいよ能(よ)くあい心得候ように、常に下へ教え 申し聞くべきもの也」

 万治元年 熊野の山奥での父親殺し事件が起こり、此を憂おうた、藩主頼宣公は、その子を斬罪にするのはいとも簡単な事だが、
その犯した罪に付いて反省の心が無いと世が乱れるとの考えから、李梅渓を使わし、人の道を説く様指示した。
 最初犯人は、他人に危害を加えたのなら、どんな処罰でも受けるが、自分の此の親は、家は貧乏なのに、毎晩お酒を飲んで暴れるわ、
家内中に暴力を振るうは、近隣とは揉めるは、自分は何も悪い事をしていない、と言い張り、罪を認めなかった。
 李梅渓は 連日獄舎へ通い、人の道を懇々と説いたが、一年経っても、二年経ってもなかなかその罪を認めなかった。
3年目頃になってようやく、その罪を反省する様になり、処罰したとの事。
 万治3年、藩主頼宣公59才、梅渓44才 父母状浄書を藩内に配布、同3月3日、各家毎に配布、一年限りのもので無い事を強調し、
当時無学文盲が多かったので、毎年奉行、代官、大年寄、大庄屋が読み聞かせ。町人、百姓、に対しては村々の寄り合い、会合毎に
大庄屋、庄屋が読み聞かせ、又男女8才になれば、宗門改めが有り、読聞かせと、父母状の刷物が渡された。その結果。
 六年後の寛文6年(1666)獄中に一人も科(とが)人もなくなったとの事です。

平成22年 大野十番頭会

祭主 中山出羽守一氏

 平成23年 大野十番頭会

祭主 尾崎尾張守林太郎
 平成23年は紀伊長島から、石倉三左右衛門、俳人容膝軒一入子会の
俳句愛好会の皆さんが大型バスで大勢参加されました。
尚、和歌山県の俳人「桑島啓司」氏が講演されました。

平成24年6月10日大野十番頭会

祭主 田島丹後守悌二氏
平成24年度。講師は尾崎真二郎氏が
「紀州の古文書より護良親王の事情等中世史講座」が模様され
遠路 島根、東京からも 参加されました。
平成26年6月8日 祭主 井口壱岐守莞爾氏

海南中世史講座が開かれ和歌山城郭調査研究会白石博則代表が「紀伊国守護の城・大野城」について解説。一般参加も多数熱心に聞き入りました。
2015年6月7日第16回目の大野十番頭祭りが祭主は
三上秀信美作守により行われました。
 中世史講座は中世の歴史に詳しい
「護良親王と在地武士赤松氏との関係」を
講師は御影史学研究会の竹内智宏氏(高野山)でした。
 新型コロナウイルスの影響により、実に4年ぶりとなる大野十番頭祭が開催されました
直前の5/2に線状降水帯によりおおよそ100年ぶりともいわれる記録的大雨で海南市は甚大な被害となりました。

 今回の祭典前にNHKの番組「ブラタモリ」の高野山編で解説を担当した高野山大学の木下浩良氏が
「神様と仏教の聖地」空海の高野山改組の想いのタイトルで郷土史口座が行われました。
 木下氏も大野十番頭祭に参列されました。

 天正12年(1584)織田信長の跡目争いで、徳川家康は織田信雄を助け、豊臣秀吉と戦った「小牧長久手の戦い」で石倉三左右衛門は
徳川方に組みし雑賀勢と共に、岸和田から堺まで進撃し、豊臣方の背後を脅かし武勲があった。
 劣勢になった豊臣方は急遽和睦して、後方を堅めるべく、翌年紀州に攻入り、
和歌山の太田城を水攻めにし、根来200ヶ寺を焼払い、海南、湯浅、御坊まで攻め入り、熊野の山奥に逃げ込んだ湯川氏に対しては、
攻める方も道無き道は攻められず。秀吉の和睦しようとの誘いで、奈良郡山城まで出向いた所を騙し討ちに合い亡びた。
 徳川方に組みした石倉三左右衛門も、攻め立てられ、海南から逃れ、紀伊長島に一族で隠れ住み、漁民となり、
又、風月を友として家族と共に俳諧の門に入り俳号を「容膝軒一入子」として活躍しました。
 今では紀伊長島で石倉家は2.300軒になっていて、おそらく春日神社でお祭りしていたであろう「鏡」をご神体とした「磐倉神社」がお祭りされています。
俳人「容膝軒一入子」の遺徳を偲んで、俳句会が盛大に行われているそうです。

       
お問い合わせは
         海南市大野中577-1 春日神社 宮司 三上美作守秀信
         電話073-482-7547