大野十番頭

大野十番頭とは、春日十番頭とも呼ばれ、大野郷の氏神である第一位春日大明神の祭祀をつかさどり、
宮座を形成した地方の豪族集団でした。十人の番頭が、順番で春日明神の祭祀にあたり、
毎年正月二十日に開かれた吉書で交替しています。十人の番頭のほかに、
中臈(チュウロウ)と呼ばれた名主層がいて、これ又、毎年四人ずつ輪番で番頭支配人の補佐役を務めました。
鎌倉時代から室町時代にかけて、大野郷
(大野中、幡川、井田、鳥居、日方など)で支配的な位置にあった
十人の番頭のことです。

 大野郷は「三上庄(みかみのしょう)と呼ばれる荘園に属していましたから、当然、農民から年貢を徴収したり、
それを荘園領主に上納する役人、或いは荘園内の治安維持につとめたり、
よそからの侵略を防衛する役人などが荘園領主から任命されていました。それらの役人は
荘官(しょうかん)または
荘司と呼ばれていました。大野中に
荘司垣内(しょうじかいと)という地名が有るのはその名残でしょう。

 荘官には、荘園領主から派遣される場合と土地の有力な土豪が任命される場合とが有ったようですが、
大野十番頭の場合、そのいずれに当たるかを明らかにする事が出来ません。

 次に掲げた「井口家由諸書」や「尾崎家系図」等によると、神護景雲(じんごけいうん)二年(768)に奈良の春日社を
大野の地に
勧請(かんじょう)した際、付き添って来たのがその先祖であるとされています。

 大野十番頭の事が、具体的な史料に接するのは、鎌倉末期の元亨(げんこう)二年(1322)38日、護良(もりなが)親王
(大塔宮)とも呼ばれ、後醍醐天皇の皇子)が熊野参詣の途次、春日山に一宿し、
その時臣下に加わったと云うことです。このとき、
護良親王から国名と苗字を賜ったと言います。

 尾崎家の「大野十番頭記」によると次の通りです、

  三上美作守「三上山」

  稲井因幡守「鳥居村北」

  田島丹後守「鳥居村中」

  坂本讃岐守「鳥居村西」

  石倉石見守「名方村」

  藤田三河守「幡川村」

  中山駿河守「東中村大野中」

  宇野辺和泉守「西中村」

  尾崎尾張守「日方村」

  井口壱岐守「井田村」

 元亨二年と云う年は、後醍醐天皇は、当時の鎌倉幕府に強い批判を持ち、
平安中期の醍醐天皇が親政を行なっていた時代を理想の政治と考え、
自ら後醍醐天皇と名乗って、倒幕計画を立て、天皇の親政を推し進めようとしましたが、
正中の変や元弘の変で失敗を繰り返していました。

 ところが、護良親王や楠木正成の挙兵で再び倒幕計画が進展し、足利尊氏をも味方につけて、
ついに鎌倉幕府を滅ぼし「建武の新政」を打ち立てた事はよく知られています。

 元亨二年三月は、後醍醐天皇の周辺が、倒幕計画を立てている最中に当たっています、
前年の十二に、院政を止めて天皇の親政に切り替えたばかりで、五月には、
天皇がひそかに近臣を集めて幕府を滅ぼす計画を練ったと云われ「
桜雲記」、翌年には、
臣下の日野
俊基が紀州の温泉に浴すると言って、近畿一円を潜行していた「増鏡」事がはっきりしています。

 護良親王は、楠木正成と共に、元弘の乱の立て役者で有りましたから、或いは、
熊野参詣をよそおって紀州の各地を潜行し、兵を募っていたのかも知れません。

 建武の新政が打ち立てられた時、大野庄は宮方の守護の庇護を受けてうるおった様ですが、
それも
の間の事で、後醍醐天皇は建武の新政に失敗し、護良親王も足利尊氏と反目し、
尊氏の弟足利
直義(ただよし)に殺されましたので、
大野十番頭が
護良親王から賜った国名やその他の約束事は有名無実となってしまいました。

 やがて、時代は足利時代「室町時代」を向かえ、次第に荘園制がくずれ、郷村制へと移行して行きました、
そこでは「
と呼ばれる自治組織が成長し、荘園領主の横暴に対しては抵抗を示すように成って行きました。
その中心的な役割を果たし、惣を代表する人々が大野十番頭の面々でした。後に、沙汰人と呼ばれています。

 沙汰人が寄り合って村の掟を作り、入会地(いりあいち)の管理やかんがい用水の管理に当たりました、
村の治安維持や村の自衛にも勤めています、違反者に対して制裁を加えのも沙汰人の役目でした。

 村の寄り合いには、鎮守の(やしろ)や 寺院が当てられました。そして 決定した起請文等は、
堅く守る事を 神仏の前で誓ったのでした。

 ですから 沙汰人と呼ばれた人や村の年寄役は神仏を祭る責任者でもあったわけです。

 大野郷では、春日の宮「上の宮」と粟田の宮「下の宮」とが有って、幡川の禅林寺、井田の地蔵寺、大野中
(現在は山田)の菩提寺、鳥居の観音寺がそれぞれ奥の院とされていました。これらの寺社が、
村の寄り合いに当てられていたのでしょう。 

 大野十番頭が、室町末期すなわち戦国時代には まだ健在で有った事を示す史料として、天文八年(1539)に
大野郷の惣野(野山)を中村の弥四郎(岡本家の先祖)に売り渡した時の証文(岡本孝嘉氏蔵)で現存しています。

 この証文には、大野十番頭(沙汰人)全員のサイン(花押)と郷内の各村(鳥居、幡川、中村、日方、井田)の
年寄と呼ばれた 村役人がサイン(筆軸印)を押しています。この頃、野山を売却するには、村役人はもとより 
沙汰人(大野十番頭)全員の合意がなければいけなかった事が伺えます。

 小牧長久手の戦いの後、後方を脅やかした、紀州雑賀勢、根来寺僧兵の立て篭もる、200ヶ寺余を焼き尽し、
湯浅、御坊まで攻め紀州を平定して、

 紀州は、秀吉の弟、秀長の城代として桑山重晴とその子 修理
一 伊賀守直晴の桑山時代、
慶長五年(1600)には 浅野
幸長(ゆきなが)が紀州の領主となり、
その弟 
長晟(ながあきら)に引き継がれて十九年間の浅野時代を経て、
 元和五年(1619)には徳川頼信が入国する事によって紀州藩の体制が整えられていきました。徳川頼信は、家臣を
3600人程も引き連れて入国していますから、地元の土豪は「地士」と呼ばれる身分に取り立てられるにとどまりました。
 
こうして、大野十番頭は、支配権力からは遠ざけられましたが、
地元での春日、粟田両大明神の祭礼を執行する責任者という側面は明治の初めまで続きました。

 それでも、江戸時代の中頃には、絶家した家や土地を離れてしまった家もあって、二、三家となってしまいました。
幕末頃には、春日、粟田の祭礼を執り行ったのは、尾崎家一家だけとなっています。