紗也可顕彰碑
衆議院議員 二階俊博 書

 2010年11月13日日本で初めて「沙也可、日韓国際シンポジウム」が、和歌山市で開催された。
韓国から「沙也可」から数えて14代に当たる金在錫(キムジエッソク)氏等30名が訪れた。
このシンポジュウムを記念して和歌浦東照宮の参道脇に「沙也可顕彰碑」が建てられました。
 高さ約3mの韓国産陰城石を使用したもので、
沙也可将軍の功績や作家神阪次郎氏の著書「海の伽や琴」の一部分や
金忠善将軍一族の末裔が裏面に刻まれています。      

 遠征軍の将として紀州雑賀を出、朝鮮海峡を渡り再び祖国に帰ることなく彼の土に化った男
といえば紀大磐宿祢と、秀吉唐入りの先鋒軍として鉄砲隊を率いて出撃、
のち敵陣に奔った投降、倭将沙也可が思い泛んでくる。
 沙也可と云うのは、もともと朝鮮音でいう「サイェカ」を漢字に書き写したものだが、
大陸渡来の清音で発し、日本読みにはない「サイカ」も又、同様である。
 その雑賀の地で今も住み暮らしている私にとって、雑賀の人々とは常に気がかり存在であった。
 なかでも戦国雑賀党の統領、鈴木孫市の子孫で天正13年、人質として秀吉のもとに赴き、のち
豊臣家の<鉄砲頭、鈴木孫市郎、百人>として小田原攻めに従軍、文禄元年、
秀吉唐入りの肥前名護屋城下に在陳衆として駐屯した孫市郎や彼に従い朝鮮海峡を越え、歴史の
風塵の彼方に消えていった雑賀鉄砲百人衆の行方には、深い関心があった。
 その雑賀の男達の蹤跡を訪ね、大邱市の南40kmの山峡にある友鹿洞を訊ねてからもう何年になるか。
はじめて見た沙也可の村は、煙る様な春の雨の中にあった。
             神坂次郎著 「海の伽イ那琴」 あとがきより

 金忠善(沙也可)将軍の顕彰碑

 朝鮮の儀礼と文物を欽慕し平和を愛した金忠善(沙也可)将軍は、
壬辰倭乱(文禄、慶長の役)などの3乱の功臣として大きな功を立て、
遂に朝鮮の朝廷から姓名を下賜されており、正二品の正憲大夫まで上り詰め、
 将軍は土地(賜碑地)を下賜されましたが、それを断り、友鹿里に入り
定着して一家を成して暮らしながら子孫の訓育と郷里の人々の教化に力を尽くしましたが、
72歳でなくなりました。死後には兵曹判書に追叙されました。
 
 去る400年の間、17代にわたり友鹿里を世居地(同一集落)とし、
平和に暮らして来た我が賜姓金海金氏一族は、
和歌山の住民をはじめとする志を持っている方々と共に金忠善将軍の
すばらしい業績を広く知らせると共に、始祖の人類愛と平和愛好精神を受け継ぎ、
これを通じて我々が中心となって、
日韓両国の友好親善を深めるために最善を尽くして参ります。

                          賜姓金海金氏宗會 慕夏堂 門中