今月のお話は「寺院建築ー白鳳時代」ですが、白鳳時代に再建された寺院は存在しますが
創建された寺院は存在しません。白鳳時代に再建された「法隆寺」は、先月の「寺院建築-飛
鳥時代」で掲載しましたので今月は「寺院建築−天平時代」を掲載します。
白鳳、天平時代はたった139年ですが、その白鳳、天平時代に再建、創建された堂宇の
うち、今なお26棟もの国宝建造物が、奈良県には残っており、このことは世界的に見て
も奇跡としか言いようがありません。
それゆえに、往古の面影を色濃く残す古都奈良と言えます。建築の歴史は奈良に始まり、
古建築の宝庫というだけでなく、多くの寺院で堂内にまで入れていただけるのが奈良です。その際驚かされるのは建物の手入れがよく行き届いていて、威厳の名残を感じさせる点です。そのうえ、寺院という雰囲気に程遠くまるで俗世間そのままの寺院が多いご時勢に、
品格があり古寺の風格を偲ばせる奈良の寺々は、静かな佇まいで訪れる人に安らぎと感動
を与えており、癒し系の寺院の集まりです。
「県別国宝建造物分類表」をご参照ください。
「天平時代」は中央集権国家が確固たる地盤を確立した時代であり、朝廷の力は強大でした。その強大な権力を手中に収めた朝廷の重要政策の内容は、後世に二度と同じような物
が造れないような指折りの寺院を造営せよというものでした。師たる中国に追い付けの目
標がいつの間にか追い越せの競争心に変わり、造寺が盛んに行われ、仏教美術もさること
ながら、仏教建築は大きな遺産を残すことになりました。
当時、奈良の寺院のお坊さんの数は、現在の何十倍であったとのことで、それだけ寺院
のそのものが裕福で経済的に恵まれていた時代でした。これ程恵まれた時代は現代を除い
てはありませんでした。と言うのは、奈良の古刹は葬儀法要を執り行わないので檀家制度
もなく、有力なスポンサーがいないと寺院は維持するどころか荒れるに任せざるを得ない
有様で、それが昭和30年代までの長い間続いたのであります。
古都奈良には古代寺院が数多く残ることとなったのは我が国にとっては幸せなことでし
たが、反面、大寺院を数多く造営いたしましたので木材の需要も鰻上りとなったため奈良
近郊の山々の巨木資源を使いきってしまいました。
「氏族仏教」の飛鳥時代、「国家仏教」の天平時代とは言え、国家鎮護を祈願する官寺が盛
んに造営されました。
天平時代ほど建築、美術に輝かしい飛躍を遂げた時代はなく、その代わり国家予算の大
部分を費やしましたので当然超インフレが起こり、庶民は生活の苦しみにあえいだことで
しょう。現在は逆の超デフレで、政府は国債などの膨大な借金で苦闘しておりますがこれ
が天平時代なら借金も簡単にチャラ出来たことでしょう。
世界最大の木造建造物といわれる「東大寺大仏殿」は、創建当時、現在より一回りも二回
りも大きく、国分寺の総本山にふさわしいものでした。官寺の造営には臨時に創られたプ
ロジェクトチームの官営造営所「造寺司」を設けて、建築工事の遂行に当たらせました。造
寺司の中でも「造東大寺司」が最大であり、それら造寺司は建築完成後も色々と手直し作業
があったのか常設の役所となっておりました。国家事業として大寺院が建築されたため、
その財政負担は大きく、その賄い策として貨幣を新鋳して、今回の貨幣は今までの貨幣10
枚と交換するという無茶苦茶な政策の結果、大いに国家財政を潤すことが出来ました。ま
た一面、その貨幣たるや改鋳とは言ってもただデザインの文字が違うと言うもので誰にで
も真似が出来、当然贋金が出回りその対策で改鋳せざるを得なかったこともありましたで
しょう。
貨幣鋳造で得た莫大な国家財政を、相次ぐ官寺の建築に費やしたのであります。国家プ
ロジェクトがこれほど活動した年代は歴史上珍しいことでしょう。
しかし、ついには財政破綻に陥り、官寺の造営、維持費用を打ち切る必要上、その究極
の打開策として、朝廷は遷都を選択し、遷都への官寺の移築を一切認めないどころか遷都
先の平安京内に造営された官寺は「東寺」「西寺」のたった2寺だけという厳しいものでした。それも現在、残っておりますのは東寺のみです。
天平時代に数多くありました「造寺司」は律令政治の崩壊・破綻に伴って、造寺事業もな
くなりその役目を終え、総て廃止されました。現在の経済情勢のように緊縮財政へと切り
替えて財政の健全化を図りました。
日本の工人達は、渡来した工匠の監督下にありましたが、止利仏師と同じ運命をたどり
蘇我氏が滅ぶと一部の優秀な工匠を除いて殆どが表舞台から消えていき、それまで技術の
習得に努めてきた日本の工人達は張り切って仕事に励んだことでしょう。
頑張れば工人でも貴族に列せられる官の位、五位以上に昇格出来ました。現在でも死後
の叙位で五位と六位の差は大きなものがあり、五位に叙されるのは大変なことです。貴族
は破格の待遇で、想像出来ないような特典が与えられていたため、工人達が仕事に打ち込
んだのは言うまでもありません。その結果かどうかは分かりませんが、棟梁級の大工の集
団となりました。それと、建築部材は事前に規格通りに刻まれる現代とは違って、部材は
総て建築現場で加工するため熟練度が高くなければかえって足手まといになるだけでした。ですから、現場の棟梁は、作業の内容を指示しなくても仕事は順調に進み、人員配置や資
材の調達などが主な仕事だったと思われ、棟梁と言うより管理者だったかも知れません。
ただ五位以上に昇格すれば良いことばかりではなく、貴族になればなったで、外国に威
信を示す目的に狩り出され、青い瓦、朱に塗った柱、白壁の邸宅を新築するよう要請され
たりもしました。「青丹によし奈良の都は咲く花の匂うが如くいまさかりなり」と詠われま
したように青い瓦、朱の柱の華やかな建築が集まり、平城京の景観をいっそうカラフルな
ものにしたに違いなかったことでしょう。
高官にとっては裕福な生活が期待出来た反面、貧富の差も大きなものになりました。
庶民は税を免除される代わりに労役を努めなければならず仏教は一部の特権階級が信仰
できるだけであり、庶民にとっては寺院の造営に強制的に動員させられありがた迷惑でし
たでしょうし、都から逃げ出す者も多くいたことでしょう。
この動員ですが、大工のことを「番匠」というのは順番を決めて都に上がったからとのこ
とです。余談ですが、その「寺社番匠」は、明治の廃仏毀釈で寺院と神社の上下関係を変更
しましたがそれなら、「社寺番匠」とすれば良いものを「宮大工」と命名し、寺院の建築に関
わるのを牽制するような名称となり今日に及んでおります。そのような無茶な命名をした
ために、先月、鹿児島の方にガイドをした際、ぽつりと言われたことは“廃仏毀釈で鹿児
島県(薩摩藩)は寺院一つ残らず廃寺したためそれからの数年間は寺院ゼロでした”とのこ
とで、廃仏毀釈と言う政治改革によって寺院は全国的に被害を蒙ったのでありました。
「平城京」は唐の長安都城のように方形でなく、藤原不比等は方形であった平城京の東北
部に外京(げきょう)という張り出し地域を新設して「興福寺」を創建しております。このこ
とは、当時の藤原氏の権力がいかに大きかったかの証明でありましょう。天平時代までは
都市伽藍(平地伽藍)であり、不比等なら幾らでも適地を入手出来るのにもかかわらず、興
福寺の南大門の前は崖で、その下には猿沢池がある条件の悪い高台を選びましたのは、平
城京を見渡せるので防御上有利な地形として選んだことでしょう。それと、南大門には階
段を上がって行くようになっております。寺院、神社でも外陣から内陣へ上がるように設
計するのは、対象物の高貴性を強調、格式を重んじさせるのが目的で、そのため、不比等
もわざわざそのような地形を選んだとも考えられます。
平城京の条坊制は、500b四方の一角を「坊」と言う単位で区分しました。しかし、中
国のように土で造った防壁もなくただの地名のようなものでした。坊と言う区画は、中国
では都城だけでなく寺院にまでありましたが我が国では都城には坊があっても寺院には坊
制度はありませんでした。
余談ですが、人気ブラスバンド「女子十二楽坊」の名称についてですが唐代に設置された
音楽に秀でた女性を集めた教習所「教坊」に由来するとのことです。通常、坊には2字を冠
していますが教坊は坊の中の一画であるため1字となったと思われます。中国の長安城に
は安楽坊、長楽坊などの○楽坊が6ツもあり、教える教坊ではなく音楽の楽坊の方がふさ
わしい名称と考えられたのでしょう。ただ1字では軽すぎるので格付けの意味で2字以上
にしようとして、何か謂れある「十二の数字」を冠したのであり、それゆえ、女子十二楽坊
というグループ名が出来たのでしょう。もしそうであるならば、メンバーが十三名であろ
うが関係ないことになります。
明日香の「本薬師寺」の特徴は、「東塔と西塔」の双塔が配置されていて、ついにお釈迦さ
んの墓塔が二つになった点です。この伽藍配置は「薬師寺式」と呼ばれております。しかし、舎利を奉安する場合は双塔のどちらか1塔に限ります。
この「双塔方式」が、天平時代では東大寺、薬師寺、法華寺、秋篠寺など、多くの寺院で採
用されました。 「明日香のお話」をご参照ください。
さらには、「興福寺五重塔」は伽藍内から外に建築されました。このことは「塔崇拝」から「仏像崇拝」への移行を意味し、塔より金堂の方が優位となる大きな変革でした。その最初
の寺院が興福寺で、これ以降、東大寺を始め多くの寺院の伽藍配置は興福寺式となってい
きました。 |