新薬師寺

  「新薬師寺」の「新」とは、前月掲載の西の京にある「薬師寺」に対するものではありま
せん。何故かと言いますと「新薬師寺」は華厳宗、「薬師寺」は法相宗で宗派が違うから
です。ここでの「新」とは新しいという意味ではなく、霊験あらたかなの「あらたかな」
という意味で、あらたかな薬師寺ということです。
 平安時代に編纂された史料では天平十九年(747)に創建されたとありますが確証は
ありません。しかし、天平時代には「十大寺」の一つに数えられた大寺であったことは
間違いありません。正面九間の「金堂」、「東塔・西塔」などの七堂伽藍を備えていたこ
とからも新薬師寺の創建時は壮大な伽藍だったことが想像されます。境内の敷地は四
町四方といわれました。四町四方の約20万平方メートルという広大な寺院だったの
が、落雷や台風の被害で次第に衰微し、今は十大寺の面影を偲ぶべきもなくこじんま
りと佇み静寂さ漂う寺院となっております。  
 創建の理由は「聖武天皇」の病気平癒を祈願して「光明皇后」が造営したようですが光
明皇后の病気平癒を祈願した聖武天皇が造営されたという説もあります。
 金堂に安置された尊像は経典通りの「七仏薬師」で「薬師如来像」七躯、「日光菩薩像」
七躯、「月光菩薩像」七躯、「十二神将像」の計三十三躯という多数でありました。薬師
如来像と脇侍の日光・月光菩薩像の三尊像が七組さらに十二神将像が加わりそれが安
置された状態は一大パノラマで壮観な眺めであったことでしょう。このように、経典
に忠実に造営されたことは薬師信仰のピークを象徴しているのでしょう。ただ、十二
神将は七組の薬師三尊を守らなければならずその責務は大変だったことでしょう。
  古代は経典に忠実に七体の薬師如来像を造立されたようでありますが時代が下ると
薬師如来一尊と光背に六ないし七薬師如来を設けることによって七仏薬師を表すよう
になります。「千手観音像」も手を千本刻むと経典にありますがそれが守られておりま
すのは「唐招提寺千手観音立像」「葛井寺の千手観音坐像」だけであります。
 天平当時、薬師如来を本尊とした寺院は、日光菩薩、月光菩薩、十二神将の組み合
わせで安置されておりましたが当時の姿をそのまま伝える寺院は存在いたしません。
平安作の薬師如来像と天平作の十二神将像が共に国宝指定という新薬師寺であります。
 ゆったりとした心地よい雰囲気が漂っている新薬師寺は萩の寺としても著名で、そ
の時期だけは静寂な伽藍ではなく多くの人で賑わう伽藍となります。

  「志賀直哉旧居」を見学した後に「新薬師寺」へ回られるほうが効率的ですので志賀直
哉旧居を説明しそれから新薬師寺へと向かいます。

 

 

   


             街 道 筋 

  市内循環バス停「破石町(わりいしちょう)」の交差点に案内標識があり、「新薬師寺」
まで0.8q、「志賀直哉旧宅」まで0.4q、「奈良市写真美術館」まで1.0qとなっており
ます。東行する閑静な街道筋を少し行き左に折れると間もなく「志賀直哉旧宅」に到着
です。この街道筋をもう少し東に向かい右に折れると「新薬師寺東門」です。
 志賀直哉旧宅のある「高畑町(たかばたけちょう)」は、壮大な伽藍を誇っておりまし
た新薬師寺の境内だったところです。境内地が田畑に変わってしまったので高畑町と
いう地名になったとのことです。
 この街道を東へ真っ直ぐに行きますと「滝坂の道」の入口で滝坂の道を越えてさらに
進みますと「円成寺」、「柳生の里」です。この街道は奈良市内とはいえ閑散とした通り
です。私は以前、柳生の里から滝坂の道まで陽が高い3時までに撮影を終えたいと頑
張りましたが、寄る年波には勝てず滝坂の道の入口を過ぎると人生初の足が棒になる
経験をいたしました。この街道を逆にとぼとぼと時間を掛けて降りて参りましたがお
目当てのタクシーが通らないほど都会の喧騒を忘れさせる街道です。

 

 

   


          志賀直哉旧宅                 

  「志賀直哉旧宅」は志賀直哉が9年間過ごされた住宅で現在は「奈良文化女子短期大
学セミナーハウス」となっております。邸内は手入れがよく行き届いておりました。
 高畑町は崩れかけた土塀が多くそれを美しいと喜ばれ多くの人が散策されて居りま
す。しかし、殆どの方が入口の入った所で写真を撮影して素通りされるのは残念なこ
とです。

 質素な佇まいの書斎でした。落ち着いた風情の庭園を眺めてはしばしの休息と小説
の構想を練られて
「暗夜行路」などの名作を執筆されたのでしょう。


 「サンルーム」は和風でありますが新薬
師寺のような天井が化粧裏天井、床は禅
宗様の瓦(塼)の四半敷(新薬師寺本堂で
記述)で当時としてはハイカラな
サロン
だったようです。
 このサンルームは文化人が集まったと
いわれる「
高畑サロン」で武者小路実篤、
小林秀雄、尾崎一雄、梅原竜三郎などの
著名人が多く集われましたがどんな芸術
論を戦わしたのでしょうか。

 

 

   

 閑静な住宅地である「高畑町」界隈は奈良らしい面影を留めておりますので多くの方
が訪れておられます。写真は一部の界隈のもので荒果てた築地塀や美しい土塀があり
ますので古き奈良の風情に浸りながら新薬師寺へとお進みください。

 


              本  堂


        八重桜と本堂


     南門から見た本堂

 「本堂」は以前「何堂」だったかははっきりといたしませんが創建当初の「食堂(じきど
う)」ではなかったかといわれております。 
 正面の中央の間だけが天平尺で16尺、他の間は10尺であります。中央の間だけが広
いのは珍しいことです。1尺の寸法ですが、飛鳥時代は約35.5センチ、天平時代では
約29.5センチと短くなりますがそれから鎌倉時代にかけて少しずつ広くなります。
新薬師寺の1尺は29.8センチと天平尺より少し広くなっておりますので本堂の建立は
天平末かも知れません 。
 「唐招提寺金堂」は中央間だけが16尺と広くそれから脇間に向かって順次狭くなって
おり、天平時代は主要な仏堂以外の堂宇はすべて等間隔での建築であることからする
と、本堂は金堂級ではないけれども重要な建物の一つだったことは間違いないでしょ
う。ただ、天平時代の母屋の梁行は2間が通有であるのに3間となっております。当
初から予定されていた如く現在ある大きな土製の円形須弥壇が設置されるのに都合の
良い空間となって居りますとは理解し難くそうかといって建築様式が天平時代のもの
であるだけに後の時代に新設されたとは考えられません。
 他堂が本堂に転用された頃には、本尊を安置する仏堂の名称が古代の金堂から後の
時代の呼称である本堂と称されておりました時期だったので本堂と称されたのであり
ましょう。それと、「天平時代の金堂」は「寄棟造」ですが現在の本堂は「入母屋造」です。
古代の仏堂では寄棟造が最高で格式のある仏堂の形式だったのが時代が下ると我が国
では屋根に変化ある入母屋造が好まれ寄棟造に取って代わりました。

  勾配が緩い軽快な屋根と落ち着いた気品漂う外観は典型的な天平建築です。穏やか
な屋根ですと雨漏りがして建物の傷みが激しく維持管理費がかさみますので、後世、
他の寺院では雨漏りの問題を解消するため急な屋根勾配に改変いたしましたので古代
の屋根が見れるのは当寺院のみとなりました。
 南門からじっくりと眺めてみてください。安定感のある優美な仏堂を心ゆくまでお
楽しみください。

 裳階なしの単層でしかも窓がありませんのと
白壁の大きさが一際目立つ仏堂も珍し
いだけに大きな特徴といえましょう。また、大きすぎる扉とのモノクロのコントラス
トが古代建築の特性である装飾が無く簡素な造りとあいまって日本人好みの古色蒼然
な感じになっております。扉は内開きで古代の様式です。 

   

  「大斗肘木」が組物であることから金
堂級の建物でなかったことが分かりま
す。天平時代の金堂なら「三手先」とな
ります、三手先もいいですが大斗肘木
は簡素な美しさがあります。
 古代の様式で「丸地垂木」に対して
「角飛檐垂木」が短いです。時代ととも
に飛檐垂木が長くなってまいります。
これが理解できますのが東大寺三月堂
で、訪れられましたら軒下をご覧くだ
さい。天平時代と鎌倉時代の建築様式
の違いが一目瞭然です。

 

 
     鬼 瓦(新薬師寺)


     鬼 瓦(法隆寺)

 現存最古の「鬼瓦」と言われております。仏敵を威嚇するような面相ではなく愛嬌の
ある獣面です。牙は見えますがいまだ角が生えておらず仏敵を威嚇するような恐ろし
い面相でないことから、呼称は鬼瓦ではなく「棟瓦」とか呼ばれた時代の作品でしょう
か。製作時期は天平とも鎌倉時代ともいわれております。法隆寺の鬼瓦は聖徳太子が
発願建立されました「法隆寺若草伽藍」跡から出土した飛鳥時代作の鬼瓦で、現在複製
したものが法隆寺大宝蔵院の屋根に乗っております。

 

 「東方の瑠璃光の光を浴びて下さい」と掲示されて
おります。
 往時を偲ばせる本堂の東側の壁には「ステンドグ
ラス」が嵌められ、シルクロードの原点であるギリ
シャをイメージさせるものとなっております。
 前回、許可を得てステンドグラスを撮影しており
ますと「朝来ていただくと朝日により床に文様が映
りきれいです」と親切に教えていただきましたので
今回(2006.04)は朝一番の9時に参りましたが今ひ
とつでした。太陽の影が長くなる季節でないと文様
が床に美しく映えないようです。
 「東方の瑠璃光の・・・」とは当寺の本尊が薬師如
来であり薬師の浄土が東方浄瑠璃世界だからです。


  四 半 敷(参考写真)

 布 敷(参考写真)

  床の敷石、敷瓦の並べ方は布敷
(ぬのじき)と四半敷(しはんじき)
があって、本堂の床は瓦の四半敷
です。四半敷とは瓦(塼)を壁の線
に対して瓦の目地が45度の角度
になるように敷き詰めたものです。
四半とは40度と10度の半分か
らきたもので、バイクの750CCを

七半というのと同じです。鎌倉時代に禅宗様建築で大いに賞用されたのがきっかけで
和様建築でも大変好まれ多くの土間床が四半敷の床に改変されております。ただし、
平安時代は板敷き床でありますので関係ありません。
 古代は石の布敷で石を平行に敷いた様式です。

  天井は珍しい「化粧屋根裏」で、天井を張っておらず構造を露出させ構造美を狙って
おります。化粧屋根裏天井の化粧とは木材をきれいに削り仕上げたということで彩色
仕上げという意味ではありません。「内陣・外陣のある堂」では「外陣」を化粧屋根裏天
井にすることが多いです。化粧屋根裏天井の仏堂では我が国最大であります。 

 
        九目結紋   葵紋


  柱 絵(本堂)(参考図)

  徳川綱吉の母「桂昌院(けいしょういん)」の寄進により、「薬師如来像」「十二神将
像」などの修理をした記念として、本堂の柱の上部に、徳川家の家紋「葵文(あおい
もん)」と桂昌院の実家本庄家の家紋「九目結文(ここのつめゆいもん)」が描かれてお
ります。本尊の前に立ち右の柱の上部をご覧ください。絵は退色しておりますが堂
内は蛍光灯の照明があり肉眼でも充分に確認できます。
  家紋の参考として、法隆寺に安置されている「燈籠」の写真を載せておきました。
この次、法隆寺を訪ねられましたら「大講堂前の燈籠」で「この紋所が目に入らぬか」
を是非確認してください。法隆寺では横に並べてありますが新薬師寺の柱絵は葵文
を囲む九目結文となっております。

 堂内一杯に設けられた円形の須弥壇は直径が9メートル、高さが90pで漆喰仕上げが施されております。円形の須弥壇は珍しく我が国では最大の大きさを誇っております。堂内には円形の須弥壇の両脇になぜか広い空間があります。

 鎌倉時代には正面に礼堂を付加したり天井が張られましたのを明治の解体修理の際撤去し旧形式に復元いたしました。

 
             薬 師 如 来 坐 像 

  「薬師如来坐像」は像高 191.5セン
チで丈六(240センチ)に満たず少し
小さいように思えますが創建当初、
金堂には薬師如来像が七体も安置さ
れていたので丈六仏ではなく現在の
本尊の寸法だったのでしょう。本尊
の場合は光背の薬師如来六仏と合わ
せて七仏薬師を表しております。
 木彫像の素材は「桧」といわれるの
になぜかこの時代は「榧(かや)」の
「一木造」が多いです。
 一木造と言っても膝の部分は別木
を組み合わせて制作いたします。通
常、膝木は本体の縦木に対し横木を
用いますが本尊の場合は手間の要す
る膝木まで縦木を用いております。
このことは、木目を揃えることで、
一本の原木で彫りだす一木造の考え
を尊重した結果でありましょう。

 榧の木は生長が遅いので仏像には余り使われておりませんが美しい木目と年輪の緻
密さが檀像風の仏像に適しているのと装飾に適した材のため用いられたのでしょう。
 檀像風に仕上げるため、肌を漆箔で金色にしたり、本体に彩色仕上げの文様を施さ
ず素木の像であります。ただ、素木のままといいましても髪の毛の群青、眉・瞳・髭
の黒、唇の朱の彩色は行います。
  金箔が剥落したり彩色の色が退色する方が我が国好みでありますが本尊は初めから
それらを施さず素木のままというところが凄いです。 
 素木の「薬師如来像」の制作は弘仁・貞観時代の主流となりました。
 右手は「施無畏印(せむいいん)」、左手は「与願印(よがんいん)」であります。施無畏
印は衆生の恐れ、苦しみを取り除き、与願印は庶民のどんな望みでも叶えてもらえる
印相でありますだけに現世利益の施無畏印・与願印は、釈迦如来、阿弥陀如来像とも
に使われました。そこで、見分けがつきやすいように平安時代から薬師如来像は「薬
壷(やくこ)」を持つことが当たり前となったのであります。ところが、法隆寺西円堂
本尊の「薬師如来坐像」は天平時代の脱活乾漆造であるにもかかわらず既に薬壷を持っ
ておられます。

 分厚い唇、太い頸、がっちりとした豊かな胸、太い腕、量感あふれる堂々たる体躯
で見る者を圧倒しており他の時代には見られぬ特徴です。
 如来には絶対になければならない「白亳(びゃくごう)」がありません。白亳がないの
は「飛鳥時代」の一部と「弘仁・貞観時代」の殆どに限られますが弘仁・貞観時代作であ
ります「元興寺の薬師如来立像」には白亳があります。元興寺像は現在(2006.04)、
奈良国立博物館で展示されておりますが展示時期については奈良国立博物館でご確認
ください。
 螺髪の粒が大きい割には「肉髻」が神護寺薬師如来像に比べて余りにも低過ぎます。
 仏像で人間の眼に近いのは飛鳥時代の杏仁形でそれ以降は半眼でいかにも瞑想する
ような眼の形であるですのが、本尊は黒目が憤怒像のように目頭により、大きく見開
いています。大きく見開いた異様な眼の印象から、光明皇后の発願で聖武天皇の眼病
平癒を祈って造像されたとも言われております。が、光明皇后の健在な時期は天平時
代で本尊が制作されたのは次の弘仁・貞観時代であり時代が全然合わないのです。本
尊の眼が強く印象に残る極端に大きいものですから眼病平癒の話が誕生したのであり
ましょう。
 右手の掌が右に傾いているのも異例です。
 膝が高い組み方です。膝が高いの言うことは膝の左右の広がりを抑えて組んだ結果
で、次の藤原時代は膝の左右の広がりが大きい組み方のため当然膝の高さが低くなり
ます。(例 平等院阿弥陀如来像)
 現在、脇侍の「日光・月光菩薩像」は安置されておりません。  


   渦 文


    茶杓文

 衣の表現には大変な力の入れ方で、襞の線が
丸い線(大波)と尖った線(小波)が交互に表出し
た翻波式衣文(ほんぱしきえもん)さらには、茶
杓文(ちゃしゃくもん)、渦文(かもん)の襞が刻
まれており、このことは、木という材質の特性
を最大限に発揮しており、天平時代の脱活乾漆
造の「漆」では角が欠け易くて出来ません。

 弘仁・貞観時代までは霊木信仰による一木造だからこそ彫りの深い彫刻が可能で、
次の藤原時代の内刳りをする「寄木造」では干割れなどの破損を防ぐために木の肉厚を
なるべく薄く仕上げるのでどうしても彫りは浅くなってしまいます。

 病気になれば神仏に頼らざるを得ない時代ですから薬師如来は大いにもてはやされ
たと思われますが本尊は病気快癒祈願の仏さんとは考え難く、興味が尽きない尊像で
す。他の時代ではお目にかかれない特異な薬師如来像が流行した理由については
『平安初期彫刻の謎』、著者松村史郎、発行 渇ヘ出書房新社 03-3404-1201を参考に
してください。
  大手企業のトップとして豪腕をふるわれた松村さんの作品は読みやすく、かつ読み
応えある本です。
 私もなにか書き物で残したいと思っておりましたが、松村さんの本の内容に衝撃を
受けて、到底無理と諦めました。松村さんと韓国へご一緒したときもまだまだ勉強を
しなければと言われたことが印象深く残っております。その松村さんともう一度お会
いしてゆっくりとお話を受けたまりかったのですが今は鬼籍に入られ願いは叶わなく
なりました。

 

  「十二神将像」が安置された「円形の須弥壇」は土製で、直径9メートル、高さ90セン
チの大きさで他寺では見られぬものです。その須弥壇の中央に本尊を祀り、それを囲
繞するように十二神将像が安置されております。十二神将は薬師如来を守護する眷属
(けんぞく)で、外側に向かって立ち、薬師如来を仏敵から守っております。
 像高は1.54から1.70センチであります。等身大の十二神将像は新薬師寺像が最後で
これ以後は小振りの十二神将像となります。
  十二神将像では現存最古の像で「本尊」が弘仁・貞観時代の作品であるのに、「十二
神将像」は天平時代の作品です。

  十二神将とは伐折羅(ばさら)・阿儞羅(あにら)・波夷羅(はいら)・毘羯羅(びぎゃ
ら、びから)・摩虎羅(まこら)・宮毘羅(くびら)・招杜羅(しょうとら)・真達羅(しん
たら)・珊底羅(さんてら)・迷企羅(めいきら、めきら)・安底羅(あんてら)・因達羅
(いんだら)神将(大将)です。これら十二神将像の呼び方ですが新薬師寺での呼称と、
国宝指定の名称(下線部分)とがあります。伐折羅は迷企羅、頞儞羅は頞儞羅、波夷羅
宮毘羅、毘羯羅は毘羯羅、摩虎羅は摩虎羅、宮毘羅は招杜羅、招杜羅は珊底羅、真
達羅は真達羅、珊底羅は安底羅、迷企羅は因達羅、安底羅は伐折羅、因達羅は波夷羅
ですが私は当寺の呼称で記述いたしております。波夷羅像は補作でありますゆえ波夷
羅像以外の十一体の神将像が国宝指定であります。
 新薬師寺の十二神将は干支の仏さんで、因達羅は巳、安底羅は申、迷企羅は酉、珊
底羅は午、真達羅は寅、招杜羅は丑、宮毘羅は猪、摩虎羅は卯、毘羯羅は子、波夷羅
は辰、頞儞羅は未、伐折羅は戌で、我が国最古の干支の守り神です。

 因達羅像の台座の銘に「為七世父母六親族神王御座造・・・」「七世父母為朝庭・・
・」と親族のために台座をつくったとあり個人的な祈願だったようです。朝庭という
文字が付け足しのように書かれておりますが。造像が私的な願いだったことから考え
ると官寺でない岩淵寺(いわぶちでら)より移安されたという説に真実味が出てまいり
ます。それから、当時は庭儀の時代ですから現在のような朝廷ではなく朝庭と書きま
した。

 「塑像」の材料は粘土であるため、脆いうえ重量がある欠点があります。写実主義の
天平時代では数多く作られましたが、次の平安時代は木彫像が主のため写実的表現を
重んじる肖像彫刻などに採用されるだけで遺品が少ないです。
 (数少ない遺品の一つに「法隆寺夢殿の道詮律師像」があり、平安時代の塑像です。)
 塑像は土を焼くこともなくただ乾燥させるだけなのに奈良盆地のような高温多湿の
悪条件下で1,200年余り保存できたのは優れた技術があればこそです。東南アジアで
塑像が残っている地域は乾燥地帯で、奈良のような高湿度地帯では存在いたしません。
 黒目は当時は宝石並みの価値があったガラス玉を使用しております。
 東大寺三月堂、戒壇院像の節度ある静かな像から見ると、激しい動きがあるバロッ
ク的な十二神将像です。
 冑を被るものは因達羅、安底羅、頞儞羅で、珊底羅だけが肩に獅嚙(しがみ)を施し
たり、摩虎羅だけが脛当を着けずズボンのようなものを着用したり、一体として同一
のポーズがなく様々な像容で拝観する者に楽しみを与えております。簡素な器(本堂)
に合わせるが如く装飾的な表現は施しておりませんが、当初の華麗な彩色文様を残し
ておりますので眼を凝らしてご覧ください。  
 薄暗い静寂な堂内をゆっくりと、常道の右繞(うにょう・時計回り)で十二神将像を
礼拝されますと最後に伐折羅像と感激の対面となり更なる感動が生まれ古都奈良へ来
た喜びが込み上げてこられることでしょう。 

 

 

    
         伐 折 羅 像 

  「伐折羅像」は十二神将像の中でも傑出した秀
作で像の前に立つと、像の激しい威嚇に圧倒さ
れて一瞬たじろがれること間違いなしです。
 頭は冑(かぶと)を着用せず、「怒髪(どはつ)
天を突く」であります。
 口をかっと大きく開けて咆哮し、五指を広げ
るのではなく左手の中指と薬指のみの間を大き
く広げて仏敵を威嚇しております。
 他の像は布製の腰紐であるのに本像は豪華な
石帯(バンド)を着用しております。
 太平洋戦争後、新しい日本銀行券が発行され
るに際し当時、我が国を占領していた「GHQ(連
合国最高司令部)」は新様式の通貨の製造、発行
は事前承認を要求しました。発行予定の新しい
通貨のうち「十円券」の肖像に本像のデザインを
提案すると、「伐折羅大将の形相は戦争に敗れ
た日本国民の憤怒を表している」と、すなわち、

「連合国」に対する日本国民の怒りを表しているということで却下されました。
異国の人間が憤怒の表情を恐ろしいとたじろぐくらい見事な憤怒表現です。もし、東
大寺戒壇院の四天王像だったら猛々しく感じられないので憤怒像とは理解されず承認
されたかもしれませんね。結局、十円券の図案は伐折羅大将から国会議事堂に代わり
ました。
 余談ですが戦前お札の肖像図案七人のうち一人だけ残ったのが「聖徳太子」です。高
額紙幣といえば聖徳太子だったのが、残念ながら昭和59年11月1日に隠れてしま
われました。

 荒ぶる本像は人気度が高く奈良の観光ポスターだけでなく郵便切手にも採用される
という売れっ子であります。

 

   
       迷 企 羅 像

  天平時代の四天王像の違いは像の背面
に垂れる裳裾であります。
  「迷企羅像」は他の像にくらべるとひと
きわ長く垂れています。
 平安時代になると四天王像も裳裾が現
れます。
 左手を真っ直ぐ上に伸ばした像は珍し
く薬師如来を仏敵から守るにふさわしく
躍動感にあふれる頼もしい相貌です。
  土の素材を生かした塑像だからこそ出
来た表現でしょう。また、肘のあたりに
ある「鰭袖」により筋肉質の腕が強調され
ているように見えます。
 「珊底羅像」だけが鰭袖でなく、獅子の
「獅嚙(しがみ)」を付けているので注意し
てご覧ください。
 右手を腰に当て左手を大きく挙げてい
るのはまことに壮観です。何を表す動作
かは理解できませんが本尊と須弥壇の守

りは俺に任せよとの意思表示でしょうか。左足の踵を石の上に挙げているのも何を意
味するのか分かりませんが仏師にそれなりの思惑があってのポーズでありましょう。

 新薬師寺像は十二神将像の最高峰といえるもので見る人を飽きさせなく魅了し続け
ております。

 


       南都 鏡神社

  南都「鏡神社」は新薬師寺と隣接し
ており訪れると赤い鳥居が目立ち新
薬師寺より先に目に入ります。
 鏡神社は大同元年(806)に新薬師
寺の鎮守として勧請されたと伝えら
れております。
 藤原広嗣は九州で兵を起こした
「藤原広嗣の乱」の張本人ですが「興
福寺のお話」で出てくる左大臣「橘諸
兄」を敵に回したのが運命の分かれ
目で広嗣は戦いに敗れ処刑されます。
その広嗣の怨霊を鎮めるために本殿

に広嗣の霊をお祭りしてあるとのことです。   
 この乱は聖武天皇にとって衝撃が大きかったのかそれ以後遷都が始まり都が転々と
移動いたしました。結局、都は平城京に戻りまして目出度し目出度しでした。

 「本殿」は「春日大社の第三殿」が延亨三年(1746)
に移築されたものです。
 春日大社の本殿は、本殿のある敷地内には神職
以外は立ち入れず、何人も絶対に見ることが出来
ないだけに当本殿は貴重なものといえましょう。
 本殿前には拝殿(仏教では礼堂)がありますが儀
式以外は立ち入れないようです。ですから、近く
までよって拝観することは出来ませんが低い塀越
しによく見えますのでどうぞご覧ください。


      本  殿

 

 


          奈良市写真美術館

 「奈良市写真美術館」は新薬師寺と隣接しており歩いて1分で着くます。
 「入江泰吉」が生涯古都奈良の風情や仏教美術を撮り続けた記録写真が保存、展示さ
れております。

 1時間無料の駐車場が用意されております。

 

 

            画 中 西  雅 子