菩薩像(1)のお話

  「菩薩」とは「菩提薩埵(ぼだいさった)」の略称であります。菩薩は本来男性で、その
理由としては釈迦が出家される前の王子時代の姿とか修行されている時代の姿とか言わ
れさらには、インドの王族・貴人のスタイルだとも言われております。それと、菩薩に
は髭がありますのと菩薩の梵語は男性単数名詞でしかも釈迦は菩薩を善男子と呼んでい
ましたからです。男性だった菩薩も時代が下ると女性の菩薩が誕生いたしましたので菩
薩が男性、女性かの議論は意味の無いものとなりました。ただし、菩薩の中でも地蔵菩
薩のように剃髪で僧侶の姿をされた仏さんもおられます。インドで誕生した菩薩はたっ
た一種類だったのが今では数多くの菩薩が誕生しております。
 菩薩には二面性があり、如来となるため修行に励んでおられる一面と我々衆生の救済
を実践されている一面であります。これを「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだいげけしゅ
じょう)」と言います。
 

 まず最初に、「弥勒菩薩」ですが弥勒菩薩はわが国に「釈迦如来」と同時に請来したので
はないかといわれている位早くお見えになりました。弥勒菩薩は釈迦如来の弟子であり,
釈迦と同じく現存された方ではないかとも言われております。
 弥勒菩薩は釈迦入滅後インドならではの数字56億7千万年後に釈迦のリリーフとし
て我々を導いていただける仏さんです。それでは、長い無仏の時代はどうなるのかいい
ますと「地蔵菩薩」が我々を守ってくださるのです。釈迦入滅後まだ2500年ほどしか
経っておらず未来仏たる弥勒菩薩が釈迦如来の後継者として現世に現れるまで
56億6999万7500年(5,670,000,000−2,500=5,669,997,500)待たねばなりま
せんのでせっかちな日本人には合わなかったのか弥勒菩薩像は後の時代もそんなには造
られませんでした。
 一方の地蔵菩薩はお地蔵さんと言われ多くの人々に親しまれ多くの像が造られました。
地蔵菩薩については後日掲載いたします。
 弥勒菩薩は将来、釈迦如来の代理となられるくらいですから優れた弟子だったと想像
されますのに「十代弟子」に入っていないのは何故でしょう。もしかすると、現在はまだ
未熟だが将来性を買われて56億7千万年という期間、兜率天での修行の機会を与えら
れたのでしょう。

 

  
  弥勒菩薩半跏像(中宮寺)

 弥勒菩薩と言えば何と言っても中宮寺の「弥勒菩薩
半跏思惟像」でしょう。
 半跏思惟といえば片足を下ろして考え中ということ
で「考える人」そのものです。半跏思惟像は他の時代で
はまずお目にかかることが出来ません。
 弥勒菩薩半跏像は2005年3月8日(火)〜4月17日(日)
は東京にお出かけでしたが現在は新本堂で安息されて
おります。
 弥勒菩薩像は「如意輪観音像」との説がありますが飛
鳥時代制作ということですから弥勒菩薩と考えるほう
が無理のないところと思われます。
 先日ガイドでご一緒した方は東京国立博物館で拝観
してその素晴しいこと大変感動したとおっしゃってま
した。この像は年齢に関係なく安らぎを与えるようで
す。
 弥勒菩薩は一部飾りを着けていたらしいですがそれ

にしてもあまりにも質素すぎるのは如来に近づきつつあるのでこのような容貌となら
れたのでしょうか。ただ中国では、このように思索する像は悉達多太子像であるとい
われており、その理由は56億7千万年後には如来となって釈迦如来の跡継ぎになる
ことが間違いなく決まっておりますから何も思索などはしないと言う考え方らしいで
す。この様式の像は韓国で弥勒菩薩ブームが起きましたときの弥勒菩薩の様式がわが
国に請来して造像されたようであります。後の時代なら話は別ですが当時、わが国で
は韓国のようにあの方は弥勒菩薩の化身だと言って民衆にアピールするようなことは
無かったので流行しなかったのでしょう。

 

   
     弥勒仏像(当麻寺)

   
         弥勒菩薩半跏像(野中寺)  

  「当麻寺のお話」 をご参照ください。  「仏像-白鳳時代」をご参照ください。

 弥勒菩薩は釈迦入滅後56億7000万年後に如来となって下生されるとのことでし
たが「当麻寺像」は弥勒仏と呼ばれ、既に如来となっておられます。どのようにして、
娑婆世界に下られて竜華樹の下で悟りを開いて如来となられたのでしょうか。平安時
代から如来の弥勒が造られるようになりますが、菩薩の弥勒は思惟像ですが如来の弥
勒は施無畏・与願印となるケースが多いようです。

 髪の毛を大きなたんこぶのように結い上げております
のが髻(もとどり)で宝髻(ほうけい)とも言います。参考
までに分かりやすい「中宮寺像」ですが髻が二つあります
ので双髻(紫矢印)と言います。また、頭の両側に垂れた
一条の髪が蕨のようになっておりますので「蕨手型垂髪
(青矢印)」と言います。一条の垂髪は「救世観音像」も同
じようになっております。
 中宮寺像は双髻が見えておりますが造像当時は多分素
敵な宝冠を着けておられたことでしょう。

 
  弥勒菩薩像(中宮寺)

 次に取り上げるのは「観音菩薩」で、俗に“観音さん”と呼ばれるくらい一番親しま
れております。観音はわが国へ東漸するにしたがって通過する国々で色んな観音さん
が誕生し多くの数となっております。観音菩薩は地蔵菩薩と並んで、仏さんの2代ス
ターで、仏の分類の仕方では如来、菩薩、不動明王、天部となっておりますのを如来、
菩薩、観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王、天部と分ける必要が出てくるかも知れません。

 「観音菩薩」の正式名は「観世音菩薩」「観自在菩薩」であり、呼称の「観世音」は旧訳(く
やく)で「観自在」は新訳です。新訳とは「孫悟空」でお馴染みの『西遊記』の主人公、後
に三蔵法師と言われました高僧玄奘が訳されたものでそれ以前の訳を旧訳といわれる
ようになったのであります。ここでの訳とは漢訳(中国語訳)のことです。
 余談ですが三蔵法師といえば玄奘の代名詞と成っておりますが、経(釈迦の説いた教
え)、律(出家僧が守るべき戒律)、論(経の注釈書)をよく理解し精通した僧を三蔵法師
と言う普通名詞が玄奘があまりにも偉大だったので固有名詞となったのであります。
 それと、平山郁夫さんが描かれた玄奘の「大唐西域記」を表現した「大唐西域壁画」が
薬師寺の「玄奘三蔵院伽藍」に飾られており随時公開されております。

 わが国では言葉の響きがよいのと親しみを感じるのか今なお観世音であります。で
すから、観音さんを拝むとき「南無観世音菩薩」と唱えられます。しかし、観音巡礼で
の輪袈裟には「南無観世音菩薩」と刺繍されていますのに唱えられる「般若心経」では「観
自在菩薩  行深般若波羅蜜多時  照見五蘊皆空・・・・」となっており観世音菩
薩さんも観自在菩薩とは俺のことかと首を傾げていられることでしょう。般若心経は
漢訳のままですので意味が理解し辛いまま丸暗記されているのが現状です。なぜ、中
国では多くの漢訳が試みられているのにわが国では和訳がなされていないのか、訳者
が居なかったのか途中で頓挫したのかは分かりませんが不思議でなりません。

 観世音とは苦しむ衆生の音声を聞くと直ちに救済していただけるということで観自
在とは救済に関しては自由自在にことが運べるということでしょう。ですから、臨機
応変に対応すべくほとんどいってよいほど観音菩薩は「坐像」ではなく「立像」で造られ
ております。
 いかなることでも救済していただけることからすると法隆寺の「救世観音」などぴっ
たりとしたネーミングですね。
 
 心根の優しい女性を菩薩のようと形容いたしますが観音菩薩の中にも「馬頭観音」の
ように恐ろしい面相をした仏さんもいらっしゃいます。
 観音さんは仏の中では圧倒的な人気ですが、観音浄土(観音の住処)の「普陀落(ふだ
らく)」の認知度は低いです。普陀落(ポータラカ・Potalaka)山はインドの南にある想
像上の島の話ですがそれがわが国へ伝来して、和歌山県の熊野の那智山、東照宮の日
光の二荒山が普陀落と言われるようになったのです。ただ、普陀落が南の霊場の島で
あるのに南無観世音菩薩の「南無」とはどんな巡り会わせなんでしょうか。ただ、南無
とは梵語のNamas(ナマス)を中国語で音訳したものです。
 
 「阿弥陀如来」の脇侍は観音菩薩と「勢至菩薩」ですが観音菩薩の方は単独尊として多
くの姿に変えて衆生に大いにもてはやされ広く支持されておりますが一方、勢至菩薩
は阿弥陀如来の三尊形式でしか現れません。
 いつの時代も観音が愛され親しまれるのは、如来が悟りがどうだとか難しくまた厳
しい修行を要求されまるで親父のようで近寄りがたいのに対して、その点、母親のよ
うにただ優しくどんな願い事でも叶えていただけるので霊験あらたかなる観音に大衆
が飛びつくのは当然と言えば当然であります。 
 
 観音の様相は、頭に豪華な宝冠を頂きその宝冠の中央には如来(阿弥陀)の化仏があ
ります。胸には胸飾り(瓔珞)、耳には耳璫(じとう・イヤリング)、腕には腕釧・臂釧,
足には足釧、身体には条帛、天衣を纏い、手は印相は結びません(?)が水瓶(宝瓶)、
蓮華を持ち、台座は蓮華座であります。裸足にサンダルを履くことはあっても沓を履
くことはまずありません。これらの様相では釈迦が修行中である菩薩時の様相とは考
えずらくそれではどうしてこんな華やかな像容となったのでしょうか。それには,菩薩
とすぐに識別出来るようにか、それともお釈迦さんは王子と言う大変恵まれた環境を
捨ててまで我々衆生を済度するため犠牲になられた有難い方だと言うことを強調する
ためでしょうか。いずれにいたしましても、元来菩薩と言えば釈迦が修行時代の6年
間のことですが、如来が形として現されるように成った時代には菩薩は釈迦が出家さ
れる以前の王子の姿も含まれる拡大解釈になり現状の姿となったのでしょう。

 今月は「聖(しょう)観音像のお話」で来月からは「十一面観音、千手観音」などの「変
化(へんげ)観音像のお話」を掲載いたします。  
 観音といえば観世音菩薩のことでしたが後に変化観音が出ましてから、変化観音と
区別するために「聖(正)」が冠されて聖観音となったのであり特別の観音ではなく本来
の観音であります。ですから、変化観音が世に現れるまではただ観世音菩薩と呼ばれ
ていた根本の菩薩であります。

 聖観音は変化観音のような多面多臂(ためんたひ)ではなく我々人間と同じように顔
が一つで腕は二本です。多臂の「臂」とはひじのことではなくて手のことです。最初に
変化観音像を拝観されたらドキッとして立ちすくまれたことでしょうがその点、聖観
音は素直に自然と合掌されることでしょう。

 観音は姿を三十三に変える「三十三身」として衆生に現世利益をもたらすありがたい
仏さんです。ある時は僧侶、ある時は若い女性などに変身して衆生を救ってくださる
のです。さらには「三十三観音」もありますうえマリア観音、子安観音と観音はまだま
だ数が増えていく傾向にあります。これほど多くの名前を持つ仏さんも珍しいことで
しょう。このことは古今東西で崇拝されているということでしょう。観音さんの多さ
を表す言葉に扉の「観音開き」があり多くの観音開きの厨子に観音さんが安置されてい
たという証でしょう。しかし、宮殿のような立派な厨子に安置されるということは秘
仏となりやすく惜しいことに多くの観音は直接お目に掛かれない状態となっておりま
す。
 三十三観音と「三十三観音霊場」とは関係がなくただ、観音に関する三十三という数
字に由来するだけです。詳しいことは次回に記述いたします。
 
 聖観音は大変数少なく奈良時代以降は変化観音ばかりと言って良いほどです。しか
し、「秩父三十四ヵ所観音霊場」に於ける禅宗系の寺院では21ヶ寺の本尊が聖観音で
す。

 法隆寺の「救世観音像」、「百済観音像」、「夢違観音像」、薬師寺の「聖観音像」が聖観
音と言われておりますが救世観音像と聖観音像は観音の標識たる宝冠に小さな化仏が
ありませんので菩薩とも言われております。多分、当時は像容について詳しい教典も
存在しなかったのと化仏をつけなくとも容貌で観音菩薩と分かる時代でしたので省略
されたのでしょう。
 毎月18日は観世音菩薩の縁日です。  

        
   百済観音立像(法隆寺)

    
      夢違観音立像(法隆寺)

 「百済観音像」「夢違観音像」共に観音のシンボルである頭上の宝冠に阿弥陀の化仏が
付けておられます。しかし、阿弥陀とはっきりするのは後の時代ですが私はガイドの
際は阿弥陀の化仏と説明しております。

 

  
    救世観音立像(法隆寺)

   
   聖観音立像(薬師寺)

 両手で宝珠を持っておられる珍しいものです。救世菩薩と言えば聖観音の異称でもあります。

 「薬師寺のお話」をご参照ください。

                                               画 中西 雅子