阿弥陀如来像のお話

 

 「阿弥陀如来」は四十八願をかけて厳しい修行をされた末、悟りを開いて如来になられ
た仏さんで我が国では一番多く礼拝されております。「極楽」と言えば阿弥陀如来が居ら
れる浄土のことですがキリスト教の「天国」に対して我が国では極楽と言われるくらいポ
ピュラーな言葉となっております。
  阿弥陀如来を本尊とする浄土系の宗派が、在家の信者にただ念仏を唱えるだけで難し
い修行をしなくても極楽往生出来ると説いたのに併せて八大地獄の有様などの話を吹き
込んだため、一般大衆は地獄に堕ちることなく浄土に行けることを願い、阿弥陀如来が
圧倒的に支持されたのは自然の成り行きでした。これこそ在家仏教そのものと言えまし
ょう。ただ、宗派によって念仏を唱える意味の解釈に違いがあります。
 それと、時代は薬師如来より阿弥陀如来の信仰に移ってまいりましたのは当時は飢饉
や衛生状態が劣悪の状態のなか伝染病のような疫病の流行などで多くの死者が出たこと
でしょう。それらの対策が満足でない現世では救われる期待もむなしくそうなれば阿弥
陀如来を信仰して現世を諦め来世の幸せを祈願するようになったのではないでしょうか。 

 浄土系の宗派は阿弥陀如来一尊ですがしかし、逆に阿弥陀如来といえば浄土系だけで
はなく色んな宗派でも尊崇されております。

 阿弥陀如来の印相の「九品(くほん)印」ですが阿弥陀仏が衆生を九種類に分類して救済
する方法です。この九品印には異説がありますが私は次の説を選びました。何故かと言
いますと立像の場合に多い印相を上品下生と考えるからです。異説では下品上生となり
ます。しかし、どちらを選ぶかは皆さんの自由です。
 九品印は親指と他の一指で丸を作った手の所作で決まり、「上品
(じょうぼん)は親指
と人指し指、「中品(ちゅうぼん)は親指と中指、「下品(げぼん)は親指と薬指で丸を作
り、「上生(じょうしょう)は瞑想時のスタイルで膝の上で手を組み、「中生(ちゅうしょ
う)は両手を胸の所まで挙げ、「下生(げしょう)は右手が胸、左手は坐像の場合は膝の
上に置き立像の場合はだらりと下げて掌を前方に向けます。これら三品と三生の組み合
わせが九品印でありますが上品下生の施無畏・与願印は釈迦如来、薬師如来との共通印
です。ただし、阿弥陀如来の施無畏・与願印は平安から鎌倉時代にかけて施無畏・与願
印のような形のまま親指と他の一指で丸を作る来迎印に変わります。
 阿弥陀への信仰心が篤くしかも現世で多くの善行、功徳を積まれた善男、善女は阿弥
陀如来が多くの菩薩を連れて臨終者の枕元まで迎えにきてくださいます。それから宝石
で飾られた蓮台に乗せられ直ちにロケットで極楽往生させていただけます。しかし、信
仰心も薄く功徳などに縁がなかった方は阿弥陀如来の代理の方しか見えないうえ、雨戸
のようなお粗末な蓮台に乗せられそれから長い時間を要する鈍行列車で極楽往生するこ
とになります。
しかしいずれにしても、九通りあるランクのうちどれかのランクで浄土に行け往生成仏
する事が保証されておりますから一安心です。 
  阿弥陀如来の印相は数多く九品も二通りの説、しかも説法印、来迎印にしても色んな
形がありややこしいです。印相について少し調べてみたいと思っておりますが印相で覚
えるとしたら「上品上生(定印)」、「上品下生(施無畏・与願印、来迎印)」で充分だと思い
ます。
 阿弥陀如来の印相は親指と他の指で丸を作るものが多いですがこれはお金を表してい
るのではなく信者の来世の幸せは任せなさいというOKのサインでしょう。
 極楽浄土に往生することを願う信者の方は阿弥陀如来を篤く信仰するとともに数多く
の積善を行い、善因善果の例えよろしく上品上生の阿弥陀如来に迎えてきていただける
ような善い生活を心掛けましょう。
 ただ、浄土に迎えに来ていただける阿弥陀如来は上品上生でなく上品下生の形をした
来迎印の阿弥陀如来であるとなると話はおかしくなりますので上品下生と来迎印とは別
ものと考えるべきでしょう。
 
 阿弥陀仏には「南無阿弥陀仏」とか俗に「ナマンダブ」とか一番馴染みのある念仏を唱え
ますが薬師仏を拝む場合でも「南無薬師仏」でなくナマンダブと唱える方も居られます。
先日も法隆寺中門前で柏手を打ってお祈りされる方がありましたが振り返る人もなく、
ほとんどの方は気付かず違和感がないのも我が国ならではの信仰の姿と言えましょう。
 余談ですが阿弥陀如来が居られる西方極楽浄土は十万億の仏国土を超えたところにあ
るとのことで、それはそれはこの世の穢土から天文学的遠隔地にあるらしいです。故人
はやっと浄土に往生出来たのにも拘らずお盆に穢れた人間社会に短期間といえ呼び戻す
ことは理解し難いことです。今年米寿の母は親父のお盆供養の迎え火、送り火の行事の
ため私を実家に呼びます。そこで私は親父は極楽で楽しく過ごしているはずだからそっ
としておくほうが功徳になるといいますが駄目ですね。また、阿弥陀一尊では心許ない
のか送り火の後近くのお不動さんをはじめ水子観音までお参りに行きます。
 また、来年は親父の七回忌です。息子の私が言うのはおかしいですが親父は馬鹿ほど
お人好しで騙されることがあっても騙すことはありませんでした。ですから多分、まか
り間違っても七七四十九日までには極楽浄土に往生していると確信しておりますが母親
は来年七回忌だといって頑張っております。そこで私は母親にどうのこうの言っても始
まりませんので総ての法事は多大な恩になった故人に対する感謝の集いと考えるように
しております。
 
 脇侍は「観世音菩薩、勢至菩薩」で三尊仏となります。例は少ないですが三尊仏に「地
蔵菩薩、竜樹菩薩」が加わった五尊仏もあります。
 
 古代の人々は夕陽の沈むところに西方極楽浄土があると考えていたらしいですが当時
は地球は丸ではなく平盤なものと考えられており平盤な果ての落ち込んだ所または裏側
に浄土があると考えていたのでしょうか?それと西に沈む太陽と東から上る太陽を同一
のものか、違う新しいものかどちらとを考えていたのでしょうか。太陽が沈むのは我が
国では山の端か水平線で、インド、中国では地平線という国土的な違いが西方極楽浄土
の考え方にどう影響したのか知りたいものです。  

  「阿弥陀籤(くじ)」とは阿弥陀如来の頭光背を連
想して考え出されたものです。私の想像ですがお
菓子などを持ち寄って当たりとか1,2,3等と
かを競ったほほえましい賭け事だったことでしょ
う。当然、当たり籤は分からないよう丸いグレー
の部分は見えないよう隠しておきます。
 ところが、現在の阿弥陀籤は古代寺院の床を石
などで敷く形式「布敷」のような平行線を引いたも
のになっております。
 阿弥陀籤といっても若者には分からない死語と
なりつつあります。死語といえばガイドをやり始
めた当時、歌舞伎の「白波五人男」を理解しておら

   
      阿弥陀籤

れる年配の方ばかりで、法隆寺本尊(西の間)の「阿弥陀如来坐像」は鎌倉時代作で、元
の阿弥陀如来坐像は平安時代、「白波」にあって盗まれたという説明をしておりました
が、老若男女にガイドをするようになってからは白波の意味から説明をしております。

 

 「鎌倉」を訪れてみてまず最初に驚いたのは車の渋滞と、拝観料は安いのに駐車料金
は時間制で高いことです。しかし、鎌倉は地理的に充分な駐車スペースの確保が難し
いので多くの車が駐車できるよう時間制駐車料金にして解決を図っておられるのでし
ょう。
 「高徳院」というより鎌倉の大仏さんが居られる寺院といったほうが話が通じやすい
ことでしょう。

   
 画家「川合玉堂」さんの筆に
よる石標とのことです。字は
旧字となっており若者には時
代を感じさせることでしょう。

   
        鎌倉大仏(高徳院)

 「鎌倉大仏」は阿弥陀如来の代表と言えるくらい人気抜群で大仏を写真撮影するため
人影がなくなるのを辛抱強く待っておりました。と申しますのも大仏さんの周辺で飲
食が出来ますので多くの方がのんびりと過ごしておられるからです。しかし、観光シ
ーズンなら幾ら待っても人物なしの大仏撮影は無理な話でしょう。露坐の大仏である
ため圧迫感も受けず無限の開放感に浸りながら拝観できることは忘れ難い体験でした。
 神奈川県では唯一の国宝指定の仏像です。露仏の大仏だけに酸性雨の影響は大丈夫
なのだろうか大変心配になりました。ゆくゆくは後世にその姿を留めるために往時の
堂内安置となることでしょう。
 服制は「偏袒右肩」が多い中「通肩」です。


    頭部部分(像内)


          一部分(像内)

 20円で像内に入れていただけます。が、人が次から次へと来られるので早々に退
散しなければならない恨みがあります。しかし、国宝指定の仏像内に入り胎内拝観出
来るのは鎌倉大仏だけですので内部の出来上がりをご覧になり機械工具の無い時代に
制作した工人たちの苦労を偲んでみてください。

 
   与謝野晶子の歌碑

 
      弥陀定印(鎌倉大仏)  

 
     禅定印(釈迦、薬師、大日如来)

  阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、大日如来の区別は顔付き、体付きを見ても見分
けが付きませんが手付きの印相を見れば少しは見分けが付きます。前述の薬師如来の
施無畏・与願印では平安以降は薬壷を持つようになります。定印の場合阿弥陀如来は
弥陀定印で、釈迦如来、薬師如来、大日如来(胎蔵界)の三如来は同じ定印ですから定
印の阿弥陀如来はどなたでも見分けることが出来ます。鎌倉の大仏は弥陀定印ですの
で阿弥陀如来以外ありえないのです。
 ですから、与謝野晶子さんの和歌 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 
びなんにおわす 夏木立かな」の間違いが分かった訳です。与謝野さんの勘違いだか
らと逆に有名になりましたが「釈迦牟尼」を「あみだぶつ」「あみださん」と詠み替えても
語呂合わせが悪く納得される歌とはならなかったのでわざと間違えられたことでしょう。ところが、発表後に批判があったので「釈迦牟尼は」を「みすがたは」と詠み替えら
れましたがその歌はお蔵入りとなったようであります。
 ただ、細かいことを言いますと弥陀定印の場合立てた人差し指の先に親指が乗るよ
うな感じで写真のように水平にならず下図のように親指の先は少し上に上がり気味と
なるのが通常です。多分、親指を水平にされたのは、我が国では仏堂などで垂木を放
射状にしなければ構造上不利となるのを分かっていても平行垂木にしてみたり古来の
建造物の柱間隔を等間隔にするなどの律儀な国民的性格の表れが出たのでしょう。
 いずれにいたしましても、拝観者は阿弥陀さんだろうが与謝野さんのお釈迦さんだ
ろうかは関係なく大仏さんであればそれで満足という顔をされているように見えまし
た。印相は上品上生です。 

 

  
   阿弥陀如来坐像(鳳凰堂)        

  「平等院」は伽藍そのものと「鳳凰堂」の堂内
とを見てきたかのように浄土の雰囲気を具現
化することに成功しており、栄光と威厳の名
残を留める寺院です。
  「阿弥陀如来坐像」は現在、修築も無事に
終わり、浄土の世界の如くに荘厳された仏堂
にふさわしいふくよかな温顔の美しい仏さん
となって皆さんを迎えてくださいます。  
 天才仏師「定朝」が確立させた本格的な「寄木
造」の頂点の作品として名高く「仏の本様」と崇
められ、これから長く多くの模刻像が制作さ
れました。
 彫りは極端に浅くなっているので一層優美
で繊細な感じとなっております。後述の「法界
寺像」と同じように弥陀定印となっております。
 「寺院建築−平安時代」をご参照ください。

 

 「法界寺」は「親鸞聖人」が生誕されたという由緒があり栄華を極めた寺院です。
 創建当初の本堂は「薬師堂」だったらしいです。写真の右側に見える瓦屋根の建物が
そうです。

 「薬師如来」は「乳薬師」とも言われ、
安産と母乳に恵まれる霊験があること
で著名ですが驚いたことに現在も薬師
堂にはそれらの願いを込めたエプロン
が多く奉納されておりこの信仰が連綿
と今なお続いておりました。
 「阿弥陀如来坐像」が安置されており
ます「阿弥陀堂」は国宝指定で、背景に
溶け込んだ閑静な佇まいを見せており


      阿弥陀堂(法界寺)

ます
 
阿弥陀さんの回りをグルっとと回りながら拝むことが出来ます。常行三昧堂が後に
阿弥陀堂となりましたがその阿弥陀堂の典型的な建造物です。
 「寺院建築−鎌倉時代」
をご参照ください。

 
   阿弥陀如来坐像(法界寺)

 「阿弥陀如来坐像」は平等院の阿弥陀如来
坐像にそっくりで定朝様そのものですが平
等院像より控えめの印象があります。
 伏目で下から拝みますと仏さんの情愛溢
れる優しい眼と合い、いかにもよくお参り
に来たなと話しかけられているようでした。
 阿弥陀さんの周囲を念仏を唱えながら右
回りの行をいたしましたが三昧境には至り
ませんでした。貴重な経験、右回りの礼拝
が出来ますので多くの人々を魅了し続けて
来たことでしょう。
 内陣の小壁は極楽浄土を髣髴させる飛天
像が描かれており肉眼でもはっきりと確認
することが出来ます。
 
現存最古の壁画と言われる貴重なもので
すのでじっくりとご覧ください。

 

  「三千院」の門前には洛北大原の里で
採れた青物の漬物などの名物店が軒を
並べております。また、戸外には毛氈
を敷いた床机台があり若いカップルが
お茶を嗜んでおりました。店が立て込
んでいるといっても物静かな落ち着い
た雰囲気でしたがシーズンともなれば
参詣者で賑わう門前となっていること
でしょう。

 「山門」には「三千院門跡」の門標が掲
げられております。
 門跡寺院を表す五本線の筋塀だろう
と想像しておりましたところ、人を寄
せ付けない高い石垣の塀とそそり建つ
「山門」は御殿門ともいわれるだけあっ
て寺門というより城門そのものでした。
石垣は自然石を積む野面(のずら)積み
でありますが三井寺で初めて知りまし
た高度な石垣技能「穴太(あのう)積み」
で築造されておりました。


       山門(三千院) 


     往生極楽院(三千院)

 「阿弥陀如来坐像」は「往生極楽院」
に安置されております。
 人影がないのを幸いと急いで仏堂
の正面を撮影し、さて阿弥陀さんを
拝見しようとして基壇を見ると撮影
禁止となっており、まさかと思いな
がら堂内にいらっしゃったお坊さん
に仏堂も撮影禁止ですかとお訊ねす
ると優しく頷かれました。そこで、
なるほどと気が付いたことですが仏

堂の正面の長押以下は前面開放で、仏堂を正面撮影をいたしますと堂一杯に安置され
た丈六仏の阿弥陀如来像までが写真に納まってしまい拙いからでしょう。それゆえ、
正面からの写真は没にして遠景の写真を用いましたが素朴で簡素な仏堂が冬枯れの淋
しい季節に飄々と聳える佇まいは水墨画のような情景で三千院の雰囲気が出ていて良
かったのではないかと自負しております。春を迎えればむせ返るような若葉で仏堂は
隠れてしまいますがまぶしい華やいだ自然の風景が眼にしみることでしょう。


   阿弥陀如来坐像(三千院) 

  「阿弥陀三尊像」は堂内に足を一歩踏
み入れると目の前におられ思わすドキッ
といたしました。通常、高い台座の上に
安置されており見おろす状態にあります
のが須弥壇、裳懸座は極端に低く仏さん
の目線と礼拝者の目線とを合わせておら
れるようで優しさがあり親しみが感じら
れました。
 印相は来迎印で、両手の親指と人差し
指を結んで施無畏・与願印のような形の
印です。後の時代になると来迎印の阿弥
陀仏は坐像ではなく立像となります。
 脇侍の観世音・勢至菩薩は一般的な立
像ではなく跪坐(きざ)像でした。跪坐と
は足を少し開いた正座坐りです。説明で

跪坐を別名大和坐りということを始めて知りました。跪坐は日本的な坐り方なので大
和坐りと呼ぶようになったのでしょう。
 大和坐り(跪坐)は来迎の観音に見られます。それと脇侍は愛らしく前屈みの状態で
往生者を優しく迎えに来てくださっているようでした。
 観世音菩薩は白魚のような美しい手で金蓮台を持っておられ亡くなれば直ちに蓮台
に乗せて極楽につれていってあげますよ、と勢至菩薩は温かみがある合掌印で往生者
を喜んで迎えてくださる雰囲気でした。
 ただ、「往生極楽院」と言うことはもう既に浄土で往生したことになり臨終者を浄土
へと迎えるのではなく、もうすでに極楽往生したことになるのではないでしょうか?

 三千院は若いグループが多く阿弥陀如来の前を一瞥して仏堂の斜め前方で手入れが
行き届いた庭園にある弁天池の延命水の場所で写真を撮ったり賑やかに談笑しており
ました。まだ、極楽浄土を意識しない若さを誇っているようで見果てぬ夢ばかりを追
い続けた青春時代を思い出し羨ましい限りでした。

  「興福寺」には鎌倉時代の革新的な傑作で「法相六祖像」があります。像6体のうち
2体ずつに分かれていて跪坐が2体、胡坐のような跌坐が2体、左膝を立てて坐るの
が2体ありますので是非訪れてみてください。「興福寺のお話」をご覧ください。

 

 

  「浄瑠璃寺」は寺名が表すように「薬師如来」
の仏国土である「東方浄瑠璃浄土」の寺院であ
りましたのが後の時代に「阿弥陀如来」の「西方
極楽浄土」の寺院に変わったのであります。で
すからこのお寺にお参りされますと二つの浄
土にお願いしたことになる有り難い寺院です。
 礼拝部分にもう少しスペースがあれば中尊
の前に坐れば「九体仏」が見渡せるパノラマと
なるのに惜しい感じが致します。
  九体の「阿弥陀如来坐像」の中尊が来迎印で
脇尊が弥陀定印です。中尊が施無畏・与願印
から派生した来迎印になっておりますので広
く人々から信仰されましたことでしょう。数
で圧倒される九体仏を拝まれますと心と身体
の汚れを総て洗い流していただけます。
 「浄瑠璃寺のお話」をご参照ください。

  
   阿弥陀如来坐像(浄瑠璃寺)

 

 


     橘夫人念持仏(法隆寺)


      押出仏(五尊像・法隆寺)

 「阿弥陀の印相」も白鳳時代は「橘夫人念持仏」の中尊のように「施無畏・与願印」であ
りましたのが天平時代になると「押出仏」のように「説法印(転法輪印)」、平安時代にか
けては「鳳凰堂像」、「法界寺像」、「浄瑠璃寺像」のように「弥陀定印」、平安の終わりか
ら鎌倉時代には「三千院像」、「浄土寺像」のように「来迎印」の4種類となります。しか
し、この4種類の手印は指の念じ方に異形がありややこしいです。、

 

 

   
   阿弥陀如来立像(浄土寺)

 「浄土寺」では「阿弥陀如来立像」が安置されおり
ます「浄土堂」の西側が開放されるようになってい
ます。夕陽が差し込むとまるで極楽浄土の世界を
想像させる演出となっておりますが、通常は開放
されることはありませんので機会があれば開放さ
れる時に伺いたいものです。
 「阿弥陀如来立像」は像高530pもある巨大像で
す。印相は右手が下がり、左手が挙がる逆手来迎
印となっております。台座は雲形となっており、
今まさに西方極楽浄土から飛雲に乗って到着され
た瞬間の阿弥陀如来です。
 鎌倉時代になると来迎印の阿弥陀如来は往生者
を早く迎えに行くため坐像から立像で表されるよ
うになります。
 「法界寺」は阿弥陀一尊でしたが浄土寺は阿弥陀
如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊仏でその周りを
念仏を唱えながら行道が行えます。 

 阿弥陀如来立像は天才仏師「快慶」の作で数少ない快慶作品の貴重な遺品です。眼を
見張るばかりの迫力と異国情緒溢れる作風で新鮮な驚きを感じます。快慶は東大寺を
再建された「俊乗房重源」を心酔して阿弥陀信仰が篤く自らを「安阿弥陀仏」と称しまし
たので快慶作の阿弥陀立像の形式は「安阿弥様」と呼ばれ後世にまでその影響を留めま
した。
 阿弥陀如来が納まっている「浄土堂」は気宇壮大な大仏様の建築でこれも数少ない大
仏様建築を今に伝える貴重な遺構です。「寺院建築ー大仏様」をご参照ください。

 

 

                                画 中西 雅子