寺院建築−大仏様

  今回のお話は「寺院建築−大仏様」ですが、大仏様の遺構は「東大寺南大門」と「浄土寺浄
土堂」のたった2棟だけです。
 鎌倉時代、大陸の宋から請来した新しい建築技法「大仏様」は、当初「天竺様」と呼ばれて
おりました。「大仏様」と呼称変更になったのは「天竺」とは「インド」のことでインド建築様
式と誤解を招くためでした。ではなぜ、「大仏様」かと言いますと世界最大の木造建造物で
ある「東大寺大仏殿」を再建するのに適した合理的な建築技法だったのでこのような呼び方
になったとのことです。しかし、現在の大仏殿より一回り大きかった再建時の大仏殿は、
兵火に遭ってその雄姿を見ることが出来ません。   
 木材が豊富な我が国に比べ木材資源が限られている大陸のことですから、「大仏様」は巨
木が必要とされる大規模な建築を建立するためでなく、多分素材を節約するために考え出
された技法かと思われます。そういたしますと、「大仏様」は大仏殿の再建に適するようあ
る程度手法が改められたことでしょう。
 大仏殿の再建は、それまでの建築技法である「和様」では構造的強度不足の問題、さらに
は納期的な問題、価格的な問題をクリアすることは難しかったのも事実でありましょう。 
 
  「南都焼き討ち」の事件は南都にとって史上最大の悲劇で、その犠牲となった「東大寺」
の堂塔伽藍の再建には国家プロジェクトとして取り組まなければならない筈なのに朝廷に
は財源的な裏付けが乏しかったため、そこで再建のリーダとして白羽の矢が立ったのが
「俊乗房重源」上人だったのであります。
  「重源上人」が「東大寺復興」の総責任者たる「大勧進職」に抜擢された時は61歳で、当時
では平均寿命を遥かに超えた年齢でした。そんな高齢者「重源上人」が起用されたのは優れ
た宗教者というだけでなく東大寺再建に関する情報が豊富だったからでしょう。
   「重源上人」は三回も宋に渡っておられ、僧侶としての修行だけでなく宋の高度文化を
修得されたことでしょう。ただ、建築学までを修得されたとは思えません。多分、「大仏
様」をマスターした工匠を大陸から連れて来て総監督されたことでしょう。
 「重源上人」は若き頃から86才で入寂するまで、自ら全国を回り、浄財を集め資金の準備、
さらには作業員の確保などの行いもされ東大寺の再建、諸寺の建立、社会福祉事業に尽力
されました。それら業績の偉大さに対して天平時代の「行基菩薩」の再来と敬まれたとのこ
とであります。 

  幾ら森林資源が豊かな我が国でも時代が下りますと巨木の入手は困難を極め、例えば、「東大寺大仏殿」の建設用桧材の入手先はと言えば、創建時は奈良周辺で集めることが出来
ましたが、鎌倉、江戸の再建時は山口県、宮崎県、昭和の修築にいたっては日本を離れて
台湾、その台湾も現在は桧材輸出禁止で、巨木を確保することは並大抵の苦労ではなかっ
たようでした。それゆえ、以後巨木を必要とする大型の仏堂は数えるほどしか建立されま
せんでした。
 昭和の大型建築「薬師寺金堂」は、台湾から輸入最後となる桧材で建立されました。その
金堂の「円柱」の製作には古代の手法が適用され、巨木を縦に4つ割にした四分の一を使っ
て加工されたものです。このことは、一本の木材から四本の円柱が取れたということです。

 残念なことに「大仏様」は「重源上人」が亡くなると流行することもなく潰えてしまいました。丁度、「止利仏師」が蘇我家と共に史上から消えていったように。大仏様は繊細ではな
く豪放磊落でありましたのでデリカシーのある日本人にとっては粗雑に見え、趣味に適わ
なく馴染めなかったようです。それと、中世の伽藍配置が都市伽藍ではなく山岳伽藍と変
わったため大仏様建築は自然の佇まいに溶け込めず敬遠されたのでしょう。
 この時代は、巨大木造建築は建立されなかったので「大仏様」は必要とされませんでした。また一方、禅宗様建築は柱が細くこじんまりとした建物が主流でありました。
 とはいえ、大仏様の「貫」、「大仏様木鼻」などは後々まで寺院建築に取り込まれていきま
した。私などは「大仏様」は優れた技法でそれで建立された建築は大いに評価できるものと
素人ながら考えております。
 もし、南都焼き討ちがなければ「大仏様」の建築は無かったかも知れませんが、地震大国
の我が国のことですから建物の耐震性を高めることが出来る大仏様の手法「貫」だけは請来
したでしょう。

 「大仏様」の特徴は
 @ 「野屋根」を採用しないゆえ化粧垂木勾配が屋根勾配となり、その屋根は「本瓦葺」で
  「禅宗様」のように桧皮葺は採用されなかったようです。
 A 柱上には斗栱を用いることがないので横には広がらす前へ前へと伸びて行く「挿肘木」
  で、その挿肘木は大仏様の代表的な特長です。
 B 「角地垂木」の「一軒」です。何故二軒から変わったのか不思議な気がします。 
 C 垂木の配置は隅だけの数本を放射状にする「隅扇垂木」です。
 D 天井は「化粧屋根裏」で、ここでの化粧とは素材の表面を鉋等できれいに仕上げたと言
  うことです。
 E 扉は「桟唐戸」で、桟唐戸の桟の中央が膨れて鎬が付くと言われますが総てがそうでは
  なさそうです。
 F 大仏様の繰型の「木鼻」は早い時期に和様に採用されます。
 G 「大仏様藁座」を使用。
 H 柱の形状はエンタシスではなく「粽」と呼ばれるものです。粽とは柱の上辺から三分の
  一のところから上へ少しずつ細くなっておりますが構造上残念ながら見えません。柱
  は屋根まで伸ばされております。
 I 木部は「丹塗」、壁は土壁、板壁があり土壁、板壁共に「白塗」です。
 J 窓は連子窓です。
 K 「遊離尾垂木」は大仏様の特徴です。
 L 「床」は板敷の場合縁を張り、土間床の場合縁は設けませんでした。「縁」は「切目縁」が
  多いですが大仏様は「榑縁(くれえん)」です。榑縁とは建物と平行に縁板を張ります。
    切目縁とは建物に直角に縁板を張り、縁板の木口を見せます。
 M 大仏様の「貫」ですが柱を「貫」で繋ぎ楔で締めて固定すれば、木組が強固になるだけで
  なく腐食して木材に悪影響を与える釘や金具を使わないので建築の保存・修築には理
  想的な手法と言えます。しかも、「貫」技法は柱の太さを今までより細く出来るうえ、
  柱の間隔・柱間が広げられるという一石二鳥です。特に密教本堂では内陣と外陣が設
  けられ、それらを効率よく利用するため邪魔な柱の本数を減らすことと柱間を広げた
  い要求に応えることが出来ました。長押から大仏様の「貫」への改変が和様に果たした
  貢献は甚大なものといえます。
 N 野屋根、天井がないので垂木まで見通せます。
 O 軒天井、支輪は設置されませんでした。
 
 「東大寺法華堂」は、正堂、礼堂共に天平時代創建で、正堂、礼堂共に土間である筈なの
に礼堂が板敷の床となっておりますのは、礼堂は鎌倉時代に大仏様で改築されたからです。ただ、正堂は創建当初なぜか板敷の床だったことが分かっております。

 

 


 南大門(東大寺)


     南大門前
  写真は鹿の数が少ない時に撮
 影したものです。間もなく多く
 の鹿が集まってきましたので群
 の中から退散しました。

  威風堂々とそそり建つ「南大門」は貴重な遺構です。同じ大仏様で建築された「大仏殿」が
焼失してしまっただけに。
 外観は二重門でありますが通柱ゆえ腰屋根付き一重門と言えるものでしょう。 
 腰屋根に比べ大屋根が小さいのが通常ですが、大屋根と腰屋根の大きさが変わりません。
それ故視覚上バランスの取れた姿となっていません。それに、大屋根と腰屋根との間隔が
詰まり過ぎて見栄えの悪いものとなっておりますが、像高8.4bもある「二王像」とのバラ
ンスを考えてのことでしょう。いずれにしても従来見られなかった独創性に富んだ建物と
言えます。

 修学旅行生は南大門前で鹿にせんべいを与えることに興じております。鹿もよく訓練さ
れておりせんべいを鹿の頭上高く差し上げると鹿は頭を上下に動かし頂戴のしぐさをする
ので子供達の人気は絶大です。

 

 

 南大門に訪れた際には「二王像」だけでなく「天井」
を見上げてください。天井まで見上げる方は僅かし
かいらっしゃいません。
 巨柱の林立はまるでビル工事現場での鉄骨の骨組
のようであります。円柱の総てが化粧屋根裏まで伸
びた様は壮観な眺めで圧倒されることでしょう。
野屋根、天井の無い「大仏様」でなければこれ程の高
さまで見通せることは不可能です。
      

 

 


 はっきりと見えないですが放射状にした
垂木は7本くらいで本当に軒隅だけの「扇
垂木」です。これで構造的に問題が無いの
は「大仏様」の優れたところでしょう。
 「一軒」で法隆寺金堂と同じ方式です。一
軒にしたのは軒反りを余り重要視しなかっ
たからでしょうか?
 大屋根、腰屋根共に大仏様の特徴である
「隅扇垂木」です。

  

 柱間の中備は大仏様の特徴である「遊離尾垂木(緑矢印)」です。和様なら「蟇股」ですが
「大仏様」では「板蟇股」が内部に使われており見えません。尾垂木は斗栱から出ますが「大
仏様」ではそこから離れたところから出ますので「遊離尾垂木」の呼称となったのでしょう。    

 

 


     上層部分


      下層部分

  前へ前へと6回迫り出した「挿肘木」で、これを「六手先(むてさき)」と言います。
 大屋根の「一手先」は腰屋根にでも登らなければ確認できません。通常仏堂で見られる
のは「三手先」までです。

   
 「鼻隠板(黒矢印)」で垂木(青矢印)
 の木口(鼻)を見せません。

 

 

  「皿板(青矢印)」と「斗」を一緒に造り出した
 「皿斗」です。
  繰型の付いた「大仏様木鼻(緑矢印)」です。 

 

 

  


 「藁座」があることから見ると再建
当時は大きな「桟唐戸」の扉が吊り込
まれていたことでしょう。

 

 


浄土堂(浄土寺) 

 「浄土寺」は兵庫県小野市にあります。「浄土堂」は 「大仏様の仏堂」を今に伝える典型的な
遺構だけに貴重です。大仏様の特徴である朱色と白色が映えて美しい姿です。宝形造、一重、方三間堂(一間四面堂)でありますが一間が6bもある格調高い大規模な建物です。
  屋根、軒の反りがなく直線で纏めまるで古い伝統建築そのものの独特の雰囲気を作り出
しているのには驚かされますが、重源上人の余計な手間を省く精神が出ているのでしょう。
 窓は古代様式である連子子の間隔が大きい連子窓がありました。
 このお堂に安置されている「阿弥陀三尊像」は、量感で圧倒される迫力ある像です。像は
現存する作品が少ない巨匠「快慶」が、全精力を傾注して結実した稀有の傑作と言える感銘
深い像です。ただ、本尊「阿弥陀如来像」が右手を下げ左手を上げておられるのは通常の逆
で、熟練の技が冴える傑作「薬師寺聖観音像」と同じスタイルです。それと、脇侍「勢至菩薩像」の宝冠にある象徴は「宝瓶」ではなく「観音菩薩像」と同じ阿弥陀如来の化仏でした。
 「阿弥陀如来像」の像高は5.3bもあり、これだけの高さがあれば「大仏」と名乗ることも
出来るので大仏様の建築に相応しい高さを意識して制作されたことでしょう。

       ユーモラスな顔をした「鬼瓦」          「行基葺」に見える本瓦葺

 

 

 

  僅かの「隅扇垂木」しか配置していない
のは「宝形造」だけに難しいからでしょう。
 青矢印は「鼻隠板」です。

   


     金堂裳階(法隆寺)

  「挿肘木」で三手先となり組物は横に広がらない簡単な構造です。「三手先」目が「法隆寺
金堂裳階」の挿肘木とよく似ているのには驚かされました。下図の「斗栱」とも見比べてく
ださい。

 
        金 堂(四天王寺)

    大仏様の「斗栱」です。

 金堂(四天王寺)は飛鳥様式の復古建築です。浄土堂と同じように総ての斗に「皿斗」が
付いております。

      

  皿板が付いた「皿斗」

繰型の付いた「大仏様木鼻」

     藁 座
   

      遊離尾垂木

 量感溢るる「柱」で大仏様では
上辺の三分の一が細くなる「粽」
ですが、見たところ下辺から徐
々に細くなるギリシャの「エンタ
シス」風でした。

 

   榑 縁(浄土堂・浄土寺)

   切目縁(薬師堂・浄土寺)  

 「浄土寺」の本堂は「浄土堂」ではなく、境内で向かい合って建っている「薬師堂」です。
 板敷であるゆえ「縁」が設けられております。