1969/06/08
新しい道をふみ出そうとする時
必要とするものは勇気だけではない
再びやってくる道のために
この日記を綴る
1969/12/15
 次の問題が政治的対立となって、また経済、文化的に争われるだろう。一つは最高の価値とは何かが大きな焦点となる。生活らしき生活か、なすべきことをなすことか。日本人のサイクルは、次は生活を求める方向に進んでいる。少なくとも私たちの時代はますますこの方向を向いていくだろう。したがって経済的分配をどうするかが指導的立場の中にいる者にとってはますます激しくあらそわれることになる。
 しかし文化的にも一歩進んで総文化の時代になる。つまり一人一人が何かに文化的価値を求め、プロフェッサーは孤独に耐えながらもますます認められた存在になる。管理の問題を争う人々はますます少なくなり、何に文化的価値を求めるかが大きな課題となり、性の存在も文化的様相を深くする。
1969/12/28
 選挙の結果が発表された。自民党圧勝、社会党完敗、予想以上の結果である。実に悲しい結果である。投票率70%。自民党は投票率の中でも圧勝である。一体、この結果をどう受け止めればいいのか?たしかに現在は無関係であるかもしれない。しかしこの様な状態が続いたなら、主導権が自民党の最右派に握られるかもしれない。そんなことになれば、私たちはもう一度、苦しみを味わわねばならないことになる。しかも教育権全体が、彼らの手によって歪められてしまうだろう。かっての明治維新もそうであったように一時的には民主主義が定着したかに見えたけれども、再び国家主義がリーダーシップを取り、戦争へと追いやった。同じことが繰り返されようとしている。
 多少の方便を使ってよいからいつまでもこのような時代を続けてはならない。政治的リーダーシップは歴史の中心となりがちである。彼らに渡したリーダーシップは、ストライキで取り返さねばならない。しかも現在の共産党に主導権を渡してはならないのである。あくまで個人主義を主体とした人々が政治を行なっていかねばならない。そうしないと全てが政治的意図によって統一されてしまうからだ。下駄はあくまでも私達が預かっていなければならない。
1970/01/07
 1970年。20才。いよいよ来るべき年が来た感じ。自分につけられる力のかぎりを吸収しよう。昨年は無我無中の一年だった。誰でもそうだろうが、自分の将来を決めた年でもありそれなりに忙しかっただろうし、慎重にならざるを得なかった。しかし今年は、もう少し大胆に取捨選択をできるだろう。主観的、客観的、はっきりけじめをつけり必要はない。具体的なプログラムに取り組むのはまだ先のこと。最大限自分を生かせる、生かせるようになる力をつけ、自分の仲間が、友が、どこにいるかを見つけねばならない。
 しかもほんとうに自分がどこにいるのかを見つけねばならない。しかも、いそがしく、考え方によればおもしろい時代でもある。ほとんどは水が流れる如く流れている。自分も同じように流れてはいる。しかし、水でありたくない。木の葉のように浮いて流れたくもない。水の中の分子でありながら、H2O、 H2mOのような形でありたい。流れをさまたげることなく、うきあがることもなく、油のように反発することもなく、「あわ」のように消えることのない水。しかも、その全意思を集中すれば、H2Oとなって蒸発してしまわないだけの巨大分子でありたい。いつになったらなんて考える必要はない。今は今で充分である。しかし、充分に見えるのは人に対してではなく、自分に対してでなければなるまい。
 家庭の味、友の味、離れてみて初めてわかるものとつくづく感じた。恩師の味、初めてしみじみと感じた。自分を打ち出すことなく、ただ教え子の自慢話に耳を傾ける、これでこそ先生というべき人だろう。それにしてもSは子供のように感じた。無心の、無欲の、童心に帰ったのか、それともそうありたいと努めていたのだろうか、多くは言うまい、今度会う時までには成長しているだろうから、多くは言うまい。それでいいんだ、彼女だってそう感じたに違いない。でも二人の間の垣根が取り除かれたのはうれしい。少なくとも自分が作った垣根は取り除かれた。案外、こんなものかもしれない。最高の形を望んでいるのは、僕だけじゃないんだ、少なくとも彼女もそう望んでいる。だったら、僕が待つほうがいいんだ。19歳、感傷に走らずいつまでも同じことを繰り返すことを考える。でもそのうち彼女も白色が美しく染まっていくだろう。何色に染まるか?できるなら薄い緑色に染めたい。染まってもらいたい。
 今日は仕事が身につかなかった。あまりにも大きなプロジェクトを何もない頭の中から言葉で形あるものにまとめ上げたことが残っている。どこからあのような発想が出てきたのだろうか?自分でもわからない。それだけに頼りないのが残念だ。でも具体的にまとめ上げたのは今までの例にないことだった。これから細部を考えればそのうち時間のほうが早く過ぎていくに違いない。それより早く発表できるような体制にまで自分を引き上げなばならない。
 それが今年の基調になるだろう。
1970/02/16
 しばらく日記と離れていた。僕の場合、この時のほうが調子がいい。このほうがいいのかもしれない。後期のテストも終わりかけてようやく春が近づいてきたような感じだ。
 でも、春、夏、秋、冬、年に一度しかないのに、随分多くあったような気がする。よっぽど楽しい思い出があったのだろう。
 僕に春が巡ってくるのは、本当の春が来るのは何時のことだろう。何が春の喜びだろう。若さか恋か冒険か、もし今が春なら次に来るのは梅雨、こんなつまらない日々でも春なのかもしれないと思うと憂鬱になる。今が雪解けであっ満足させてくれるもの、てほしい。
 「甘い感傷の世界」「厳しい管理社会」そして「未知へのあこがれ」少女時代でもあるまいし、でも、現実自分の考えていることといえば、それだけではないか。何が豊かな社会、豊かな人間性だ!
 自分の求めていたものが、後になってバカバカしいほどつまらないことがある。まさにそのとおりじゃないか。どんなに社会がひっくり返ろうと、どんなに立派な人間といわれるようになろうと、はたしてそれがいいことなのか。いや今は確かに憧れている。でもその憧れは、あまりにも夢のようであって、決して現実にありえないようなことではないか。それなのにまだ甘えている。自分に一番必要とする厳しさはこれなのか。
 誰が自分を叱ってくれるのか。
1970/02/17
 系統的学問とは
 自分に必要なことは、たくさんある。学術的素養も必要だろうし、独創性も必要だ。他にも社交術、説得力、演説能力なども必要だ。それにも増して必要なことは誰しも(自分も含めて)納得のいくような人間味を持つことだ。すべてはここから出発する。学問的基礎のある社会的裏付けを伴った独創的創造力で社会に貢献し、その恩恵も受ける。でも社交、演説などの技術的なことも生活にとっては重要だ。社会は好むと好まざるとにかかわらず、すべてこの特技を分業化して成りたっている。では、自分は何をやればいいのか。何から始めたらいいのか。一つとして自信の持てるものはない。どの道を進んでいくかによって大きく変わるだろう。
 今、私はこう思う。若さに必要なのは、その欲求を満足させるものでなければ意味を持たない。我々は忍従という言葉にはついていけない。何よりも道を切り開くという名目のもとに進んでいく。そのためなら「忍」という字も浮かばれる。だから、今、自分の学問的欲求を満足させてくれるもの、これこそ今やらねばならないことなのだ。自分が止まる止まらないにかかわらず、すべては時という絶対的な流れの中におかれている。その中には、最も適した時も存在する。話を進めていく過程の中で「つまずき」がないとは言えないが、今はそうではない。ただ前へ!
 具体的に話を進めよう。
 さて、世の動きはいろいろな面からとらえることができる。一人の目ですべて見えるものではない。自分は科学的、合理的にすべてを一つの尺度で測れるような眼を持ちたい。なぜならあまりにも歪んだ社会はとても一つの尺度では測れないように作られているから。
 そのために必要な基礎的学問は、数学、物理学、システム工学、集合理論などである。社会は今、ここまで進んでいるという計算法、社会心理学も大切にしなければなるまい。管理社会の技術開発部門(少なくとも今はその卵)を担うものとして必要な技術的、学問的素養はあまりにも多い。それにもまして、反管理体制をも求めたいという自己矛盾とどう調和させるか。
 あまりにも多くの問題を背負込まなければならないようなこの運命、自分でもかわいそうに感じる。そのうえ「誇り」を持たねばならないとは、何んという皮肉か。
 全てを流して、放浪の身に!なんて気になるのも無理はない。
    1.数理物理学(電磁気)        2.世界語(12か国)旅行
    3.建設工法開発            4.青年技術者会議
    5.青年の道・論文           6.生活技術
    7.大(小)(Non)Romance        8.永遠の伴侶(友)
 あまりにもばらばらの思考と寄せ集め的発想と反省の次には、向上が待っているのが当たり前。ひとつひとつマスターしているうちに月日は流れ、すべては海の泡と消えそうな、いやそううはさせてはならない。何で、何がそうさせないのか?努力、勇気、根性?そんなものじゃない。すべてを含んだ自己の意思、どんなに強くても悪いことはない、すべてはこれだ。ここにその源が、存在する。
 第一歩は、他の仲間と大きく異なっていた。どこをそろえて、どこを譲って、どこを先んじなければならないのだろうか。
 問題解決の手がかりはどこにある?
1970/03/08
 一週間前、雪が降った。それから4、5日してまた降った。去年と全く同じではないか。一年前(そう、あれから、はや一年が経ったのだ)一人で東京へ出てきた。大学受験という大きな目的をもって(この場合、僕は二重三重の心配をしながら)一人上京をしたのだった。一つは、まず本来の目的、試験に合格すること。もう一つは、はたして勤務地が東京であるかどうかということ。さらに、家族といかに摩擦を避けて事を運ぶかということ。そして、すべて予想を裏切らなかった。
 建設会社に勤めながら、研究所という最良の空間と時間を与えられ、周囲の理解のもとで勉強ができるということは一つの運にすぎない。もっともそれなりの努力もあったろうが・・・。ひとつひとつの時の流れと空間は「運命」というような形で来るであろう。しかし一つの流れとして時空を一緒にとらえて「人生」までがはたして運というような確率的現象で描かれるものだろうか。
 そうではない。社会の流れとして捉えられる歴史的な流れは、確率的、統計的なものであろう。しかし一人一人の人間としては全く別の出来事なのである。分子は、勝手気ままに動き回る。しかし全体的に見れば、流体として、圧力として扱われるのである。人間もその分子の集合体のようなものだ。我々は、その集約の最高の形=意思を持っている。その意思のもとにひとりひとりの人間が生きるのである。全体的な人の流れである歴史のようにとらえれば確かにつまらない、同じことの繰り返しかもしれない。神や仏はこれを無常と教え、人のはかなさ(現世のはかなさ)を唱え、来世に或いはその全体的繰り返しにこそ最高の価値があると教えている。しかしこれはしばしば誤って解釈され、権力者の統治手段として用いられてきたのである。
 こんな話は別にして、私はそれよりも現世を最良のものとして生かしたい。誰だって感じていることだろうけどそれを前面に押し出して生きたい。絶対にあきらめることなく・・・・・。
 4~5年後イギリス留学を試みよう。自費、公費、社費どれになるかしらないけれど、その計画と心構えをすすめていこう。人生の勝負はそれから挑みたい。人よりも先を行くのではなく別の方法で行くのだ。そこにこそ僕の求めていたものがあるのではないか。僕のこれまでの行為がそうであったようにこれからもそうありたい。

 一年という時が、私にとってこれだけの変化を与えた。これからの何年間、私がどれだけ成長するかは、この日記だけが不確実ではあるが変化の様子を時間の関数として捉えていくだろう。
             F(人生)=∫f(深さ,濃さ)dt
             F(人生)>>F'(他の人生)
                                          でありたい。
1970/03/19
 毎日がつまらない。生活、ただ生を営んでいるというだけの繰り返し。いくら割り切って考えてもどうにもならない。
 いったい何が欠けているのか。
1970/04/04
 なんと嫌な日なのだろう。人間が一つの社会規範などに規制された評価を受けてよいものだろうか?しかも自らもそうしか考えられないとは。これまで何度となく自問してきた問題ではあった。それに対して何とか合理化してこれまで来たのが、一日の話でこんなにも脆く崩れてしまうものなのか?
 これでいいのか。いったいどうすればいいのか。社会的条件は増々自分を締め付けてくる。しかしこれを跳ね返す勇気はない。すべてが誤っていたのだ。あの日の出来事が、悪夢のように思い出される。でもそれからの毎日がこれまで、ここまで自分を成長させてきたのだ。ではこれからはどうなのか。一体どうすればよいのか。これから一体どうすればよいのか。
 生きることはこんなに苦しいことなのか。何故自分だけが、いや自分だけではない。それはわかっている。でも、自分にとっては、こんなに抽象的なしかも本質的なものが、自分を苦しめるなんて嫌だ。ほんとうに嫌だ。世の中すべて曲がって見えてしまう。もう少しまともに見えないものか。こうやって苦しんできた多くの先輩は、いったいどうなったのだろう。僕だけじゃない。それはわかっている。なのにどうしてこんなにみじめな気持ちになるのだ。
 これで十分ではなかったのか。できうる限りの最良の道を選んだつもりだった。しかし、なんでにこんなにみじめなんだ。自分自身を偽って生きていいものか。所詮人間の一生なんて短いものだ。今なら出直しもきく。だが出直しではないのだ。やり直しなのだ。初めからではなく同じ道をもう一度踏みなおすのだ。しかも最悪の条件で!
 いったい誰が受け入れてくれるのか。自分自身の気持ち、精神的圧迫、両親の圧力。いったいこれを押し切ってまで進む必要があるだろうか。一体誰が助けてくれるのか。
 人はみんな自分を責める。これが耐えられないのだ。自己脅迫症だ。いろいろな対案を考える。でもこれは欺瞞だ。とんでもない欺瞞だ。いままでもそうだった。何か得体のしれないものに縛られているように感じていた。いや縛られていなかったのだ。すべては今年にかかっているような気がする。MiもKoもすべて今年に賭けている。僕も今年に賭けても遅くはない。でもこれから一年を賭けられるだろうか。今のままを保持したい気持ちもいっぱいある。両親もそれを望んでいるのだ。
 クラス仲間に会う。なんと彼らが子供っぽく見えたことか。でもこれは僕が成長したわけではない。ただいくらか皆と違った経験をしたからなので他に何もない。
 全くもう少し家に金があったら、金がなくても理解があったら、理解がなくとも自由があったらと、悔やまれる。悔やむことを今まで避けてきたのはいいことではなかった。でも年老いた両親を考えるとどうにもならない。でも今だって本気で親のことを考えているだろうか?全く考えていない。なら同じではないか。

いやになった


 
 
1970/04/05
 今日も一日中何も出来なかった。午前中、寮の連中と、がやがやして、午後から図書館へ行って、何やかんや見て、今こうやって日記を書いている。何も手が付かない。明日からの仕事は平常通り続けられるだろう。意識的に抵抗しない限り。こんな状態がしばらく続くのだ。いや、いつまでもかもしれない。明日、Miに相談してみる。今までこんなことはなかった。
 一体、自分は狂ってしまったのか。全く数学が手につかない。あれほど固くやろうとしたのに、こんなに早く脆くなってしまったなんて、自分はバカなんだろう。もう少し・・・
 Imに相談してみようと思う。Siは・・・もう止めよう。ダメなものはダメなのだ。これまで僕と同じことで悩んできた先輩は、それを通り越したのだ。絶望と挫折を繰り返す。これが人間だ。与えられた条件の中で最大限の多くの努力を繰り返せ。
 お前にはそれしかないんだ。そんな甘いものじゃないんだ。だれにもわかってもらおうとするな。すべて閉ざされたのだ。
 僕の可能性possibilityは、別のことと思え。もしそれでもだめならもっと苦しい、恥ずかしい人生を歩め。それでいいんだ。すべては過去に決まっていたのだ。楽を望むな。
 すべては運命の女神が与えてくれたものなのだ。逆らうな。やめろ。もうレールは敷かれていたのだ。人生はそんないい加減には生まれてこない。苦しみの連続が続いてこそ。
 もっと打ち込め。すべてを忘れて繰り返せ。先人の歩んだ苦しみの世界を。
 生きることはそう易しいことではない。可能性、お前の可能性はそんなことで挫けるものじゃない。もっともっと強いものだ。今までだってそうだったじゃないか。これからもそんなに変わるものじゃない。最大限生きるんだ。進むんだ。恥ずかしくないように。そのためにここまで来たのだ。もう帰れない。忘却とは、
           これがそうなのだ。
 すべては今の状態を捉えてから、始めていけ。それしか道はない。
           そう思え!そう思え!
 
 全てをありのままに書けない。誘導的だ。自分を一つの方向にしか向けられない。なんて恐ろしいことなのか。一つの事柄を二つに見ようとする。しかも一つにまとめないで、どちらかしか取らせない。こんなことがあっていいものか。理性がなんだ。感情がなんだ。赤軍がんばれ、俺は君たちの期待をかけている。こんな素晴らしい事実を演出するなんて誰にもできないんだ。
 俺だってできないんだ。やればできることを何かにいってやらないなんて、卑怯だ。この一年でそんなことしか覚えなかったのか。ただそれだけだったのか。
 それならお前は卑怯者だ。もう少しまともなことをやれ。悪いことでもそれが正しいことになる。どっちとも言えないような状態だ。これが社会の掟なら、いや自分自身の掟なのにこんなに苦しまなければならないなんて、いやだ、いやだ、いやだ。どこかへ行きたい。帰らなくてもいい所へ。
 帰ってくるなら同じ事、全体の国へ行きたい。全体変わらない国へ。
 まるで豆腐に釘をさしたり、手当てをするような今、すべてが消える所へ行きたい。
1970/04/11
 明日、今日、昨日、時は前へ前へと流れてゆく。後の残るのは思い出だけ。
 この一週間は、僕をある程度決定したにちがいない。最後の日、「橋のない川」を見たのが印象的だった。まるで自分の一面が出ているではないか。あの感動を感傷に終わらせてはならないのだ。我々の手でやらねばならないことなのだ。
 そのことを思うと自分の苦しみなんかまるで勝手なものだ。
1970/04/18
 ここに一人の男(女でもよい)がいる。彼(彼女)は素晴らしい人生を送りたい、そう考えて日々を過ごす。しかし与えられた環境は、あまりにも自分の思う社会とかけ離れていた。そこで、彼はその社会を逃れる、あるいは別の社会を作り上げようと日々を過ごす。
 だが、ふと気がついてみると、普通の、当り前の、自明のことしか通じないようなごく普通の人間になっていた。気がつかねば、彼は、ごく普通の社会的なある程度認められた人間になっていたのだ。で、それから彼はどうなったのか。あらゆる社会通念に挑戦することを考えた。一発、大事業をやろうとも考えた。死んでしまいたいとも思った。何処か遠くで生きてみたいとも考えた。でも、そうはいかなかった。いや出来たかもしれないことだったが、彼は何もしなかった。勉強はした。いろいろな思想も知った。多くの友人とも話し合った。でも、結局何もなかった。ごく当たり前の人間になっていたのだ。楽しかりき思い出と楽しかりき毎日の生活の中に生きて。
 彼は自分を行ける屍と呼んだ。そうしか呼べなかったのだ。その暗い思い出が、時々たびたび彼の脳裏をかすめた。でも時は遅かった。それが今日までと、明日からも続いていくだろう。
 そうして、短い一生を終えたとき、彼は何を思うか。ああなんとつまらない一生だったのだろう。来世はここよりもっとつまらないにちがいない。バカな一生をすごしたものだ。もう少し好き勝手に生きればよかったのに、すべては自分が悪いんだからしかたがないや。
 生きるためにしか生きられない。そんな人間にしかなれないなんて、誰がこんなバカな道が良いなんて教えたのか。もっと自分勝手にやれ。それが正しいことなのだ。
           倫理学より。
1970/04/25
 このところ一月ばかり考え方がまとまらない。いままで抑えてきたものがいっきに噴き出して、未だにおさまらない感じ。
 まず、筋道をたてて考えよう。感情に走ってしまうようなことにならないよう。どうすればどうなるかを、一つ一つ考えてその上で最良のものを選ぼう。
 まず何の計画を持っているか。その前提条件はどうか。次にそれがはたして何の役にたつのか。最終的にどうなるか。これでよかったか、これを段階を追って考えていこう。
 〇すべての現状を破棄し、全く新しい道へ進む①電子工学②社会学③教育学④物理学。この場合一切の経済的負担は自分で負わねばならない。しかも全く初めからやり直す必要がある。期間は一年間。
 1.会社を辞めてまで準備をする精神的余裕があるか、また決意があるか? no.
 2.会社へ行きながら学校をやめてするだけのするだけの決意があるか? no.
 3.はたして自分がその学問に打ち込めるだけの素質があり、また将来性はあるか? no.
 4.それがよいと思うか。思わない。しかし現状に満足できても将来も続けて満足できるだろうか。それが不安だからなお道をかえたほうがいいのではないかと思うからです。もう一つは自分の持っている能力を最大限発揮したいから、今のままではそれができなくなりそうだからそれがいやなのです。
 〇現状を維持し、近く、1~2年で海外留学をする。期間は1~4年、所イギリスまたはアメリカ。この場合、現状を維持したままもう一つの勉強、語学をしなければならない。自分には其の才能が少ない。
 1.大学での授業さえつまらなく感じる英語。そのうえ成績もよくないのにどうして英語を覚えるのか?1年では不可。
 2.近い将来といっても卒業後2年くらい英語ばかり勉強すれば可能。しかしその場合、社会的条件がそれを認めるか?不可。
 3.はたして何か得るものがあるか。語学的才能と広い見識、しかし何を学ぶのか。せいぜい言葉を覚えるくらいだから建築~理学教育の初歩くらいだろう。
 4.将来性はおおいにあるだろう。たとえどんな職についても、おおいに優遇満足できるものとなる。問題ははたして奨学金を得ることができるか。出来ない場合学費50万~はどう都合するか。退職金等では30万程度。語学をマスターする時間の余裕はどこで見つけるか。確率は小さい。1/1000にも満たない。おおいに運の要素が絡んでくる。何処かの英文科を受けるつもりで勉強しなければならないだろう。要は、techniqueのproblemdであろう。
 〇社会的問題に大きな関心をむけ、その組織活動に入る。あるいは基礎知識と師を得て、学ぶ。問題はこのような閉鎖社会でどこにそんな機関があるかということである。
 1.この場合会社業務はなおざりになるかもしれない。したがって追い出しのような形になるだろう。どこが受け入れてくれるだろう。
 2.自分にその才があるか。特に論文をまとめ上げるだけの力があるか、それがきがかりである。
 3.将来性は、絶無に近い。万に一というべきだろう。生活の保証もない。それだけの価値を認めるか? no.
 〇最後に現状維持のままの未来を予測しよう。はなはだ主観的ではあるが、先輩の歩んだ道、自分の能力、会社の将来性などからして次のような道が考えられる。学校を卒業するまでの3年間は現在のままとして、その後
 1.社命により現場に出る。多分大阪在住。
 2.本社、或いは大阪の技術課。
 3.研究所に残り、施工研究、或いはコンピューターシステムの応用研究
 いずれにせよ、毎日の現状は変わらない。変わることといえば、結婚をすることぐらいだろう。日々を無意味に過ごすこと多く、愚痴多い亭主族の仲間入りをすることはまちがいない。
 〇次になぜ自分がこんな状態になったかを分析してみると
 1.多分4年前の進路選択で周囲の反対を押し切ったことにある。勉学から遠ざかるように、遠ざかるように動いてきたことに対するコンプレックスからきている。
 2.かって自分は賭けをしたことがなかった。多少の波瀾を被ってもという気持ちを持ったことがない。常に99.9%の信頼をもとにすべてをかけてきた。どうしてこうなったかわからないのだから。99.9のしわが寄って残りの0.1%が今頃になって頭をもたげてきたからだ。
 3.現状のままでは、将来共に自分の能力を発揮できないのではという危惧と同年配者が現在”遊学”することによって自分よりすぐれたエリートのなる、また事実そうであるが、ということに対する反発
 4.若いうちはそんなにこせこせ働かずとも、おおいに遊び、学べ、それがすばらしい人生への唯一の近似だ、という一般論から来る虚無的な響き。
 5.毎日を偽って生活し、肉親に、社会におべっかを使うような連続的な生活から逃れたいという気持ち
 6.自分の最も嫌いなお金に自然と憧れている。なおも憧れようとし、しなければならない生活の醜さから逃避、はっきりいって社会にいると精神が張り詰めてそのうち何もする気のない人間になる(そういう例がある)ことに対する一種の恐怖のようなもの。
 しかし、自分の考えることにはすべてunch-という単語の付く言葉が無数にある。この文でもわかるように、反~という考え方と正~という考え方の二つから始めて、ややどちらかによった方を選ぶという誠に人間的ともいえる思考法でしかない。だから、この1か月間自殺も考えず、会社も学校も休まず、遅れず、働かず、学ばずすごしてきたのだ。もっと粋に生きられたとも思う。これでいいんだ、そんなこと考えるほうがおかしいんだ、とも思う。こんな毎日じゃ何の進展もないとも思う。いやこれこそが生きている証拠とも思う。いったいどれがいいんだろうと迷う。迷うことに美を感じる。読書が足りないのか、友が少ないのかとも痛く感じる。それにもまして勉強することが大事じゃないかと考える。なげやり、すてばちな態度が往々にして表面化し、生きることの苦しさにまた悩む。お陰で腹の調子が全く悪くなった。今、回復したところをみると、もう気持ちもおさまったのかもしれない。時は刻一刻と過ぎていく。無味乾燥な日々を送りたくない、いやどうでもいい、という二つの観念にに縛られる。思考が停止する。ああいやだ。テレビを見る。うそばかり。映画を見る。十数年間持ち続けてきたエリート意識、今がれきのように崩れ去ろうとしている。その次に来るのは?
 
 本社7階講堂。いつもの仲間が5人集まる。いや今日は一人多い。新顔が見える。彼は長身のやせ型ではあるが、その眼には奥に何かを秘めているような黒い輝きが感じられる。
 「さてみんな集まったところで、問題に入ろうじゃないか」と一人が言った。「ちょっと待って、その前に彼を紹介しておくわ。」と、新顔の青年のほうを向いて、「彼はYさん。私達と同じように、いやそれ以上かもしれないけれど、多くの問題をしょって生きているの。私の勝手な判断で連れてきたんだけど、よろしくね。」「Yです。よろしく。」とその青年は会釈した。みんな別段気にする様子もなく頭を軽く下げた。
 「この前の宿題、皆やってきた?私25枚しか書けなかったの。これ以上考えられなくなっちゃって、ごめんなさいね。」青年を紹介した女性は軽いほほえみを浮かべながら、5人を見る。彼女は顔にはまだ子供歩差こそ残っているが、話しているときは、どうやら仲間のリーダー的な口調になっている。
1970/04/26
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/04/29
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/05/11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/05/12
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/05/21
 だんだん気持ちが落ち着く。やはり時と人によって満たされるのだ。いろんな世の習いは、すべて欺瞞だったのだ。ゆく川の流れが何所に行き着くかは、誰もわからない。
 多くの友人が自分と共に、自分以上に考えていることを知る。話し合う。ここで自分の存在価値を知る。なんと素晴らしいことか。美しいものは、いつまでも美しい。正しいことは、いつまでも正しい。
 自分の気持ちを一つの言葉で表すことが、これほど難しく感じたことはない。言葉を忘れたからではなく、考え方を変えようとするから、新しい言葉が見つからないのだ。
 生きることを表現することは易しい。行為を実感として受け取れるからだ。だが、生きていることを確認するのは難しい。自分でしか確認できないからだ。それは、友の言葉を信じることでできる。
 この1年は灰色の浪人生活だ。でも2年はごめんだ。今年は自分で自分を試すことだ。一年間は慎重でありすぎた。今年からは二十歳に応じた生を享受しよう。
1970/05/24
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/06/04
 いよいよ来る時が来た感じだ。この3か月間考えに考え、結論に近づいてきた。道は二つの絞られる。ここ2週間のうちに結論を出す。それがリミットのように思う。6月26日から特週に入る。その前に決めねばならない。でないとずるずると続くからだ。
 今度の日曜にHOさんと会う。その後1週間学校を休むだろう。その間に結論が出るだろう。
 こんなことにいつまでも頭をひねっていると、体までいかれそうだ。2年前、2ヶ月でやった受験を8か月でやろうとしている。このくらいなら体は、持ちこたえるだろう。無理でも病院もある。
 ただ今度やろうとすることには根拠がない。何もないどころか、1年間を無駄にすることなのだ。愚かしいことだ。しかも可能性は低い。
 でも何かが自分を駆り立てる。だから嫌な思いが続くのだ。過去はもう終わった。これからに賭けるのだ。一度も賭けをしたことのない自分が初めて「賭け」に乗ろうとしている。のるかそるか、自分の手で賭けてみるのもいいかもしれない。実存主義の世界はこんなものではないと思うが、矛盾には正面から取り組まねばなるまい。
   1 現状の継続と将来の展望
 あと4~5年この研究所にいて、その後現場に出る。地方回りと現場生活を中心に親を引き取る。あるいはふるさと付近の現場を回る。あるいは他の建設会社に転職する。趣味で思想の研究?
   2 将来への挑戦
 他大学進学をやり直し、3年後イギリス留学?その後専門→物理学→研究生活、教員生活?→建築事務所開設→その後→?
 はっきり言ってどちらもあまり展望がない。これが二十歳の言うことか?情けない。
 ああ何もかも嫌になる!!なりつつある!!
 2年前の日記を振り返ってみる。
1970/06/05
 激しく心が揺れる。日記を書いているときもこの高ぶりを抑えきれない。こんな毎日が続くと心臓が破れそうだ。
 間違いを素直に認めるか。いや、今考えていることこそ大きな間違いではないか。
 一体どっちなんだ。どうすればいいのか。もしだめになったら自分がなくなってしまうのではないか。
 この賭けは一年間だけのものなのに、こんなに考えるのは間違いだ。でも生活のリズムは簡単に変わるだろうか。昨年はある程度・・・
 でも今度は一生が・・・
 前もそう考えていた・・・
 いったい何をやろうとして・・・
 ああ・・・
1970/06/18
 あちこち相談に歩く。今だに結論が出ず、慌てなくてもよいとも考える。
 まるで勉強に手が付かない。惰性の毎日が続く。なんということだろう。
 多くの青年がこの時期に考え、悩み、苦しみ、切り抜け、あるいは敗れ去った。社会現象とは別の、個人の問題としてそれぞれに同じことを考えたのだろう。僕の場合は、道を変えるか否かだ。結局どこかに落ち着くに違いない。でも、今こんな気持ちを持ち続けていいものか。
 単純に割り切ろう。そう試みた。でもだめだった。いつまで考えたら結論が出るのか。世の中には3浪してもあせっていない人もいる。自分は2年目であきらめている。こんなにも弱かったのか。
 ああ、悔やまれる。どうしようもないこの気持ちをどこに向けたらよいのか。心よりも身が持ちこたえられず、変になりそうだ。
1970/06/26
 阿部次郎作 三太郎の日記を読む。
 何らかの感動を期待して、だが感動は何ももたらさない。いや得ることができないと言うべきかもしれない。
 自分の仕事の対する感覚が指摘される。あるいは社会に対する働きかけが語られている。しかしそれは、過去の先輩が、今自分が歩んだ、歩もうとしている道と似ているからこそ、感動を持って読むことができたにちがいない。
 理解すること、若きにおいては最も必要とされることではあるが、自分の能力とどうつながるのか把握できていない。そのいらだたしさが影を投げかける。
 あまりにも小さく考えすぎた、自らでもって、自らを制す。この「自我自制」こそが今反省する最も大切な要素かもしれない。仕事なんか眼中に置く必要はない。おおいに利用すべき機関としての職場を理解しなければならない。
 なんと小さく考えていたことか。このいくら大きくてもかまわない思想を一面でしか捉えることができなくなったなんて、全く禺であった。この反省はいつ生かされるべきか。
1970/06/27
 挑戦の開始となる。
 すべては今日から始まろうとしている。まずは敗れるであろうこの戦いに臨んで、どう取り組むかを決めておこう。その前に、この前も同じように取り組んだ日々を振り返ってみよう。
 過去は過去であって、絶対に戻らない。確かに変化はあった。しかし自分はそのきっかけを知っている。なぜそうなったかを。ほんの小さなことなのだ。Noさんの「もう一度やり直したら。」まさか本人も本気でいったのではあるまい。しかし、それがそんな些細なことからこんなにも目まぐるしく変わる心と思考の葛藤が起こったのだ。僕の一生が、姉の一言で決まったように、今度はNoさんの一言で決まろうとしているのだ。なんと不可解なことか。意志という名の我はいったい何のためにあるのか。どこのあるのか。
 今、自分は、すっきりとした気分ではない。心に「疑」があるからだ。この心を「無」にするのに3か月を費やした。一つの意識を決定するのに3か月かかったのはなぜか。遅くとも1ヶ月程度で決まるべきものだったのだ。仕事がすべてを妨げる。思考の停止。すべての貧しきものが受けねばならない苦痛。すべて体制を享受したためである。今あえて否定と取り組もうとしている。少なくとも自分の体制を否定した。次に来るのは絶望であろう。
 すべてがそれを語っている。しかしあえてこの道を選んだ。何がそうさせたかはよくわからない。(名誉、知的)欲望か、あるいは能力(知力)か。あるいは、曲がったひねくれたこの根性か。
 ほんとうの気持ちは鉛筆では表れてこない。なぜなら鏡に映った汚点は隠すものだから。ほんとうの気持ちは常に一つである。過去を悔やみ、現在を嘆き、未来を絶望する、その繰り返しにすぎないのだ。
 「あの時ああすれば」「今これをやれば」「これからはこうしよう」この気持ちはその裏返しにすぎないのであって、本心はただ悔恨のみといえる。現状を認識せず、実在する快楽をも無視しえない自分を悔やまずにはいられない。この反省が将来役に立つという人もいる。しかし、それは嘘だ。今よりもなおすさぶだろう。でもこうなった、なるより道がなかったというべきだろう。
 今後8か月は思考を停止しなければならない。
1970/07/05
 一週間が過ぎた。全く遺恨はない。三か月の思考がこうも考え方を改めさせるとは!
 一人の人間が、心の中で葛藤があったにせよ、こんなに簡単に決まるとは思っていなかった。
 人間の意志がこんなに弱いものだったのかとがっかりする。総てがこうならなんと単純明快なことだろう。ある条件で3か月で洗脳できるなんてなんと面白いことか。
 夏がやってくる。海と空の境界がくっきりと目に浮かぶ。浜は静かで、波は繰り返し運ぶ。太陽は海を紫に変え、波を刺す。まるで「源」のようにすべてはここから始まる。波に体を任して沖に出る。空の青さが眼にしみる。浜のテントにあたる風の音が耳に聞こえる。「一人だ」海に寝る。われに返り、岸まで泳ぐ。暑い砂は背を焼き、太陽は高い。
 夏の思い出は、限りなく、時は瞬く間に過ぎていく。
 わが身をそんな海に運びたい。そして絶望する。
1970/07/06
 一人机に向かっている。窓から見えるのは、雨に打たれて生気を取り戻した街路樹の緑だ。煙草の煙を吹き付けてみる。青みがかった煙に緑が見える。雀が屋根の上を飛んでいる。電車の警笛が時折聞こえ自動車の音がすべてを無視して聞こえてくる。道を行き交う人、子供の騒ぐ声、隣の家のおばさんの声、犬が鳴く、特急の音が、聞こえる。琵琶の実がぶら下がっている。赤子の泣く声、サイレン・・・なんと騒がしいことか。
 静の町への挑戦ともいうべきか。
 厚い雲が流れていく、梅雨の終わり。
 一人机に向かう。
 時の連続、下界との断絶。
 すべてを無視して時間が流れる。
 机、鉛筆、動かない。縛られているのか、縛っているのか。
 風はーーー。
 頭がぼやける。睡魔か。止まる。止まらない。
 止めどもない流れ。それは時。だれも逆らうことも、無視することもできなかった。
 時の最後は、有か無か。
1970/07/22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/07/23
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/07/26
 ふと、叔父さんのことを思い出した。彼は40年くらい前、自分と同じ気持ちだったのではないだろうか?少しばかりの知識を持ったため、何かそこに大きなものがあるかのように、今の自分と同じように何かをやろうとしていたのだと思う。彼はそのように東京での日々を過ごしていたのだろう。
 叔父は健康上の理由からこれをあきらめねばならなかった。そして、若くして「死」に直面しなければならなかった。自分の心の中にある欲望とも哀切ともいえない「もの」、それは叔父の「もの」と同じだったのかもしれない。
 叔父の死は、自分に同じ苦しみを与える運命となっている。しかし自分は同じ道は行くまい。なぜなら自分は「彼の死」を知っているからだ。死は自分とって無への帰還であるが、他人には大きな教訓になるからだ。
1970/07/30
 読書、それは私の最も楽しいもの一つに数えられる。なぜなら読むことは新しい世界を知ることであり、その世界にいることができるからだ。それにもまして、時間を忘れてしまうからなおのこと好きなのだろう。
 今、それがない。あえて求めることもしなくなった。どうしてだろう?気持ちの上では読みたいのである。しかし、見えない制約がすべてを縛っている。
 心が二つに割れている。一つは現状維持、もう一つは現状打破、体制と反体制、開拓精神と怠惰精神、革新と保守、あらゆることが正反対で共通しているところがない。
 自分の思っていること、感じてることを書くのは難しい。他人を説得することはなおさらである。どうしたらこの不安定さから抜け出せるのか。
 年がたてば、すべてはおぼろげになる。それは不安定の要素を、年齢という杖で支えているようなものだ。思考が散乱すると、睡魔がおそってくる。楽しい夢を期待するしかない。
 すべての物語が断定の助動詞「である」「でない」で語られる。そこに自分は見いだせない。ただ、プリントとして挿入されるだけなのだ。先人が受けた苦しみをより強く受け止めねばならない。
 いったいどこにいるのだろうか?どこへいけばいいのだろうか?数々の詩歌が求めている世界は、詩の世界ではなくて、詩でしか表現できない世界なのか。彼は詩を口ずさむことで別の世界へ動いていく。そこは、悩みや苦しみは言葉となって空間を飛び回る。彼は笛になるのだ。彼の奏でる世界はどんなに小さくても無限に拡大できるのだ。
 私の世界はーーーない。どこにも見つからない。生きている限りありそうな気がする。それだけかもしれない。私がいなくても世界は変わらない。私はすざましいまでに生に執着している。こんなに苦しいのに死を求めていない。私にとって、死は最後の手段にはなりえない。まだ終わりを知らない。明日来るかもしれない終着を。
1970/08/01
 暑い。とにかく暑い。一日中(午後)安楽椅子に横たわる。とても何も手につかない。一日中寝る。暑さはどこもかしこも変わりあるまい。ただその暑さをどう生かすかで涼しさを感じるかである。そこに暑さの意味がある。ひいては日本の四季の根本につながるであろう。
 余はこの暑さを天の恵みと感じる。余に与えるこの暑さの中に「涼」という感覚を覚えるからである。この「涼」は涼しさと共に知覚までも一種の麻酔状態に導くからだ。眠りの世界との境界にあるみたいだ。炬燵にあたって寒の中に暖を求めるのも同様か。
1970/08/02
 計画の1/8が塗りつぶされた。まるで灰色の青春を描いていくように、計画表に色が入っていく。ここでは一切が無に帰していくのだ。そう何万分の一か知らないが、黒々と人生が塗られていく。もう1/4は塗られたろうか。後もより黒く地味に。いや途中で消えるかもしれない。無色透明で、何も残らないで消えた方がよいかも?
 時は流れる。過去はすでに思い出となりつつ、現在の中にたたずみ、未来は無い。
 あるか無きかの人生を一人さみしく送るとは、誰が定めた運命か。ひとえに自分の責任か。そうでなければ両親か。いやはや時はもう遅い。後ろ向きに進むことはない。ねじを巻かれた柱時計、ほどけるまで止まらずに、油をさすのもほどほどに、ただ時のみを示している。
 ああ我が人生、柱時計、どうしてこんなに苦しいのか。やがては止まり、やがては消える。なんの名誉も残さずに、いやそれ以上に悔恨を。骨の髄まで染み込んだこの悔恨は、迷って出るとも限らない。
1970/08/05
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/08/16
 旅をおえて
 暑かった夏も過ぎ、紅葉しげる秋を迎える。
 その前に、飛騨、信濃の山で秋をみた。同時に春も夏も冬も見た。山は秋を好んで迎えはしなかった。ただ苦痛のみを与えた。峠は私をさみしくさせた。峠の両側を見渡すとき、とても強い孤独を感じた。登る行為と下る行為が連続に存在することに、全く異質の風土が見えることに共感を覚えたからだ。
 高山の町は古風だ。すべてがおおらかで安らぎを与える。私の心は止まった。が、そこに不安が混在して、自らを困惑させた。
 白川の里。思った通り文明は古い文化を食い尽くしていた。そこにあるのは、ただ見世物小屋であった。
 日本海、すべての海が私を急き立てた。海は私を呼んでいる。常にかすかに。だが、私は行かねばならない。時は私を支配した。無に帰したときはついぞなかった。夜は肉体が私を支配した。昼間の疲れが睡魔を呼び思考は停止した。肉体がすべてに優先した。次に時が私を支配した。己はその次にあった。
 旅は、序列を変える。私の中に蓄積した秩序は、旅のまえに崩壊した。しかし旅の終わりは、秩序の回復を意味した。
 明日からはすべてが繰り返す。ふたたび元の生活へ。
1970/08/19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/08/22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/08/27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/09/13
 畳の張替え
 部屋の畳が新しくなった。いぐさの青臭い匂いが部屋中に満ちて、何とも言えないいい気分である。この部屋を住みかとしてから早一年。壁の張り紙が変わっただけだと嘆かわしい。
 畳の新しい匂いが満ち満ちて、何とも言えないいい気分になった。
1970/09/20
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/09/27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/10/04
 日曜日の憂鬱
 時雨が秋風に乗って町を覆う
 私は部屋で常にある心に追い立てられる
 彼は私を責める
 秋は彼を責めることはできない
 彼は私なのだ
 時雨は私を包む
 素直に包まれまいとする私は部屋を出ない
 扉は開いている
 だが私は出ることができない
 彼の存在のすべてが私を支配する
 私はいったいどこへ行ったのか
 時雨は降り続ける
1970/10/10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/10/11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/10/19
 月曜日、当直の代休でゆっくりと寝られた。昨日の当直時、MIさんの死を知らせる電話を受けた。
 あまりのも突然のことなので多少驚いた。が、それ以上に感じることがあった。組合関係の人に連絡したら、まるで芋虫を連ねたようにぞろぞろと会社に集まってきた。が、彼らにMIさんの死を悼む気持ちが感じられなかった。まるで質の良いロボットが壊れたロボットを見ているがごとくの態度に思えた。
 彼らにとってMIさんは単なる組織上の連帯にすぎなかったのかもしれない。しかしMIさんが人である以上、その尊厳がこわれたとき、故人の冥福を祈るより他にすることがあるだろうか。
 彼の死がいつ自分のものになるかもしれないのに、まるで自分とは無関係であるかの如くふるまう。彼を殺したのがなんであるかも問わず、組織は今日も働いている。私は一人心の中で思う。「MIさんの死は、彼にとってはすべての終わりとなった。しかし、私のとって彼の死は大きな教訓である。」
1970/10/25
 外は雨、部屋で音楽を聴き、静かに瞑想のふける。
 音楽は映画の主題歌に近い。私はいつか主人公になっている。なんの映画かわからない。でも、いつの間にか、荒野をさまよっている。砂漠か、森の中か、野原か、わからない。
 一人さまよい続ける。
 光があるのかないのか、それもわからない。
 霧の中にいるわけではないから、はっきりわかる。
 でも何をしているのだろう。
 外は雨。
 一人、さみしく、机に向かって一人。
1970/11/05
 日本橋から帰る途中、
 得体のしれない恐怖感に襲われた。大都会の雑踏。その中でしか感じることができない恐ろしさを。自然に対する畏怖、人間が有史以来取り組んできた問題ではない人間の信頼の程度。
 つまり、自分が人を信じられなくなっているのではないかという、あるいはそれに近づきづつあるのではないか、その畏怖が私の頭を混乱させた。
 信頼感なしのコンピューターの使用、機械との対話、こんな無意味なこと、でたらめ、無力、すべてが私を取り巻いているのに、心を見せない。私も聞かない。
 一体どこに自分はいるのだろう。
 20代をこんなに無意味にすごすバカがどこにいる。
    もっと
1970/11/13
 Kさんへ
 私は次のことが言いたかったのです。
 人は皆それぞれ精一杯生きようとしています。
1970/11/25
 頭が痛い。風邪のためばかりではない。すべてが混乱し始めた。頭の中は美的感覚喪失に対して、大きな抵抗を示している。自分の中から情緒がなくなることに大きな渦を生じている。
 混乱は社会の中にあるのではなく私自身の中にあるのだ。混沌とした中にある、厳然とした権力秩序、ああ私には耐えられない。大きなことが起こりそうで起こらない。それは社会のことであって自分のことではない。自分の秩序だけではない。思考の、思想の自由を失っている。枠の中に入っている体。何よりも強い権力秩序の拘束。だがこれは社会のことであって自分のことではない。
 常に最高の美しさを求めて社会の均衡を形作る。それが私の姿なのだ。が、今の私はどこに存在するか。頭痛は混乱の象徴だ。混乱の中に私の自由がある。こんなバカなことが・・・
 三島由紀夫の死は、私と同次元の問題ではない。私の追及する美は、もっと別の社会の構成にある。思想の構成はその道具にすぎない。ましてやそれが最後の手段ではない。
1970/12/07
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/12/09
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/12/20
 激しい遷り変わりが、心をかき乱す。いつか私自身が激流の中にいて流れに身を任しているような気がする。
 私は木の葉であっても、木片ではない。流れに任せることなく、風を使いたい。風はどこを吹いているのだろう。
 今日、Ooさんとスキーに行く約束をした。白馬、八方山のほうらしい。学校からは拒否され、会社からは疎外され、同僚と行くことになったのは、何とも皮肉なことだ。ともあれ、私にとってスキーは初めての体験である。
 何か素晴らしく、ロマンチックな感じがする。夢は夢を呼び、ささやかな恋が芽生えるところまで行きつく。私の趣味のいきつくところは、女性を求めることかもしれない。自然な感情がそれを要求する。これを育てていくことが、何はともあれ、私の思うところかもしれない。
 人の行く末は他人にはわからない。自分さえも気づかぬところにその芽が隠れている。
 社会制度の中に埋もれ、自分の感情を殺し、ただひたすらに生きている人たちが哀れに思える。だから、純粋に生きている人を見るたびに大きな感動がある。
 わが身を振り返って、愚かさを感じる。社会や対人関係に大きな関心を持ちながら、常に妥協しかせず、後になって大きな禍根を残してきた。
 過去2、3年は悔恨の連続であった。たぶんこの経験は、一生涯、私を縛るだろう。行き着くところ、帰り着くところ、すべてここから出発することになる。
 青年期が大切なことは、充分に知っていた。しかし何が大切なのか、どう大切にすればよいか誰も言わない。それを自覚するのは自分以外無いのだから。私は漠然と誰かが決めるもの、つまり社会が決めることと同次元に眺めていた。
1970/12/27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/01/10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/01/23
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1970/01/29
 精神が肉体に破れる時
 健康診断書を受け取りに行く。日本橋保健所は、三越の横の通りを200mばかり行った所にある。保健所ではカードの提出を求められた。だが私の受診書は漏れていた。・・・ 229 231 ・・・ちょうど私の番号だけがない。
 事務の手違いではなかった。異常であった。胸部異常がはっきりと赤インクで書かれていた。
 不安はあった。しかし、明らかな結果を見せつけられて愕然とした。一瞬のうちに過去が脳裏にひらめき、未来に対して悪魔が笑っていた。私は思わず「やはり」とつぶやいた。
 その後は、はっきり覚えていない。医師の指示に従い、直接撮影をし、IBMの仕事場まで帰った。食事のあといつもの睡魔が来ない。落ち着きを失い、悲しみの涙にむせ返り、電話をせずにはおれなかった。
 この時の心理を書き留めるのは、あまりにも酷である。これまで自分を冷ややかに見つめ、その記録を記してきた。しかしこの時ばかりは不可能であった。
 直接撮影の結果が「良」であることを祈るばかりだ。
 その2
 寮母さんが病院から帰ってきた。部屋に来て自分の結果を報告し、私の状況を尋ねた。
 親と離れて生活することが、こんなに影響するとは思いもしなかった。問題は別の次元に移った。その世界は抽象化され、生死さえはっきりとしない。
     第一のレベル  抽象の世界
     第二のレベル  創作の世界
     第三のレベル  快楽の世界
 我々の頭脳は皆同じであるから、程度の差こそあれ、同じようなものだ。
 より人間でありたいと願うのは、三つのレベルをどれだけ満足させるかにかかっている。
 私は、第二のレベルからほりだされようとしている。私の肉体は近く滅ぶ。自殺という選択をしなかったが、今はそれに等しい。
 死を恐れはしないが、ただ残念である。生命のはかなさを知っているのは、ただ御仏だけかもしれない。
 しかし私は御仏にはすがらない。冷酷な自己の傍観者として眺めていたい。
1971/01/30
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/02/01
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/02/14
 もうすぐ予定日が近づいている。
 すべての努力がここに結晶できるかにかかっている。
 しかしそれにもまして、私の胸の中は生に対する執着でいっぱいなのだ。青春を生きることがどれほど大切なことか誰が知ろう。
 学問に一生を捧げ、あるいは天職に一生を捧げることがあったにせよ、それは彼の青春をぬきにしては考えられない。彼は若いとき、何をなすべきか悩み、迷い、そしてその職を得て、初めて生を全うしたといえる。
1971/02/15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/02/24
 私達にとって科学とは何か?
 ○○にとって~~とはという問いがなされたとき、ーーではないだろうかという形で答えられる。意味が漠然としてるからと言ってあいまいな答えは許されない。
 私の経験は少なく、現在も保留されている。それには別の状況を設定した方が良いと考えるからである。
 問題は私一人に課せられているわけではない。科学者、技術者、公務員等、あるいはもっと広く、国民の、人類の、宇宙の枠で討議しなければならない問題である。したがって、人類の歴史と共に歩んでいる。
 私にとって科学とは、他の科学者、技術者と同じように、自らの興味の追求とその満足のためと答える。が、私達にとって科学とは、社会生活との関係でややこしくなる。
 個人の好みと政治力が均衡し、調整と説得に時間がかかる。ある時は政治的に、経済的に、宗教的にさえ考えられる。その時私はただの市民か?責任を負えるものではない。
 私はもっと強くなりたい。少なくとも精神的に自負を持てるほどに。気の長い話だが、そこに至るには満ち足りた教養と行動があってこその話である。
1971/03/01
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/03/06
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/03/07
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/03/13
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/03/16
 「留置場で判決を待つ囚人」のような日
    今日
    明日
    明後日
 おそらくは黒とでる判決を聞かねばならない
 無実の罪で
    高裁はますます遠く感じられ、上告の意思を失い、刑に服す
   ああこの無実を誰が知る
   なぐさめるものあれど
   彼はただ慰めるのみ
   私は地獄の苦しみを味わわねばならぬ
   塗炭の苦しみを知らねばならぬ
   わが心慰める者あれど
   我が理性は感傷の波にのまれ
   理解する者なし
   今や我に残るのは魂の亡骸のみ
   我が知性は海中に沈み
   刑に服し
   心骨を削り
   その生命を弱く灯し
   蝋燭はついに尽き果てん
1971/03/18
 電話がない。
 
      絶望
1971/03/21
 予想通り
 
 明日は再び絶望の旅路に出発する。もう何も言うまい、語るまい。自分の春はとっくに終わっていたのだ。
 忍従、沈黙に向かってまっしぐらに進むよりあなたの道はない。
 生命の灯は、まさに消えんとす。
 職場の一挙一動に注意を向け、我が身を振り返ろうとしなかった天罰とでも言えようか。
 我は何を考えるか。絶望は救えるか。我が生は何をなさんとするか。死か。
 いよいよ生死を明らかにしなければならなくなった。死は選ぶまい、選ばない、そう誓うほどにその甘味な響きが心を惑わす。
 冷徹な人間が、何も知らずに死んでゆく。これほど哀れな末路はあるまい。
 歴史は彼を抹殺する。
1971/03/26
 おそらく望みなし。
 しかし、この結果は予想に近い。
 これで二度賭けに破れた。
 今一度、それを取るか。
     あるいは他に道はあるか。
 おそらく、絶対ない。
 では今一度それを取るか。
 おそらく取らない。
 三度目の賭けに破れた時、
 私のすべては消えるから。
1971/03/30
 新入社員が来た。
 新しい力が加わる。
 新しさの中に自分を見つける。
 すばらしい。
 彼らは・・・・幸福だ。
1971/04/01
 4月1日それはすべとの人々にとって新しい息吹を感じさせる。
 私は二十歳を迎えた今、一つの決心のもとに生きようとしている。一族の運命を無視した孤独への旅路である。人生は短く、芸術は長し。事をなすには短く、なさぬには長い。故人は文学的表現でこれを克服しようとした。我は一つの思考から自分を賭けることを決意した。
 男子一生事をなさずして死ねるか、という心境である。そのためにあまりにも多くの課題を乗り越えねばならない。
 今、楚辞を読んでいる。「離騒」はあまりにも不幸な一生を送った屈原の気持ちを述べたものである。
 彼のどこが我と違うのか。誰に我が命を預けるか迷い、あげくの果てに、主君に見捨てられる。才に恵まれた屈原に離騒を書かせたのは偉大である。しかし読む我々が感じる以上に、作者の心中は苦しく、苦々しく、悲しくつらかったに違いない。
 天に遊び、地を馳せ巡る彼、この世界は空想の世界、彼が遊ぶために作った世界であるのに、結局遊ぶことができず、苦しんでいる。彼の節操を信じてくれる人に巡り合わなかったことが、いっそう彼をどん底へと突き落とす。
 彼はそんな世界から抜け出すことができなかった純粋潔白な人生を目指したのではない。社会から見捨てられたからこそ、純潔を保つことを決意したのではないか。
 振り返ってわが身を思うに、純潔を保つことなく、ただ水にのまれていく身の哀れなことよ。誰が我を思うであろう。いてもいなくてもよいような存在、それが、社会に貢献できようか。それでもなお、社会との絆を断ち切ることができない自分を振り返って、そのあとに何も残っていないことに愕然として不平を覚える。
 不平が自分をどう成長させよう。悪を知らず、正しい方向にしか目標の立たない才を嘆き、嘲る男のどこに生存価値があろう。生きる望みがないのではなくて、必要性を認めない。そんな魂の宿る男にとっては、それしか生きる道がないのである。
 私は屈原を嘲笑する。それは自分を笑っていることに他ならない。そんな気持ちでしか読めないのである。私を囲む人がいない代わりに、本が私を囲む。そんな単純な動機しかないのだ。
1971/04/02
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/04/08
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/04/10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/04/21
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/04/22
 「現代修正主義者」(私小説プロローグ)
 瀬川稔が東京の土を踏んだのは、4月1日だった。1970年安保条約改定を前にして、東京は何か浮足立っている、と感じたのも無理はない。
 彼は東京駅から案内図の通り、山手線に乗り換えて渋谷に向かった。胸の中は、興奮と不安でいっぱいであったが、努めて平静な態度をとった。
 彼の行き先は、徒歩5分の所にある丸急ビルの7階にある。2度目の来京だから戸惑うことはなかった。それよりもどんな仕事をするのかその心配の方が大きかった。
 事務所の受付にその旨を告げ、応接室に案内される。「しばらくお待ちください。」職業的笑顔で案内する受付嬢を、こそばゆく感じた。
 窓の外を見たとき、ビルと車の群れ、止まることのない人の流れを見て「ああこれが東京なんだ。」その時初めて、街と自分を対置して考えることができた。
    以降は梗概
 人事課長との対面、先輩との対面
 自由が丘の寮
 毎日の仕事
 メーデーへの参加
 活動家との付き合い、歓迎コンパ、反戦活動への参加、(彼女と知り合う)、安保デモ
 仕事への情熱
 帰省、元の彼女との付き合い
 海岸でのデート(将来の夢を語る)
 再び東京、仕事、毎日の倦怠、彼女との交際
 仕事に対する疑問、大学生への反感、文学への傾倒
 彼女との登山、会社体制への疑問、退職
 文学への決意、人生の思索、古典への道、武蔵野の風景
 健康の乱れ、受験の失敗、自殺の失敗
 彼女との再交際、今後の見通し
    エピローグ
 瀬川はこうも思う。
 所詮、一度体制からはみ出した人間をまともに受け入れるところは無いだろう。せいぜい設計のバイトでもしながら、どうするか考えよう。考えたところで結論はでない。俺が悪いんじゃない。社会が悪いんだ。いくら頑張っても大学には入れない。会社勤めもできない。彼女もいることだしそのうち芽の出ることもあるだろう。生きてさえいれば何とかなるだろう。
 同時に、まだ青年としての一抹の反省がないわけではない。立身出世して生きる気は毛頭ないが、せめて人として恥ずかしくない人生を選んでもよいのではないか。たとえ生活はどうあれ、気持ちだけは、はつらつと生きたらどうか。
    解説
 「現代修正主義者」は、現代に生きる若者の心を十分にとらえている。第一の関門は、大学受験であり、第二の関門は、就職一年目の倦怠である。これを避けては青年の行動と意識を知ることはできない。
 物質的な豊かさは、管理社会によってはじめて可能になるが、これは同時に青年にとって耐えがたい苦痛になる。また日本の現代の遺物「受験制度」は今なお健在である。
 この二つを乗り越えることができなかった若者は、その年齢にしてあまりにも矮小な世界観を持ち、ニヒリストとして生きていく。
1971/04/23
 学校退学の手続きも終わった。HOさんとの連絡も付きそうだ。仕事の目途もつきだした。MUさんとも話した。
 一か月、何か自分が成長しているような気がしてならない。増々冷静に、増々忠実に、増々虚無的に、現実を眺め、行動していく。まるで自分の望む方向とは関係なく、次々と理論が展開し、一部は行動する。全く一個の有機体としか言いようのない私の精神は、次々と発展していく。
 カラカラと回るテープの音、一人机に向かうと頭が重くなる。反省が発展のもとではなく、新企画こそが原動力なのだ。
 止まることのない人生の歯車は、運命と絡み合いながら、精一杯回らねばならない。大は小を縫合し、小は回るだけで精一杯なのだ。
1971/04/25
 昨日、方丈記を買った。
 楚辞に続いて2冊目であるが、心が休まる。運命に翻弄される先人の記は、人生のひと時に休息を与える。
 半ば定まった運命に逆らおうとして生きた弱き人々に、自分の姿を見つけ、不安な日々から逃れる唯一の手段として、本を読む姿を思う時、感ぜざるを得ない。
 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 人として生きる限り、人としての苦しみを知らねばならない。体制の一部として生きる限りそのつらさに耐えなばならぬ。
 青春を生きるとは、一時代を生きることだ。人としての苦しみを知らない限り、生を全うしたことにならない。
 私は人として生きるよう心掛ける。しかし、諸人は私を笑いあざける。この苦しみを誰が知ろう。すでに、肉親は、我が精神のうちにあり、我が苦しみを知るものは無し。
1971/04/29
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/05/03
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/05/11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/05/13
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/05/21
成城の街並み
 午後、Oh君と二人で街を歩いた。
 成城は仙川と野川にはさまれた台地に位置している。台地からの西南の眺めは壮観である。多摩川の下流に広がる平野は、ゆるやかに広がり、薄霧がしっとりと東京湾の方までかかり、所々に松の木とめぼしい建物を浮かび上がらせている。
 晴れた日には伊豆の山並みと富士をくっきりと描く。私は富士の裾野に沈む太陽をみたことがないが、見ることができたなら、それは自然の美しさを象徴したものになるだろう。
 西の大地を下り、野川に沿って歩きながら街の方を見上げると、いかにもしっとりとした住宅地であることがわかる。曲がりくねった松林の中に、傾斜を利用した和洋様々の住宅が、青空の下に優雅な生活を営んでいてそこに住む人たちの豊かさを語っている。
 少しばかり野川の土手を上がって、再び台地の中に入る。入間町との境に近いこの辺りは今なお古の生活を残し、農夫が鍬を入れている。2年前の故郷と変わることのない生活が東京にも同じ形で残っていた。
 雑木林を通り、苺畑をぬけ、街並みに入ると東京である。道路はすべて舗装され、家々を囲む大谷石の塀が公私をはっきりと分けている。庭の植え込みはよく手入れされ、濃い常緑樹の植木から真紅のバラが見える。
 行き交う人々の安堵の趣はしっとりとした街並みに調和している。開け放された窓からは雑談と笑い声がもれ、その幸福感を示している。時にはベートーヴェンやシューベルトの旋律が聞こえ、また師匠の長唄が間をつないでいる。
 一時間足らずの散歩は二人の心さえ豊かにした。それは豊富な緑を持った街に住む人々だけに与えられた特権だろうか。
1971/05/22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/05/25
 寮生活
 給料6万6千円、中には10万以上も取る者がいる。いくら景気のいい時勢とはいえ、こんなにもらうと他に稼ごうとする意欲もそがれる。
 所詮サラリーマンとはわかっていても、勤めに出れば人並みに働き、もらう分が多少多くても、微笑と愚痴を示すのが常のことだ。サラリーマン脱出を試みる努力なんか所詮むなしいものなのか。
 寮生活は増々豊かになっていく。新入りを迎えて同年配が主流になると、話も弾むし、豊かな話題は創造と行動の源となり、ひよわに育っていく。
 生活にかける努力はいらないし、安定と成長の中ですくすくと生きていける。
 ぬるま湯、そんな気がする。が、熱湯風呂も水風呂も我々は疲れない。そう思うと増々面白く、楽しく、豊かな生活になっていく。
 行く末は、出ていく先は、唯一つ、結婚。はかない生活に落ち着いていく。
 それが人間として生きる最高の道かもしれない。いつの間にか過ぎていく年月の流れの中で、抵抗を示す場は削がれていくのである。
 それにしても寮の毎日は楽しい。夕食後の団欒は最高のひと時である。
1971/06/08

 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/06/19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/06/24
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/07/30
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/08/05
 台風一過
 
 さわやかな風にのせて、FMステレオが聞こえてくる。いっこうに勉強に手が付かない。
1971/08/06
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/08/29
 夏も過ぎ、しばらく涼しい日が続く。
 今日は久しぶりに残暑がきつい。この夏は思い出らしきものはなかった。神津島の味も心を満たさなかった。
 毎日机に向かっていると、気が狂いそうなほど体を動かしたい。大空のもとで精いっぱい体をのばしたい。いつも変わらぬ不満を心の中に鬱積させるのはいいものではない。
 何度読んでも単語が頭から消えていく。数学は面白いが、化学がよくない。この分だとまだ不安がある。自信が欲しい。確信が欲しい。表には出すことのできない数々の気持ちをどこに吐き出せばいいのだろう。
 同じ思考を繰り返していると、いやになる。自然に帰るほどの気持ちもない。なんの屈託もなく、愉快に充実した生活をしている者が羨ましい。
 悩みをかかえて生きる何万もの青年たちよ、共に語り共に歩んだ時はもう過ぎてしまったのか。
 来週、京都でMAさんと会う。これも一時の慰みにしか過ぎない。今せねばならないことは何だろうか。
 繰り返す自問は、結論を出さず、時を浪費していく。自由の境地を切り開く力を持ちながら行使しない。太平の世をむさぼり生きる姿は修羅場以外の何であろう。
 男として、女心を求め、心身を共にし、確固とした地位を築く中に幸福があるなら、いつでもすべてを捨てていくのに。なまじっかの知性が可能性をささやき、将来を約束する。この悪魔め。
 
 心ここにあらざれば
      思いは空を駆け巡る人ひとり
 世の中の甘さ苦さを知り尽くし
      尚もて求む巷の味
 一世一時の青春を俗事のために投げ捨てて
      かみしめる秋の風
 父母思う心の隅の憎しみを
      わが身に刻む梨の味かな
1971/09/06
 京都から帰る
 大いなる期待のうちに踏み込んだ京の町は、まだ暑さを残しながらも、新鮮な感覚をさそう。
 何時の頃からか、脳の中に沸き起こる美を求める気持ちは、桂離宮へと集約していった。桂の美は日本の心を象徴しているといっても過言ではないと思う。その洗練された姿は外国のどこへ行っても見られないものであろう。
 しばしの時を感慨の中にすごしていると、煩わしい俗事をはなれて、高ぶる心の躍動もいつしか沈潜して、また新しい力への弾みとなる。
 美しさをそのまま受け入れることのできない私にとって、芸術は一つの手段なのかもしれない。でもそれはそれで良いと思う。
 自分の求めるものが、なんであるかは美しい新しい感情とともにますます鮮やかに浮き上がってくる。MAさんと友人として話していると、孤高たる自分の姿にふと気が付くことがある。他の誰もが感じることのできないこの感覚に、優越感を覚え、一人微笑む。
 理解の和を深めることが、美に接するたびに無駄なことのように思える。
 絶対的な美の基準がないことが、自らの体系を確立するうえで、充分有効に働いていることを知る。それは自分を磨くことに他ならないことと思う。
 三日間の休暇は、かってない素晴らしいものであった。美は、思い出の美しさは、時と共に純化され、洗練され、一つの玉に結晶していく。
 庭園の美と自らの思想体系とが織りなす西陣は、またとない世界を形づくる。
1971/10/17
 好きなもの
   議論、抽象画、異次元
 好きな人
   美人の女性、声の美しい少年、外交官
 好きな食べ物
   女性の手作り料理
 好きな所
   京都、和歌山、寂れたる所
 好きな芸
   アコーディオン、ハープ、版画、テニス
 好きな言葉
   フランス語、故事成句
 好きな時間
   風呂上り、月見る頃
 嫌いなもの
   ビジネスマン、人々なる人、野球、プロレス、ボーリング、ステレオ、自動車、雨の雫、小豆色
アナウンサー、人事異動
 ひかれるもの
   組織づくり、人づくり、国づくり、街づくり、建築、都市計画、システム、オンライン
 やる気のしないもの
   仕事、人付き合い、勉強、英語
 無関心でいられるもの
   他人の生活、生け花
 歴史と思うもの
   大化の改新、承久の変、本能寺の変、鳥羽伏見の戦い
 むづかしいもの
   お天気、女心、数学、丸暗記、エネルギー変換、山登り、演説、人を泣かす行為、偽善、大和魂
1971/11/08
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1971/12/19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/01/04
 1週間以上も会社を休むとせいせいする。
 スキーもだいぶうまくなったし、去年の〆としてはまずまずである。さて明日から2か月間、緊張と不眠不休、ぎりぎりの精神と肉体条件の下で生活する。
 何故か抜けきらない正月気分を断ち切り、思いっきり自分をいじめるサディスト的な手段で戦う。
 1週間と持つまい。旬間で何かやろう。4回くらい遊ぼう。寝るのは1時、余計なことはせず、歯車のごとく回ろう。起きるのは7時、潔く起き上がろう。そして思い切り背伸びをしよう。水を飲んで腹を清めよう。規則正しく生活しよう。テレビは止めよう。お風呂は1番に入ろう。8時から12時まで4時間の勉強を確保しよう。1月中にすべての準備を整えておこう。土曜日を活用しよう。平日の倍は頑張ろう。日曜日も倍頑張ろう。1週間を9日にしよう。うち2日遊ぶから、月月火水木金金体制でいこう。4×7=28単位で勝負しよう。内訳E10+M10+H5+S10+J5=40。不足の12は通勤と昼休み。
 寮も会社も友人とも、無駄口をたたくのは止めよう。2か月なしでも暮らせる。総合的に関連させて確実に記憶させよう。単語は常に頭に浮かべよう。関連の中心は英語で、英語をマスターしよう。
 仕事はてきぱきと、常に余裕を持とう。向上、交際、対話、雑務はすみやかに。予定よりも反省を重視。まとめるのは3月以降と決めておこう。4月1か月ですべてのけりはつけられる。知識はその時吐き出せばよい。
1972/01/22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/01/30
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/02/19
 もうだいたいの準備は整う。
 昨年のような焦りはない。やるべきことは一応すべて終えた。あとはどれだけ力を出せるかにかかっている。これからは健康が勝負だ。胃腸の様子がはっきりしない。風邪をひかなかったのは幸いだ。あれは1週間何もできなくなるから始末が悪い。
 振り返ってみよう。
 正確には1年9か月を費やした勝負もあと1週間に迫ろうとしている。2年前のあの何とも言えない重苦しさと絶望、まるで世界の苦労を背に負ったような気分からの再出発。
 単調でない労働と単調な生活。リズムを持って生きる人間にとってこれほど結構な環境はない。が、私にはあまりにも不似合いだった。冒険とスリルに満ちたせめて3か月を区切りとした生活が適していたのである。6か月はその限度だった。それを過ぎれば後は慣性の法則にしたがった。高校の時もそうだったし、今もそうなのだ。
 1年前の失敗は当然の結末だった。それにはあまりにも知識が乏しかった。私は過去を反省し、一つの決意を固めた。全くフリーになって取り組んでもよいことだった。友人はそれを勧めた。
 が、私はそれはあまりにも退屈な意味のない1年になるような気がした。学問に捧げる気のない私にとって、企業で働くことはそれなりに充分意味のある事であった。少なくともこの1年間は過去2年分に匹敵するだけのことを学んだかもしれない。
 創造力だけは著しく伸びた。あれやこれやと、自分について、社会について、政治について、変わった考え方を持つようになった。あまつさえ、愛の認識についても同様である。1年間、女性と交わらなかった。不思議とそんな欲求は顔を思い浮かべるたびに消えていった。そこは、赤裸々な肉体と合理的な精神だけが存在し、神はおろか、自然さえもしばしば無視するような超未来的空想であった。
 したがって、思っている時だけが幸せであった。しばらくして疲れだけが残る。決して満足なものではなかった。が、繰り返し、繰り返しだんだんと進展していった。
 10年以上も先延ばししているのではない。我を取り戻すために、海へ山へ古都へと足をのばした。そこには、自分にはない落ち着きと例の単調さがあった。それは人間にとって最も大切なものだと思う。疲れを癒し、新しい精力の源となるものが存在した。
 しばしの感慨にふけっているとき、すべてを芸術に集中しているとき、それは最高の気分である。
 私はいろんな関わり合いを経験し、知った。学問と産業、労働と人間関係、政治と経済、芸術、教育・・・すべてが何か一本の糸でつながっているように思えてきた。それは人間存在の証拠であり、政治活動に昇華するものである。すくなくともこの目はそう見たのである。
 より小さな事柄にもそれはみられた。受験勉強が実際の仕事に役立ち、仕事から学ぶことも同じくらいあった。少なくとも両刀を使い分けていると思いたいが、使われているのかもしれない。
 いずれにせよ、今後も使い分けるつもりだが、この関係には驚かされる。なぜなら所詮同じ人間が作り上げる虚構なのだから。
 私はいま21歳である。普通は大学専門課程か、就職しておれば社会的責任を分担し始めるときである。それは現代のメカニズムの宿命である。
 が、過去においても、現在においても多くの例がある。それは不可能への挑戦であり、虚無からの脱出である。彼らは命さえかけて戦う。その美しさはたぐいまれなものである。私はそれを美的干渉の域を出ないところで眺めることができる。
 海外へ・・・。青春にこの夢を省いたものはいない。一度或いは生涯、知を求めるのに、この夢は常套手段であろう。
 
 昨日、工場で暇なときに京都を思い出して詠んだ歌
 
  たづさえて岸辺歩みし桂川
     流れる紅葉何思いしか
1972/02/27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/02/29
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/03/06
 実にさわやかな日
   6年間の肩の荷をおろした。
   すべてが白紙に戻った。
   なんとさわやかなのだろう。
   空がいつもより青い、実に青い。
 
 くる春をわが身一つにおきければ
      春夏秋冬ただ夢のごとし
 夕されば港神戸に灯をともし
      思いフランス駆け巡る
 城跡に一人たたずみ何思う
      昔し歩みし青春かな
 潮ひきて浜辺に遊ぶ和子ありき
      かの子袖引き我立ち止まりぬ
 山鳩はただ山鳩の子なりき
      たとえ鳳凰そこに立てども
 東京は田舎町にて偶然に
      出会う人よりなお人少なし
 血は水よりも濃しといえどもその涙
      水の泡よりなおはかなし
 白銀は空の青にも木立にも
      われにも似合う冷たさ美し
 よもぎつみ小かごに入れる赤ずきん
      まだ来ぬ春を今か今かと
 山里はわが故郷に桜咲く
      境内にしてさらに静ちる
 山行けば梢に止まる露落ちて
      ただ人知れず涙さそわる
 われ思うさらに思わむ大和国
      誰知らずとも一人たたえん
 朝日さす杉の音づれこだまして
      谷間の庵訪ず人なし
 露晴れて朝日差し込む我がいほり
      小滝のほかに訪ず人なし
 人知れず吉野の里にくる春は
      たとえ思へど誰がために来る
1972/03/08
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/03/30
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/03/10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1972/03/20
 日記でも書くか。
 
 昨日、電話があった。「合格」その一言で充分であった。1年半の努力が実ったといえばそれまでだが、やはりそれ以上に嬉しい。
 もうすっかり忘れてしまった。頭の中も空っぽだ。これから入れるためにもっときれいにしておこう。3年間の悪夢は去った。いや、6年間のである。その代わり別の重荷を背負った。3年間のハンディ。とるに足らないことだ。
 これからも着実に生きようと思う。そのうち何かが私を動かすだろう。動かなければそれまでだ。何が待っているのだろう。わからない。だからおもしろい。
 すべてが頭から抜けていく。毎日が退屈だ。た ば こ ・・・
1972/04/09
 とうとう別れの時がきた。
 
 今ほど気持ちが明るく、そしてゆったりと迎えたことがあるだろうか。未来への不安がないとは言えないが、しょせん自分の本質は現在なのである。現在こそが自分を作るのである。現在一切の不安、すべての過去が消えた。
 回想としての3年間が残る。夏までに3部作をまとめたいと思う。そのころまでには、気持ちが清算されているだろう。
 新しい生活を迎える時の気持ちは複雑というより単純である。未知は純心以外の何物でもない。もう一度ここに確認の必要があるかもしれない。
 追い詰められ、行く末を見失った時こそ、自らの力を誇示することができる。内面を追及することができる。自分を見ることができる。なんと弱いはかない存在であることか。隠すことが、振り返ることを忘れることが正常で、当り前で、常識であることのむなしさよ。
 私はまだ正面を向いたことがない。自分を映すのは、鏡、友人、知人、他人である。すべてを避けている。正面を見ると鏡が破壊する。その崩れ行く自分の姿を誰が見ることができよう。死に直面するほんの数秒しか覗かないものなのだ。それほど崇高で、雄々しく、気高く神のごとく寛大なものなのだ。
 ああすべてを支配する時よ。我に力を与えよ。すべてを平らげる力を与えたまえ。
 死、敗北、挫折、文学の生まれるところ常に憂愁が漂う。
 日記こそが鏡。もう、しばらくの間眺めることがないかもしれない。苦しみの告白がすべて塗り込められるとき、それは明日への活力として役立つ。それ以外の何物でもないこの日記。常ながら暗い面しか書かなかったことを許したまえ。私の生活はこれがすべてではない。ほんの一部にすぎないのである。にもかかわらず、私の本質の最も近いところにいる存在としてのこの日記を失うわけにはいかない。
 あれ以来、あっという間に日がたち始めた。会社にいる時間も短いし、寝るまでもまた非常に短い。無駄にすごしているとも思う。有効だとも思う。思っている間に時がたつ。
 
 
 
 
おわりに
 ここに至るまで3年の日々がながれている。そしてその大部分は、心の屈折の歴史であった。この日記は青年期の自分の記録ではあるが、記録以上の意味を持ったことがしばしばあった。
 私はこの小さな一冊のノートによって、これを鏡として絶えず自分を映してきた。ある時はこれがこれだけが心の支えであり、糧であった。
 
 闘病生活のためすべての日々の記録が転記されていないことをお詫びします。
                   2019.10.17