高校時代の思い出
 1年の時、生徒会の監査委員になった。予算が適正に執行されているか帳簿を調べるのが仕事だ。各クラブは成果を強調して、来年の部費を獲得するのが部長やマネジャーの仕事だ。そこで不思議なことに気が付いた。
 予算と決算がある。その当時、予算通りに執行できず、残金が出ることがあれば、生徒会に返却、予算以上に使ってしまえば、オーバー分は各部の自己負担だった。常識では、残金は、前年度残金として、次の年度の収入(生徒会費)に加えて予算を作るものである。が、ここでは違っていた。別会計としてクラブ援助に使っていたのである。しかも一部の役員と顧問との一存でなされていた。いわゆる裏帳簿であったのだ。
 自分には許せないことだった。しかし、ここからが、大変だった。結果を公表して、責任を追及するのが、正しかったのかもしれない。その当時、大学の学園紛争が高校にも影響し始め、もし公表すれば、混乱を引き起こすのは目に見えていた。
 選んだ道は、自分が役員として、別会計を廃止し、すべて公明な予算と執行をすることであった。生徒総会は、混乱なく予算を議決した。
アルバイト
 ロッカー製造工場でアルバイトをした。右に3回左に2回右に1回式のダイヤル錠なら、数字が分からなくても開けられるようになった。20年程後、学校事務室のロッカーが、番号不明で壊して開けようとする場に居合わせた。「何とかなりますよ。」と言いながら約10分程ガチャガチャすると、開いて中の書類を取り出すことができた。
 ロッカーが開いたとき、居合わせた事務室の方々から拍手が沸いた。そこまでは良かった。が、その直後、同じ方々の目の色が白くなったのを感じた。ひょっとしたら自分の前職は「泥棒?」とでも見えたのだろうか。以後この技術は決して人前では披露しないことだと心に決めた。
 
サイクリング
 高2の夏、二泊三日のサイクリングをした。一泊は友人宅、もう一泊はお寺の無料宿泊施設だった。この無計画性を反省し、高3の夏は、当時流行っていたユースホステルを主に利用し、15泊で、紀伊半島一周の旅に出た。
 途中、知り合いの友人を訪ねたり、親戚にも泊まったりしたが、多く初対面の人との出会いに感謝することが多かった。途中小学校の運動場で休憩をしていたら、先生がお茶をだしてくれた。台風で日程が遅れたとき、自転車ごと電車に乗せてくれた車掌さんがいた。一人だけの宿泊客のなった時、自宅よばれた。那智の滝では、女子大生のグループと親しくなった。
 後半は、京都、奈良の寺社詣でをして、建築史を確認した。当時建てられた、京都国際会館に感動したことを覚えている。帰り着いてから、自分がひと回り大きくなったような気がしたことを覚えている。
神田神保町
 東京に来て、最初に仕事をしたのは、神田神保町であった。そこでIW本社ビル工事の現場監督としてコンクリートの型枠を作る仕事についた。といっても、わからないことだらけで、大工の親方に仕事を教えてもらう毎日であった。ある時、設計図に曲線の壁があり、34度で作ることとなった。大工さんは「これでは出来ない。何センチか寸法を書いてもらわないと作れない」と言われた。そこで三角関数、サイン、コサインを使って、寸法を示して「これでお願いします」といったら、「どのようにしてこんな計算ができるんや」「いや三角関数をつかって・・・三角関数とは・・・」と説明をしてわかってもらった。そのときから、ようやく「監督」と認めてもらえ、仕事もはかどるようになった。ビル工事の基準点を決めていくために、一人が水準器を覗き、もう一人が印を付けていく。ビルが真っ直ぐに立ち上がっていく基準を作っているのだと思うと責任の重さを実感した。
 当時は、大学紛争の最中で、付近の歩道の敷石が投石に使われていた。それを防ぐために歩道をアスファルトにする仕事もした。都会にはいろんな仕事があるものだと妙に感心し、「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまたわらじを作る人」を思い出した。その後自分自身が新宿でのデモ行進に参加したが、投石する気にはなれなかった。
コンクリート初期強度試験機
 建設会社において自分がした仕事の中でやったといえることは、スライディングフォーム工法(最近ではスリップフォーム工法)において、工期と安全性に大きく貢献するコンクリート初期強度試験機を作ったことだ。 
 50年過ぎた今、どのくらい進歩したか調べてみた。すると、どこにも同様の機械がない!その工法自体がなくなってしまったのかというとそうでもない。同業他社の中では工事をしているからなくなったわけではない。しかも、50年前に私が直面した安全性と工期短縮の課題は今も続いていた。
 自分の作った試験機に根本的な欠陥があったか、どこかでその情報が消えてしまったからだろうと思う。
受験勉強
 働きながら、受験勉強に至る経緯は、第2部に記したとおりだが、具体的には次の通りである。
 工業高校なので、専門科目と普通科目の授業は、半々である。古典→文法のみ、数Ⅱ、Ⅲ→応用数学、英語→読解のみ、物理→力学まで、化学→無機まで、日本史→鎌倉時代までが基礎知識だった。
 国語は、日本文学史の本を買い、徒然草現代語訳や方丈記解説等を読んだ。数学は、月刊誌「大学への数学」を解いた。苦手の英語は、英語短編集(日本語訳、解説、単語付)で頑張ったが、力がつかなかった。物理・化学は、チャート式参考書と「月間物理化学」で学んだ。日本史は、伝記を読み漁った。
 以上を、毎日12時頃までと、土曜午後・日曜午後・通勤途上・昼休憩にやった。週一回の散歩と3か月おき位の旅行やスキー等で、気分転換を図った。周囲に同じ目標を持つ者がいないのが、寂しかった。
Esperanto
 大学時代のサークル活動は、エスペラント研究会だった。英語が苦手だった自分でも、ひょっとしたらマスター出来るかもしれないと思ったからだ。合宿や他の研究会との交流等、色々な活動をしてきた。
 ある時、劇をすることのなり、「夕鶴」のよひょうを演じた。あほな役なのでセリフはそんなに難しくなかったが、幼稚園以来の舞台劇だったので、興奮したのを覚えている。
 実用的には、実際どんな場面でエスペラントを使ったか。
 〇ある時、ポーランドから土木工学を勉強している学生が寮にやってきた。エスペラントができるというから自分が接待することとなった。当時のポーランドは共産国で、当時の住んでいた寮の執行部は、社会主義に憧れている学生が多く、議論が沸騰した。彼は社会主義を良く言わなかった。しかしエスペラント語で意見が伝わったことには感動した。その後「プラハの春」がやってきたときわかったような気がした。
 〇ハンガリーの女性と文通をした。これは型どおりかもしれないが、日本や日本文化の紹介、自分のしていることの紹介などに終わった。
 〇イギリス研修旅行中にサークル活動に参加した。大学卒業間近の頃、就職中に蓄えていた学資が残っていたので、生協主催のイギリス南部のブライトンでの1か月研修に参加した。現地では、語学研修はそこそこにして、ストーンヘンジ、夜のロンドン等の観光地めぐりと共に、地元のサークルを探し出し、エスペラントでの交流を図った。ある家庭のランチに誘われ訪問した際、「日本人は、柔道も得意だが、魚の料理も得意と聞いている。」と魚のさばき方を披露させられたのには参った。
 後にも先にもこれだけで、その後の生涯で使うことはなかった。国際交流といえば、高校にいたALTと仲良しになり、二人で理科の授業を英語で挑戦したり、そのころ職場に導入された喫煙室で英語でぼやき合うことだった。
プルトニウムについて
 その当時、自分は機械メーカーで、プルトニウム(元素記号Pt)の輸送容器の設計をしていた。
 Ptは、ウラニウム(元素記号U)を原子炉で燃やした時にできるものだが、さらに核分裂を起こすので燃料として有用である。もちろん放射線を出すし、核爆弾の原料にもなるので、厳重な管理のもとで、保管が必要である。このくらいは予備知識として知っていた。
 少し勉強をすると、それ自体とても毒性が強い、単独では気体中に飛散しやすい、等の性質もわかってきたうえで、それを入れる容器の運搬や輸送方法を考えることだった。
 その前は、輸送容器のショックアブソーバーの設計し、解析した。また放射性廃棄物を入れる容器の設計をしていた。この時は見本になる容器があり、大きな容器にすることが課題であった。蓋の汚染個所をいかに減らすかを考えることだった。
 今度は、考えれば考えるほど、難しかった。同時に怖くなってきた。自分自身が、被曝するかもしれない不安と、自分の設計が他の人たちを被曝させるのではないかという不安である。
 そして、完成させることなく退職した。その後、Ptはどんどん増え続けたはずだが、どのようにして保管輸送しているのだろうか。今も考え続けている技術者、要員の皆様に頭が下がる思いである。
体罰
 理科の高校教師になって間もない頃、力学台車をスケート代わりにして遊んでいる生徒を見つけたとき、「危ない!怪我をしたらどうするんや!」頭に拳骨を食らわせた。「もうしません。」
 教師として最初で最後の体罰をしてしまった。「あの拳骨は生徒のためになったのだろうか?もし打ちどころがあるかったら、自分が怪我をさせていたのではないか!」様々な思いが駆け巡った。
 以後も、厳しく言うことは変わらなかった。その場は無理でも、後に怒られてよかったと思えるような態度で接するよう心掛けた。
パラリンピックについて
 当時、修学旅行といえば、スキー合宿であった。いつもならば、実習中は、生徒をスキー指導員に任せて、我々教員は、自分のレベルに合わせて、約2時間を思いっきり楽しんでいた。夜中の見回りや、こまごまとした生活指導や、健康管理から解放される時間であった。 
 今回は、自分のクラスに障碍者がいた。多少スキーができた私は、障碍者であっても同じようにスキーを楽しんでもらいたい。そのためには、自分が何とかしなければと思い指導をかって出た。スキー学校の指導員と教員とのミーティングのとき、彼のことが話題となり、指導員の方から「そうゆう事情であれば計画の段階から言ってくれれば、我々の手で十分対応できたのですが・・・。」と言われた。「自分が抱えこんでやるんだ。」そんな発想しかできなかった教員としての自分が恥ずかしかった。もっと早く計画の段階からプログラムに組み込んでおけば、当該生徒も自分ももっとスキーを楽しめたのに・・・。パラリンピックがこの延長線上にあることに初めて気が付いたときだった。
 その経験は、親が認知症になったとき、自分一人で支えるのではなく、社会とともに支えるものと言ったケアマネさんの言葉を受け入れるのに役立った。
授業の一コマ
     〇作用と反作用
 ニュートンの運動三法則の中に、作用反作用の法則がある。物体AがBに力を加えるとき、BはAに大きさが同じで逆向きの力を加えている。これだけだとわかったような感じがするが、力の釣り合い、という概念がある。物体に大きさが同じで逆向きの力を加えると、力は釣り合い、慣性の法則に従って、静止または等速直線運動をする。図で表すと、どちらも逆向きの矢印→、←が描かれている。
 二つの違いを説明するのが、授業である。そこで、いきなり一人の生徒の前に来て、ほっぺたに平手打ちをくらわすポーズをする。「もしこの手が本当に頬に当たっていたら頬は痛いだろう。しかしたたいた手のひらも頬と同じ痛さを感じているのだ。だから愛の鞭はたたく側も痛いのだ。」本当は、手のひらの皮は頬よりも厚いので愛の鞭の痛さは嘘である。しかし、手のひらAとほおBの間に交わされた力は、逆向きで同じ大きさになっていることがわかる。
 今度は、一人の生徒を前に立たせ、彼に加わっている重力と床の抗力の釣り合いの説明や、彼を押したり、引いたりした時の摩擦力との釣り合いを説明すりと、少しは違いが分かってくる。
 物理の概念は解ってしまえば簡単なのだが、そこに至るまでが難しい。そのための工夫をいろいろしてきたが・・・。しかし、テストをして「ああ今回も難しかったか!」
     〇桑実胚
 教科書には生物発生の初期として、受精卵→2細胞期→4細胞期→・・・→桑実胚期→・・・と発生の進む様子が図示されている。
 しかし、見たこともない桑の実の形をしているといわれても実感がわかない。そこで「夕焼小焼の赤とんぼの歌を知っているか?」「知ってる」「では二番は?」「?」そこでいきなり「山の畑の桑の実を小籠につんだは幻か」と歌を披露する。拍手があれば「十五で姐は嫁にゆきお里のの便りも絶え果てはてた」も続け、三木露風の業績を讃える。
 江戸、明治、大正期にこの辺りもたくさんの桑の木が植えられ、その葉を食べて、蚕が育ち、生糸が作られ、絹織物産業が日本の近代化を支えてきた歴史を語り、桑の実がつい最近まで身近なものであったことを紹介する。ここまで展開してから、話を発生のことに戻して次に進んだ。
 生物の授業といえば、完全に忘れてしまった理科教員免許のための数時間の講義しか知らない私にとって、全くの手探りだった。物理の勉強をしている頃、何故か哲学に惹かれていたが、生物の勉強をしていると何故か宗教書に惹かれていった。おかげで聖書はもとより、コーランから教行信証までかじることができた。
気球
 一度目は、文化祭で直径5m程の熱気球を揚げた。ゴミ袋を繋ぎ併せて、ストーブの熱気で温めたものだった。生徒に胴上げをされたのもこの時が最初で最後だった。
 二度目は、文化祭で直径2m程のヘリウム気球だった。ビデオカメラを取り付けていたので、上空からの映像も撮ることができた。
 三度目は、ごみ袋の下にアルコール付脱脂綿を取り付けた小気球だった。教室の中で簡単にできるため、楽しい実験の一つだった。
 理屈では揚がるとわかっているのだが、途中に何が起こるかわからない。でもゆったりと上がっている姿を、生徒と共に眺めるのは楽しい。
エレキテルの実験
 物理実験室には、静電気発生装置やファンデグラーフ発電機が置かれている。空中放電や真空放電をとおして、電流や電子の性質を理解しやすくするためだ。
 空気のよく乾いた日、絨毯の上を歩いた後にドアノブを触ると「バチッ」くることがある。いわゆる摩擦電気だ。この電気と、乾電池から出てくる電流が同じ電子からできているのを実感するのは難しい。
 昔、平賀源内がやったというエレキテルの実験を思い出し、試みた。静電気発生装置を、私が右手で触ると、ドアノブと同じでバチっとくる。生徒の右手が私の左手を触るとバチっとくる。別の生徒が同じようにするとバチっとくる。これを繰り返していくと手をつないでいくことで電気が伝わっていく様子が体感できるのだ。
 強制でないから、元気のいい生徒が一番にやってくる。怖がる子は試みないので、半数くらいの生徒が体感したところで終了していた。が、ある時、実験を止めた。「もし、心臓に欠陥のあるものがいたらどうなるのか」この指摘に答えられなかったからだ。そのこと自体を徹底的に調べ上げ、安全性を確認すればよかったのだが、時間の余裕がなかったのだろう。
 理科実験は楽しいし、面白い。しかし、安全性に気を付けないと、事故につながっている。
部活
 生徒や保護者から見ると、高校生活は「勉強」と「部活」を中心に語ることが多い。教師から見るともう少しいろいろあるのだが、部活に対しては顧問として関わることになる。関わり方は実に様々だ。全国優勝を目指す顧問もいれば、「こんもん」という事務処理だけをする顧問もいる。
 中高時代のソフトテニスの経験から、「生徒の自主性を育てるのが部活」という対応をしてきたつもりだ。部活の成果はわかりやすい。一生懸命すれば技術は向上するし、友人と協力すれば、良い結果が出たり、さぼれば負けるし、努力をした仲間には称賛が待っている。「だから自分は、○○しょう。」という気になる。そこで育てられた自主性は、将来も生きている。
 年配になってから、たまに生徒と打ち合うと体力はついていけないが、技術の方も随分と落ちている。高校時代にテニスから生徒会に乗り換えたことで未消化の腕前で終わったからだと推測している。
 顧問としてやったことといえば、部活全体の目標を決めさせることと部員一人一人の目標を決めさせることだ。県大会に出場した者もいれば、帰宅部になった者もいる。そうなるまでにミーティングを持ったり、相談に乗ったりするのが私流のやり方だったように思う。
 それにしても、暗くなるまでの残業や休日出勤は多く、雨天や定期考査一週間前からの定時退勤を、密かな楽しみにしていた。改善を期待したい。
職員会議
 職員会議の中で最も緊張するのが、単位、進級認定、生徒指導である。なぜなら自分が生徒の一生にかかわる部分の決定に関与するからだ。
 該当生徒との関りが最も濃い担任、学年、クラブ顧問、進路指導などより関係が深ければ深いほど、その苦悩が大きいからだ。
 対応は二通り。自主退学を進める。指導を継続する。勿論そこに至るまでの、事の経緯や事実関係、家庭環境、友人関係などこれまでかかわってきた教師の意見、他の人が知らなかった事実を突き合せたうえで退学か指導継続かを決定するのだ。
 異論もなくすんなりと決まる場合もあれば、議論が白熱して、思わず怒声が飛び交ったりする。まだ若いし充分反省している、もう少し面倒を見てやるのが学校の役割ではないか。もう指導の限界である、これ以上の指導は他の生徒の対して迷惑になる。
 教師のなりたての頃、両論とも筋が通っており、どちらともいえない判断保留の時期が続いた。ある時期から指導継続、自分の退職が見えてきたころからは退学の意見を主張することが多くなってきたように思う。
進路指導と生徒指導
 高校の校務分掌で多くかかわったのは、学年と進路指導だった。進路指導は、卒業後を見据えて、情報を提供し、いま何をなすべきかを教えている。
 残念なことだが、生徒の中には途中で進路変更をする者がいる。その多くは、高校での勉学への意欲を失ってしまった場合と、生徒指導ができないほどの問題行動を起こした場合が多い。そのような生徒とかかわるのは、主に担任であり、生徒指導係なので、進路指導係は無関係と思っていた。
 進路指導係は、企業の就職担当者と話すことが多い。「なんぼ勉強ができても、あきまへんな。やっぱり、やる気と、体力ですな。学歴なんかよりもよっぽど大事ですよ。」などという方もいる。そんな会社にはできるだけ元気な子を紹介するのが、進路指導だ。
 進路変更で最も難しいのは、納得のいく変更先である。高卒の資格を前提にした就職情報であれば、手元にいっぱいあるが、高校中退可の就職情報はほとんどない。しかしたまにマッチングする場合もあり、進路変更を希望する生徒のためになった時は、就職試験に合格するのと同様にうれしかった。
 進路変更を巡って、本人、保護者、担任の関係はとても難しい局面を迎えることがある。そんなとき、高卒資格を云々することなく適切な就職先を示すことができれば、意外と信頼関係を回復させることができるものだ。定年間際になってようやくそんな単純なことに気が付いた。
 生徒のためになることなら、校務分掌にこだわることなく、協力して当たることも大切なことだと思う。
見学対応
 研究所での主な仕事は、放射光施設の見学対応だった。初めは無線振動計の開発補助もしたが、成り行き上、見学とその割り当て調整、準備が中心になっていった。
 高校生、大学生、企業研修、海外研修生、歴史研究会、民生委員から老人会まで実に様々な団体がやってくる。対象に合せて対応をお願いする。私は高校生が中心で時間があればどんな団体でも対応した。
 ちょっと熱心そうな生徒の対しては、相対性理論を交えて説明すると目を輝かせ、退屈そうな修学旅行生には、芸能界志望の見学者の話で笑わせる等、楽しい1時間半を過ごしてもらった。
 個人的な楽しみは、見学者の中にかっての同僚や、教え子がいて、思わず旧交を温めることができることだった。見学は、一期一会なので、授業とはまた一味違った趣がある。
 
 
 
 
癌と向き合う
 69歳のある時、小腸癌(腹膜播種)であることがわかった。珍しい病気だそうで、腹痛・嘔吐をきっかけにした診察から、X線・CT・MNR・カプセル内視鏡・バルーン内視鏡・PET/CTの検査を受け、途中盲腸炎で救急搬送されるなどのハプニングあり、セカンドオピニオンも依頼しての結果だった。
 治療は、狭窄している小腸に見合う食事と栄養点滴に始まり、抗ガン剤治療を繰り返すようだ。外科手術は転移箇所が多く難しいようだ。いずれ小腸が閉塞してしまい、点滴だけの栄養補給になり小腸の動きが止まるころには、緩和ケア治療も必要になってくるといわれている。その頃にはもうこの回り道に書き込む元気はないだろう。
 
終わりに
 予定では70歳になったらパートの仕事をやめ、身辺整理をしながら、「回り道」を編集するつもりだった。だが急遽入院治療が始まり、合間を見ての回り道になってしまったため、中身の薄いものになってしまいそうだ。3か月前からスマホに挑戦しているが、パソコン画面と少し異なる表示になってしまい、見にくいのだが調整する時間がないので、そのままになってしまいそうだ。
 最後は、回り道をする間もなく、まっすぐに向かうしかないだろう。

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