三池親員(みいけ ちかかず) ????〜????
 筑後の多良木衆と呼ばれる国人で肥後・相良氏の臣。相良氏の衰勢に従い、豊後・大友氏に従う。

右田隆量(みぎた たかかず) ????〜????
○重政
◇養子:
天野(毛利)元政
 周防・大内氏臣にて右田ヶ岳城主。安芸・毛利氏の侵攻を受け戦うが、やがてこれに降る。後に、毛利氏から養子が入って右田氏は毛利氏に組み込まれた。
三雲成持(みくも しげもち) 1540〜1603
○新左衛門尉 豊左衛門尉
◇父:三雲定持 兄:三雲賢持 子:三雲成長
 南近江・六角氏家臣。兄の戦死で家督相続。「六角式目」には父と共に連署している。家中において重きをなし、多くの文書も発給している。衰退する主家に最期まで忠義を尽くした。主家滅亡後浪人するが、1584年織田信雄、後に
蒲生氏郷に仕えた。
御子神吉明(みこがみ よしあき) ????〜1628  
○次郎右衛門 忠明 典膳 小野氏
◇父:御子神土佐。弟:御子神忠也 子:小野次郎右衛門忠常、日忠、牛助、弥助
 大和・十市氏の裔か。安房・里見氏臣。幼少より刀槍術を磨く。1589年里見氏と万喜城主・土岐氏の間に戦が起こった時は、土岐氏に従い、里見氏の大将
正木時茂に一騎討ちを仕掛けるが、乱戦の為、雌雄を決しなかったという。いつ頃か、上総を訪れた剣豪伊藤一刀斎景久に試合を申込んで惨敗してその門人となり、兄弟子小野善鬼と3人で諸国を渡り歩いたという。やがて、善鬼と真剣勝負の末勝利して、景久の後継者として“瓶割刀”を授かり一刀流を継ぐ。この時徳川氏に仕え、2代将軍秀忠の剣術指南役を務めて上総に知行を得た。1600年関ヶ原の戦いにおいて、秀忠は信濃・真田氏が守る上田城を攻めに従軍し、“上田七本槍”に数えられるが、無断で秀忠の側を離れ、軍紀違反で真田信之預けとなっている。1615年大坂夏の陣においても、旗本と問題を起こして謹慎となる。小野派一刀流祖。
三沢為清(みさわ ためきよ) 1536〜1588
○三郎衛門 左京亮 下野守
◇父:三沢備前守為幸 室:
尼子晴久女 子:三沢摂津守為虎
 出雲の要衝三沢城を治める国人。木曽義仲一族の裔。出雲・尼子氏に従い各地を転戦する。1562年安芸・毛利氏の侵攻を受けた際、これに降った。同じ寝返った尼子氏の旧臣本城常光が謀殺された時も、尼子氏に帰参することなく、毛利氏に仕え続けた。
御宿政友(みしゅく まさとも) 1566?〜1615
○勘兵衛 越前守
◇父:葛山(御宿)監物友綱
 駿河・今川氏、ついで甲斐・武田氏に仕える。駿河・千福城主。武田氏滅亡後は結城秀康に仕える。秀康の子忠直の時、豊臣方として大坂城に入り、夏の陣で討死。

溝江長逸(みぞえ ながやす) ????〜1574
○大炊助 景家 土佐守
◇父:溝江景逸 子:溝江大炊介長氏(長澄)
 越前・朝倉氏臣として年寄衆の重職にあった勇将。朝倉氏庶流か。金津城主。主家滅亡時、
織田信長に降り、朝倉土佐守の所領を得る。しかし、翌年一向一揆に攻められ討死した。
三田村国定(みたむら くにさだ) ????〜1573
○秀俊? 左衛門尉
◇父:三田村定元 室:
今井定清女?
 近江・浅井氏庶流にて三田村城主。1570年織田信長から横山城を死守し、横山城救援に来た浅井勢との間に姉川の合戦が起こる。同合戦中、浅井家の勇将遠藤直経が、単身信長の本陣に斬り込みに行った際、同僚三田村左衛門尉の首を持参していたというが、或いは父か。合戦後、横山城を逐われる。小谷城落城時、羽柴秀吉に通じて投降するが、戦後、裏切り者として信長に殺された。
三淵藤英(みつぶち ふじひで) ????〜1574
○弾正左衛門 顕家 藤之 宗光 大和守
◇父:三淵晴員 子:三淵弥四郎秋豪、伯耆守光行、昭貞、昭知、昭長
 足利幕臣。仕えた将軍
義輝が殺害されたため、僧籍にいたその弟義昭を脱出させ、義昭を将軍に擁立する為尽力した。尾張・織田信長の援けで上洛がなると、奉行衆に任ぜられる。1569年三好三人衆が信長の不在を突き京に来攻した際には、他将と協力してこれを撃退。義昭が信長と不仲になっても義昭に従い、二条城の防備に籠もるが、やがて降伏開城した。1974年近江・坂本で自決。
三刀屋久祐(みとや ひさすけ) ????〜1591
○新四郎 久扶 弾正忠
◇父:三刀屋対馬守頼扶 子:三刀屋孝扶
 出雲・三刀屋城を治める国人で出雲・尼子氏と周防・大内氏両勢力間を転々とする。1562年安芸・毛利氏の出雲侵攻を受けた際には、毛利氏に内通し、出雲・月山富田城攻めには毛利方についている。以後毛利氏に従うが、1588年当主
輝元に従って上洛した際、徳川家康に取り入ろうとした為、罷免された。
宮部継潤(みやべ けいじゅん) 1528?〜1599
○土肥氏 孫八 善祥房
◇父:土肥刑部少輔真舜 養父:宮部善浄房清潤 養子:宮部長房(長熙)
 初め比叡山に入り僧となるが、仏事より軍事を好み、生地の北近江・浅井氏家臣となった。しかし、尾張・織田氏の来攻を受けた際、その諜略を受け、小谷城の人質の妻子を奪って織田氏に降り、家臣羽柴氏に仕える。因幡鳥取城攻めに参加、九州の陣では羽柴秀吉より感状を受けている。その後隠居、子の長熙に家督を譲るが、長熙は関ヶ原の戦いにて、西軍に付いて敗れ所領没収となった為、陸奥南部に流され、盛岡にて54歳で没した。

三好一秀(みよし かずひで) ????〜1532
○民部大輔
◇父:
三好長秀
 阿波・三好氏一族。父長秀は、一秀幼少時に、伊勢において戦死。1532年細川晴元に扇動された一向一揆に攻められ、叔父?三好元長と共に堺・顕本寺にて自害。
三好長治(みよし ながはる) 1553〜1577
○千鶴丸 彦次郎 阿波守
◇父:
三好義賢
 阿波・三好一族。父を失い、重臣篠原長房の後見で家督を継いだ。足利義栄を奉じて上洛したが、1568年織田信長足利義昭を奉じて入洛すると、これに抗し、1570年摂津・野田福島において信長と戦う。しかし、信長の勢力に抗しきれず、1575年信長に降る。讒言に惑わされて長房を討ったことから信望を失い、阿波の国人の離反を招いた。土佐・長宗我部元親に攻められ没落し、元親に味方した義兄細川真之に討たれた。
三好長秀(みよし ながひで) ????〜1509?
○下総守 修理大夫
◇父:三好筑前守之長 子:
三好一秀康長 養子:三好元長?
 阿波・三好氏一族。父之長に従い、阿波から細川澄元を奉じて京に上り幕政を補弼する。しかし、細川高国の活動や、足利義稙、大内義興の大軍の上京の動きに、近江に逐われ、1509年、父と共に京都奪還を試みるが失敗した。この後阿波に戻った父を別れ、弟頼澄と共に伊勢・山田に走るが、そこで伊勢守護・北畠材親に攻められ敗れ、自害したという。
三好長逸(みよし ながゆき) ????〜????
○孫四郎 長縁 北斎 日向守
◇父:三好長則?
芥川長光?
 阿波・三好氏一族。山城・飯岡城主。当主三好長慶に従い畿内を中心に活躍。長慶死後は、その猶子義継の後見人となり、三好一族の最長老として三好三人衆の筆頭となった。松永久秀らと謀議して将軍足利義輝を暗殺するが、すぐに久秀と決裂。足利義栄を擁して、諸戦を戦うが、義継が離反し久秀と同盟すると、これと奈良で戦った。織田信長の入洛に際し、近江・六角氏と同盟するも、阿波に逃亡する。その後、再び入京し、本圀寺の足利義昭を襲撃するが失敗。さらに石山本願寺と同盟して信長に対抗し続けるが、1573年信長の侵攻に敗れ、行方不明となった。
三好長慶(みよし ながよし) 1523〜1564 
○千熊丸 孫次郎 利長 範長 筑前守 修理大夫
◇父:
三好元長 子:三好義興 養子:三好義継
 阿波・三好氏当主にて細川氏被官。父を細川晴元らの策謀で失うと、わずか10歳で家督を継ぐ。その後晴元の被官となるが、やがてこれと対立した。以後晴元との争いを繰り返し、晴元方の木沢長政、三好政康らを次々と滅ぼし、幾内や四国、中国の一部を一族らにより支配するまでに勢力を築いた。1561年には、晴元を摂津・普門寺に幽閉することに成功する。しかし、嫡男義興、弟義賢、一存らを次々と失ったことから落胆し、晩年は家臣松永久秀に実権を握られ、急速に衰退する。1564年久秀の讒言により、最後に残った弟冬康をも謀殺してしまい、失意のうちに河内・飯盛城で病死した。
三好政勝(みよし まさかつ) 1536〜1631
○為三 一任斎 右衛門太夫
◇父:三好政長 子:三好可政、長富
 摂津・榎並城主。父を三好長慶に討たれ、一時期これと対立するが、後に和解した。
織田信長に降った後は羽柴氏、徳川氏と仕官先をかえ、関ケ原合戦にも参陣。真田十勇士の1人、三好伊三入道のモデルといわれ、事実大坂の陣にも高齢ながら参陣している(が、何故か家康方)。96歳の長寿!。
三好政康(みよし まさやす) 1528〜1615
○政生 釣閑斎 清海入道 右衛門大輔 下野守
◇父:三好政長?孫三郎頼澄?
 山城・木津城主。三好本家を補佐した
三好三人衆の1人。当主三好長慶の死後は、継子三好義継を傀儡として、その後見者となった。松永久秀と結び13代将軍・足利義輝を殺害するが、後に義継と結んだ久秀と対立する。織田信長入洛の際、阻止を試みるが失敗。さらに信長不在の隙を突いて15代将軍・足利義昭を襲撃するが、浅井長政ら諸将が駆けつけたため敗れた。後に豊臣秀吉、秀頼に仕えるが、大坂夏の陣にて、天王寺・岡山の合戦で討死。
三好元長(みよし もとなが) 1501〜1532
○彦四郎 長基 海雲 弾正少弼 筑前守 
◇父:三好筑前守之長? 養父:
三好長秀? 子:三好長慶、勝長、義賢安宅冬康十河一存野口冬長
 阿波・三好氏一族。三好之長末子にて長兄長秀の養子というが確証はない。1526年管領細川晴元を擁して阿波から挙兵し、細川高国・足利義晴を近江に逐うと、足利義維を擁して、堺に“四條御所”と呼ばれる幕府を設立させた。さらに、摂津、山城守護代として京都を支配するが、1529年柳本賢治らと争い阿波に戻る。しかし、高国の反撃に遭った晴元に助けを求められ、堺に入り、摂津で高国を敗死させた。これにより堺に幕府を復帰させたが、今度は晴元と争うようになり、一族三好政長や一向一揆を味方につけた晴元に攻められ、堺にて敗れて自害。
三好康俊(みよし やすとし) ????〜1577
○徳太郎 式部大輔
◇父:
三好康長 子:三好小太郎俊永
 父康長が畿内に逃れた後、阿波・勝瑞城主として土佐・長曽我部氏に対抗するが、その攻勢に耐え切れずに服属。その後織田信長の先陣として、康長が阿波に侵入すると、阿波・岩倉城にて呼応し、長曽我部氏に反旗を翻す。しかし、信長の死により四国征伐が中止されたため、長曽我部氏の猛攻の前に孤軍奮闘空しく、別宮浦にて討死。
三好康長(みよし やすなが) ????〜???? 
○孫七郎 笑厳 山城守
◇父:三好長秀 子:
三好康俊 養子:三好信吉(羽柴秀次)
 阿波・三好氏一族。三好三人衆と連携し、畿内の松永久秀らと争う。しかし、織田信長が入洛後、しばらくこれに抵抗するが、やがて降り、その部将として阿波攻略等を任された。信長死後は羽柴秀吉に仕えた。
三好義興(みよし よしおき) 1542〜1563
○孫次郎 義長 筑前守
◇父:
三好長慶 子:三好左京大夫義資、長賢?
 阿波・三好氏一族。足利将軍家の相伴衆となり、父長慶から摂津を任され、芥川城主となる。若いながら諸戦に活躍し、将来を嘱望されたが、22歳の若さで病死。その死は長慶を大いに落胆させた。一説に重臣松永久秀が毒殺したともいわれる。
三好義賢(みよし よしかた) 1527?〜1562 
○千満丸 之康 之虎 元康 物外軒実休 豊前守
◇父:
三好元長 室:細川持隆妻(岡本美濃守女) 子:三好長治十河存保
 阿波・三好氏一族。兄長慶をよく補佐し、1547年には摂津・舎利寺にて河内守護代・遊佐長教に大勝する活躍を見せる。長慶が畿内に進出した後の阿波を守り,また弟一存が和泉・岸和田城主となってからは讃岐も支配した。1553年には、足利義冬を将軍に擁立しようとした主筋細川持隆を暗殺、その子真之を擁立して実権を掌握する。後、長慶に応じて四国の兵を率いて、畿内に入り、河内・高屋城主畠山高政を敗走させると、同城を本拠として河内の支配を任された。しかし、和泉・久米田で高政、根来寺衆徒らとの戦いの中、鉄砲の流れ弾にあたり戦死した(記録上日本初の鉄砲による死亡武将か)。尚、三好氏の分国法「新加制式」は、重臣篠原長房が義賢の治政を基に制定したものであり、内治に優れた手腕を見せた一方、武野紹鶴・千利休ら一流の茶人に学び、茶を通して堺と親密な関係を築いた。
三好義継(みよし よしつぐ) 1551〜1573
○熊王丸 重存 義重 左京大夫
◇父:
十河一存 養父:三好長慶 室:足利義晴女 子:三好中務少輔義兼、義茂、長元?
 叔父三好長慶の長男義興死去により、その養子となり、1564年三好三人衆に担がれ家督を嗣ぐが、傀儡に過ぎなかった。翌年三人衆、松永久秀らと結び、13代将軍足利義輝を殺害した。その後、三人衆、久秀の両者にいいように担がれ転々とするが、15代将軍足利義昭を奉じて入京した織田信長に降伏し、河内半国を安堵された。1572年、久秀と共に信長に反逆し、義昭を河内・若江城に匿ったことから、翌年信長の将佐久間信盛に攻められ、家老野間左橘兵衛の裏切りに遭って自害。
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