久間防衛大臣の「しょがない」発言が波紋を呼んでいる。
毎日新聞に興味深い論説があった(7/2)。これまで日本(人)は、唯一の被爆国
として核廃絶を世界中に呼びかけてきた。しかしその一方で、日本はアメリカの「核
の傘」を前提にした安全保障戦略(政策)を採用してきた。そしてそれを多くの日本
人が暗黙の内に支持してきた。そんな「理念」と「現実」との矛盾を反映した発言で
はなかったかと。
確かに、唯一の被爆国の国民である私たちの中にも、どこかで核兵器を必要
悪≠ニ捉える傾向があるんじゃないだろういか?核兵器は絶対悪≠ネんだ!と
いう認識のもとで核廃絶を訴えていかないと、今回のような発言は後を絶たないだ
ろうし、本当の核廃絶は遠いのだと思う。
戦争もそうなんだろう。戦争を必要悪≠ニして捉えている間は絶対に戦争など
なくならない。戦争を絶対悪≠ニする憲法9条の精神を生かしてこそ、真の平和
を築くことが出来るんだと思う。
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ダライ・ラマ氏は言う。仏教は「執着を捨てよ」と教える。しかし、執着には、捨て
るべき執着と持つべき執着があると。捨てるべき執着は何となくイメージできる。で
は、持つべき執着とは何かというと、それは「他人に幸せになって欲しい」「人々の
苦しみに寄り添いたい」「人々を救いたい」という願いへの執着であると。
こんな話があるそうだ。阿弥陀仏が観音菩薩に向かって「お前はもう十分修行を
積んだ。そろそろ仏に成ってはどうか」と勧めた。すると観音菩薩は「私は仏には
成りません。このまま菩薩として苦悩に喘ぐ人々を救いたいのです」と答えたと。
宗教とは自分自身の心と向き合うことであって、社会問題などに向き合っている
暇はないという仏教者がいる。社会問題に積極的に関わる人に向かって「それは
自力だ」と非難し、他力の教えを自分が何もしないこと(無関心・怠慢)の口実に利
用しようとする真宗僧侶がいる。もしそれが仏教なら、もしそれが親鸞聖人が明ら
かにしてくださった浄土真宗の教えなら、私は今すぐに僧侶をやめてお寺を出よう
と思う。
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「仏教と怒り」についてダライ・ラマ氏はこう言う。仏教では怒りの感情を否定的に
捉える傾向がある。しかし、怒りには二種類ある。一つは、悪意から生じる怒り。こ
れはもちろん無益である。もう一つは、慈悲から生じる怒り。例えば、不動明王とい
う仏(?)がいる。なぜあんなに怒っているのか?あれは人々を真実へ導きたいと
いう慈悲の心から怒っているのである。また、この怒りというのは、私自身にこれ
からどう生きていくか決断を促すものである。だから有益なのだと。
部落解放運動は被差別者の差別への怒りから始まった。同朋運動は、被差別
部落出身の門徒や僧侶の教団の差別体質に対する怒りから始まった。
差別や戦争に対する怒りと平等で平和な世の中への願いが私たち一人ひとりを
動かす原動力となって運動を推進していくのだろう。
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昨夜、爆笑問題の小さな国会を模した番組を見た。「少年法」を廃止しようという
内容だった。その中ですごく考えさせられることがあった。証人として、少年犯罪に
よって自分の子どもを殺されたお母さんが登場した。その方はもちろん「少年法」
廃止に賛成の立場を表明した。
しかしこのお母さんは、現在、全国の少年院などを回りながら、「自らの犯した罪
をしっかり自覚して欲しい。そして立派に更生して欲しい」と訴えながら講演活動を
されているという。そしてこうおしゃる。「「少年法」廃止に賛成の立場をとりながこん
な活動をしている自分はすごく矛盾しているかもしれない・・」「自分の子どもを殺し
た加害者は絶対に許せない。でも子ども達には立ち直って欲しい・・」と何度も「矛
盾」という言葉を使いながら語っておられた。
今、ちょうど「山口県光市母子殺人事件」に関する裁判が行われている。連日、
マスコミが加害者や弁護団批判を繰り返している。一見すると、遺族の怒りや悲し
み、苦しみに共感し、それを代弁しているようにも見える。でも何か違和感がある。
本当に彼ら(キャスターや批評家達)は遺族の気持ちに寄り添っているのだろう
か?先ほどのお母さんが何度も口にした「矛盾」や「葛藤」、そんな遺族の心のプロ
セスにまで思いを致した上で、「加害少年を死刑にしろ!」とか「少年法を廃止し
ろ!」と言っているのだろうか?
最近あまりにも日本人の思考経路が単純化しているような気がする。プロセスを
蔑ろにして、すぐに善悪の判断を下したり、安易に答えを求めようとしてはいないだ
ろうか・・
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ある平和会議に集まった世界中の仏教僧侶に向かってダライ・ラマ氏はこう挨拶
したという。「あなたは、釈尊が「平和が大切だ!」と言うからこの会議に参加した
のですか?それともあなた自身が真に平和を願ってここに集まったのですか?あ
なた自身が望まないと絶対に平和な世の中は実現できないでしょう」と。
ドッキとした。はたして私自身は本当に平和を望んでいるのだろうか?口では「憲
法9条を守ろう!」と言っているけど、本当はどうなんだろうか?たとえ9条が改悪さ
れても、「年齢的にも私が戦場に行くことはないだろう。もし自分の子供がいたとし
ても、しっかりと教育し社会の勝ち組にすれば大丈夫だろう。それに僧侶は特権階
級だしな・・」なんてどこかで思っている私はいないだろうか・・
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昨日『がんばれ仏教!』の著者でもある上田紀行さんの講演を聞いた。その中
で、上田さんはチベットの仏教僧・ダライラマ14世と対談した時の様子を語って下さ
った(近々対談集が出版されるそうです)。私自身、これまであまりダライ・ラマ氏に
は関心がなかった。しかし、話を聞いて一変に尊敬できる人物となった。
ダライ・ラマ氏は社会問題に非常に強い関心を持っておられるという。それに関
する対談の中で、たまたま氏が搾取≠ニいう言葉を使われたんだそうだ。驚い
た上田さんが「搾取≠ニいう言葉は左翼・マルクス主義用語である。あなたもそ
んな言葉を使うのですね・・」と尋ねた。すると氏は「ハイ、使います。なぜなら私は
搾取階級に属しているからです。私のような高僧は常に自分自身を戒めておかな
いと、直ぐにとんでもない搾取者になってしまうのです」と答えたという。
ドッキとした。同じ僧侶(レベルは全然違うけど)である私も搾取階級に属している
んだろうな。でもそのことを常に自覚しながら私はこれまで門徒さんと接してきただ
ろうか・・
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仏教とは何かと問われれば、「ブッダが説く教え」または「ブッダの教え」、「この私
がブッダに成る教え」だと答えることが出来る。浄土真宗的に言えば、お釈迦様
(仏陀)が説いた阿弥陀仏(陀)の教えによってこの私が仏に成らせて頂く教えとい
うことだろう。
では、このブッダ(仏陀)とは何か問われれば、それは目覚めた人≠ニ答える
ことが出来る。そして更に、自らが目覚めるだけでなく、未だ目覚めていない人を
目覚めさせようとはたらいて下さる存在、それをブッダと呼ぶ。
つまり、宗派によって違いはあるだろうけど、仏教とは、目覚めた人(ブッダ)
のはたらきによってこの私が目覚めさせられていく教えだと言えるんだと思う。少な
くても私たちは仏と成って眠るのではない。
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今週の言葉は、「兵士たちよ 人間らしさを 手放すな」というベトナム退役軍人
の言葉である。でも正確に言えば「・・・手放させられるな」ではないだろうか?
人間は人間を殺すことは出来ないと思う。じゃあ、なぜ戦争や殺人事件が起きる
のか?それは、人が他人を殺めようとするとき、その人は既に人間じゃなくなって
いるのだと思う。その時、その人は地獄の鬼や畜生になっているのだと思う。
仏教には六道輪廻という思想がある。人間は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人
という六つの境涯生まれ変わり死に変わりするという。こんな話をすると「胡散臭
い。だから仏教など信じられないんだ!」と笑われそうであるが・・・。でも果たして
そうだろうか?私たち人間は何も死後に輪廻するまでもなく、今、こうして生きてい
るときですら刻々と六道の境涯を輪廻し続けてはいないだろうか?優しい人間のと
きもあれば、ときには地獄の鬼となって他人を責め立て、ときには餓鬼となって貪
りの心を起こしてはいないだろうか?
親鸞聖人は、私たち人間というのは条件さえ整えば何だってする存在(縁起的存
在)であるとお示し下さっている(『歎異抄』第十三条)。それなりの条件、環境さえ
あれば、他人を100人だろうと1000人だろうとその手で殺めることがあると。それが
悲しき人間の姿だと。
ある人はそれをいいことに、自らの目的を達成するために人間を地獄の鬼に変
えようとするかも知れない。逆にある人は、それなら人間を鬼にしないような条件・
環境・システム・法律を整える努力をするだろう。
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07年6月24日(日) 「免罪と滅罪・催眠と忘却の宗教C」
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これまで数回にわたり、古来から伝わる日本の民族宗教としての「霊の宗教」と、
それを土台として執り行われる慰霊を目的とした祭祀の特徴とその効果について
学んだ。今回の学びを通して私自身益々「ヤスクニ」の本質について知ることが出
来たような気がする。
靖国神社が執り行う祭祀(慰霊・顕彰)は、国家が引き起こした戦争による非業
の死(怒れる霊=jを、国のために犠牲となった尊い死(守護神=♂p霊)に
すり替えてしまう効果があるのだろう。そして当然遺された遺族の感情も、わが子・
わが夫を殺された怒りから、国の守護神・英霊となって全国民から丁重に祭って貰
えるという喜びに変えられていく(=「感情の錬金術」by高橋哲也)。
その結果として、国家が引き起こした戦争責任は曖昧にされ(免罪・滅罪)、戦争
を引き起こした原因やメカニズムすら十分に追求・解明されないまま(催眠・忘
却)、再び同じ過ちが繰り返される危険性が高まるということだろう。
「ヤスクニ」には、戦争で殺された人々を眠らせると同時に、遺族をはじめ全ての
国民をも一緒に眠らせてしまう効果があるのだろう。まさに眠りの宗教≠ナあ
る。戦争をする繰り返す国家にとってはこれほど都合のいい宗教はない。
では果たしてその眠りの宗教≠ノ対峙することのできる宗教があるのだろう
か?眠る≠フではなく目覚める¥@教が・・・
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07年6月23日(土) 「免罪と滅罪・催眠と忘却の宗教(番外編)」
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今日、6月23日は「沖縄慰霊の日」。62年前の今日、日本軍の司令官の自決に
伴い、沖縄での島民を巻き込んだ日本軍による組織的戦闘が終結したとされる。
しかし、それはあくまでも軍による組織的戦闘の終結であって、その後も戦闘は続
き、たくさんの兵士や島民が戦死したり、集団自決するなど悲劇は続いたという。
話は変わるけど、少し前に松岡農水大臣が自殺した時に、某都知事がテレビの
前で「事情は知らないけど、彼(松岡氏)もサムライ≠セったんだなと思った」と臆
面もなく話していたことを覚えている。そのとき思った。某都知事や私たち日本人
が考えるサムライ≠ニは一体何なのかと。自分の責任を果たさないで自ら命を
絶つことがサムライ≠ネんだろうか?そんなサムライ″ーなど必要ない!と強
く思った。
62年前の今日、日本軍の司令官には自ら命を絶つ前にやらなければならないこ
とがたくさんあったはずである。「生きて虜囚の辱めを受けず」みたいな精神を国
家によって無理やり叩き込まれなければ助かった命はもっとあったはずである。
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07年6月22日(金) 「免罪と滅罪・催眠と忘却の宗教B」
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慰霊のための祭祀を執り行うことによって、怒れる霊≠煦タらかに眠ってくれ
た。罪悪感からも解放された。これで綺麗さっぱり!終わりよければ全てよし!と
言いたいところである。
ところがそうは簡単に問屋は卸してくれない。なぜなら、いくら祭祀によって免罪・
滅罪の効果があったといって、そのような不幸な事態をもたらした原因は何一つ改
善されたわけではないからである。不幸な出来事をもたらした原因やそのメカニズ
ムを解明せずにそのままにしておくということは、「次にまったく事態を迎え、同じ実
に直面しても、過去のいたましい経験が何ひとつ経験として思い返されることがな
く、新しい危険を予知することも、その危険を抑止する力を生み出すこともなく、同
じパターンで同じ行為が繰り返される」(『信の回復』より)ということを意味する。
たとえば、飛行機の墜落などなど大きな事故が起きた際には必ずその原因究明
がなされる。なぜなら事故を教訓として、二度と同じ過ちを繰り返さないためにであ
る。もしその原因究明もせずにただ犠牲者の慰霊だけを毎年執り行うとしたらどう
だろうか?おそらく科学技術の進歩もなければ、もう二度と飛行機には乗りたくな
いと思ってしまうはず。
つまり慰霊によって全てをチャラにしてしまうということは、将来同じ過ちを繰り返
してしまう可能性が大であるということである。霊を眠らせるということは、現実の矛
盾や自己の過ちを直視する自分自身の目をも眠らせてしまうこと(催眠と忘却)で
もあるのである。(つづく)
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07年6月21日(木) 「兵士を踏み台にして・・」
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イラク特措法が改定されイラクでの航空自衛隊による活動が2年間延長されるこ
ととなった(6/20)。「国際貢献!」「イラクのために!」というと聞こえはいいが、実
際は米軍支援と日米同盟強化が目的である。治安の悪化に伴いヨーロッパ各国
がイラクから撤退する中、十分な検証、説明責任を果たさないまま政治的思惑に
よって決定した今回の派兵延長。そんな安易な政府の判断に対して当の自衛隊幹
部からも懸念する声が漏れたという。国際貢献ならまだしもアメリカの世界戦略・
利益のために命の危険にさらされる自衛隊員はたまったもんじゃないだろうな・・。
でもこんな政府を選んでしまった(許してしまった)責任は私達国民一人ひとりに
あるのだと思う。自衛隊員やその家族に申し訳ない気持ちで一杯である。
今週の言葉:「戦争の犠牲者を 踏み台にして ひたすら自らの 幸福(しあわ
せ)を 求めてはいないか」
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07年6月19日(火) 「免罪と滅罪・催眠と忘却の宗教A」
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なぜ人は慰霊や鎮魂のための祭祀を行うのか?それは祭祀自体に免罪・滅罪
の機能があるからだという。
菅原道真の政敵達は、道真を死に追いやったことに対する大きな罪悪感を抱い
ていたに違いない。だからこそ偶然起きた天変地異を道真の祟りであると思った
んだろう。そこで政敵達はその罪の呵責から何とかして逃れようと、社を建て、そこ
に道真の霊を丁重に祭ることにした。道真に安らかに眠ってもらおうとした。不幸を
もたらす怒れる霊(怨霊)≠ゥら守護神(学問の神様)≠ノ変えようとしたので
ある。
祭祀を執行することは非業の死を遂げた霊の咎めから解放されることを意味す
るという。自らの行為の過ちや、それに対する後悔や自責の念、罪の意識など、一
切の精神的負担を一挙に帳消しにしてくれる。それによって気分新たに、さっぱり
した気持ちで新生活を始めることが出来る。それが祭祀の積極的役割(免罪・滅
罪)だという。
ところがプラスの側面ばかりではない。死者を眠らし、罪悪感から解放されること
によって生じるマイナスの側面がある。それは・・・(つづく)
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今朝の朝日新聞にこんな特集記事があった。あるシンポジウムで、なぜ若者が
憲法9条を変えて日本を戦争の出来る国≠ノしたいのか?という議論になった
そうだ。その理由を聞いてやるせない気持ちになった。
彼らはこのように考えているという。格差社会の中で定職にも就けず、不安定な
生活を強いられている。「平和だ!護憲だ!」と大人は言うけど、平和な社会で差
別と屈辱を強いられるぐらいなら、戦争になって皆が平等に苦しみを味わえばいい
と。だから彼等が考える戦争とは、首相が考えるような米軍と一緒になって国際貢
献の名の元に世界中の紛争地域に出かけていく戦争≠ナはない。日本が他国
によって侵略されるような戦争≠ナある。もしそんな侵略して来るような敵国がな
ければ宇宙人との戦争≠セって構わないと。今の格差社会や社会秩序、閉塞
感を粉々に打ち破り、一からやり直したい。それが彼らが9条を変えて戦争を望む
理由なんだそうだ・・・
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07年6月17日(日) 「免罪と滅罪・催眠と忘却の宗教@」
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事件や事故によって誰かが亡くなった時、テレビのキャスターが最後に決まった
ように言う。「故人のご冥福をお祈りします」と。普段何気なく耳にするこの「冥福を
祈る」という言葉。正しくは「冥土での幸福を祈る」という意味なんだそうだ。私達日
本人の中には、亡くなった方の霊はこの世(顕界)からあの世(冥界・冥土)に生ま
れ変わるという考え方がある。そこで、冥土に生まれた霊がいつまでもそこで幸福
であるようにと祈るのである。同じような意味の言葉として「安らかにお眠りくださ
い」という言葉もある。
確かに両方とも故人のことを思いやっての言葉であるかのように聞こえる。でも
どうだろうか?本音ところは「どうか迷って化けて出てこないで下さい」という死者に
対する恐れの気持ちが根底にあるのではないだろうか?
京都に北野天満宮という神社がある。また福岡には大宰府天満宮という神社が
ある。両方とも菅原道真を祭った神社である。今では学問の神様として崇められて
いるが、神社が出来た当初はそうではなかったという。政敵に貶められ大宰府に
流された菅原道真はそこで非業の死を遂げる。その直後から京都の都では地震
や火事など様々な災難が次々に起きる。政敵達はもしやこれは道真の霊の祟りで
はないかと考える。そこでその怒れる道真の霊を鎮めるために社を建て、丁重に
祭ったことが両神社の始まりであると言われている。
このように私達日本人の中には古来より、亡くなった人の霊、特に非業の死を遂
げた方の霊というものは、その怨みからこの世に生きる人々に災いをもたらすとい
う考え方が根強くある。しかしだからといって昔の貴族のように立派な社を建てるこ
とは出来ない。そこでせめて「冥福を祈る」「安らかにお眠りください」と言うことによ
って、霊の怒りを鎮め、自らに降りかかる災難を避けようとしているのではないだろ
うか?
これも除災招福から出発した「霊の宗教」の影響なんだろう。
しかし思う。霊の存在を認める認めないは別にして、果たして亡くなった方を冥界
という薄暗い世界に閉じ込めたり、そこに安らかに眠らせておくことはいいことなん
だろうか? (つづく)
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日本人の中には古来から「冥顕心情」というものがあるという。何かというと、私
達が暮らす現実の日常世界(=顕界)の背後には霊の住む世界(=冥界)があっ
て、日常の吉凶禍福はすべて冥界の霊力によって左右されるという考え方なんだ
そうだ。そこから、その霊をカミ≠ニして祀ることによって不幸を免れ幸福を招き
よせようとする除災招福の宗教が生まれてきたという。それが日本の神社神道だ
という。
人々は吉凶禍福を左右する力をもった人間以上の存在(霊=カミ)の目を常に意
識しながら、ときにはその存在を恐れ、ときにはその存在に媚び、へつらい、祈ら
なければならない。つまりこの「霊の宗教」は、除災招福を願わずにはおれない人
間の本能的弱点をついて、カミと人との間に権威と隷属(支配と被支配)の関係を
成立させることになるという。(以上、『信の回復』(和田稠著 東本願寺出版)を参
考)
まあ、ここまでなら、神道に限らず、世界中でよく見られる宗教形態であると言え
る。ところがこのカミと人間との間に「○○」が入ると話がややこしくなる。その「○
○」がお金や権力などを求める教祖であったらカルト宗教になってしまうんだろう。
また、その「○○」が現人神≠ニしての天皇であったら国家神道になってしまう。
保守勢力が万世一系の天皇制を崇め、このご時世に男系天皇を死守しようとす
るところには、「日本の伝統云々」以上に何か理由があるのだろうか・・?
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「追悼」と「顕彰」とはどう違うのだろうか?本願寺派では毎年9月に東京で「千鳥
が淵全戦没者追悼*@要」をやっている。一方靖国神社や各地の護国神社な
どでやっているのは顕彰≠ネんだろう。辞書(大辞泉)で調べてみると、「追悼」と
は、「死者の生前をしのんで、悲しみにひたること」。「顕彰」とは、「隠れた善行や
功績などを広く知らせること。広く世間に知らせて表彰すること」とある。
う〜ん、どう違うのだろうか?菱木政晴さん流に言えば、「追悼」は「ゴメンなさ
い。もう二度としません」、「顕彰」は「有難う。またお願いします」という意味なのか
も知れない。
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東京のとある公園内に東京都慰霊堂というのがあるらしい。そこには東京大空
襲で命を落とした身元の分からない約10万5000人の遺骨が納めれれていると
いう。毎年東京大空襲の3月10日に法要が営まれる。だがそこに小泉前首相が訪
れたという記録は一度もないそうである。あれだけ戦争で亡くなった人に手を合わ
せて何が悪い!と言って、外交問題にまでなりながら靖国神社参拝を繰り返した
日本の総理大臣がである。
日本国の総理大臣にとっては、国のために戦い戦死した兵士(=英霊)が祀られ
ている神社には関心があるけど、戦争で亡くなった一般の市民が祀られている施
設には関心がないらしい。
「ヤスクニ」とは戦争動員装置である。そこに日本国の代表(元首)が参拝しては
じめてその装置は動き出す。
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なぜ小泉前首相があれ程までも靖国神社参拝にこだわったのか?なぜ靖国神
社参拝肯定派が最終目標として天皇の参拝を求めるのか?その理由、原点が意
外なところにあった。
以下は、1883年5月に大阪・中ノ島で行われた「明治記念碑」という忠魂碑(西南
戦争の戦死者、もちろん政府側の戦死者のみを祭った碑)の竣工式、それに合わ
せて執り行われた仏教各宗による儀式に参列した遺族の声を伝えた当時の朝日
新聞の記事である。
「人によって、それ物に触れて感動するところの各々異なるものにて、この間明
治記念標祭典の日、参拝にでかけしもののうちには、本願寺法主の標前に参拝し
法会を執行せらるるを見て随喜の涙をこぼしつつ言えるには、『ここに祭らるる人
の父兄妻子たる人々の身にとり当座のほどはさぞかし悲しく痛ましくやありたらん
なれど、今日となりては、全く戦場に死なれたればこそ我々がそのお姿を拝むさえ
勿体ないと思うばかりの有難いこの御門跡様にまでも敬礼せらるるなれ』とて、深く
死者の栄を羨み、今まで我が子を徴兵に出すことを蛇蝎のごとく忌み嫌いしが、急
に変わって早く徴兵に出し戦死でもとげて今日のごとき光栄をうけさせたき心にな
りしも多かるやに聞きしが、弥陀の余光の遠く及ぶところこれによって愚夫愚妻の
頑固心を開発するの緒となすも又好方便というべし」(『解放の宗教』 菱木政晴著
緑風出版より)
何を言っているのかというと、その儀式に本願寺の法主(現在の門主さん)が出
席した。当時、本願寺の法主と言えば活き仏≠ニして門信徒から崇められた。そ
んな御方が、「自分の息子のために法要を営んでくださる。それもこれも国のため
に戦って戦死したお陰である。何と有難いことか」と言ってみんな涙を流して喜んで
いた。これを見る限り、これまで徴兵に応じることに躊躇していた者も、「こんな光
栄なことがあるなら喜んで徴兵にも応じよう!」という気持ちになるだろう。これほど
の都合のいい方便はないと。
なぜ首相や天皇が靖国神社に参拝する必要があるのか?なぜ戦前・戦中の本
願寺教団が「ヤスクニ」装置の一部であったと言われるのか?この記事を通してよ
く分かる。
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なぜ「靖国」問題ではなく「ヤスクニ」問題なのか?それは「ヤスクニ」は靖国神社
だけではないからと教えてもらったことがある。「ヤスクニ」とは宗教的装いを施し
た戦争動員装置である。その装置を動かしているのは何も靖国神社だけではなか
った。私たちの真宗教団も戦前・戦中は「ヤスクニ」装置の一部であった。
「軍人院号」がその典型だと思う。教団は戦死した門徒さんに「軍人院号」を授け
た。「院号」というのはそう簡単には付けてもらえない。今だって住職や坊守を除い
ては何十万というお金を払わなければもらえない。昔ならなおさら、普通のご門徒
さんが院号を授けられることはほとんどなかったんだと思う。ところが戦死したらも
らえるのである。「普段もらえないものがもらえる」そんな特別扱い(それから生じる
優越感)みたいなものが、戦場に赴く門徒さんの背中を押し、遺された遺族の悲し
みを「癒す」はたらきをしたんだろう。詳しくはブックレット基幹運動NO.4『法名・過去
帳』を参照。
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数日前、台湾の前総統が靖国神社を参拝したとかで少しマスコミでも話題になっ
ていた。でもわざわざ騒ぎ立てる必要があったのだろうか?
確かに、日本の侵略戦争を肯定する神社に台湾の前総統が参拝することは、台
湾と中国との外交問題にはなるのかも知れない。また、彼自身が日本の植民地支
配から未だに解放されていないという深刻な問題を提起しているとも言える。しか
し、それはあくまでもヤスクニ問題の中心課題ではないと思う。
「日本国の代表は日本国のために戦死した兵士を神として丁重に祀ります。だか
ら今度とも安心して国のために死んで下さい」というのが「ヤスクニ」のカラクリであ
る。「ヤスクニ」とは、いかにして日本国民を戦争に借り出すか、そのための宗教
的装いを施した戦争動員装置である。その装置は、日本の首相や閣僚、そして何
よりも天皇が参拝することによってはじめて稼動する。「天皇陛下が私(私の息子)
のために参拝してくださる。何と光栄なことか!」と。逆に言えば、他国の元首が参
拝したところで大した意味はない。「李登輝総統が参拝してくださった!嬉しい!私
も日本国のために命を捧げよう」とはなりえない。だからあえて騒ぐ必要はない。無
視しておけばいいと思う。
私たちはもう一度「ヤスクニ問題」の本質をしっかりと押さえておくべきだと思う。
でないと、かつて本願寺教団の幹部が「新しい国立追悼施設」の建設に賛同すると
いうような同じ愚行を繰り返えさないとも限らない。
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仙台市が朝鮮総連系歌劇団・「金剛山歌劇団」による市民会館の使用を不許可
にしたという(6/5)。理由は右翼の街宣車が来て周辺が混乱するからとのこと。同
劇団が同じ理由で会場の使用許可を取り消されたのは倉敷市に続いて二度目で
ある。その他にも同じような理由で東京都が朝鮮総連の公園使用許可を取り消し
たり、東京商工会議所が「九条の会」主催のシンポジウムへの会場貸し出しを拒
否するという事件が発生している。いずれも裁判所が主催者側の効力停止を求め
る申し立てを認めて難なくを得ている。それなのに性懲りもなくまたである。
はっきり言って民主主義の敗北である。現憲法は市民の集会・結社の自由、言
論・表現の理由を認めている。逆に言えば国家・行政はその市民の権利を守る義
務がある。その義務を放棄して「右翼が来るから」との理由で市民の集会・表現の
自由を制限することは民主主義の敗北以外何ものでもない。
たとえ右翼が来ようとも、国家の威信をかけてでも、万全の警備体制を整え、無
事に集会を遂行することが民主主義国家というものだと思う。こんなことをしていた
ら相手の思う壺である。それとも国家に都合の悪いものの権利など端から守るつ
もりはないのだろうか・・・?
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昨夜あるニュース番組で数年前に大阪教育大学付属小学校が起きた事件の特
集をやっていた。同校では事件を教訓に、生徒一人ひとりにICタグを取り付け、校
門を出ると親の携帯電話にメールで知らせるというシステムを導入しているという。
これで親は安心だろう。ところで当の子供はどのように感じているのだろうか?私
が子供なら絶対に嫌だな・・。四六時中大人から監視され、道草も食えない。
今、防犯を目的に街中に監視カメラが設置されている(6/8)。安全のためには自
由(プライバシー)を制限しても致し方ないという意見が大半を占める。でも私自身
はそんな社会には住みたくない。それはまるで野生の動物が、安全のために自ら
人間の家畜になりにいくようもの。いかなる理由があとうとも、私は人間としての誇
り・尊厳を自ら差し出したくはない。
果たして安全と自由は両立できないのだろうか?以前ある専門家がこう話してい
た。親からGPS携帯などハイテク機器によって常に見守られている子供よりも、そ
んなものはなくても、普段から親の愛情を全身に受け、親から信頼されているとい
う自覚がある子供ほど、いざというとき自分の力で危険を回避する能力に優れて
いると。
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正直非常にショッキングな事実が明らかになった。自衛隊がイラク派兵反対運動
をする市民団体などの実態・行動を秘密裏に調査・監視していたという(6/7)。米
軍普天間飛行場の移設に関する事前調査への海上自衛隊の派遣とあわせて、今
や自衛隊は国民を守るはずの組織から国民の監視・治安維持のための組織に成
り下がってしまったのだろうか?戦前の憲兵隊を連想させる。
今回明らかになった事実は、反戦落書きや反戦ビラをまいただけで逮捕され、起
訴、有罪判決にされるという昨今の現状と合わせて、市民運動をする人々にとって
非常に大きなプレッシャーとなるような気がする。
日本という国が、「政府の方針に反対するものは許さない!」、何かそんな嫌な
社会、暗黒社会に再び戻ろうとしているようで、非常に不気味であり、恐ろしい。こ
れが美しい国≠フ正体なんだろうか・・・
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07年6月6日(水) 「映画『パッチギ LOVE&PEACE』を観る」
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映画『パッチギ2』を観た。笑いあり、涙あり、反差別・反戦も訴えたすごくいい映
画だった。
次の場面が印象に残った。本名・出身を隠し芸能界デビューを果たした在日朝
鮮人であるヒロイン(キョンジャ)。初主演となる映画(「太平洋のサムライ」という神
風特攻隊を描いた映画という設定)の舞台挨拶で彼女はカミングアウトしながらこ
う訴える。「私の父は済州島で生まれました。やがて戦争が始まり父も日本軍に徴
兵されました。しかし父は戦争がいやで軍から逃げました。私はこんな父を恥ずか
しいとは思いません。なぜなら父が逃げて生き残ったおかげで、今の私が存在す
るのですから」と。
「太平洋のサムライ」か・・・。折りしも同じ映画館で某都知事が製作したという何
とかいう映画も上映されていた。
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今朝の朝日新聞によると、防衛省は航空自衛隊の次期主力戦闘機に米軍の最
新鋭ステルス戦闘機「F22ラプター」の導入し検討しているという。軍事のことはよ
く分からないど、すごい戦闘機らしい(性能においても、価格においても)。こんな戦
闘機を買って一体誰と戦争をするつもりだろうか?
先日、リマで行われていた「クラスター爆弾禁止条約」会議。米国や日本などの
反対によって結論が出ないまま物別れになったという(5/26)。防衛庁はクラスター
爆弾は本土防衛上どしても必要だと主張した。それに対してある専門化がこう反
論した。「信じがたい発言。日本を占領できるほど軍事力を持つ敵だったら、クラス
ター爆弾程度で撃退できるわけがない」と。
ロシアのプーチン大統領が、欧州に配備される予定のミサイル防衛システムに
対抗して、ロシアのミサイルの照準を再び欧州に合わすと発言したという(記事)。
中国も日米が整備を進めるミサイル防衛システムに対して警戒感を露にしてい
る。
いつも思う。本当に「敵」など存在するのだろうか?「敵」など本当はいないんじゃ
ないのかな?「敵」を作り出しているのは私自身ではないんだろうか?
「恐れが生じたから 武器をもったのではない 武器をもったから 恐れが生じた
のである」(ブッダ)
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今、「念仏者九条の会」の会員でもある福崎裕夫さんが、憲法9条の大切さを訴
えるために、「ゲゲゲの鬼太郎」のねずみ男≠フ格好をしながら全国行脚をされ
ている。沖縄を踏破し現在は鹿児島県内を歩かれているという。「食も宿も行く
先々の善意にすがり」、護憲派、改憲派様々な人々と話し合いながら旅を続けてお
られる。
なぜねずみ男≠フ格好なのか?その理由が面白い。「鬼太郎には武器になる
チャンチャンコ、げた、髪の毛針がある。ねずみ男にはない。非武装の姿が憲法9
条に重なるのです」と。
詳しくは→http://huukei.huuryuu.com/9/
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民主党が今度の参議院選挙のマニフェスト原案を発表したという。その内容は、
格差など生活面の問題が重視される一方で、首相が掲げる憲法改正に関しては
争点化をされていないという。
正直納得できない。参議院議員の任期は6年。おそらく今回の選挙で選ばれた
議員の任期内に憲法改定発議がなされるはず。そんな大事な議員を選ぶ選挙な
のに候補者の意思を明確にしないのは卑怯だと思う。民主党の中には改憲に賛
成する議員が多いという。それを曖昧にしたまま生活問題だけを争点化すること
は、先の郵政選挙での自民党圧勝と巨大与党の誕生、その結果生じた昨今の国
会での「民主主義」を履き違えた数の横暴≠フ二の舞になりかねない。
最近、民主党ばかりでなく連立を組む公明党や自民党内からも憲法改定を争点
化することに対する異論が出てきている。でもここは安倍首相に頑張って欲しい。
国民投票法が成立した今、「憲法をどうするか?」という議論はもう避けて通れない
のだと思う。白紙委任・不戦敗だけは避けたい。
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07年6月1日(金) 「愚身の信心におきてはかくのごとし=v
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先日、ある先生の『歎異抄』の講義を聞く機会があった。第二条についてであっ
た。この第二条(「念仏をとりて信じたてまるらんとも、またすてんとも、面々の御は
からひなり・・」)は、親鸞聖人が私たち念仏者(仏弟子)各自に厳しい宗教的決断
を求める章であるという。
「憲法9条は理想論である。武力による平和も致し方ない」という意見がある。「も
し「敵」が攻めてきたらどうする。ミサイルが飛んできたらどうする」と言う人がいる。
残念ながら今の私にはそれらに対して科学的・実証的に反論する力もなければ材
料もない。
でも胸を張って「絶対に9条を守るべきだ」と言える。なぜなら私は念仏者であり、
仏教徒である。その帰依するところの仏様の教えは非戦である。そしてその仏様
によって知らされてくる私という存在は「とても地獄は一定すみかぞかし」の身であ
る。だから「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず」と胸を張って言える。
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07年5月30日(水) 「差別事件とナショナリズムの背景」
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「差別がもっとも強化されるのは、二つの意識が重なったとき。一つは差別意識
や優越感。しかしこの意識だけならひどい差別事件はあまり起こらない。そこにも
う一つ被害者意識が重なると、極端な差別扇動行動にでるわけです」(北口末広近
畿大学教授)。
2003年の5月から約1年半にわたり400以上の差別葉書を被差別部落出身者な
ど数十人に送りつけた罪で起訴された青年(当時34歳)は裁判で以下のように証
言している。
「自分は現在無職であるが、すき好んで無職ではない。大学を卒業して公務員に
なろうとしたが、公務員試験に失敗した。・・そのため事件開始の直前には非常に
大きなストレスを抱えていた。・・・自分は部落民は自分より下だと、漠然と思ってい
た。事件を起こす直前に、たまたま同和問題に関する本(『同和利権の真相』)を手
に取る機会があり、その本に強い影響を受けた。・・・自分は部落のことについて
何も知らなかったので、この本に書いてあることはすべて真実だと、簡単に思い込
んでしまった。そこで、部落のものを徹底的に攻撃して、自分のストレスを解消しよ
うと思った」(『「連続差別はがき事件」に学ぶ』「同宗連」人権啓発資料Aより)。
最近の日本社会における「北朝鮮・中国バッシング」やナショナリズムの高揚の
背景と全く同じ構図が見えてくるような気がする。@差別意識(=アジア人蔑視)A
被害者意識(=格差社会・中国経済の台頭・拉致問題)B無知(=過去の歴史の
隠蔽・歪曲)C扇動(政治的)
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人間は間違いを犯す生き物なんだと思う。魔がさすこともあれば、「ダメ」だと分
かっていてもその場の雰囲気(縁)に簡単に流されてしまうこともある。人間は誰し
もがそんな「弱さ」や「闇」を抱えた存在なんだと思う。だからもし間違いを犯したら
それを率直に認め、また一からやり直せばいい。一人で無理なら誰かの助けを借
りたっていい。それは決して恥ずかしいことじゃないと思う。お互い様なんだから。
ところが最近そんな人間の「闇」や「悪」を端から認めようとしない雰囲気がある。
「いい子」とか「美しい○○」といった陳腐な価値観が掲げられ、それに応えること
を強いられる。確かにその期待に応えることのできる人はいい。でも応えられない
人はどうすればいいのだろうか?私のようにいい加減な人間であれば気にもしな
いけど(排除はされるだろうけど)、真面目な人ほど悩み、葛藤を抱き、追い詰めら
れていくんじゃないだろうか?
つくづく思う。「善人」が闊歩する社会ほど生きにくいものはないと。
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同和教育振興会常任研究員である廣川朝子氏の論文「軍隊と性暴力」(『同和教
育論究27号』)を読んだ。沖縄など米軍基地周辺で多発する兵士による女性や子
供への性犯罪。その背景を次のように分析する。
「米兵の残虐行為は軍隊の訓練の結果必然的に起こる・・軍隊の訓練というの
は、兵士が敵を「非人間化」できるようにすることです。そして兵士の鬱積したフラ
ストレーション・怒り・恐怖といった感情は、無謀運転・暴行・売春などの形で女性
や子供たちにむけられます。何年も一日中「人間を人間と思わない」」ということに
なれされ、性差別・人種差別といったあらゆる差別を利用して人を平気で殺すため
の訓練をしている兵士。「ウォーマシン」化された兵士が軍服をぬいだところで中身
は変わっていないのです。」(本文より)
軍隊の本質がいかなるものかがよく分かる。「敵」も味方も徹底的に「非人間化
=モノ化」していくところに成り立つもの、それが軍隊なんだろう。基地周辺で起こ
る(性)犯罪、戦場で起こる残虐行為、帰還兵による精神疾患、自殺、全て起こる
べくして起こっているのだろう。
今週の言葉:「基地と平和とは 共存できません これが原点です」
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内戦が続いたアフガニスタンでは日本が主導となって軍閥の武装解除や兵士の
社会復帰を目指すプログラム(DDR)が進められていたという(5/27)。これまでに
日本は約110億円の無償資金協力をし大きな成果も得たという。確かに目立たな
いかも知れないけど(日本人である私も初めて知った)、こういう日本の非武装・非
暴力の活動を高く評価してくれる国やNGO、人々は多いのだと思う。
以前、「話し合い法座」で「憲法九条」をテーマに門徒推進員さん達と話し合った
ことがある。ある一人の門推さんが強く改憲を主張された。この方は元自衛官だと
いう。話を聞きながらとんでもない人だなと心の中で思っていた。ところが最後にこ
うおっしゃった。「私は日本が世界の人々から尊敬される国になって欲しい。その
ためには何をすればいいんでしょうね・・・?」と。その発言を聞きながら「ああ、こ
の方は日本という国が好きなんだな。日本や世界の将来を真剣に考えているんだ
な・・」と思った。もちろんこの方と私の憲法9条に関する考え方は違う。でも「日本と
いう国が好き。世界の人々のために何か貢献したい」という願いは一緒なんだと思
う。
これからの護憲運動は、この両者の溝を少しでも埋めていくことが大切なんだと
思う。「9条改悪反対!」と叫ぶだけでなく、9条の精神を生かしていく具体的な道を
紹介・提示していくべきなんだと思う。
でないと、これから国民投票に向けて日本はどんどんと真っ二つに分裂していだ
ろう。どんな悲劇が起こるかも分からない。たとえ9条を守ったとしても、たとえ9条
を変えたとしても、両者の間に大きなしこりが残ってしまうことだって考えられる。同
じ平和への願いを持っていながらこれ程悲しいことはない・・
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07年5月26日(土) 「北朝鮮、ミサイル発射!日本海に着弾!!=v
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昨日夕食をとりながらニュースを視ていたら、突然テロップが流れキャスターが
「北朝鮮がミサイルを発射しました!日本海に着弾しました!」とまくし立てた。我
が家にも一瞬緊張が走った。
ところが何のことはない。夜のニュースや今朝の新聞を読んでみると、発射され
たのは射程100キロ位の短距離ミサイルであり、米軍も日本政府も数日前から情
報を掴んでいたという。要するに「ミサイル発射!」ではなく、「ミサイル発射演習」
「ミサイル発射実験」である。
このようにして「改憲」や「ミサイル防衛」「日米安保強化」などに対する世論が作
られていくんだろうな・・
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東京大空襲の被災者・遺族が補償を求めて国を訴えた裁判で、第1回の意見陳
述が行われた(5/24)。
同じように国家による戦争に協力したのに、軍人・軍属は丁重に(?)祀り補償す
るのに、一般の被災者は祀りもしなければ、補償もしない。なぜか?それは、国の
ために命を差し出すことを厭わない者、戦死した兵士を見習い彼らに続く者を国家
がこれからも必要としているからだろう。
しかしタダではそんな人は滅多に現れない。そこで「兵士として戦死したら国(首
相・天皇)が責任を持って祀ってあげますよ(英霊・顕彰)。遺された遺族にも僅か
ばかりの補償金だって支払ってあげますよ。これは一般の被災者にはない兵士だ
けの特権ですよ。だから安心して兵隊になってお国のために戦ってください!」とい
うことだろう。
この差別的な待遇こそが靖国神社等を「ヤスクニ」たらしめているのだろう。
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夏の参議院選挙に真宗の僧侶が民主党から立候補する。本山挙げて応援して
いるらしい。
まあ、同じ宗派の僧侶(身内)だし応援したい気持ちもよくわかる。でもどうでもい
いけどこの候補者は9条改悪には反対なんだろうか?パンフレットには「平和な国
を目指す」とは書いてあったけど・・。
おそらく今度の参議院選挙で選ばれた人たちが数年後に国会で新憲法草案の
議決をすることになる。だからこそ今度の参議院選挙は護憲派にとっては非常に
大事な選挙だと思う。ここでちゃんと護憲派の議員を3分の1以上確保しておかなけ
れば大変なことになる。
先ほどの候補者は大丈夫だろうか?一度確認しておいたほうがいいような気も
する。
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今朝の朝日新聞に神戸で起きた連続児童殺傷事件の犯人である少年について
の記事があった。少年は医療少年院に入院した当初次のように発言していたとい
う。「世の中は弱肉強食。自分が年下の子を殺しても、大人が自分を死刑にすれ
ばつじつまは合う」と。
今、日本には死刑制度がある。「命は何があっても奪ってはいけない!」というメ
ッセージを送ることによる犯罪抑止を狙っているのだろう。でもどうなんだろうか?
本来の意図とは逆に「人間が人間の命を奪っても構わない!」という誤ったメッセ
ージとして伝わってしまっているのではないだろか?
(注)現在少年は少年院を退院し、一生涯をかけての更生と贖罪の道を歩んでい
る。
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07年5月21日(月) 「改憲を是認する土壌B(不寛容)」
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視るつもりはなかったけど、朝から不愉快な番組が目に入ってしまった。関西の
ベテラン男性芸人が時事問題に関して好き放題話すという番組。愛知での立てこ
もり事件に関して、「なぜ警察は突入しなかったんだ?人質が救出された時点で突
入し、抵抗したら射殺すればよかったのに。近所の人が迷惑しているんだから早く
解決すべきだ!」と・・・。
人間は誰しもが多かれ少なかれたくさんの人に「迷惑」をかけながら生きている。
それが人間が生きるということなんだと思う。それなのにまるで自分だけは他人様
に「迷惑」をかけていないとでも思っているのだろうか?
お互いに「迷惑」をかけているという自覚があればこそ、自らの姿を省みることが
出来るし、相手を許すことも出来るし、他人を思いやる心も生まれてくるんだろう。
お互い不完全な$l間(凡夫)どうし「お互い様」である。
今週の言葉:「他人に 迷惑をかけない いのちは無い ただそのことに 気づか
ないだけ」
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なんかどんどんといやな社会になってきた。政府によると「公共の秩序の維持の
ため特別の必要がある場合、自衛隊は一種の警察活動ができる」という(5/19)。
日本人を守るはずの自衛隊が再び日本人に銃剣を向ける日がくるのだろうか?
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07年5月19日(土) 「改憲を是認する土壌A(「命」の重さ」)
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今朝ラジオを聞いていたら某パーソナリティーが愛知県であった「人質立てこもり
事件」に関連して次のようなことを話していた。「日本も銃社会になってきた。これま
で日本の警察は人質の命を最優先に考えてきた。でもこれからは警察官や一般
市民(多数)の命を守るためには一人(人質)の犠牲は致し方がないという考え方
に変えていくべきではないか・・」と。
昨日の今日なので感情的になっているのは分かるけど、すごく危険な考え方だと
思う。おそらく彼にとっては「命」は量ることの出来るものなんだろう。天秤の上に一
つずつ「命」を載せたら釣り合うかも知れないけど、片方の皿にもう一つ「命」を載
せたら、二つの方がその重さで傾くというイメージを持っているのだろう。
思わず納得してしまいそうだけど、非常に危険な考え方だと思う。そんな考え方
が戦争を引き起こすんだと思う。アメリカは「テロによって多数の犠牲者が出る前
にイラクを攻撃してしまおう」と主張しイラク戦争を始めた。日本は「北朝鮮のミサイ
ルによって多数の犠牲が出ないように、アメリカのお付き合いをしておこう」と言っ
て戦争を支持した。どちらも「多数(自国民)の命を守るためには多少(イラク市民)
の犠牲は仕方がない」という考え方が根底にあったんだと思う。
本来「命」を量ることなど出来ないのだと思う。「命」に量ることの出来る重さなど
ないのだと思う。たとえあったとしても、「命」は無限(∞)の価値(重さ)を持っている
のだと思う。だから、∞に1を掛けても∞だし(∞×1=∞)、∞に2を掛けても∞
(∞×2=∞)、∞に100を掛けよとも、1万を掛けようとも答えは同じ∞である。つま
り、一つの「命」と万の「命」を天秤にかけてもちゃんと釣り合うんだと思う。
娑婆世界の現実がどうであれ、人間(凡夫)がどう考えようとも、それが仏様から
願われた「命」なんだと思う。それだけは絶対に忘れてはならないのだと思う。
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今日にも教育関連3法案が衆議院を通過するという(5/17)。問題の多い法案で
あることは言うまでもないが、その一つに、文部大臣が各教育委員会に対して「是
正の要求・指示」が出来るようになるという規定があるという。一時、「いじめ問題」
や「履修問題」を放置した教育委員会があるとマスコミが激しくバッシングしてい
た。それを受けて国が責任を持ってけしからん°ウ育委員会を指導するのは当
然だ!という声が今回の法案の成立を後押ししたらしい。
ところがそれは見せ掛けで(今回の法案にはそれら問題に対する何の具体的な
対策も規定も明記されていない)、本当の狙いは、教育委員会に対する国家の権
限・介入を強化することにあるという。何のために?明白である。言うことを聞かな
い教職員の排除であり、「日の丸・君が代」の更なる強制、新たに盛り込まれた「愛
国心教育」の徹底、歴史教科書採択への介入であることは。
それにしても思う。重要な法案が成立する前には、マスコミなどを取り込んだ徹
底した準備(情報操作や世論操作など)が行われるんだなと。権力者や為政者は
決して馬鹿ではない。本当に狡賢いと思う。私たちが国民投票で戦うのはそんな彼
らとである。
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津若松市で少年が自分の母親を殺害するという痛ましい事件があった。警察の
取調べに少年は「戦争が起これば人を殺せるのに、戦争が起きないから、いま人
を殺してしまおうと思った」と供述しているという(5/17)。
今朝の朝日新聞に作家の雨宮処凛さんがこんなことを書いていた。今、多くの若
者達が定職に就けずニートやフリーターなど不安定な生活を強いられている。彼ら
の多くは将来への希望や夢を失いつつある。そんな閉塞感の中で、「戦争でも起こ
ってくれれば人が死んで社会が流動化する。そこで何とかはい上がる」とさえ考え
る若者がいるという。
ここ数年改憲を容認する声が一気に高まった。そこには必ず理由・土壌がある
んだろう。それを探り、改善・解決していかない限り、たとえ何度国民投票で否決し
たとしても、本当の非戦・平和は実現しないんだろう。
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現場では米軍と自衛隊との間で共同訓練や情報の共有化など一体化が日々
刻々進んでいる(5/13)。だからこそ憲法の上での9条改定・集団的自衛権の容認
は至上命題なんだろう。
今の憲法はアメリカから押付けられたものだからダメなんだ!と改憲派は言う。
でもそれを言うなら、彼らが目指している憲法そこ「押付け憲法」じゃないの?
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「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(代表:中川昭一・事務局長:安
倍晋三(当時))のある議員が、「河野談話」を出した河野洋平氏を呼び次のように
言ったという。「この程度のことを外国に向けてそんなに謝らなきゃいかんのか。兵
隊も何も楽しみがなくて死ねとは言えない。楽しみもある代わりに死んでくれと言っ
ているわけでしょう」と。
怒りが沸々と湧いてきた。この議員にとって女性とは男性のSEXの欲望や快楽
を満たすためだけの道具なんだろう。「女性は子供を生む機械」と発言した某大臣
と同じ発想である。また、この議員にとっては兵士(男性)すら戦争を遂行するため
の道具なんだろう。
私たちにとっての慰安婦問題とは、元慰安婦の名誉と尊厳を回復するのみなら
ず、人間を「モノ」としか見ていない為政者から、自分自身(女性も男性も)の「人間
の尊厳性」を取り戻すための闘いなんだと思う。決して他人事じゃない。
今週の言葉:「いのちを モノ化していくことろに いのちの 尊さはありません」
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戦後長らく、日本人の間では、戦争と言えばB29による空襲や原爆投下など被害
の面ばかりが強調されてきた。それが90年代に入り従軍慰安婦問題や731部隊な
ど加害の面がやっと脚光をあびるようになった。そして現在は拉致問題をきっかけ
に再び私たち日本人の中に被害者感情が渦巻くようになった。
どうにかして上手いことバランスがとれないものだろうか?足を踏まれたら「痛
い!」ということを知っている人なら、他人の「痛い!」という気持ちにも共感・連帯
できるはずなんだけどな・・・
私たちは誰しもが例外なく加害者であると同時に被害者でもある。差別者である
と同時に被差別者でもあるんだと思う。その両者の立場から自分自身を解放して
いくこと、それが同朋運動の目指すべきところなんだろう。
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07年5月12日(土) 「戦争と差別 Part?」
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今朝の朝日新聞に、次回の第4回「念仏者九条の会」全国集会で講演してくださ
るダグラス・ラミス氏の投稿記事が載っていた。賛同する点が多かった。
氏は主張する。ちゃんとした国民投票法を作り(今回のは論外)、それに基づい
て民意を問えばいい。それで9条が改悪されても仕方がない。それが民主主義
だ!と。しかし、9条を変えるなら徴兵制の復活も同時にすべきだ!と主張する。そ
の理由は、改憲を主張・賛同する人たちは自分が戦場に行くことはこれぽっちも考
えていない。どうせ戦場に行くのは他人(自衛隊員であり、もっと言えば格差社会
の中で「負組み」とされた若者達)だと思っている。でもその考え方は、戦後60年
間、沖縄だけに米軍基地を押付け、9条と日米安保の下で「平和」と経済繁栄を謳
歌してきた「本土」による沖縄差別と何ら変わらないと。
まさにその通りだと思う。9条を改悪するなら徴兵制を復活すべきだし、9条を守
るなら、それと同時に沖縄の基地問題(沖縄差別)も解消していかなければならな
いと私は思う。
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問題:以下は誰の発言でしょうか?
発言1:「法律にのっとって適切に報告していると了解している」
発言2:「空き缶を捨てる子供には法律で禁止されていなくてもそうした行為は恥
ずかしい、やってはいけないのだという道徳や規範意識を身につけさせることが必
要」
ヒント1:「ナントカ還元水問題」で松岡大臣が内訳の公表を拒んだ時に、大臣を
弁護したときの発言
ヒント2:内閣府が発行しているメールマガジン(昨年11月)での発言
※答えは今朝の朝日新聞を参照
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『無宗教からの『歎異抄』読解』の続き。
『歎異抄』には末尾に「流罪の記録」が添付されている。なぜココにあるのか?と
いう議論がこれまで何度もされてきたという。それに対して著者は次のように説明
する。
「本願念仏者が最終的に依拠するのは、阿弥陀仏の本願であり、世の道徳でも
なく、国家や社会の約束事でもない。もちろん、世間を生きてゆくうえでは、世間の
約束事を守ることは必要である。だが、その約束事が阿弥陀仏の慈悲と違うとき
には、きっぱりとそれを捨てることができる強さを、念仏者はそなえている。その証
明が流罪の記録にほかならない」(あとがきより)。
今年は「承元の法難・流罪800年」の年にあたるという。なぜ法然上人や親鸞聖
人が時の為政者(天皇・既成仏教教団)により僧籍を剥奪され、流罪に処せられた
のだろか?なぜ親鸞聖人は「非僧・非俗」の宣言をされたのだろうか?決して「松
虫・鈴虫のスキャンダル」が理由でないことだけは確かだろう。(←最近までずっと
そうだと思っていた。中仏でそう習った記憶がある。少なくてもそのスキャンダルだ
けが私の脳裏に残ってしまった。なぜ?蓮如上人がこの『歎異抄』を禁書扱いにし
た理由とも関係があるのかも知れない・・)
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07年5月9日(水) 「「兵戈無用」の願いに生きる」
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『無宗教からの『歎異抄』読解』(阿満利麿著 ちくま新書)を読んだ。その中に次
のような記述があった。「阿弥陀仏の誓いは、凡夫によっては、いわば北極星のよ
うなものだろう。旅をする人には、北極星は到達はできないが、必ず必要なのだ。
北極星という指針がなければ旅ができない。同じように、凡夫には、阿弥陀仏の本
願はとても実践不可能であるが、生きてゆく指針なのである。ましてや、凡夫にも
願いはある。その願いがなんであれ、阿弥陀仏の願いに連続していることが大切
ではないか」(本文より)。
どなたかがおっしゃっていた。浄土真宗の救いとは、(私の)生きる方向性が定ま
るということだ!と。
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米軍の艦載機移転が予定されている山口県の岩国基地で日米合同の航空ショ
ーがあり、過去最多の27万人の見物客が訪れたという(5/6)。
こんなニュースを聞くといつも悲しくなる。戦闘機の爆音に毎日のように苦しめら
れ、基地・訓練移設に反対する地元の人々がいる。その一方で、家族サービスの
ために子どもを航空ショウーに連れて行く親。そして子どもの喜ぶ顔を見て喜ぶ
親。彼らの中には日常の生活の中で戦闘機の爆音に苦しみむ人々の現実や姿は
ないのだろう。
「最近の子どもは自分さえよければいい。他人に対する思いやりがない。個人の
権利ばかり教えてきた戦後教育・教師が悪い。公に奉仕する精神を叩き込もう」と
いう政治家や大人がいる。でも思う。そんな政治家や大人の姿を見て育ったのが、
彼らが言うけしからん!℃qども達じゃないんだろうか?
まあ、そう批判する私も、自分のことしか考えない点においては似たり寄ったりな
んだろうけど・・
でも確かなのは、仏様だけは「それはオカシイ!」と教えて下さっているのだと思
う。私が「オカシ」と言うから「オカシイ」のではない。仏様が「オカシイ」と言うから
「オカシイ」のである。
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