街中に張り巡らされた監視カメラにいつも見張られている社会。機械によって人
間が律せられる社会。喜んでいる人も多いようだけど、なんか悲しいよな・・・。それ
にプライバシーも人権もあったもんじゃない。超監視社会・イギリスでは、都市部で
普通に生活するだけで一日に300回以上監視カメラに自分の姿が映し出されると
いう。これじゃ彼女と街角でキスもできやしない。また、その映像を誰が何処で視
て、どのように利用しているかも全く分からない。気持ち悪いし、不気味で仕方がな
い。
本当に私たちは「安全」のために自らのプライバシーや様々な権利を売り渡して
しまってもいいのだろうか?私たちが普段当たり前のように享受している人権や
様々な権利。これらを得るために、これまでどれだけの先人の苦労や運動・闘い
があったのだろうか?そんなことも全て忘れて、そう簡単に捨て去ってしまってもい
いのだろうか?(つづく)
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「日本人は恥の文化≠忘れてしまった!」と近頃よく聞くようになった。「誰も
見ていないからちょっとぐらいいいやろ・・・」「みんなもやっているし、私も・・」と勝手
なことをする人が増えてきたという。昔ならたとえ誰も見ていなくても「仏様が見てい
る」「お天道様が見ている」と自らの姿を振り返り、自分の行動を恥じるという文化
があったのかも知れない。
ところが最近は神も仏もあったもんじゃない。自分さえよければいい!誰も見て
いない!と言ってはやりたい放題。そこでどうしたかというと、機械が人間を見張る
ようになった。
大阪にアメリカ村≠ニいう若者が集まる場所がある。この地域では一部の若者
による落書きにずっと頭を痛めていたという。夜中にスプレーで商店街のシャッタ
ーや壁、電信柱など至る所に落書きをする。消しても消してもまた直ぐに落書きさ
れる。業を煮やした地域の人たちはお金を出し合って監視カメラを設置した。する
と落書きは徐々に減っていたそうだ。
今、全国各地で警察や自治会が中心となって街中に監視カメラを設置する取り
組みが行われている(8/24)。その結果落書きなどの軽犯罪が減っているらしい。
地域の住民も喜んでいるという。いつも監視カメラによって見られているという効果
は絶大である。目出度し、目出度し・・・・。うん?!本当に?(つづく)
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ある門徒さんの話。その方にはお孫さんがいる。仮にイチロー君とする。イチロ
ー君はなぜか仏間で遊ぶことが多い。なぜか落ち着くのだという。でもやんちゃな
盛りの年頃である。悪いことばかりする。障子を破ったり、あちこちに落書きした
り、おリンで遊んだり、線香を散らかしたりと。お婆ちゃんが「止めなさい」と言って
も聞く耳を持たない。そこでいつもどうするかというと、お婆ちゃんはイチロー君に
向かってこう言う。「お祖父ちゃんが見ているよ!」と。するとそれまで悪さばかりし
ていたイチロー君は急にお仏壇の前に座り、「お祖父ちゃんゴメンね」と素直に謝
るんだそうだ。
もちろん小さい子どもだから、しばらくすると直ぐに忘れてまた悪いことを繰り返
す。でもこんな小さい子どもでも、亡くなったお祖父ちゃんにいつも見られていると
いう感覚があるのだろう。仏様にいつも見守られているという感覚があるからこ
そ、自分のやったことに対して「恥ずかしい」という気持ちが芽生えてくるんだろう。
よく昔の親は「仏様が見ているよ!」「まんまちゃんが怒っているよ!」と言って子
どもを叱ったような気がする・・・(つづく)
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昨今の日本のアジア外交(安全保障)、素人の私にもその幼稚さがわかる。日本
にとって中国は軍事的にも経済的にも色んな意味で脅威なんだろう。そこで何とか
してその中国の動を牽制しようと必死である。これまでの日米同盟に加えて、オー
ストラリアやインドとの関係を強化することで「対中国包囲網」をどうやら作りたいよ
うだ(8/10)。もちろん外交というのは自国の利益をいかにして守るかを最優先に
考えるものなんだろうけど、本当に今の日本の外交戦略が将来の日本の利益にな
るんだろうか?
都合の悪いクラスメート(=ライバル)がいる。何とかして彼を孤立させ蹴落とそう
と周りの友達に彼の悪口を言いふらしている。まるでそんな幼稚な子どものよう
だ。
案の定、中国が怒るのは言うまでもなく、インド(8/24)や同盟国アメリカ(8/10)に
までそのような幼稚な行動を戒められる始末である。
もちろんライバルはいても構わない。しかしそれを貶めることによって自分の立
場を守ろうとするよりも、互いにその力を認め合い切磋琢磨し合いながら、共に成
長していく、そんな関係を築けないものだろうか・・
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「戦死者」と「戦没者」とでは意味が異なるらしい。「戦死者」とは「戦闘で死亡した
戦闘員のこと」であり、「戦没者」とは「戦闘員も非戦闘員も含め、広い意味で戦争
によって命を失った人々のこと」なんだそうだ。
毎年8月15日の全国戦没者追悼式で首相が読む式辞。昨年の小泉前首相の式
辞と今年の安倍首相の式辞とを比べてみると、ある大きな違いがあるという(8/
23)。前首相は「今日の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも*スを落とした
方々の尊い犠牲と、戦後の国民のたゆまぬ努力の上に築かれています」と式辞を
読んだ。ところが今年は「心ならずも=vの部分が「かけがえのない=vになっ
ていたという。安倍首相が自ら書き換えたという。理由は、心ならずも≠ナは「自
ら命をささげた戦死者に失礼だ」とのこと。
どうやら安倍首相にとっては「戦死者」と「戦没者」では全然違うらしい。彼にとっ
て大切なのは、「国家(=自分)」のために命を捧げてくれる「戦死者」であって、戦
争のとばっちりを受けて命を奪われた「戦没者」ではないようだ。まさに「ヤスクニ」
そのものである。
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1泊2日で教区少年連盟主催のキャンプ(「仏の集い」)に参加・お手伝いしてき
た。今年で4回目である。川遊びをしたり、かき氷やそうめん流しをしたり、ゲーム・
紙芝居をしたり法話を聞いたりとすごく楽しかった。何と言っても子ども達の喜ぶ顔
を見ることが出来てよかった。女の子は素直で可愛らしいし、男の子も少し生意気
だけどやっぱり可愛い。本当に子どもは社会の宝物だなと思った。
改憲を叫ぶ人たち。憲法が変わっても決して彼らは戦場には行かない。戦場で
戦わされるのは今の子ども達である。この子ども達の笑顔を、つまらない大人のプ
ライド(=復古主義・国粋主義など)や利益のために絶対に奪わせはしない!とあ
らためて強く思った。
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07年8月21日(火) 「映画:「出口のない海」A」
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昨日も書いた「人間魚雷♂天」の映画・ドラマの話。映画の中である一人の
若者が登場する。私の中で一番印象に残った人物だった。
彼は自ら進んで特攻に志願しする。しかし出撃命令を受けるものの、特攻艇(回
天)の故障により二度も出撃に失敗する。それを横目に戦友がどんどんと出撃して
いく。焦った青年は主人公に「お前の「回天」を俺に譲ってくれ!」と懇願する。それ
に対して主人公は「そんなに焦る必要はない。また出撃のチャンスがある。それま
で待て!」と諭す。すると青年は「もう直ぐ日本は降伏する。これが最後のチャンス
なんだ。代わってくれ」と食い下がる。不思議に思った主人公が「なぜそんなに死に
急ぐのか?」と尋ねる。すると青年は「俺は戦死して軍神に成るんだ。俺の家は貧
しい。軍神に成るしか俺が世間から認められる道は他にないんだ!」と答える。(ち
なみに彼は大学では陸上部に所属し、将来はオリンピック出場も夢でないと目され
た有望選手だった。ところが戦争によってその夢を絶たれる。そこで特攻隊とな
り、勇ましく$死し、軍神となることで自らの存在意義を確認しようとしたのか
も知れない。)
私にはこの青年の姿が、昨今の格差社会の中で将来の夢を奪われ、自らの居
場所を必死に探す現在の日本の若者の姿と重なって仕方がなかった。またこの映
画を通して、「国のために戦死すれば軍神となり永遠に国家によって丁重に祀られ
るのだ!」という戦争動員装置としての「ヤスクニ(靖国神社)」がいかに当時有効
に機能していたかを改めて実感した。
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07年8月20日(月) 「映画:「出口のない海」@」
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昨夜、テレビで「人間魚雷♂天」(市川海老蔵主演)を描いたドラマが放映さ
れていた。
私などはこういう映画やドラマを視ると、「戦争ってなんて惨いんだ!」「もう二度と
戦争はしたくない!」と思ってしまう。ところが最近はちょっと違うらしい。「私も彼等
(特攻隊員)のように命をかけて頑張れるような何かをしたい!」とか、「戦争になっ
たら、自分も彼らのように国のため家族のために命を捧げることができるだろう
か?」といった反応をする若者がいるらしい。また、年配の人々の中にも、最近の
若者の不甲斐なさを見聞きするにつけてか、「昔、自らの命をかけて国を守った若
者がいた。彼らのお陰で今の日本がある。もっと彼等を見習え!」と言っている人
をよく見かけるようになった。それも、別に右翼やバリバリの保守でない普通の人
が・・・
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イラクに派兵されていた自衛隊の某隊長(現参議院議員)があるニュース番組
で、イラク駐留中、もし同盟国の軍隊が攻撃を受けたら、憲法違反であることを認
識しながら、「駆けつけ警備」を行うつもりだったと証言したという(8/16)。自衛隊
の中にはこんなことを考えている隊員(指揮官)もいるんだと思うと、正直ショックだ
った。これじゃ、憲法もシビリアンコントロールもあったもんじゃない。
先日新聞を読んでいたらこんな特集記事があった。日本人の中にも、アメリカの
永住権を取得して米軍兵士として実際に戦場で戦っている人がいるそうだ。そんな
彼らと若い自衛隊員とが交流する機会があるという。その時、戦場で自由に武器
を使用できる米軍兵士を羨ましがる隊員が結構多いという。毎日辛い訓練をして
いるのに、その成果を試す機会が自衛隊にはない。それに対する欲求不満やスト
レスがあるのだと・・・
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07年8月16日(木) 「日本さえ平和なら・・・」
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終戦記念日の昨日、ある情報番組を視ていた。空襲や特攻隊の特集などがあり
コメンテーターやゲストのほとんどが「二度と戦争は起こしてはいけない!」と言っ
ていた。ところがである。話題がインド洋での海上自衛隊による給油活動になる
と、今まで「戦争はいけない!」と言っていた人たちが急に手のひらを返したように
「あれはいい!」と言い出した。
何かすごく複雑な気持ちになった。戦争とは、日本の若者が戦死したり、日本国
土が空襲されることだけなのだろうか?アフガニスタンやイラクで今行われている
ことは私たち日本人にとっては戦争ではないんだろうか?
昨日、多くの日本人が「戦争はいけない!」と改めて心に誓ったと思う。それはそ
れですごく大切なことだと思う。でもなぜか素直に喜べない自分がいた・・・
今週の言葉:「私は 本当に平和を 願っているのだろうか」
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07年8月15日(水) 「8月15日:終戦(敗戦)記念日に思うこと」
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今朝の朝日新聞に次のような特集記事があった。国民保護法に基づいてある自
治体が図上訓練をした。九州北部に外国の軍隊が上陸するとの想定の下、自治
体が警察や自衛隊の協力を得ながら住民をバスで避難させる。訓練は成功し、敵
が上陸する二日前に全住民を避難させることが出来たんだそうだ。なぜこんなにも
スムーズに避難が完了したかというと、実はこの訓練では病人やお年寄り、障害
者など自力で避難場所まで脱出できない住民の存在は想定していなかったからだ
という。全住民が自力で脱出できるとの想定の下での訓練だった。
有事法制が制定された後、いくつかの自衛隊の駐屯地の中に、ビルや学校、病
院などを建て、市街戦を想定した訓練施設が作られたという。そこで自衛隊は、全
ての住民が避難したという想定の下、敵の軍隊を征圧するための訓練をしている
んだそうだ・・・
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07年8月14日(火) 「『歴史の中の親鸞』を読むC」
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力の強いものが弱いものを虐げ、虐げられた者がまた更に弱い者を虐げる。そ
れがあたかも当然と考えられ、互いが互いに対立し合い傷つけ合うことしか知らな
かった人々。そんな人々の中に、法然上人・親鸞聖人によってお念仏の教えが広
められる。
お念仏の教えとは、「ナマンダブツ」とお念仏を称えるだけで、全ての人が阿弥陀
仏によって平等に救われるという教えである。身分も貧富も男女の差も関係ない。
如来様の前では全ての人が同じようにかけがえのない尊い存在であるという教え
である。
その教えに出遇った人々は、人間が他者を支配し、差別することがいかに愚か
なことであるかに気づくのである。自己中心的な考え方に捉われ、バラバラに生き
ることしか知らなかった人々は、皆共に如来様から願われた仲間であることを知る
のである。同じ仲間(凡夫)として共に手を取り合い、支え合い、助け合いながら生
きていく御同朋の世界が開かれてくるのである。人々に連帯を促し、御同朋として
共に生きていく道を明らかにする教え、それがお念仏だったんだろう。だからこそ
当時の人々の生きる力となり得たんだと思う。
親鸞聖人の教えは決して死んでからの教えではない。教えに出遇った人が、御
同朋の社会を目指して共に歩むという実践を伴う教えである。その教えを一人でも
多くの人に伝えるために親鸞聖人は生涯を捧げられた。伝えられた教えが一人の
念仏者を育て、その教えに支えられた念仏者の生き様が更に多くの念仏者を生み
出す。その絶えることのない永遠の営み、それが親鸞聖人の仰る「末通りたる浄
土の慈悲」なんだと思う。
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07年8月13日(月) 「『歴史の中の親鸞』を読むB」
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昔、「ざるドジョウ」という話を聞いたことがある。ザルの中にたくさんのドジョウが
入れられている。ドジョウたちは何とかしてそこから逃げ出そうとする。我先とばか
りに。互いに押し合い踏みつけあううちに、やがて強いドジョウが上になり、力の弱
いドジョウがザルの底で苦しんでいるという話だった。
親鸞聖人が生きた時代の人々も同じような状況だったという。天地の災いと為政
政者からの仮借なき重圧におしひがれる人々。少しでもこの苦しみから逃れよう
と、ある人は神仏の前に媚びへつらい自らの幸福をひたすら祈る。ある人は、より
弱い立場の人々を差別し蔑むことで自らの欲求不満のはけ口とする。そんな自己
中心的な態度で、互いが互いに心を閉ざし、傷つけあうような状況。本当に不満を
ぶつけるべき相手は他にいるのに、仲間同士で対立し、バラバラにしか生きること
を知らなかった人々。そんな社会だった。
そんな時代に、親鸞聖人一人が、「衆生利益のため」に経典を読誦してみても、
たとえ飢えに苦しむ人々に僅かばかりの施しをしてみても、焼け石に水である。一
時の空腹は満たせても、何の問題解決にもなっていない。それどころか「俺はこれ
だけやってあげたんだ」という驕りや自己満足が出てくるだけである。まさに「末と
おらない」慈悲である。
でも「浄土の慈悲」、親鸞聖人が広められようとしたお念仏の教えはそんなんじゃ
ないという。(つづく)
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07年8月12日(日) 「『歴史の中の親鸞』を読むA」
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ある時、飢饉に苦しむ人々を前にして親鸞聖人は「衆生利益」のために三部経
(『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』)を千回読むことを決意さ
れる。しかし、途中で「それは自力だ」として中止するというエピソードがある。
それに関連してかどうか分からないけど、『歎異抄』の第四条に「聖道の慈悲・浄
土の慈悲」というのがある。「聖道の慈悲」=衆生のために経典を読誦したりする
ことでは本当に人々を救うことなど出来ない。「浄土の慈悲」=今生ではお念仏を
称え、来世で仏と成り、それから自由自在に人々を救うのだと。
正直、『歎異抄』の中で一番違和感のある条だった。もちろん経典を称えることで
何かご利益があるとは思わない。でも、それは「自力だ!」と言って、苦しむ人々を
横目に、お念仏だけ称えている親鸞聖人の姿を想像すると少しガッカリした記憶が
ある。たとえ効き目などなくてもいい。そんなの呪術だと分かっていてもいい。どっ
ちみち何も出来ないなら、いてもたってもいれない気持ちからひたすら三部経を称
える、そんな親鸞聖人の方がよっぽど格好いいと思っていた。
でも今回「浄土の慈悲」とはそんなものじゃないことが分かった。私がこれまで考
えていたお念仏と、親鸞聖人が喜ばれたお念仏とは180度全く違うことが分かっ
た。(つづく)
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昨夜、テレビドラマ・「はだしのゲン」を視た。小学生の頃、よくマンガ本の「はだし
のゲン」を読んだ記憶がある。懐かしいな〜と思いながら視ていた。
戦争に反対するゲンのお父さんに対して、町の人々が「非国民!非国民!」と言
う場面がなぜか印象に残った。なぜだろうか・・・?
今晩、原爆が投下された後の様子を描いた第2部が放映される。
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07年8月10日(金) 「『歴史の中の親鸞』を読む@」
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『歴史の中の親鸞』(二葉憲香他 永田文章堂)を読む。久々にいい本に出遇え
たような気がする。目からウロコが落ちた。これまで聞いてきた浄土真宗の教え、
親鸞聖人の伝記は、なぜか私にはスッキリしなかった。ひねくれ者なんだろう
か・・。何か誤魔化されているような、所詮死んでからの話にしか聞こえなかった。
しかし今回の本は違った。親鸞聖人の教えが、その伝道がいかに当時の人々の
生きる力となったのかが歴史の中で具体的に語られていた。まさにこれが親鸞聖
人の教えなんだと思った。苦悩に喘ぐ人々の生きる力となるお念仏の教えなんだと
思った。(つづく)
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07年8月9日(木) 「8月9日:長崎原爆投下の日に思うこと」
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今日は長崎への原爆投下の日である。私が小中学校の頃は、この日か、6日の
広島に原爆が投下された日が毎年夏休み中の登校日だった。担任の先生から原
爆についての話を聞いた記憶がある。はて、今の学校はどうなっているのだろう
か?
年月が経つにつれてどんどんと戦争の記憶、原爆の記憶が薄れていくような気
がする。でも、二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも、絶対に今日の日の記憶を
未来に、子ども達に伝えていかなければならないんだと思う。
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民主党の小沢代表は「テロ対策特別措置法」の延長について反対すると明言し
たという(8/7)。「アフガニスタン戦争は『これは米国の戦争だ』とブッシュ米大統領
が始めた戦争だ。国連安保理決議で認められた活動と、米国の戦争では全く性格
が違う」と。
アメリカの戦争には追従しないという点では評価できるのだと思う。でも「国連軍
の指揮の元での自衛隊の海外派兵は賛成」というのが小沢氏の持論なんだろう・・
私たちの立場は9条を守り、その非戦の精神を具体的に実践していくことによっ
て日本の平和を、世界の平和を実現していくところにある。絶対にブレてはいけな
いんだと思う。
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正直、改憲に対する姿勢が少しずつ変わってきているような気がする。それは国
民の間でもそうだし、国会議員の間でも感じる。先の参議院選挙に当選した議員
へのアンケートによると、憲法改定に、9条改定に反対の議員の数が確実に増えて
いる(8/7)。
昨今の首相をはじめとした保守勢力による余りにも露骨な右傾化路線に対する
警戒感もあるんだろうけど、やっぱり9条の会をはじめとした市民の地道な活動の
成果なんだと思う。
でもまだまだ安心は出来ない。研修会などで門徒さんと「憲法改定問題」につい
て話していても、やっぱり賛成・反対が半々ってところだろうか・・・。地道に腹を割
って話し合っていく中で、何とか互いに共有できるものを見出していければと思う。
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07年8月6日(月) 「8月6日:広島原爆投下の日に思うこと」
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今日は広島に原爆が投下されて62年目の日となる。式典で、広島市の秋葉市長
はこれまでになく強く核保有国の指導者達を非難すると同時に、原爆が投下され
た直後の状況を事細かに語ったという。昨今、「唯一の被爆国」日本の指導者まで
もが核保有を容認するかのような発言を繰り返していることへの危機感からだろう
か・・・
最近痛感することがある。いくら言葉で「核兵器は怖い!」「戦争は絶対にしては
ならない!」「仏教は非戦だの教えだ!」と叫んでみてもダメなんだと思う。やっぱり
原爆や戦争の実相を自分の目で見聞きし、身体でその悲惨さを実感してこそはじ
めて戦争への怒り・平和への願いが生まれてくるのだと思う。
ところが最近、小・中学校の修学旅行で広島や長崎の平和公園を訪れることが
少なくなったと聞く。その理由の一つとして、今の子どもはあの悲惨な展示内容に
耐えられないからだという。すごく残念だと思う。私のときなどは、小学校では広
島、中学校では長崎を訪れ平和学習をした。確かに目を背けたくなるような場面も
あったけど、あの時の体験が今の私の非戦・平和の取り組みの原点になっている
のだと思う。ショックで2、3日ご飯が喉を通らなくてもいいと思う。同じあやまちを繰
り返さないためにも、絶対に広島・長崎を訪れて欲しいと思う。
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首相の肝いりで立ち上げ、初めから結論ありきと揶揄されてきた安保懇(解釈改
憲によって集団的自衛権を認めることを目的としたもの)。参議院選挙の結果、野
党ばかりでなく公明党など与党からの抵抗も考慮し、結局関連法案の制定を諦め
ることとなったという(8/5)。
いかにこれまで数の横暴≠ナ好き勝手なことをしてきたか、また、いかに選挙
というものが大切かがよく分かった。もし自民党があの時勝利していたら・・・、考え
るだけで鳥肌が立つ。
でもどうなんだろうか?改憲派は、解釈改憲が無理やら、やっぱり憲法改悪に全
力を傾けてくるんじゃないだろうか?今後政界再編などあらゆることが考えられる
んだと思う。
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昭和天皇が側近に、A級戦犯の靖国神社への合祀に対して不快感を表していた
という記事があった(8/4)。今日の朝日新聞の記事である。
この記事は一体何を言いたいのだろうか?天皇陛下が反対しているんだから合
祀はダメなんだ!とでも言いたいのだろうか?それなら「これは天皇陛下の命令で
ある」と言って多くの国民が戦争に突き進んでいった時代となんら変わらないような
気がする。
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07年8月3日(金) 「映画:「新・あつい壁」を観る」
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先日、映画:「新・あつい壁」を観賞し、監督の中山節夫さんの講演を聞く機会が
あった。この映画は50年前実際にあった事件をモチーフにした「フィクション」だとい
う。映画では、ハンセン病患者に対する偏見・差別がいかに厳しいものであった
か、またその偏見・差別が現在でも続いているということを克明に描いていた(実
際この映画が完成するまでに様々な困難があったという。まさにそれこそ今でもハ
ンセン病差別が終わってないという現実なんだろう・・)。またこの映画のもう一つの
ポイントとして、(元)ハンセン病患者の家族に対する差別の実態についても描か
れている。
以前、この映画の上映実行委員会の事務局長である斎藤真さんのお話を聞い
たことがある。その中で、この映画は見る人によって泣く所が違うのだそうだ。療養
所入所者の方が涙を流す場面と、私たちが涙を流す場面が異なると。実際に観て
みてやっぱり私は後者の場面だったような気がする。それこそまさに私自身が今
後乗り越えていかなければならない厚い壁≠ネのかも知れないと思った。
とにかくすごくいい映画だった。一緒に観た教区の相談員さんとも、一人でも多く
の人にこの映画を観てもうらうためにも、是非教区での上映会を実現させようと誓
い合ったことである。
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07年8月2日(木) 「「念仏者九条の会」第5回全国集会のご案内」
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「念仏者九条の会」の第5回全国集会の日程が決まった。12月3日、大阪支部の
結成集会の後、大阪津村別院で開催される。ドイツ文化社会史研究者の林功三
先生が「ドイツ・過去の克服≠ノ学ぶ平和運動」と題して記念講演をして下さる。
なぜ近頃の日本人は日本という国に誇りを持てないのか?その答えが分かるか
も知れない。
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アメリカ下院が従軍慰安婦決議を採択した(7/31)。まあ、日本が謝罪するのは
米国ではなく被害者であることは言うもでもないけど、同盟国(?)アメリカすら最近
の日本社会の右傾化、首相をはじめとした政治家の戦前回帰に危機感を抱いて
いるということなんだろう。
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参議院選挙は自民党の歴史的大敗で終わった。あれだけ滅茶苦茶な国会運営
をしておけば当然だと思う。
でも今回の選挙結果は改憲問題にはどのような影響があるのだろうか?民主党
は大勝したけど、護憲を公約にしていた政党は議席数を減らしたし、9条ネットは結
局一議席も取れなかった。まあ、自民党が公約していた2010年までの改憲は難し
くなっただろうけど、まだまだ安心できない状況に変わりはないと思う。地道に活動
を続けていこう。
ちなみに教団が応援していた民主党の藤谷氏が当選した。「念仏者九条の会」
のアンケートによると、藤谷氏は9条の改悪にも、20条の改悪にも反対していた(新
しい追悼施設の建設の可否だけは無回答)。土壇場で気が変わらないように最後
まで注視していくべきだと思う。それが応援し一票を投じた者の責任だろう。
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今日は参議院選挙。この選挙ほど自分自身の考え方が変わったものはない。若
い頃は選挙に行かなかった。面倒臭いとか政治に関心がなかった訳ではない。選
挙に行かないことで投票率を下げて、今の政治にNO!を突きつけようと考えてい
た。でも今は違う。こうやって憲法の問題などを考えるようになって、いかに選挙と
いうのが私たち国民にとって大切な権利なのか、しみじみ実感するようになった。
「念仏者九条の会」が実施したアンケート結果をもう一度見てから、投票に行こう
と思う。
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こんなニュースがあった。自民党の劣勢が伝えられる明日の参議院選挙の応援
演説(?)で、森元首相が「自民党が負けて喜ぶのは北朝鮮だけ」みたいなことを
話していたという。これを聞きて、どこか他の政党に投票しようとしていた人が「や
っぱり自民党に投票しよう」なんてなるんだろうか?
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都立の中高一貫校5校が来年度から使用する教科書に「つくる会」発行の教科
書を採択したんだそうだ(7/26)。中高一貫校といえば、将来の日本を背負って立
つような「エリート」の卵も多いはず。そこで「つくる会」の教科書である・・・
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07年7月26日(木) 「差別と殺戮のないくに、それっていいですね!」
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先日、同朋大学の菱木政晴先生のお話を聞く機会があった。
菱木先生の称名念仏観は非常に面白い。「私の名前は阿弥陀といいます。差別
と殺戮のないくにを建立することにしました。この国への参加資格は『それっていい
ですね、私も阿弥陀さんに賛成です。私もそのくにに所属したいです(南無阿弥陀
仏)』と声に出して言うこと(称名念仏)だけです。みんながそれを聞いて同じように
『それっていいですね』と言っています(諸仏称賛)から」(レジュメより)と。
「それっていいですね」と声に出して言うだけでいいんだそうだ。本当にそれで差
別や殺戮がなくなるのかと疑問に思うかもしれないけど、その声を聞き、共感した
また別の人が同じように「それっていいですね」と声に出して言う。それによって「平
和と平等」への希望が広まっていくのだと。「希望しか平和と平等を実現するもの
はない」と仰っていた。
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仙台市が北朝鮮系の音楽舞踊団体に市民会館使用用許可を取り消した問題
で、仙台地裁は使用の取消は違法との判断を下した(7/24)。当然の判断だと思
う。
思う。北朝鮮が憎いからといってなぜ私たちは民主主義まで放棄しなければなら
ないんだろうか?
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意外と知られていないけど、日本企業も戦闘機や武器などの製造・研究を行って
おり、それらを防衛庁などに納入しているんだそうだ(7/24)。日本にもちゃんと軍
需産業があるということだろう。
たまに防衛庁長官などが「武器輸出三原則」の緩和を主張するのも(5/8)、産業
界からの要請があるからだろうか?軍需産業というのは戦争がある限り儲かるら
しいからな・・
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今度の参議院選挙は、当初安倍首相が争点化するとしていた「改憲問題」が、年
金問題などでかすんでしまっているという(7/23)。でもいくら陰が薄くなろうとも、こ
のまま行けば、今回当選した議員が国会で改憲発議をすることになる。重要な選
挙に変わりはない。
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今、世界では毎日およそ2万4千人が飢餓で亡くなっているという。そのうち4分の
3が5歳未満の子どもだという。そして、約8億人が飢餓や栄養失調で苦しんでいる
んだそうだ。自分自身の無力さをあらためて実感する。
日本も、憲法を変えて武力で国際貢献をするんだ!と主張する前に、やらなけれ
ばならないことが一杯あるんじゃないだろうか?飢餓の問題や温暖化の問題・・。
そっちのほうがよっぽど大切だし、切羽詰った問題だと思う。それなのになぜなん
だろう・・?
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教職員組合主催の研修会への会場(学校)貸出しを東京都が拒否した問題で、
最高裁は都の上告を棄却し、学校使用禁止は違法であるとの判断を下したという
(7/20)。当然と言えば当然の判決である。
都の会場使用拒否の理由を聞いて驚いた。「集会のチラシに都の教育方針に反
する内容が含まれている」からだそうだ。大きな組織になればなる程色々な考えを
持った人がいるはず。それを組織の方針に反するとの理由で排除するなんて異常
としか思えない。批判があるからこそ組織はより良い方向に発展していくんだと思
う。批判を許さない社会や組織に未来などないと思う。それこそ日本人が嫌う北朝
鮮のような全体主義国家である。
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中越地震による刈羽原発の放射能漏れ事故を受け、原発の耐震強度問題が注
目されている。昨日テレビを視ていたら東京に住むある評論家が次のようにコメン
トしていた。「・・・でも原発は日本にとっては絶対に必要なものです。それを踏まえ
た上で安全対策をしっかりやってほしい」と。
彼の主張を否定するつもりはない。でもせめて新潟や福島にある原発を東京湾
に持ってきてから原発の存在の可否を論じてくれよ!と思った。関西に住む私たち
も同じである。福井にある原発を大阪湾に持ってきてから、原発を必要とするの
か?しないのか?議論すべきだと思う。
危険なものを地方に押付けている私たちに、原発がどうのこうの言う資格がある
のだろうか?まずは「危険な目に遭わせてしまって申し訳ありません」と頭を下げる
のが筋だと思う。
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07年7月19日(木) 「どこまで落ちていくんだろうか・・・」
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教育現場への「君が代・日の丸」の押付けと言えば東京都教育委員会を思い出
す。しかし、それは決して東京だけの話ではないらしい。
北海道庁が私学補助金の査定項目として「国旗掲揚と国歌斉唱の実施状況」の
報告を求めていたという(7/14)。助成金の査定項目にである。どんな言い訳をしよ
うとも、「金(=力)で言うことを聞かせようとしていた」ととられても文句は言えない
だろう。「マリア像の隣に日の丸を掲げろとでもいうのか」とキリスト教系の学校が
反発するのも当然だと思う。よくもまあ、ココまで落ちたもんだと思う。ここまでくれ
ば「日の丸・君が代」すらも侮辱しているとしか思えない。
ところで私たち本願寺派の宗門学校ではどうしているのだろうか?阿弥陀さんの
横に日の丸なんてまさか絶対にありえないよね・・
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今、私たちの本願寺教団を含め仏教教団全体が人々の信頼を失い、衰退の一
途を辿っている。かといって宗教自体が人々から見放されたわけでもなさそうだ。
一部の新宗教は元気がある。
なぜ創価学会があれほど元気があるのか?なぜ創価学会の信者さんたちはあ
んなに熱心に活動するのか?それは自分自身で宗教を選んだからだという。これ
までの宗教を一度捨てて、自分の責任において学会を選んだ。だから一生懸命な
んだと。それに比べて私たちの本願寺教団をはじめ既成仏教の信者さんのほとん
どは宗教に対する自己選択がない。祖先代々の家の宗教が真宗だったから、何と
なく自分も真宗であるという人も多いのだと思う。そんなこともあり、お寺のために
何かしようという気持ちも中々起きにくいんじゃないだろうか。
でもそれは何も門徒さんの責任ではない。江戸時代から続く寺檀関係の上に胡
坐をかき、葬儀や法事だけを営み、生きる力となる教えを説いて来なかった私たち
僧侶に責任があるんだと思う。今はまだ安泰かも知れない。しかし、はたして50年
先、100年先に、私のお寺は、本願寺教団は今のように存在しているのだろうか?
まさに自分で自分の首を絞めているんだろう。
同朋運動とは、もちろん差別をしてきた教団の責任として部落差別の解消に寄
与することが大きな目的の一つだと思う。しかしそれだけじゃないと思う。私たちの
教団がお釈迦様が開いてくださった本来の仏教教団に戻ること。私たち自身が、
親鸞聖人が明らかにしてくださった本来のお念仏の教えをもう一度取り戻すこと。
本当の同朋教団となるための運動なんだと思う。決して他人事じゃない。そんなこ
とを今回の承元の法難800年についてのお話を聞かせていただく中で感じた。(お
わり)
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これまで政治権力による宗教、特に専修念仏教団に対する弾圧の歴史を見てき
た。ところで、弾圧を受けた側の教団自体は、それに対してどの対応してきたのだ
ろうか?断固として抵抗し続けたのだろうか?
答えはNO!である。自らの保身のためか、他に理由があったのか、抵抗するよ
りもむしろ政治権力の意向を汲み取り、自ら積極的にその教えを捻じ曲げてきたと
いう歴史がある。その代表的なものが真俗二諦という教学理解である。
真俗二諦とは、簡単に言えば、「専修念仏の教えは現実社会の問題には口を出
さない。仏様(仏教)の出番は人が死んでからである。お寺は死者のお世話をする
ところ(真諦)。生前の価値観はお上の価値観に従いなさい(俗諦)」という教学理
解を指すのだそうだ。
この教学理解こそが、政治権力が作り出した身分制度、部落差別を肯定・温存・
助長したり、明治以降の国家による侵略戦争を教団が肯定・美化する根拠となっ
た。そしてそれが現在でもなお教学や布教現場で脈々と受け継がれているからこ
そ、真宗の教えが生きる力とはなりえず、人々からソッポを向かれる原因となって
いるのではないだろうか・・・(つづく)
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07年7月16日(月) 「安らかにお眠りください=v
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ある程度予想はできたけど、やっぱり実際に数字を前にすると愕然とする。今度
の参議院選挙の自民党からの立候補者の32%が日本の核武装の検討を容認し
ているという(7/17)。前回よりも7ポイントも増えているらしい。
「安らかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しません。」
うかうかと眠ってもおれないだろうな・・・
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江戸幕府は民衆支配の道具として寺請制度を制定する。寺請制度とは、全ての
人を必ずどころかのお寺の檀家として登録させ(寺檀関係)、出産や結婚、死亡時
などの情報をお寺に管理させる、今の戸籍制度のようなものだろうか・・。
この制度の目的の一つはキリシタンの取り締まりであった。各寺院の住職が「あ
そこの家はうちの檀家だ!キリシタンではない!」と証明するのである。ちなみにこ
のキリスト教というのも、信者のご本尊(神)に対する自意識が非常に強い宗教だ
という。
さて、この寺請制度、もう一つ大きな目的があった。それはお寺(仏教)の機能
を、生きる価値観を論ずるのではなく、死の行事に係わるだけ宗教にすることであ
った。本来、お釈迦様の時代から仏教教団というのは死者儀礼(葬儀)にはあまり
積極的に係わってこなかったという。なぜなら仏教とは、人生をいかに生きるかを
教える宗教だからである。しかしそれでは政治権力にとって都合が悪い。仏教に人
生のリーダー性を執らせたくない。そこで仏教を死後の宗教にしたのである。所
謂、葬式仏教の誕生である。お寺は檀家の思想管理を担当すると同時に、葬儀や
法事など死者儀礼が主な仕事となる。そしてそれが現在まで続いている。なぜ
か?その(本来の機能を捨て去る)代償として、お寺・僧侶は経済的安定(お布施・
戒名料等)を手に入れることが出来たからだろう・・。(つづく)
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07年7月14日(土) 「参院選立候補予定者へのアンケート結果」
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この度、「念仏者九条の会」が参議院選挙立候補予定者に対して、憲法9条及び
憲法20条(政教分離規定)に関する公開アンケートを実施した。私たちの教団が
「宗門特別推薦」として積極的に応援する候補者や、「宗門推薦」を出している候補
者のアンケートも掲載されている。投票の際の参考にして下さい。
詳しくは→「念仏者九条の会」ホームページ
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多くの戦国武将が本願寺教団・真宗門徒を恐れたが、中でも一番その力を恐れ
たのが徳川家康だったという。家康はあらゆる手を使って本願寺教団の弱体化を
図ることとなる。その結果、専修念仏教団は、法然上人や親鸞聖人が明らかにし
て下さった教えとは全く異なる教えを頂く教団になっていく。
まず、教団内の内紛を利用して、本願寺教団を東と西に分裂させた。政治権力
の民衆支配のもっとも有効な手段の一つである分断支配である。元々一つのグル
ープであったものを分裂させ、互いにいがみ合わせる。一つの勢力を半分にして
も、その勢力は単純に2分の1になるわけじゃないという。互いにいがみ合わせるこ
とによって、4分の1でも、5分の1にでもその力を削ぐことが出来るのだという。「士
農工商とその他」の身分制度もそのためだろう。民衆が一致団結して武士に立向
かって来ないように、上下の身分を作り、互いにいがみ合わせる。政治権力に対
する怒りを、被差別身分の人々にに向けさせることによって、ガス抜きをするのだ
ろう。
それでも宗教の力を恐れる幕府(政治権力)は更なる手を打ってくる。それが寺
請け制度である。(つづく)
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宗教を信仰するとは、自分の中にご本尊(一番尊いもの)を新たに立てていくこと
だという。ご本尊とは、人生の中で何が一番大切なのか、その価値判断の基準・
中心となるものである。特に、法然上人の専修念仏教団においては、信仰者によ
る阿弥陀如来一仏(ご本尊)への絶対帰依の意識が非常に強かった。
戦国時代の武将・織田信長は、武力によって「日本の中で信長が一番尊いの
だ!」と宣言した。そして自らを神とし、その前に人々を跪かそうとした。ところが、
当時の本願寺教団・真宗門徒は「一番尊いのは阿弥陀仏だ」と言っては意に介さ
ない。信長にとってこれ程の危険思想はない。自らの権力基盤を脅しかねない。現
に、一向一揆などを起こして政治権力に刃向かってくる念仏者が各地に存在す
る。そこで信長は本願寺教団を弾圧するのである。それが石山合戦だという。
宗教一揆に対する弾圧は悲惨極まりないという。普通の武将同士の戦争なら、
大将の首を取ればそれで大概戦いは終わる。残りの兵隊は吸収合併してしまうん
だそうだ。昨日の敵は今日の味方である。ところが宗教弾圧は違う。女、子どもま
で徹底的に皆殺しにするという。なぜか?危険思想が広まるのを防止するため
に。それほどまでに政治にとって宗教・信仰は脅威となるらしい。(つづく)
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政治にとって宗教は両刃の刃である。
政治とは、良い悪いは別にして、人々の中に出来るだけ共通の価値観を育て、
国民を一つの方向に導いていかなければならない(国民統合)。言葉は悪いけど、
国民をマインドコントロールする必要がある。一方、宗教とは、信仰者の人生の拠
り所となるものであり、その人の価値判断の基準、行動原理となる。信仰を持つと
いうことは、これまでの価値観を相対化させ、新たな価値観を築いていくということ
である。そのために、宗教は、世間の常識や道徳といったものと衝突を起こす可
能性を常に孕んでいる。
政治にとってこれまので価値観を全て相対化してしまう宗教ほど脅威はない。し
かしその一方で、宗教の持つ力を上手く利用出来れば、これ程便利なものもない。
宗教の力を利用して国民をマインドコントロールすることが出来るのである。まさに
それを実践してきたのが日本の政治権力であった。法然上人が生きられた鎮護仏
教・国家仏教然り、極めつけは明治以降の国家神道である。宗教によって身分制
度(差別)と支配秩序(抑圧)を正当化し、国民に受容させたのである。(ちなみに、
その反省・教訓から生まれたのが憲法20条・政教分離規定なんだろう。)
なぜ法然上人の専従念仏教団が国家権力から弾圧されたのか?法然上人は何
も政治運動をするつもりなどなかった。しかし権力側が専修念仏の教えがこれまで
の権力基盤を崩しかねないと判断したからこそ、弾圧したのである。まさに専修念
仏の教えは、これまでの国家仏教・宗教的な思想統制に対峙する教えだったので
ある。(つづく)
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07年7月8日(日) 「教育における競争と排除と差別」
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足立区内にある小学校が、区内で行われた学力テストの答案から障害を持つ児
童の答案を除外し、学校の平均点を吊り上げようとしていたことが判ったという(7/
7)。
その背景には学校の序列化があるという。同区では学校選択制が導入され、テ
ストの成績によって人気校≠ニそうでない学校という序列化が進んでいるという。
人気校≠ノは入学希望者が殺到し教育予算も重点的に配分される(批判により
自粛)。そうでない学校は生徒数が減少し、教育の質も自然と落ちてくる。その悪
循環が永遠に繰り返される可能性がある。実際に、区内に住む児童や親達の間
では、あの学校はエリート校=Aあの小学校は落ちこぼれ校≠ネどといったこ
とが囁かれているという。だからこそ校長先生も、自分の評価を少しでも上げるた
めにも、なりふり構わない手段を使うことになるんだろう。
でも、それによって排除される子どもはどうなるんだろうか?限られた教育予算
の中で、エリート≠ヘ金を使うけど、出来ん者≠ヘどうだっていいと言うのだろ
うか?「せめて実直な精神だけでも・・」ってことだろうか?
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07年7月7日(土) 「7月7日 「盧溝橋事件」の日に思うこと」
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今日は7月7日。七夕である。外を見ると曇り空。あ〜あ、なんて思いながら新聞
を読んでいた。すると今日は盧溝橋事件から70年目の日だ書いてある。この事件
をきっかけに、日中戦争が本格的に始まり、以後、日本による侵略戦争は泥沼化
の道を辿ることとなる。そんな大切な日なのになぜ忘れていたんだろうか?原爆が
落とされた日や終戦記念日は絶対に忘れないのに・・。中国人にとってはこの日
は、8月15日の戦勝記念日と同じぐらい重要であり、また屈辱の日でもあり、決して
忘れることの出来ない日なんだそうだ。
自民党の中川政調会長が、慰安婦問題を謝罪した河野談話を「自虐的な考え方
だ!」と批判したという(7/6)。この中川氏も、先の「しょうがない」発言で大臣を辞
職した久間氏のように、世論の反発を買い、選挙を前にして辞職に追い込まれる
のだろうか・・・
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今年は、承元の法難(念仏教団に対する弾圧事件。4名の弟子が斬首刑にさ
れ、法然上人はじめ親鸞聖人など多数の弟子が流罪となる)から800年の年にな
る。先日、この法難に関するある先生のお話を聞く機会があった。
例えば、京都に三十三間堂がある。あの中には千体もの観音像が安置されてい
る。私たちはあれを見て「ワー、すごいな」と思う。でもあれだけのものを作るのに
どれだけのお金と労力が費やされたか考えたことがあるだろうか?また、あのお
寺の特徴として、外陣(一般信徒が参拝する場所)がほとんどない。当時、一般の
人々は境内で参拝したのである。否、境内にすら入れず、門の外から参拝したと。
否、近づくことさえ許されなかったのかも知れない。
つまり何を言いたいかというと、当時の仏教は全ての人に開かれた教えではなか
ったということ。例えば、今でこそ「国家は誰のもの?」と尋ねられたら、「国民のも
の」と答えれることが出来る。しかし、当時の国家は、天皇とその取り巻きのため
だけのものだった。そして仏教は、その国家の安泰だけを祈願するための鎮護仏
教であった。別の言い方をすれば、仏(神)の権威を利用して、当時の天皇・貴族・
僧侶を頂点とした身分制度を肯定し、それを一般の国民にも不平・不満なく受容さ
せるための思想統制装置であった。(立派な寺院や仏像を建立し、大法要を執行
することの出来る天皇や貴族・僧侶を見て、当時の人々はどう思っただろうか?仏
(神)に奉仕し、救われていく彼らって、自分達とはレベルの違うすごい人たちなん
だ!彼らが自分達の上に立つのも当然なのかも知れないと思ったとしても不思議
はない。)国家と一体化した国家仏教であった。
ところが、そんな社会に、「寺にすら入ることの許されない者を、阿弥陀仏はいつ
も願い、浄土に生まれさせると誓ってくださっている」という教え・専修念仏の教え
が法然上人によって広められたのである。さあ、これは大変だ!!! (つづく)
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07年7月5日(木) 「偏見と差別と憎悪が渦巻く社会」
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少し前にこんなニュースがあった。在日朝鮮人の女性が北朝鮮に点滴薬を持ち
出そうとして、薬事法違反で逮捕され、朝鮮総連の本部までが強制捜査を受け
た。当時、ニュースやワイドショーでも大きく取り上げられ、中には「あの点滴薬を
使って軍事兵器を作るんだ」とまで解説する人までいた。ニュースを見ながら、とん
でもない事をする人もいるんだなと思っていた。
ところがである。何のことはない。逮捕後女性は書類送検されただけであった。
そして今回起訴猶予処分になったという。・・・・?じゃあ、あのときの強制捜査は一
体何だったんだろうか?何のためにマスコミは大々的にあの事件を伝えていたん
だろうか?
当時、女性は「この点滴薬は北朝鮮にいる病気の親族に送るんだ」と言っていた
ような気がする。それなのに私たちはそれには耳を貸さず、この女性が何かとんで
もないことを企んでいるかのように考えた。そして、北朝鮮に対する憎悪や、在日
朝鮮人に対する偏見や差別を強めていったような気がする。
何か最近日本社会全体が異様な雰囲気に覆われているような気がする。よくは
知らないけど、先の大戦前の日本の社会もこんな状況だったんじゃないだろう
か・・・
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もうすぐ参議院選挙がある。今回の選挙は改憲派にとっても護憲派にとっても大
きな意味を持つんだと思う。
ところで西本願寺教団は、民主党の公認候補である僧侶に「宗門特別推薦」とい
うのを与えて宗門挙げて応援している。本願寺に行くと、衣と輪袈裟をかけたその
候補者のポスター(民主党のロゴ入り)が境内を含めて至る所に貼られている。ち
ょっと異様な雰囲気である。また教団は何処かの選挙区の自民党の候補者に対し
ても推薦状を出しているんだそうだ。
民主党と自民党か・・。確かどちらも党としては改憲賛成だよな・・。本人達はどん
な考えを持っているのだろうか?
本願寺派の僧侶は全てとは言わないけど多くが護憲派だと思う。でも身内が出る
なら・・との理由で彼らに投票し、目出度く当選したとする。しかしその議員が憲法
改定発議の時に賛成票を投じようものなら・・、う〜ん、そんな場面を想像もしたく
ない。
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