08年1月11日(金) 「憲法20条改定と排除・差別A」
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前回、憲法20条改定の背景には、擬似共同体≠ニしての「神の国(国家神
道)」復活によって、帰属すべき居場所を失いつつある国民を一つにまとめ上げ、
様々な不安や不平・不満を解消する狙いがあるのではないかと書いた。なぜなら、
現在の日本社会の様子がちょうど幕末から明治維新にかけての状況と似ているよ
うな気がするからである。
維新政府にとって何よりもまず先にやらなければなかったことは、「幕藩体制が
崩壊したあとの混乱を収拾して、一日も早く全国的な統一国家としての新しい秩序
をつりあげること」『信の回復』より)であった。「そのためには全国の人々の精神的
な結合・統合をはからねばなら」なかった」(同書)。ところが「当時の一般庶民の間
では、村・部族・藩などという狭い共同体についての連帯的な所属意識はありまし
たが、「国家」とか「国民」とかの意識は希薄」(同書)だったという。つまり当時の社
会には「日本人」など存在しなかった。あっても「○○村の△△兵」、よくて「□□藩
の××助」ぐらいだったんだろう。郷土愛や愛藩心はあっても、愛国心などなかっ
た。皆バラバラだった。ところが、それでは「新しい国を良くしよう!」とか「国のた
めに頑張ろう!」という気概は生まれてこない。ましてや「国のために自分の命を
捧げよう!」なんて誰も思わない。でもそれでは新政府が目指した「富国強兵(=
国を豊かにし、強い軍隊を持つ)」など夢のまた夢である。
そこでどうしたかというと、それまで人びとが信仰していた神社神道と皇室神道を
結びつけるなどして、現人神≠ナある天皇を頂点とした一大宗教共同体(=「神
の国」・国家神道)を作り上げていった。それによってバラバラに好き勝手に生きて
いた人びとを、一つの国の国民にまとめ上げていったのではないだろうか・・・・
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臨済宗の僧侶であり作家の玄侑宗久さんの投稿記事が今朝の朝日新聞に載っ
ていた。
宗久さんは言う。仏教には在家信者が守るべき五つの戒め(五戒)がある。その
一番最初に「不殺生戒」といって「生き物の命を奪ってはいけない」という戒律が出
てくる。しかし、この「不殺生戒」、誰にも遵守不可能だという。仏教では、植物も動
物もすべて対等のいのちであると考える。しかし、私たち人間は今日一日を生き延
びるためにその無数のいのちを殺生しながら生きている。誰一人として例外はな
い。ではなぜそんな誰にも守れないような戒律があるのか?宗久さんは言う。ある
からこそ、その戒律を守ることが出来ない自分自身を恥ずかしいと思うことができ
るんだと。懺悔の気持ちが生まれてくるんだと。
基本的な戒律一つ守れない私がいる。その自覚が、せめて食事(他のいのち)を
頂くときぐらい感謝の気持ちをこめて手を合わせようといういう思いが生まれてくる
んだろう。もしその戒律がなけらば恥ずかしいという懺悔の気持ちも生まれてこな
いだろうし、食事のとき、「有難う」という感謝の気持ちも生まれてこないだろう。そ
れはもはや人間ではなく「畜生」である。
それに関連して宗久さんはこうおっしゃる。憲法9条だって「時代に合わなくなっ
た!現実的でない!」と言って捨て去ってしまったら、何を目標に私たちは生きて
いくのかと。困難な目標を目指して生きていくからこそ人間は美しいのだと仰ってお
られた。
9条を守り、9条の精神を実現していく、それは私たちが人間が人間と成るための
歩みなんだと私は思う。どんなな困難にぶち当たろうとも、諦めずに一歩一歩進ん
でいく。それが人間としての証なんだろう。
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08年1月9日(水) 「憲法20条改定と排除・差別@」
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昨今、日本国内で吹き荒れるバッシングの嵐。遠くはイラク人質事件の本人や家
族に対するバッシングから、最近の亀田親子や朝青龍へのバッシングまで数えた
らきりがない。それらの背景には、多くの国民の中に「常に誰かと繋がっておきた
いという欲求」があるんだという(今朝の朝日新聞参照)。「皆が批判するから私も
批判する」、それによって「私も集団の一員である」という一体感を抱くことが出来
るのだろう。でも、逆に言えばそれは、多くの国民が誰とも繋がっていないという不
安やストレスを常に抱えていることだと思う。
今、政府自民党や保守勢力が憲法20条を改定して再び「神の国」の復活を目指
している。万系一系の天皇制を維持するための皇室典範改定の動きもその一つ
だろう。でも今さら「神の国」を復活させて何になるんだろう?もちろん国家(天皇)
のために喜んで死ぬ国民作りというのが一つの大きな目的だろう。しかしそれだけ
じゃないと思う。格差社会の進行や年功序列型雇用制度の崩壊、核家族化、地域
社会の崩壊、自己責任論の跋扈など、帰属すべきものを失い不安定化する国民
の不安を、「神の国」という擬似共同体によって一気に解消してしまおう、そんな意
図があるんじゃないだろうか・・・・
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昔、国会で靖国神社国家護持法が審議されていた頃、本願寺派の門徒宗会議
員さんが地元紙にこんな投稿をしたそうだ。「本願寺は靖国反対といっているけれ
ど、私は本願寺が何を考えているのかさっぱりわからない」と。宗会議員という立
場もあり地元の住職さんたちは大層困惑したという。しかしよくよく聞いてみるとそ
の方の言い分のほうが筋が通っていたという。その門徒さんはこう仰ったという。
「私の家には昔から仏壇と神棚があった。・・住職も月々参ってくれている。年回法
要や大きな法事を勤めたときは布教使さんに来てもらって、お仏壇の前に演台を
置いてお説教もしてもらっている。でも、いままで何回も住職にきてもらい、何度も
いろんな布教使さんを招いたけど、「これはおかしいよ」と注意をしてくれたのは一
人もいなかった。・・それを、今度は本願寺が靖国神社は問題がある、神道はおか
しいと言い出した。どうも納得がいかない」と(『念仏に生きるC』藤田徹文著・探求
社参照)。
かつて国家神道体制の下、国家によって各家庭に神棚を祀ることが強制され
た。私たちの教団・僧侶も自らの保身のため、門徒さんにそれを推奨していった。
敗戦後、国家神道は解体され、憲法で信教の自由が認められるようになった。とこ
ろが私たちの教団・僧侶は、門徒さんに神棚を降ろすよう言わなかった。なぜか?
なぜなら「降ろせ!」と言うからには、かつて「祀れ」と言ったことを反省し、謝罪しな
ければならない。でも、私たち僧侶は自らの過ちを認め、門徒さんに頭を下げるこ
とが出来なかったのではないだろうか。「法を説く側」の僧侶が「法を聞く側」の門徒
に頭を下げることなどプライドが許さなかったのかも知れない。また、「降ろせ」と言
えば当然門徒さんとの間に衝突・軋轢が生じるはず。事を荒げるよりは、このまま
なあなあ≠ナいった方が楽だし、得だという打算が働いたのかも知れない。しか
し門徒さんは正直だ。僧侶が説くことちゃんと聞いてくれている。聞いていくれてい
るからこそ、僧侶が矛盾したことを言えば「おかしい!」と素直に感じるのだろう。
それが最初に紹介した門徒宗会議員さんの声だったんだろう。
よくなぜ宗教教団が靖国参拝や憲法改定など政治問題に首を突っ込むのだ?と
言う人がいる。ちろん戦争をしないため!信教の自由を守るため!というのが一
つの目的だろう。しかしそれだけじゃないんだと思う。ヤスクニを問うとは自らの信
心を問うことなんだと思う。僧侶一人ひとりが「本音」と「建前」を使い分けてきた自
らの姿を問い直すことでもあるんだと思う。でももう僧侶だけの学びには限界があ
る。だからこそ門徒さんの力が必要なんだと思う。そのための話し合い法座であ
り、連研なんだろう。僧侶と門徒が共に法を聞き、共に話し合う中で、それぞれの
信心の中身が明らかになってくるんだと思う。
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08年1月7日(月) 「イジメの構造と20条改悪・排外主義」
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イジメには、クラスという集団の共同体意識(仲間意識)を高めることと、集団の
中にたまった「暴力への欲求(=不安・不平・不満からくる)」を擬似的に解消すると
いう目的があると昨日書いた。
このイジメの構造、昨今の日本国内における憲法20条の改定議論とナショナリズ
ムの高揚に通ずるものがあるような気がする。20条を改悪して「神の国」を復活さ
せる。それはつまり日本国という集団の共同体意識を高めることが狙いではない
だろうか?また昨今の右傾化、その背景には格差社会の進行など国民の不安・不
平・不満がある。その「暴力への欲求」を解消するためのナショナリズム(=排外主
義)の高揚ではないだろうか。それが自然発生的なものか、それともある意図を持
って特定の集団によって煽られているのかどうかはまだ分からないけど・・・
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『「ケガレ」を考える』(武田達城・神戸修著 同和教育振興会刊)、『習俗〜穢れ
〜』(浄土真宗本願寺派刊)を読んだ。その中でイジメの構造について次のように
書かれていた。
イジメの目的は二つある。一つは、クラスという集団の共同体意識(仲間意識)を
高めるために「いけにえ」的存在として「いじめられっ子」がいるのだと。それは現
在のイジメの特徴として、一対一ではなく、一対集団という形で行われることからも
分かるという。
二つ目に、イジメは、クラスという集団の中にたまった「暴力への欲求」を擬似的
に解消することにあるという。つまりスケープ・ゴートの役割を果たしているのだと。
ある欲求不満を無関係な他人に責任転嫁しその人間を排除することで自らの欲求
不満を解消しようとしているのだと。しかし、ここで大事なことは、「いじめられっ子」
を完全に外部に排除してしまわないという。なぜなら「いじめられっ子」を外部に追
放してしまっては、当初のイジメの目的は達成されない。「いじめられっ子」は常に
クラスの中≠ノいる必要があるのだと(ココにイジメの悲惨さ(「生き地獄」)の原
因がある)。もし転校などで「いじめられっ子」が本当に♀O部に追放されてしま
ったら、またクラスの中≠ナ別のターゲットを探すことになるという。(「排除とは、
排除された人びとを社会の外側に捨ててしまうことではありません。「排除された人
びと」という資格で社会を構成させる。ということなのです」(本文より))
つまり、イジメとは「いじめられっ子」の性格や属性に問題があるのではなく、クラ
スという共同体の不平や不満を解消し、その秩序を維持するためにあるのだと。
だから「いじめられっ子」(「いけにえ」)は誰でもいいということになる。よくいじめら
れた体験を持つ子どもが、「かつては自分がいじめる側だった」と証言していること
からもそれがよく分かる。
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福田首相が、皇室の皇祖神のひとつであり、戦前・戦中の国家神道における頂
点の神社と位置づけられていた伊勢神宮に参拝した(1/4)。小泉、安倍に続いて
歴代内閣の恒例行事になっているという。
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皇居の正月一般参賀に昨年より1万人多い7万9600人が集まったという(1/2)。
関西にいると皇室行事とはあまり縁がないので分からないけど、この数字は多い
のだろうか?少ないのだろうか?
憲法20条改定の動きと関連して、天皇制に対する国民世論の動向や万世一系
の天皇制を守るために皇室典範改定を目指す保守系政治家・民間人の動きなど
も今後注目していかなければならないと思う。
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お念仏の教えとは何かと問われれば、「全ての人が阿弥陀仏によって平等に救
われる」教え、言い換えれば「平等の教え」と言ってもいいんだと思う。
この「平等」という言葉・概念、現在ならおそらくほとんどの人が肯定的に受け止
めると思う。「平等な社会を!」「平等な世の中を!」と訴えて、反対する人はまず
いないはず。少なくても私自身はずっとそう思ってきた。ところが全ての人が「平
等」を願っている訳ではないという。例えば、江戸時代に将軍様の前に行って、「平
等っていいですね」と言ってみるする。おそらく首が飛ぶだろう。他方、圧政や差別
に苦しむ農民の前で同じことを言えば、みんな歓迎してくれるだろう。つまり平等を
願っているのは被抑圧者や被差別者であり、支配者や差別者は平等などこれぽっ
ちも願っていないということだ。
法然上人や親鸞聖人の時代、お念仏の教えが名もなき人々の間に急速に広ま
った。一方で、朝廷や旧仏教勢力は専修念仏教団に弾圧を加えた。なぜか?なぜ
ならお念仏の教えが「平等の教え」だったからだろう。
浄土真宗の教えの三本柱の一つに「悪人正機」がある。「悪人」こそ阿弥陀仏の
救いの一番の目当てであるという意味である。この「悪人」とは一体誰のことを指
すかという議論がこれまで色々されてきたという。現在の教団内における理解の大
勢は、「悪人」とは「心想羸劣の凡夫」のこと、要するに「仏道を歩む能力を持たな
いもの」のことを指すという。しかし一方で、1996年に行われた「浄土真宗本願寺派
連続差別事件第五回糾弾会」の席上、当時の梯実圓教学研究所所長が、親鸞聖
人が「悪人」としてみられたのは、『唯信抄文類』の中に出てくる「屠沽の下類」のこ
と、つまり殺生を職業としたり、嘘を言って人をたぶらかすもの≠ニして軽蔑され
ていた商人など、当時の社会の下層にいた人々、被差別者のことだったと答えて
おられる。
お念仏の教えが「平等の教え」であること、「平等」は全ての人が望むものではな
いということ、親鸞聖人がその教えを誰に伝道していかれたのかを考えると、「悪
人正機」の「悪人」とは明らかに後者のほうだと私は思う。例えば、甘いものが嫌い
な人がチョコレートをもらってもあまり嬉しくない。チョコレートをもらって一番喜ぶの
は甘いものが欲しいと誰よりも願っている人である。そう考えると「平等」を説く阿弥
陀仏の一番の救いの目当ては、誰よりも「平等」を強く希求した被差別者しかいな
いんじゃないだろうか・・・
今私はその「平等の教え」「悪人正機の教え」を聞かせて頂き、有難いと手を合
わせている。しかしその手を合わす私は今どちらの側に立っているだろうか?他人
を差別し、他人が差別されていても知らん顔している側だろうか?それとも被差別
者の側、平等を願い、差別をなくそうと闘う側だろうか?新年を迎えるに当たって、
改めて自らの姿、自らが頂いているお念仏の教えというものを確認してみようと思
う。
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今年も今日で終わり。今年の前半は、前政権による「教育基本法」の改悪(実際
には昨年)や「国民投票法」の制定など日本の国全体が大きく右に舵をとり、後半
はややゆり戻しがあったって感じだろうか・・・。それを可能にしたのは間違いなく憲
法を守ろうとする人々の運動があったからだと思う。一人ひとりの力は微力でも、
皆が一つの目標に向かって力を合わせれば大きな力になるんだということを改め
て実感した一年であった。
仏教には「薫習(くんじゅ)」という言葉がある。線香などの香りが徐々に衣服に染
み付ついていくことに譬えて、仏様のはたらきが常に私たちの元に至り届いてい
る。私たちは中々それに気づくことが出来ない。しかし、間違いなくそのはたらきは
至り届いており、常に私たちをお育て下さっている。そんな意味があるそうだ。仏様
のはたらきと私たち凡夫の運動を同一視することは恐れ多いけど、まさに「継続は
力なり」ということを教えて下さっているんだと思う。
まだまだ改憲に向けた動きが止まったわけじゃない。来年も頑張ろう!
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昨今よく聞く言葉に、「近頃の日本人は自分のことばかり考え、他人や地域、国
のことを考えなくなった!けしからん!それもこれも戦後教育が悪いんだ!」という
のがある。そして、そのように主張する人たちは実際に「教育基本法」を改定してし
まった。でも本当に日本人が自己中心的になったのは「戦後教育」の責任なんだろ
うか?
今朝のTBSの番組「サンデーモーニング」で格差問題について特集をやってい
た。その中で、現在の格差が拡大したのは、80年代以降、アメリカの圧力によって
日本が「市場原理主義(新自由主義)」を導入したことに原因があんだと言ってい
た。市場原理主義とは、全てを市場の競争原理に任せることにより経済を活性化
するという考え方。その結果、競争に勝ち残った者・強いものは益々裕福になると
いう。ところが、その新自由主義を導入する過程で、「規制緩和」や「企業に優しい
税制」などの施策が採られる一方、「小さな政府」というかけ声のもと社会福祉やセ
ーフティーネットがどんどんと切り捨てられていく。そのため競争に負けた者・弱い
ものは益々貧しくなっていく。そのために格差が拡大したんだと。つまり市場原理
主義というのは人間の自己中心的な欲望を際限なく肯定する考え方であるんだ
と。
なるほどな〜と思った。もしかしたら昨今の「日本人が自己中になった!」という
のも、「戦後教育」に責任がるのではなく、政府が政策として進めてきた「新自由主
義」に責任があるんじゃないんだろうか?それを誤魔化すためにの、「戦後教育責
任論」だったんじゃないんだろうか・・・
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2006年度の派遣労働者の数が過去最高の321万人に上ったという(12/28)。企
業による人件費圧縮の傾向が背景にあるという。企業にとっては、グローバル化し
た世界経済の中で、いかにして製造コストを抑え、競争に勝ち残っていくかが至上
命題となっているのだろう。
しかしその結果、国内では格差の拡大やフリーターやワーキングプアー、ネットカ
フェ難民といった様々な問題、歪が出てきている。今、日本国内には若者を中心と
して、それらに対する不安や不満、怒りが少しずつ大きくなっているという。
しかし、その不平や不満のガス抜きとしてこれまで利用されてきたのが、「自己責
任論(頑張った者が報われるのは当然だ!報われないのは頑張らなかった個人
が悪い!)」であったり、小泉元首相の靖国参拝、それに抗議する中国、韓国での
反日デモをきっかけに巻き起こったナショナリズムの高揚であったり、様々なバッ
シングであったり、死刑を含めた刑の厳罰化(12/28)だったんだろう。
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光市の母子殺害事件の被告の弁護団に対して全国から懲戒請求が出されてい
る問題で、大阪弁護士会は「適正な弁護活動」と判断し、懲戒請求には応じないこ
とを決めたという(12/28)。その他の弁護士会も同様の判断を下している。
当然だと思う。事件の内容やご遺族の感情は置くとして、いかなる犯罪を犯した
者でも弁護士をつける権利は認められているはず。また、被告の弁護をすること
が弁護士の仕事である。もしそれを否定してしまったら司法そのものを否定するこ
とになるんだと思う。
メディアよる扇動の恐ろしさ、それに簡単に影響を受ける「世論」というものを今
回の件で改めて実感した。
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歴史教科書の沖縄の「集団自決」を巡る問題で、前政権下で一度削除された「軍
の関与」という表現が再び復活した(12/26)。「軍の強制」を認めなかった当初の
検定意見自体の撤回や「軍の命令」という表現が認められなかったなど問題も残
るが、まずは一歩前進と受け止めていいのだろう。
でもなぜそこまでして旧日本軍の負の歴史(軍隊には負の歴史しかないんだろう
けど・・)を歪曲・隠蔽しようとするのだろうか?おそらく憲法9条を改悪し自衛隊を
「自衛軍(隊)」にしていく過程で、国民が抱く軍隊に対するマイナスのイメージを早
めに払拭しておきたいという思惑があるんだろう。
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07年12月23日(日) 「天皇誕生日に思うこと」
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先日、ある会議である門徒さんが、連研で「ヤスクニ」問題を取り上げるべきでは
ない!という意見を出された。「ヤスクニ」の代表である靖国神社というところは、
戦死者を祀る施設であるが、全ての人を平等に祀る訳ではない。「天皇の軍隊の
ために戦った人」のみを丁重に祀り、敵の兵士は言うまでもなく、一般の戦没者も
祀らない。その差別から生じる優越感や特権意識みたいなものが、天皇(=国家)
のために喜んで戦う人々を再生産するという構図である。私たち念仏者はそんな
「ヤスクニ」を真宗の信心から批判してきた。
ところが先ほどの門徒さんがこう仰る。今の本願寺教団内にだって差別構造は
一杯ある。お金を払ってもらう「院号」もあるし、類聚性なども・・・。そんな教団が靖
国神社の差別構造を問う資格があるのか?
私を含めてそこにいた僧侶の誰一人として、その問いかけに反論若しは答える
者はいなかった。私たちは建前では「平等を!」と口にするが、本音のところ本当
に平等を願っているのだろうか?身近なところから考えていかなければならないと
思った。
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インド洋での海自による給油活動に代わる代替案を民主党が今国会に提出する
という(12/20)。その内容は、「活動内容を医療や生活物資配布など人道復興支
援に限り、アフガニスタンに自衛隊を派遣する」という内容だという。結局、自衛隊
を海外に派兵するってことか・・・
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07年12月20日(木) 「死刑執行停止国連決議」
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国連総会で死刑執行停止を求める決議案が可決されたという(12/19)。日本政
府は拘束力がないとの理由から決議を受け入れないという。都合の良い時(イラク
戦争支持など)は「国連決議がある!」と言いながら、都合の悪い決議は無視。こ
れで国際社会の信頼を選ることが出来るんだろうか?
今朝の朝日新聞に、元最高裁判事の団藤重光さんのインタビューが載ってい
た。その中で団藤さんは、よく死刑肯定の理由として挙げられる「遺族の気持ち」に
ついて、こう仰っていた。もちろん最愛の家族を奪われた遺族の感情からすれば、
加害者を死刑にして欲しいという気持ちは当然だと思う(全ての遺族がそうとは限
らないが)。しかし、その遺族の情と国家が制度として死刑を執行することとは全く
別の問題だと。たとえば、個人の情だけを理由に国家が戦争をするのかと。また
国民はそれを認めるのかと。
裁判制度が始まれば、いつ私自身も死刑判決を下す、下さないの選択を迫られ
るかもしれない。その時に、どうするのか?今から自らの信仰・思想に照らし合わ
せて真剣に考えておいてもいいと思う。
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不気味な戦艦のデッキの背後から真っ赤な閃光と爆音を轟かせて一機のミサイ
ルが真直ぐに空に向かって飛び立っていく。昨夜から今朝にかけてそんな映像が
テレビに映し出されていた。一瞬、米軍がイラク攻撃を開始した時の映像が脳裏を
よぎった。でもよく見るとちょっと違う。そう、以前はそこに星条旗がはためいていた
けど、今回は日の丸(日章旗)だった。
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毎日新聞が行った世論調査によると、インド洋での海上自衛隊による給油活動
の再開に関して、「中止」と「継続」の割合が再び逆転したという(12/17)。前次官
の問題もあるんだろうけど、9条を持つ日本がすべき本当の「国際貢献」と「米軍支
援・追従」との違いが少しずつ明らかになってきているのかも知れない。
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07年12月14日(金) 「『妹尾和夫の全力投球』」
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いつも朝お参りに行くとき車のラジオで『妹尾和夫の全力投球』という番組を聴い
ている。昨日、メイン・パーソナリティの妹尾さんがこう話していた。自分は、自衛隊
などなくせばいいと思う。もちろん災害とかの救助を行う部隊は必要だけど、鉄砲
を持ってドンパチするような訓練など必要ないと思う。「敵が攻めてきたらどうする
んだ!」という人もいるが、日本は軍隊も武器も持たずに、もっと他の方法、話し合
いなどを通して平和を築くべきだ。もっと日本独自の道を歩むべきだと話していた。
正直ちょっと驚いた。最近、テレビでもラジオでも、こんなふうに話す人は少なくな
ってきた。何かあれば、「国益だ!」とか「普通の国になるべきだ!」とか威勢のい
いことを言う人が増えてきた。護憲だとか、ましてや「自衛隊など必要ない!」なん
て言う人は皆無に近い。あの社会党でさえ自衛隊を合憲にしてしまったのだか
ら・・・。
まあ、関西ローカルのラジオ番組だけど、毎週月曜から金曜まで、朝の9時から
昼の1時20分までの超ワイド番組でもあり、聴いている人も多いはず。その中で本
当の自分の正気な気持ちを仰ったんだと思う。聴いていて気持ちよかったけど、聴
いているコッチまでが「そこまで言っていいの?」とちょっと心配したぐらいである。
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アジア諸国、アメリカ、オランダ、カナダに続いて欧州議会でも、「慰安婦問題」に
対する日本政府の姿勢を非難する決議案が採択されるという(12/13)。
その決議案の内容を読んでヨーロッパ諸国がいかにこの問題を冷静に正確に捉
えているかがよく分かる。この問題を「20世紀最大の人身売買の1つ」と定義する
とともに、1993年の河野洋平官房長官(当時)、94年の村山富一首相(同)の談
話などを言及した上で「過去数年間、日本の政治家らの一部に政府見解を希薄
化、無効化する声がある」と指摘し、更に「学校教育でも悲劇を矮小(わいしょう)化
する動きがある」と批判しているという。
でもちょっと情けないとも思う。本来なら、他の国から指摘・批判される前に、加
害者である日本人自らがこの問題のちゃんと総括し、反省し、被害者に謝罪すべ
きである。それなのに前政権でこの問題が注目されたときも、一部の市民団体を
除いて、「世論」の反応は皆無に近かったような気がする。一体、国民の大多数は
この問題をどうのように考えているんだろうか?
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「政党ビラ配布」問題で、東京高裁は1審の無罪判決を破棄し、逆転有罪の判決
を下したという(12/11)。不当判決だと思う。
法律的なことはよく分からないので置くとして、もし与党の政党ビラだったら逮捕
まで至ったのだろうか?最大野党のビラなら起訴まで至ったのだろうか?ピザ屋
のビラなら、住民はそもそも警察に通報したのだろうか?
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07年12月11日(火) 「伝統・習俗・習慣と差別・排除C」
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憲法第20条改定の意図を一言で言えば、「首相や天皇のよる靖国神社参拝を合
憲にすることにある」とよく言われる。「戦争の出来る国″り」=「戦争動員装
置としてのヤスクニ≠フ復活」という側面から言えば正しい指摘なんだと思う。
しかしそれだけじゃないと思う。20条が改悪されれば、かつて国家神道体制を支
えたような神社から町・村の小さな神社に至るまで、国や地方公共団体による介
入・援助が可能性になるだろう。また、今回の教育基本法の改定では見送られた
教育現場における「宗教的情操教育」も可能となるはず。まさにそれは、かつて森
元首相が口を滑らせ大問題になったように、戦前のような天皇を頂点とした「神の
国(国家神道体制)」の復活を意味するのだと思う。
その「神の国」では、神社参拝や神道行事は宗教ではなく、伝統であり、習慣・習
俗とされ、全ての国民がそれへの崇拝、参加を強いられるだろう。もしそれに異を
唱えようものなら、共同体の秩序を乱す者として排除(村八分)されるかもしれな
い。そんな息苦しい差別社会の復活でもあるんだと思う。
そんな大げさな!と思うかもしれないが、自治会と神社との結びつきに疑問を呈
した梅田さんの例や、「日の丸・君が代」の強制にNO!を言う教職員を排除してい
く昨今の状況を見ていれば、決して大げさな話でもないような気がする。
私たち念仏者にとって、現行の憲法20条を守るということは、非戦平和の闘いで
あると同時に、自らの信仰を守る闘いであり、反差別の闘いでもあるんだと思う。
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07年12月10日(月) 「伝統・習俗・習慣と差別・排除B」
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憲法改定議論の中で、第9条(戦争・武力放棄)に関しては注目されているが、意
外と第20条(政教分離規定)の「改正」に対しては関心が薄い。
自民党の新憲法草案の20条の項目を見ると、第3項が次のように変わっている。
現行憲法では、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もして
はならない」となっているのに対して、自民党案は、「国及び公共団体は、社会的
儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗
教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは
干渉となるようなものを行ってはならない」となっている。
一見すると分かりにくいが、大きな違いがある。現行憲法では、「(国及び公共団
体は)いかなる宗教教育も活動もしてはいけない」と書いてある。一方自民党案で
は「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教・・・」となっている。つまり社
会的儀礼及び習俗的行為の範囲内の宗教教育・活動ならやっても構わないという
ことである。
では、日本における「社会的儀礼及び習俗的行為の範囲内の宗教」とは何か?
浄土真宗だろうか?キリスト教だろうか?否、違う。神道である。日本では、神社
参拝や神道行事は、宗教というよりも「社会的儀礼や習俗的行為」と考えている人
が多いのではないだろうか?
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鳩山法相になってはじめて死刑が執行されたという。死刑制度についての勉強
会が開催されている最中の執行への批判に対して法相は「死刑はやむを得ないと
いう世論が八十数%もある。この世論は大事にしなくてはならない」と強調したとい
う。あまり死刑執行に乗り気でなかった鳩山氏のこと、とどのつまり今回の判断の
責任を「世論」に転嫁したということだろう。でも法相が強調する一方の「世論」は、
一つの命を奪うという今回の死刑を自らの意思のもとに執行したという認識が何処
まであるのだろうか?
結局みんな無責任・無自覚なまま、これからも死刑だけが執行されていくのだろ
う。そこには国民一人ひとりが命について真剣に考えるという営みは一切生まれて
こないのだと思う。
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07年12月7日(金) 「伝統・習俗・習慣と差別・排除A」
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本願寺派の門徒推進員である梅田美代子さんの『神さま さようなら』(探求社)
を読んでいる。梅田さんは、ご自身が所属する自治会が地域の神社の氏子費を徴
収したり、当番制で祭り(神道行事)の準備をしたり、神社の掃除をしたりすること
に疑問を感じ、公の組織である自治会が特定の宗教に肩入れすることは憲法違
反であり、すぐに止めるべきであると訴えられた。
ところがそのことを自治会のメンバーに話すと、反対派から「あんた、ここにきて
何年になる?」「あんたここに居たいんやろういが」「そんな事して村八分にされても
いいのか」と批判を受けたという。梅田さんは、何も神社を崇敬するなとは言ってい
ない。崇敬したい人は崇敬するればいい。でも崇敬したくない人まで強制的に巻き
込むのは止めて欲しいと訴えているだけなのに、なぜそこまで酷いことを言われ、
排除されなければいけないのか?と涙が出るぐらい悲しかったという。
おそらく反対派の人たちも、取り立てて特定の宗教に肩入れしているつもりはな
いんだろう(なぜなら実際に反対派の多くは梅田さんと同じ宗教の信徒であるとい
う)。これは地域の伝統であり、習慣・習俗位にしか考えていないんだと思う。地域
の一員として地域の伝統・習慣・習俗に従うのは当然だ位に考えているんだろう。
でもそのことがかえって余計に、信仰の自由を侵され苦しんでいる人の痛みや悲し
みを見えなくしてしまっているのではないだろうか・・・
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07年12月6日(木) 「伝統・習俗・習慣と差別・排除@」
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先日の「念仏者九条の会」の全国集会で、「憲法20条が危ない!緊急連絡会」の
メンバーからメディアと宗教についてこんな意見を聞いた。「今の日本のメディア
(新聞、テレビなど)は、意識している、していないは別にして特定の宗教を利する
ような報道をしていないか?」と。例えば、古都・京都なら祇園祭や葵祭りといった
神道行事が公共の電波にのって当たり前のように報道されている。それが知らず
知らずのうちに人々の間に特定の宗教行事・儀礼・教義を根付かせ、結果としてそ
の宗教を利することになっているのではないかと。
私自身今まで考えたこともなかった指摘でもありすごく新鮮に聞かせてもらった。
確かに神道行事だけでなく仏教行事なども、宗教というよりも昔からの伝統とか、
地域の習慣、慣習といったかたちで、何の疑いもなく公共の電波によって報道され
ている。おそらく多くの人は「そんなに目くじら立てなくてもいいじゃないか!あれは
宗教ではない。昔からの伝統であり、地域の習慣・習俗である」と言うだろう。確か
にそう言いたくなる気持ちも理解できる(実際私もそう思ってきた)。でも本当にそ
れでいいのだろうか?
最近、この「昔からの伝統」とか「地域の習俗・習慣」というものが、差別を生み出
したり、温存・助長したり、またときには、人々から真実を見抜く力を奪ったり、他人
の痛みに対する想像力を鈍らせたりする土壌になっているのではないか?そんな
ふうに思うようになってきた。(つづく)
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政府は、アフガニスタンに対して、難民の帰還や農業・農村開発、非合法組織の
武装解除など民生分野を中心とした240億円の経済支援を行うことを決めたという
(12/4)。まだまだ不十分なんだろうけど、一定の評価をしてもいいのだと思う。米
軍のために油や物資を運び、アメリカに感謝されることだけが「国際貢献」みたい
に言われるけど、平和国家日本が9条の精神を生かしながら出来る国際貢献はい
くらでもあるんだと思う。
昨日念仏者九条の会の全国集会が大阪で開催された。その中で講師の先生
(非暴力平和隊・日本事務局長・安藤博さん)が「これまでの日本の平和運動は、9
条の上に胡坐をかいているだけだった。これかはもっと9条を生かしながら外へ出
て行かなければならない」と仰っていた。今回の海上自衛艦の撤収が、そのことを
真剣に考える上でいい機会になればと思う。
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07年12月1日(土) 「『天皇制国家と宗教』を読むB」
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維新以降、天皇による日本統治の正当性の根拠とされたのが、8世紀に成立し
たと言われている記紀神話(古事記・日本書紀)だったという。記紀神話には日本
国の始まりが次のように記されている。「天上の神界である高天原を主宰する天照
大神は、皇孫(天孫)ニニギノミコトに命じてナカツクニに降らせ、その子孫の神武
天皇は、日向から東に軍を進め、大和を平定して第一代の天皇となった」と。そし
て「その神武天皇に始まる皇統は、万世一系、連綿として第一二二代明治天皇ま
で及んでいる」と。つまり、日本は神が創った「神の国」であり、その神の子孫がず
っとこの国を統治してきた。だから明治天皇が神国・日本を統治するのは至極当
然であり、またその存在は皇祖神より連なる神聖にして犯すべからざる¢カ在
であるということを国民にアピールしたかった。そのためにも、第一代の天皇とされ
る神武天皇を、神話上の人物ではなく歴史上実在した人物であることを証明する
必要があった。そのための橿原神宮創設だったんだろう。
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07年11月30日(金) 「『天皇制国家と宗教』を読むA」
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天皇のために戦い戦死した忠臣を祀った神社以外に(湊川神社・靖国神社な
ど)、明治時代に入って新たに創建若しくは再整備された神社として、歴代の天皇
や皇族を祀った神社が多数あったいう。
その一つ、奈良の橿原に神武天皇を祀った橿原神宮がある。何度か訪れたこと
があるが、広大な土地に、巨木が何本も立ち並び、静寂な雰囲気が醸し出されて
いる。さぞや何千年という古い歴史を持った神社なんだろうと思った記憶がある。
しかし意外とその歴史は浅い。創建は1890年(明治23年)だという。百年そこそこ
である。聞くところによると、あの巨木は創建時に全国各地から運んできて移植し
たものだという。
なぜわざわざ神武天皇を祀るためのあのような大きな神社を新たに創建する必
要があったのか?それは、維新以降、近代天皇制国家を形作っていく上で、神武
天皇という存在を国民に知らしめ、その権威を高めることが不可欠だったという。
(つづく)
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07年11月29日(木) 「徴兵制復活の議論を!」
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宮崎県の東国原知事が、若者への教育の一環として「徴兵制」を復活させるべき
だと持論を展開したという(11/28)。
暴論だ!と非難しようを思ったけど止めた。もっと「徴兵制」について国民の間で
議論してもいいと最近思うようになった。なぜなら「徴兵制復活!」となればもっと一
人ひとりが我事として戦争について、軍隊について真剣に考えるようになると思う
から。何か今の私たちは、戦争や軍隊に対してあまりにも無関心過ぎると思う。だ
からこそ米軍基地を押付けられている沖縄や一部の自治体の住民の苦悩に寄添
うことも出来なければ、イラクやアフガニスタンに派兵されている自衛隊員が抱え
るストレスや恐怖心も想像出来ないし、憲法9条も変えてしまえ!と簡単に言えてし
まうんだと思う。戦争になったら自分や自分の子どもや孫が当事者になるんだ!そ
んな緊張感というか、自分の問題として一人ひとりが戦争や軍隊について考えるた
めにも、徴兵制の議論は大いにやるべきだと最近思う。
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山口県光市での母子殺人事件の裁判を巡る一連の報道に対して、被告の弁護
士などがBPO(放送倫理・番組向上機構)に審理を求める申立書を出したという
(11/27)。
確かにあの裁判を巡る報道はあまりにも異常であった。被告の少年に対する異
常なまでのバッシングに始まり、はては弁護士批判へと、あまりにも一方的で、聞
いていて恐怖さえ感じた。メディアによる世論誘導の恐ろしさを改めて感じた。
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07年11月26日(月) 「『天皇制国家と宗教』を読む@」
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『天皇制国家と宗教』(村上重良著 講談社学術文庫)を読んだ。
元々日本の神道では人を祭神として祀ることはほとんどなかったという(非業の
死、異常な死をとげた者の霊が祟ったり悪外を及ぼすことを怖れて、これを手厚く
祭って鎮める御霊信仰を除く(例)菅原道真など)。ところが江戸時代末期から明
治にかけて一変する。その代表が楠正成を祀った湊川神社と靖国神社であったと
いう。両社は明治以降に建てられた創建神社であり、別格官幣社として国家から
財政面を含めて手厚い保護を受けたという。
なぜこれまでの神道の伝統を覆してこのような神社を創建する必要があったの
か?それは現人神である天皇頂点とした国家神道体制を補完するためだったとい
う。
楠正成は南北朝時代、南朝の忠臣として天皇のために戦い戦死した武将とし
て、幕末には、勤王派によって神格化され崇拝されていたという。また靖国神社
は、幕末から明治維新にかけて天皇軍側について戦い、戦死した者を祀った招魂
社がその始まりである。つまり両社に共通するのは、天皇のために戦い命を落とし
た者を祀った施設であるということである。
このような性格の神社を新たに創建し、国家によって手厚く保護することにより、
「天皇は神であり、天皇のための忠死者は国家の手で神として祀られ顕彰される
ことを具体的に国民に示したわけである」。「天皇を現人神とし、国民に天皇への
忠誠と天皇のための死を徹底的に教育した」(本文より)のであると。
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米軍再編に伴い地元の受け入れ状況に応じて交付金を支給するという政府によ
る「アメとムチ」政策に対して、沖縄の人々の反発が広がっている(11/25)。
「北部振興策は地域間の格差をなくすためのものだ。政府は当然(予算執行を)
行うべきだ。基地移設にも名護市は協力しており、不安定な対応はやめてほしい。
世界で信用をなくす」(市商工会の荻堂盛秀会長)。「県経済の窮状につけ込んで
札束で張り倒すやり方だ。金で反対の声を上げにくくする卑劣な行為。人としてや
るべきことでない」(平和市民連絡会の平良夏芽共同代表)。「アメとムチで揺さぶ
る手法・・沖縄の依存体質が問題だ。基地関連の振興策にどっぷりつかっている
から政府にそこにつけ込まれる。この10年で何が変わったろうか。自分たちで首
を絞めているんだ」(ヘリ基地反対協議会の安次富浩代表委員)。
この問題の複雑さ、沖縄の人々の苦しみがよく伝わってくる。でも私たち「本土」
に暮らす者は、「そんなの関係ない!」とばかりに相も変わらず無関心なままであ
る・・・
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比叡山で「千日回峰行」に挑み、先日、最大の難関とされる「堂入り」を達成した
ばかり星野圓道さんのインタビュー記事があった(記事)。「千日回峰行」というの
は比叡の峰を、谷を7年かけて通算1000日、地球1周分、ざっと4万キロを歩く修
行だという。星野さんが「千日回峰行」を満行するまでにはまだあと2年残っている
という。
インタビューの中で驚いたことがある。今の日本社会の現状について訊ねられた
星野さんは、こう答えている。「うーん、貧富の格差が広がっている、それをどうす
ればいいか、政治家がまったく考えてない。逆にひどくなっているじゃないですか、
政治のせいで。伝教大師はおっしゃってますよ。一隅を照らす。政治家はこの言葉
を理解しているんでしょうか?知らないんじゃないかなあ。こんな言葉もあります
よ。己を忘れて他を利する。自分のことはちゃんとやったうえで、他人のために汗
をかく」と。既に5年間朝早くから夜遅くまで厳しい修行をしていたのに、今の社会
のことをちゃんと正確に把握されていることに驚いた。
修行や戒律を守る必要のない私たち在家仏教の僧侶なら星野さんに負けないぐ
らいもっと社会のことに関心を持ち、頑張らないといけないよな・・・
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イラクの治安が少しずつ回復してきているという(11/23)。色々と理由が考えられ
るそうだが、バスラ中心部から軍隊を撤収させた英軍少将の言葉が一番本質をつ
いていると思う。それは、「(「テロ」の)攻撃対象(であった我々)が消えたからだ」
と。
そうである。今のイラクの悲惨な現状は、もとはと言えばイラク戦争をしかけた米
軍やそれに追従したイギリスや日本が引き起こしたことである。今では部族間抗争
や内戦などイラクの国内問題ぐらいにしか日本では考えられていないけど、私たち
日本人が今のイラクの状況を生み出した当事者の一人なんだということを忘れて
はいけないんだと思う。参議院で民主党がイラク自衛隊撤退法案を提出したという
が、一刻も早くイラク戦争を支持したことの過ちを認め、反省し、自衛隊をイラクか
ら撤退すべきである。そしてそれからイラクの人々のために平和憲法・9条を持つ
日本として何が出来るのかを政治かも含めて国民一人ひとりが考えるべきだと思
う。それが当事者の責任である。
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参議院選で自民党が大敗し、前首相が政権を投げ出して以来、急に関連記事が
減ったような気がする。でもこれが普通なんだろう。お陰でHPの更新も楽になっ
た。記事を追いながらイライラする回数も減ってきた。このまま平穏にいってくれれ
ばいいけど、やっぱり無理かな・・。また戦争の出来る国≠ノ向けた大波が押し
寄せて来るに違いない。今のうちに力をつけておこう。
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陸上自衛隊の米軍キャンプ・ハンセンの共同使用問題に関して、これまで反対し
ていた沖縄の三町(金武町、宜野座村、恩納村)が受け入れを表明したという。そ
れに伴い、政府は三町に対して米軍再編交付金の支給を近く始めるという(11/
19)。再編に協力する自治体には金を出すが、反対の自治体には出さない。所
謂、政府による「アメとムチ」である。それに三町は屈してしまったと言えるのかも
知れない。
しかし思う。決して三町が悪いのではないと。いくら三町が平和な町・国を目指し
て再編に反対したところで、その恩恵を一番受けるはずの私たち「本土」に暮らす
国民のこの問題に対する関心は皆無である。沖縄の人々が馬鹿らしくなってくるの
も当然だと思う。反対し続けても誰も応援してくれない、政府からの圧力は続く、結
局いずれ国家権力によって押し切られる。だったら早く交付金をもらった方が得だ
と考えても不思議ではないと思う。
でもそこまで分かっていて何もしない私がいる。私はいつまで沖縄の人々の犠牲
の上に胡坐をかいて自分だけの平和を享受するつもりなのだろうか・・・
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こんな話を聞いたことがある。昔、インドにすごく仲のいい王様とお妃様が住んで
いた。ある時、王がお妃に「この世で一番大切な人はだれか?」と訊ねた。すると
お妃は「それは私自身です。」と答えた。「王様、あなたです」という答えを期待して
いた王はすごくガッカリした。それを見たお妃が「ではあなたにとって一番大切な人
は誰ですか?」と訊ねると、しばらく考え込んだ王は「やっぱり私自身だ」と答えたと
いう。王がそのことをお釈迦様に話すと、お釈迦様は「それが凡夫というものだ。誰
だって自分が一番可愛い。自分が一番愛しいと分かったなら、他人もまた自分が
一番愛しいと思っているということ気づきなさい。」と仰ったという。
浄土真宗では決して「他人が一番大切だと思いなさい」とは言わない。誰よりも自
分が一番可愛いと思っているのが凡夫である。そのことに気づきなさいという教え
である。よく「世のため、人のため、子供のため、国のために私はこんなにも頑張
っている」と声高に叫ぶ人がいる。でもそんな人に限って本心では全く違うことを考
えているんだと思う。「人の為」と書いて「偽」と読んだそうだ。誰だって自分が一番
可愛い。そのことをしっかりと自覚することによってはじめて、他人も同じことを考え
ているんだと気づかされてくる。他人に対する想像力が生まれてくるんだろう。
今週の言葉:「すべての者は暴力におびえ すべての者は死をおそれる 己が身
にひきくらべて 殺してはならぬ 殺さしめてはならぬ」(ダンマパダより)
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札幌市民が、無防備平和条例の制定を求めて市に署名を提出したという(11/
16)。無防備平和条例とは、「ジュネーブ条約第1追加議定書」を根拠に「無防備地
域を宣言した地域への攻撃は戦争犯罪と見なされる」ため、その地域での戦闘を
回避することが出来るという。しかし、そのためには当該地域に軍隊を入れないと
か、軍需施設をおかないとか、市民が戦争に対する協力を一切しないなどの幾つ
かの条件を満たさなければならないという。軍隊や武器を放棄することによって戦
争を回避するという、まさに憲法9条の精神に則った条例だと思う。
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国連の委員会で、死刑執行停止を求める決議が採択された(11/16)。日本は
「国民の大半が死刑制度に賛成している」との理由で反対にまわったという。
よく死刑を肯定する人たちが主張する理由に「被害者家族の気持ちを考えてみ
ろ!」というのがある。確かに遺族からすれば大切な家族を奪った犯人を殺してや
りたいと思うのは自然な気持ちなのかも知れない。しかし、遺族でない者が本当に
遺族のために「犯人を死刑にしろ!」と言っているのだろうか?ただ自分自身がそ
の犯人を憎いだけじゃないの?「遺族のため」というより「自分のため」に死刑を肯
定しているんじゃないの?
たとえ殺人犯であれ一人の人間の命を奪うということはすごく大変なことだと思
う。ましてや冤罪であったならそれこそ一大事である。だから肯定するなら肯定す
るでそれなりの覚悟や責任を一人ひとりが負うべきである。ところがそんな覚悟も
なければ、その責任も遺族(検察官・裁判官も含む)にだけ押付け、自分は安全な
場所から「悪いやつは死刑にしろ!遺族のことを考えろ!」と他人事のように言う
のはあまりにも卑怯である。
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臓器移植を求める患者らの会が、現在国会などで審議されている「臓器移植法」
の改正案の早期成立を求める要望書を出したという記事があった(11/13)。その
内容は、「本人による明確な拒否の意思表示がない限り、家族の同意だけで臓器
提供を可能にする」とか「臓器提供者とその家族を国を挙げて感謝、顕彰する」と
いったものだという。
臓器移植問題に関しては非常に難しい問題であり、私自身、まだ「賛成!」「反
対!」と明確に言えるだけの整理はついていない。でも今回の「家族云々」の件で
ちょっと思うとろころがある。それは、はたして臓器提供者の意思とその家族の意
思が常に同じだという前提に立ってもいいのだろうか?家族なら意思疎通出来て
いて当然!とか全ての家族が仲むつましい!とは限らないと思う。色々な家族が
あり、提供者の意思と家族の意思が全く逆になることだってあると思う。そう考える
と、「家族の同意だけあれば・・」という意見にはすんなりと頷けない。また、個人の
意思よりも家族や「家」の意思が優先される、そんな戦前のような社会はすごく危
険だと思う。
でも、移植を待つ人の気持ちを考えると、もし自分が移植を望む立場になったと
したらと思うと、すごく難しい問題だよな・・・
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衝撃的な調査報告が出た。アフガンとイラク戦争へ派遣された自衛隊員のうち在
職中に16人が自殺で亡くなっていたという(11/13)。元々自衛隊員の自殺者は他
の組織に比べて多い(年間100名以上)というが、それを考慮しても今回の数字は
ちょっと異常である。軍隊内におけるイジメやストレス、いつなんどき「敵」の攻撃を
受けるかもしれないという恐怖感などが自殺の原因になっているに違いない。
戦後60年間、日本の軍隊は外国の兵士を殺したこともなければ、一人の自国兵
の犠牲者も出していない!と言われるけど、本当にそうなんだろうか?
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犯罪白書によると、戦後に起きた犯罪の内約6割が再犯であるという(11/6)。ま
た、以前、刑務所から出所した人のうち約4割が帰る家もなく、生活苦や淋しさなど
から再び犯罪に手を染めるという調査結果が出ていた。
「治安が悪くなった!」と言っては、刑の厳罰化を求めたり、街中に監視カメラを
張り巡らす前にやるべきことはたくさんあるはず。
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北海道文化賞を受賞した演出家の鈴木喜三夫さん夫妻が、セレモニーでの君が
代斉唱の時に、日の丸に背を向けて自席に着席したという記事があった(11/5)。
式典後、その理由を聞かれた鈴木さんは「先の戦争で多くの仲間が特攻隊として
死んでいった。とても立って(国歌を)歌う気になれない」と答えたという。日本にこ
んな強い信念と勇気を持った文化人がいることを誇りに思う。
それに対して、吉田洋一教育長は「事前にこういう考えの人だとは聞いていなか
ったので、事情を調べる」とお冠だという。おそらく来年からはちゃんと受賞者の思
想調査をした上で、受賞者を篩いにかけ選別するということだろう。はっ(溜息)、
器がちっちゃいな・・・
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アメリカの路上生活者(ホームレス)の約4分の1が退役軍人であるという調査結
果が出ていた(11/9)。戦闘による心的外傷後ストレス障害(PTSD)の影響が指
摘されている。また、元々貧困家庭で育った若者が、徴兵によって得られる様々な
特権(奨学金、技能習得など)を目当てに戦争に行ったものの、結局退役後ホー
ムレスになってしまう割合が高いという。ベトナム戦争直後、アメリカのホームレス
の約8割がベトナム帰還兵だったという調査結果もあり、今後イラク帰還兵のホー
ムレス化が大きな社会問題になる可能性がある。
戦場で戦わされる兵士に勝者はいないんだと思う。戦争によって得をするのは一
部の財界人や政治家、無関心を装っている一般の国民だということを、軍隊で自
己実現をはかりたい!誰かのために役立ちたい!と考える若者(自衛隊員)に早く
気づいて欲しい。
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防衛省が「機動戦士ガンダム」人気にあやかった最新兵器の展示・講演会を開
催したという(11/7)。ガンダムと言えば、今でも非常に根強い人気があり、私も「ガ
ンダム世代」の一人として、大好きなアニメの一つである。その効果もあってか、例
年より多くの見学者が集まったという。
でも何か危険な臭いがする。「ガンダム」と言えば聞こえはいいが、要するに武器
の展示会である。武器とは戦争をする道具である。戦争とは敵・人を殺すことであ
る。「ガンダム」というオブラートに包みながら、戦争に対する肯定的なイメージを少
しずつ国民に植え付けようとしている気がしてならない。
最近、戦闘機の曲芸飛行や、演習の一般公開、武装自衛官による市内行進な
ど、やたらと自衛隊という存在が表舞台に出てくるようになった。それも戦争という
臭いを上手に消しながら。これも戦争の出来る国″りへの一つなんだろう
か・・・
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毎年この時期になると、偉大な功績を残した文化人に「文化勲章」が与えられる
(記事)。でもいつも思う。何もわざわざ天皇や総理大臣に頭を下げて仰々しく勲章
など貰う必要があるんだろうか?と。受賞した人たちはすごいと思う。その才能や
努力は賞賛されて当然だと思う。実際に多くの人々がその功績を認めている。そ
れで十分じゃないの?何の不足があるんだろうか?
勲章というのは上の者から下の者に授けられるものである。それを大きな功績を
残した文化人などが恭しく拝受≠キる姿を通して、天皇や国家の権威を国民に
植え付けようとしているしか思えない。「しっかりしろよ!文化人!!」と言いたくな
る。
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昨夜の自民党と民主党の党首会談で、首相が自民党と民主党の大連立の構想
を持ちかけていたという。正直驚いた。もし大連立が実現すれば、衆参で9割以上
を占める巨大与党が誕生していた。そんなことになればもう国会など必要なくな
る。まさに戦前の体制翼賛会である。憲法改悪も自衛隊の海外派兵も思いのまま
である。よくもまたこんな馬鹿げた提案をしたものだ。
今回は失敗に終わったらしいけど、小沢代表はまんざらでもなかったらしいし、衆
参での与野党逆転現象が続く限り、またいつ大連立の話が出てくるか分からな
い。
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米軍再編を巡り、基地や訓練の受け入れを承諾した自治体に対しては交付金を
支給し、反対している自治体に対しては支給しないという政府による「アメとムチ」
の措置が実施されているという(11/1)。金や力によって弱い立場の者に言うことを
聞かせる。本当にこれが民主主義国家なんだろうか?
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