御同朋の社会を目指して!


「tomo」のつぶやき
                                    
 
 このページでは私tomoの怒りや愚痴、疑問などを日記形式で書いていきたいと思っていま
す。「日記」というぐらいだから、目標は毎日だけど、どうなることやら・・・


08年3月21日(金) 「欲望の果て・・・」

 「原子力白書」なるものがあるらしい。そこで今回はじめて、「温暖化対策として国 内のみならず国外においても積極的に原発の建設を拡大していくべきだ」という提 言がまとめられたという(3/21)。原発プラント輸出企業の意向を受けた提言である ことは間違いないが、確かに温暖化問題は深刻である。化石燃料の使用を抑制 し、二酸化炭酸ガスの排出を削減するためには効果があるんだろう。
 以前、「NHK子どもニュース」でも原発のことについて特集をしていた。さすがに NHKでは、負の部分(核のゴミ)についても報道していた。その時の出演する子ども のコメントが面白かった。「とりあえず今は原発に頼る。その間に他のエネルギー 源(風力など)の開発を待つ。そして最終的に原発を廃止すればいい」と。一人の 子どもの意見であるが、まさにこれが私たち日本の大人の本音だろう。
 私たちは原発が危険なことをよく知っている。また、温暖化を何とかしなければな らいこともよく理解している。でも今の自分の生活水準を落としたくはない。だから 科学の発展が問題を解決してくれるに違いないと根拠のない淡い期待を抱いてい る。
 確かに科学の発達が将来問題を解決してくれるかも知れない。しかし、それは科 学の進歩であって、私たち人類そのものの進歩と言えるのだろうか?私たち人間 の欲望に科学が追いつけなくなったとき、一体どうなるんだろうか?

08年3月20日(木) 「禁煙ファシズム=v

 大阪府の橋下知事が府庁での全面禁煙を指示したという。公務員の信頼回復と いう狙いがあるんだろうけど、ちょっとやり過ぎじゃないの?私はタバコは吸わない けど、吸う人にとっては死活問題だと思う。分煙も進んでおり、それで仕事がはか どるなら、タバコぐらい吸わせてあげてもいいと思う。それこそ「禁煙ファシズム」で ある。
 府議会や府職員が橋下知事を批判すると、市民から「知事をいじめるな!」とい う苦情のメールや電話が殺到するという。まあ、このご時世「公務員だけ美味しい 思いをしいる」という嫉妬心もあり、それをバッシングをする橋下知事のような政治 家が人気を集めるのかも知れない。もちろん不正に対しては厳しく批判していかな ければならないけど、全ての公務員が悪いことをしている訳じゃない。真面目に一 生懸命働いている人の方が多いと思う。それをなんでもかんでも「公務員が悪 い!」というのは、可哀相と言うよりも、ちょっと危険な感じがする。
 いつの時代でも政治家というのは自らの人気を高めるために、内や外に敵を作 るものである。その敵を攻撃することによって、人々の不平や不満のガス抜きを し、自らへの求心力を高めようとする。でもちょっと前の小泉首相の辺りから非常 に危険な感じがしてならない。私たち国民ももっと冷静に自分の頭で考えることが 必要だと思う。

08年3月18日(火) 「現在版言論統制」

 「まさか?」というか「やっぱり!」というか、東京のある映画館が、自民党の一部 議員が内容に問題があるとして公開前の試聴を求めていた映画「靖国」の上映を 中止することにしたという(3/18)。その理由は「何かと問題がある映画で、周辺に 迷惑がかかるおそれがあるから・・」とのこと。
 「検閲だ!」とか「言論統制だ!」といっても、何も戦前・戦中みたいに、問題箇所 を墨で黒く塗りつぶしたり、発刊停止や上映禁止になる訳ではない。現在版の「検 閲」や「言論統制」はこういう形で行われていくのかも知れない。外からの力ではな く、内から自主的に・・・。
 配給会社と映画館との契約内容など色々あるのかも知れないが、先般の日教組 の集会の会場をキャンセルしたプリンスホテルの件同様、ここは司法の判断でしっ かりとその不当性を追求して欲しいと思う。

08年3月17日(月) 「軍隊の本質」

 米軍兵士の性暴力に関連する事件は年間2688件あるという(3/16)。事件が起こ るごとに対策が採られてきたが、毎年その数はほとんど減っていないという。防衛 省が自衛官の自殺増加を受けて、相談窓口を開設したという(3/16)。自衛官の自 殺率(38.6人/10万人)は他の国家公務員(17.7/10万人)に比べて格段に高く、 およそ倍の数になるという。
 最近、軍隊というところを「格好いいもの」と捉える風潮がある。各地の駐屯地で 戦闘機の曲芸飛行や最新鋭のハイテク兵器の展示会などすると、毎年多数の親 子連れが訪れるという。また、「家族・祖国を守る!」とか「国際貢献」だとか、「誰 かのために命の危険を顧みず戦う隊員たち・・・」、「桜が散るように潔く・・・」みた いな勇ましい言葉が発せられると、心を躍らす若者も多いと聞く。
 でも軍隊とは本当にそんなに格好のいいものなんだろうか?美しいものなんだろ うか?ちゃんとその本質に目を向けるべきだと思う。

08年3月15日(土) 「改革≠フ行き着く果て」

 また嫌なニュースがあった。埼玉県内のある市立小学校2校が、市内の全校を 対象に実施している学力テストの合計点の集計の際、一部の児童の得点を除外し て集計を行っていたことが明らかになった(3/14)。当該市では、保護者が子ども が通う学校を自由に選択できるという「自由学区制」を採用しているという。テスト の合計点を上ることで学校の評判を高め、一人でも多くの児童、予算を得ようとし た結果なんだろう。以前、東京の足立区でも同じようなことがあった。
 最近、やたらと「改革」や「規制緩和」のかけ声のもと、「効率化」であるとか「競争 主義」が賛美され、その思想があらゆる面に導入されてきている。でも果たして本 当にそれでいいんだろうか?強いものだけが勝ち残り、弱いものはどんどんと排除 されていく。これで本当に人類の進歩と言えるのだろうか?せめて公教育の場だ けでも、もっと大事なことがあることを子ども達に教えて欲しい。

08年3月14日(金) 「検閲」

 自民党の若手議員らで作る勉強会「伝統と創造の会」が、公開前の映画を試写 させるよう映画配給会社に要求したという(3/9)。靖国問題に関する映画で、「反 国家的な内容」が問題になったという。以前の、NHKに対する番組改編問題でもそ うであったが、彼らのやり方には背筋が寒くなる。

08年3月11日(火) 「改憲の芽を摘む」

 「私の任期中に憲法改定を実現する」と公約した安倍前首相があのようなかたち で政権を投げ出して以後、それまでのタカ派的・戦前回帰的な動きが鳴りを潜め、 実際に福田首相になって幾分かのゆり戻しが起き、改憲のペースもスローダウン したかのように思われる。それを感じ取ってか、全国各地の「九条の会」も臨戦態 勢を解除し、ホッと一息ついている頃かも知れない。
 しかし何のその、決して改憲の動きは後退していない。今、永田町では191名の 国会議員が集まり超党派の議員同盟:「新憲法同盟」というのが活動しているとい う(3/4)。そのメンバーを見てびっくり。自民党の幹部は言うまでもなく、民主党から も前原元代表が副代表に、また鳩山現幹事長が顧問に名を連ねるなどそうそうた る顔ぶれとなっている。
 決して改憲へ向けた動きは収まっていない。水面下ではちゃくちゃくと進んでい る。私たち「九条の会」ももう一度気を引き締めて、改憲に向けた芽を根こそぎ摘 んでしまうような気持ちで、地道な活動を続けていかなければならないんだと思う。

08年3月10日(月) 「宗門の宝」

 昨日、門徒推進員さんの同朋研修会があった。憲法20条をテーマに、浄土真宗 の神祇不拝の教えや自治会と神社の関係などについて話し合い法座をした。
 門推さんといっても色々な考えの方がいる。「親鸞聖人の教えに従って家の神棚 を降ろした」という方もいれば、「ムラ社会で生きるためには神社の行事に参加す るのは致し方ない。でも心だけは奪われないようにしている」と仰る方、「日本人と して神社に参拝するのは当然だ」と仰る方、千差万別である。
 でもどの方も、門推としての立場や地域の中での立場、又これまでの自分の思 いなど、様々な思いが複雑に絡み合いジレンマ(葛藤)を抱きながらも、正直に自 らの意見を出して下さったような気がする。私たち僧侶には中々気づかないしがら みや悩みを持ちながら門徒さんたちも今を生きているんだなと思った。まさに「言う は易し、行うは難し」ということを逆に教えて頂いた。
 帰る際、私と全く反対の意見を仰っていた方が、「今日はすごく勉強させて頂い た。またこのような場を作って欲しい。色々考えたり、本音で語り合いたい」と言っ て笑って帰っていかれた。やっぱり僧侶は門徒さんと接してナンボなんやろう な・・・。

08年3月8日(土) 「机上の空論」

 大阪府の橋下知事。憲法問題や核武装容認など、その発言には納得できない 部分が多々ある。しかし支持する点もある。
 昨日の府議会の代表質問で某党の議員が「差別はなくなった。同和行政を直ぐ に終わらせろ。「逆差別」意識を生んでいる」と質問したという。それに対して知事 は「机上の論にとらわれることなく、本当に差別意識があるのかどうかを肌身で感 じている人たちの話を聴いてから判断してほしい。差別意識というものは私の周り で現にあるということを認識している」と返答したという(3/7)。知事の言う通りだと 思う。
 「差別はなくなった!」何を根拠にそう言っているだろうか?まさに「机上の空論」 にとらわれることなく「被差別者の声」を真摯に聞くべきである。自分が差別してい ることは棚に上げて、「逆差別だ!」と差別の責任を被差別者に転嫁する。人間と して最低だと思う。
 でもこの手の質問は何もこの党に限ったことではない。私たちの教団内にだっ て、「浄土真宗に差別などない!」と机上の空論(「信心第一主義」)を振りかざし、 差別の現実を全く無視した言動が目立つ。だからこそ「差別の現実から出発する」 という同朋運動が提唱されたんだろう。

08年3月7日(金) 「戦争責任の検証の大切さ」

 最近スポーツの開会式などでやたらと歌手が「君が代」を独唱するという光景を 目にするようになった(3/7)。ここ数年のことだと思う。何か意図があるのだろう か?「あの歌手も、この人まで・・・」とガッカリすることがある。仕事と割り切ってい るのか?流行に乗り遅れまいとの思いか?それとも、アメリカの有名アーティスト が米国国歌を独唱する格好良さに憧れてのことだろうか?
 かつて戦争中、芸能人や作家、芸術家など文化人と呼ばれる人たちがどのよう に戦争遂行に協力していったのか、ちゃんと検証しておく必要があると思う。でない と、再び同じ過ちを犯すに違いない。

08年3月6日(木) 「3月4日」

 「中国の国防予算が20年連続して2ケタの増」という記事があった(3/4)。どうで もいいことだけど、あることに気がついた。同じような記事が昨年(2007年)の3月4 日に出ている。そして更に驚いたのは、一昨年(2006年)の3月4日にも同じ記事が 掲載されていた。それを見ていると、改めて、まる3年以上もこのHPを更新し続け てきたんだなと感慨深く(?)なった。来年(2009年)の3月4日も同じ感慨に浸ること ができるだろうか・・・
 記事の内容とは全く別の次元の、一人感慨に耽る「tomoのつぶやき」でした。

08年3月5日(水) 「個人責任・属性責任・宗教責任」

 昨日ある研修会でこんな話を聞いた。
 責任には二つあるという。一つは「個人責任」。もう一つは「属性責任」。前者から 言えば、「私は戦後生まれである。戦争にも行っていない。戦争で人を殺したことも ない。私には戦争責任はない」と言うことは可能である。しかし、後者から言うと、 「かつて日本という国がアジアの国々に侵略し、たくさんの人々の命を奪った」とい うことに対して、日本人として誰一人その責任から逃れることは出来ないという。現 在を生きる私たち日本人にとって、過去の戦争に対する「個人責任」はなくても、 「属性責任」はあるのである。その「属性責任」までも放棄して、「未来志向」だとか 言うから中国やアジアの人々が反発するのだと。
 同じことが本願寺教団における差別に関しても言える。「俺は差別したことはな い。差別は一部の不届き者の責任である。俺には関係ない。運動などやる必要は ない」と言う僧侶がいる。しかし、彼らも本願寺という教団(組織)に属している。そ して、その教団において差別事件が多発している。その事実に対して教団に属す る者として誰一人「属性責任」を放棄することは出来ないと。
 ちなみにこの二つの他に私たちが背負わなければならない責任がもう一つある という。それは「宗教責任」だと。私が生きているということは、一方で、他のたくさ んの命を奪い、傷つけているという悲しい現実がある。その罪は決してお金や刑罰 で償えない。その償いきれない責任をどうとっていくのか、それを考えていくことが 「宗教責任」だと。

08年3月3日(月) 「涙を流す資格はない=v

 今朝の朝日新聞のテレビ欄の「試写室」という番組紹介のコラムに次のようなこ とが書いてあった。今夜、午後9時から毎日放送系列で「明日のために・・・今」とい うドキュメンタリー番組が放映されるという。内容は、日本の若者が世界の環境破 壊や貧困、内戦などの現場に赴き、その現実を目にするという番組だそうだ。番組 の中で、若者たちは初めて見聞きする厳しい現実に涙するという。しかし、このコラ ムを書いた雑崎徹さんは、次のように文書を締めくくっている。「知らなかった若者 はそれでいい。しかし、見て見ぬふりをしてきた私たち大人は気づくだろう。涙する 資格はないと。」
 昨年、教区の「平和の集い」で、ジャーナリストの綿井健陽さん監督の映画: 「Little Birds−イラクの戦火の家族たち−」を上映した後、講演で綿井さんが最初 にこう言った。「この映画を観ながら涙されていた方がいた。でも涙など流さないで 下さい。泣いている場合じゃないんです。今のイラクの現状は・・・」と。その言葉に 反発を覚えた方もいたという。しかし、イラク戦争の現実・・。その戦争を支持し、自 衛隊まで派兵した国民・・。そんな国民に涙など流して欲しくない。資格はない。涙 する前にやるべきことはあるはずだ。そう綿井さんは言いたかったに違いない。

08年3月2日(日) 「『親鸞とその時代』を読む」

  『親鸞とその時代』(平雅行著・法蔵館)を再読している。その中に、「民衆支配と 宗教」という項目があり、そこに非常に興味深い事例が複数紹介されている。
 例えば、真言宗の高野山での例である。1192年、高野山は寺領があった備後国 太田庄の人々に次のように言っている。「庄官や百姓たちは一生懸命に開発を行 って年貢を完納しなさい。そうすれば、あなたたちには現世安穏と極楽往生が約束 されるだろう」と。つまり民衆がすべきことは、仏法を聞いたり、お経を称えたりする ことではなく、高野山に年貢を納めることであると。年貢を納めることは善行であ り、ご利益がある。逆に、もし年貢を納めなければ、高野山の命令に従わなけれ ば、仏罰が下る、地獄に落ちると言って人々を脅していたという。
 現在では「そんな子供だまし」と思うかも知れないが、地獄という存在を真面目に 信じ、自然災害や飢饉、疫病などの災難は全て目に見えない霊(神仏)≠フ仕 業であると考えていた人々にとっては、領主兼僧侶・神主が言うことは絶対に聞こ えたに違いない。このように、著者によれば、中世の政治権力は、直接的な武力 によって民衆を支配するだけでなく、宗教的暴力を用いて民衆を支配していたとい う。
 そんな時代に、専修念仏の教えが広められる。専修念仏の教えとは、お念仏一 つで救われるという教えである。戒律を守る必要もなければ、学問をする必要もな い。僧侶にお布施をする必要もなければ、寺院に年貢を納める必要もない。念仏 一つで阿弥陀仏によって救われるという教えである。その教えがどれだけ当時の 人々を地獄の恐怖から、目に見えない霊°ー怖から、そしてそれらを利用する 為政者の圧政から解放しただろうか・・・

08年3月1日(土) 「噂の真相」

 昨日、ある研修会で講師の先生がこう話していた。
 以前、富山県のある小学校で、給食の時、合掌して「頂きます」・「ご馳走様」と先 生が生徒に指導するのは、憲法の政教分離に反するとの声が保護者から上がっ た。それ以降、その学校では先生が「ピー」と笛を鳴らしたり、「ドン」と太鼓を叩い てから給食を食べ始めるようにしている。そんな噂が流れたことがあると。
 実際に私も何度かその話を聞いたことがある。一回目は、ご本山の総会所で。 お説教で布教使さんが言っていた。けしからん!情けない!仏教の復興を!と。 二度目は、昨年の参議選の前。教団のある幹部が教務所に来て、教団が何十年 ぶりかに参議院選挙で僧籍を持った人物を全面的に応援するから、力を貸して欲 しいと依頼していたとき。その幹部は、「合掌は決して仏教徒だけするのではない。 自分はテレビでキリスト教徒やイスラム教徒がするのを視た。このままでは大変な ことになる。だから教団を代表する者を国会に送らないといけないのだ」みたいな ことを力説していた。
 でも昨日の講師の先生によると、あの話は全くのデタラメだという。今でもその学 校では、子ども達が手を合わせ、「いただきます」・「ごちそうさま」と言っているとい う。ただ最初に日直が「合掌」とかけ声をかけるのを止めただけだと。富山県と言 えば真宗王国であり、浄土真宗の門徒さんの子弟も多い。だから自然と「合掌」と 号令するようになっていた。でもさすがに「合掌」という言葉は仏教用語だから今は やっていないという。そう言えば私の小学生の頃も「合掌」とは言わずに「手を合わ せてください」と号令していたような記憶がある。地元の教育委員会ではへんなデ マが流れて非常に困っているという。
 ちなみに最初にこの噂を流したのは、ある有名な寺院出身の作家だという。彼が その噂を流した真意はわからないけど、その後、そのデマが、門徒さんの危機感 を煽ることで教えを広めようとする一部の布教使や、公教育の場で宗教的情操教 育をして欲しいと考える僧侶達によって利用されたのだろう。

08年2月28日(木) 「恒久法」

 やっぱりと言えばやっぱり。自衛隊の海外派兵に関する恒久法の制定、やっぱり アメリカのためだった(2/27)。アメリカの一部の人たちの利益のために、なぜ日本 の若者が血を流さないといけないのだろうか・・・

08年2月27日(水) 「国民の不断の努力=v

 基本的人権をはじめとして様々な権利は決して国家や他人から上から与えられ たものではないと思う。長い歴史の中で、元々保障されていなかったこれらの権利 を、一般の人々が闘いによって勝ち取ってきたものであると思う。そして、それを一 旦勝ち取ったらもうこれで安心ではない。「国民の不断の努力によつて、これを保 持しなければならない。」(憲法12条)んだと思う。
 そういう観点からすると、今回の日教組による研究集会の開催を拒否したプリン スホテルの対応は明らかに憲法違反だと思う。

08年2月26日(火) 「凡夫の運動に絶望はない=v

 ある組の同朋研修で話した後、参加者と意見交換の場を持った。その中で、ある 参加者が「言っていることはよく分かる。でもこのような問題(その時は格差の問題 と、そこから生じるナショナリズム・排外主義をテーマに話した)を考えれば考える 程、自分の小ささ、無力さが知らされてきて、何も出来ない自分に絶望してしまう」 と仰った。その意見に参加者のほとんどが頷いていた。
 どこの組でもそう思うが、大概、同朋研修に参加する僧侶はいたって少ない。し かしその分、参加している僧侶はみんな問題意識が高い方々ばかりである。でも そのような方々の中にも、今、現場に身を置き、地域の人々や門徒さんと接する中 で、理想と現実との間にあるあまりにも大きな乖離に気づき、戸惑い、無力感や絶 望感を抱き始めている人が多いんだなと思った。
 でもそんな時、以前、ある先生から聞いた話を思い出した。「浄土真宗には絶望 はない。凡夫の運動には絶望はない。なぜなら、本来何も出来ないのが凡夫なん だから。運動をしていてしんどくなったら休めばいい。目を背けたくなるような現実 があったら、目を背けてもいい。そして、元気になったらまた頑張ればいいんだ。 「こうでなければ駄目だ!」とか「弱音を吐いてはいけない!」、「強い人間にならな ければならない!」と思えば思う程、そうならない自分自身に絶望していく。しかし、 凡夫とは本来そういう弱い存在である。思い通りにならないのが凡夫の世界であ る。そのことをはるか昔に既に見越して願いを建て、はたらいて下さっているのが 阿弥陀様という仏様である。何も落ち込む必要はない。それが凡夫なんだからと 思えばいい。そうすれば何かスーっと肩の荷が下りた気になる。そうすればまた頑 張れる」と。

08年2月25日(月) 「目的効果基準」

 憲法改定と言えばすぐに憲法9条を思い浮かべる。しかしそれと同じぐらい大事 なものに「政教分離」を規定した憲法20条を上げることができる。この20条の改 定。その目的を一言でいうと、「天皇や総理大臣による靖国神社参拝を可能にす る」ことにあると言われている。
 今の憲法と自民党の「新憲法草案」の20条の条文を見比べてみると、第3項が変 わっている。今の憲法には、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教 的活動もしてはならない」と国家が宗教に関与することを明確に否定している。とこ ろが自民党の案では、「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲 を超える宗教教育その他の宗教的活動・・を行ってはならない」となっている。つま り、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」を超えなければ国家が宗教教育や宗教 活動をしてもいいということである。
 既知のことであるが、これまで提訴された「首相による靖国神社参拝違憲訴訟」 では、複数の「違憲」判決はあっても、「合憲」という判断は一度も下されていない。 つまり、司法の世界では「総理大臣による靖国神社参拝は憲法違反である」という ことが常識になりつつある。
 ところが、靖国神社とは別に、国家による神社へ関与を「合憲」とした判決があ る。例えば、「津鎮守祭違憲訴訟」。三重県津市が体育館を建てる時に公金を使っ て神社の神主さんを呼び鎮守祭を行った。それに対して、市民が「憲法違反だ!」 と裁判に訴える。一審では原告側が負けるが、二審の名古屋高裁では逆転勝訴 する。ところが、最高裁で再び「合憲」の判決が下された。
 その時に、最高裁が持ち出した基準が「目的効果基準」というもの。何かという と、例えば、首相の靖国神社参拝にはどのような目的があるのか?そして参拝に よってその目的がどの程度達成されたのか?によって「違憲」か「合憲」か判断す るという。例えば、2005年に大阪高裁で下された判決では、「小泉首相の参拝に は、靖国神社という一宗教法人の教義や儀礼を広く国民に広めるという目的があ り、また実際にその参拝によって当初の目的が十分に達成された。効果があった」 と判断し、「違憲」判断を出した。一方、「津鎮守祭違憲訴訟」では、公金を使って 鎮守祭を行うことは、神道の教義を広めるという目的も、またその効果もなかった と判断した。そして、理由として「(鎮守祭は行うことは)社会通念に照らしあわせ て、宗教というよりも社会的慣習とみなす」ことができると判断したためである。同じ ような判断が「箕面忠魂碑訴訟」や「自衛官合祀訴訟」などでも行われ、「合憲」判 断が下されている。
 つまり、現行の憲法では「一切の宗教活動を禁じる」と明示しているにもかかわら ず、司法の判断は「社会的習慣内であれば、国家が宗教活動に関わっても憲法違 反ではない」と、いわば「例外」を設けている。その司法の基準にまで憲法の条文 を近づけたい。それが今回の憲法改定ではないだろうか・・・
 しかし、もちろん憲法の条文を変えるだけでは不十分である。それと同時に「神 社は宗教はない。社会的儀礼であり伝統・習俗である」という社会通念を根付かせ る必要がある。そのための土台づくりが今静かに進んでいるという。一例を挙げれ ば、神社の境内を開放して、市民の憩いの場にするとか、「村おこし」の一環として 地域の神社の祭りを地域住民全体で取り組もうという動きなどがそれである。それ によって、最終的には、「靖国神社参拝も宗教行為ではなく、社会的習慣の範囲内 であり、憲法違反ではない」というレベルにまで持っていきたいのだろう。

08年2月21日(木) 「愚禿の名のり(非僧非俗の名のり)」

 先日ある研修で刺激的な話を聞いた。 親鸞聖人の非僧非俗の名のり。あれは 親鸞聖人による被差別者宣言≠ナあると。
 親鸞聖人は自らを愚禿親鸞≠ニ名のられる。「禿」とは、国家(『僧尼令』)から 認められていない僧侶=「濫僧(ろうそう)」のことを指すという。そして、この「濫僧」 とは、当時、人びとから差別されていた被差別者であったと(『塵袋』より)。
 ではなぜ親鸞聖人は自らを「愚禿」と名のり、「濫僧」と名のられたのか?答えは 二つの内一つである。一つは、親鸞聖人の出自が被差別身分であった。もう一つ は、親鸞聖人が、「承元の法難」を経験し、越後や関東の人びとと生活する中で、 「生涯を通して被差別者と同じ地平に立ち、共に生きていく」ことを宣言したかのど ちらかであると。
 これまで親鸞聖人は貴族の出身だと言われてきた。しかし、親鸞聖人が書かれ た書物にも、連合いさんである恵信尼さんの手紙にもそんなことは一つも書いてい ない。ひ孫である覚如上人が書いた『御伝鈔』に初めて出てくるだけ。実は、親鸞 聖人の誕生日すら定かではないという。現在の5月21日の「降誕会」は、江戸時代 に高田派の僧侶が書いた親鸞聖人の伝記に「4月1日」と書いてあって、それを新 暦に直しただけ。ちなみに大谷派では「降誕会」などお勤めしない。なぜ親鸞聖人 の出自が日野家であり、誕生日が5月21日でなければならないのか?それは、そ の後の本願寺教団を維持していくための権威付けだったのではないかと・・・
 こんな「親鸞伝」初めて聞いた。すごく刺激的だった。でも最後に講師の先生が仰 った。別に親鸞聖人が「貴族」の出身であろうと、「被差別身分」の出身であろうと、 その人間としての価値は全く変わらないと。
 いずれにせよ、親鸞聖人をご開山と仰ぐ私たち念仏者は、どこに立って、誰と共 に生きていくのか、それが今問われているのだろう。

08年2月20日(水) 「イージス艦衝突事故」

  レーダを多数備え、一度に200以上のミサイルや航空機を認識し、攻撃すること が出来るという最新鋭のイージス艦が、一隻の小さな漁船に衝突し、乗っていた親 子が海に投げ出され、現在も見つかっていないという。一刻も早く無事に発見され ることを願うばかりである。
 国民を守るはずのイージス艦がなぜ?という声が上がっているが、今回の事故 は、昨今の防衛省・自衛隊(=政府)が国民の方に目を向けるのではなく、上(アメ リカ)ばかり見ていた、そのことを象徴するかのような事故に思えて仕方がない。

08年2月19日(火) 「善人」

 今朝、ワイドショーを視ていたら、数日前中国の重慶で行われたサッカーの試合 で、「中国人サポーターが「君が代」の演奏のときブーイングをしていた。マナー違 反だ!けしからん!」と出演者達が言っていた。するとあるコメンテーターが「中国 人と同じレベルで反発していても意味がない。こっちは大人になろう」みたいなこと を言っていた。
 確かにスポーツの場に政治を持ち込むのは問題があるのかも知れない。しか し、なぜ「君が代」斉唱の時にブーイングが起こるのか、その理由を考えたことが あるんだろうか?過去の歴史や、戦後その責任をうやむやにしてきたことは棚に 上げて、まるで「中国人のレベルは低い」と言わんばかりに上からものを言う。まさ に彼のみたいなのを「善人」と呼ぶんだろう。

08年2月18日(月) 「『母べえ』を観る」

 映画:『母べえ』(山田洋二監督・吉永小百合主演)を観た。戦争中、戦争に反対 した父親が治安維持法で逮捕されたという設定で、残された家族の様子を描いた 映画。戦争中というのは、皆、言いたいことがあっても言えなかった。本当のことを 言うと「非国民」と罵られ、逮捕されてしまう。だから、皆、「何かおかしい」と思いつ つも自分自身を誤魔化しながら生きていたのだろう。
 映画を観ながら、ふと、今、教育現場で行われている「日の丸・君が代」の強制の ことを思い出した。反対する先生は徹底的に処罰(排除)される。それを目の当た りにした他の多くの先生は、「何かヘン」と思いつつも、見てみぬ振りをして、どんど んと自らの思考を停止していくのだろう。
 この映画は決して遠い昔のことを描いているのではないと思った。さすが山田洋 二監督、そして、主演の吉永小百合さんである。

08年2月17日(日) 「人権擁護法案」

 自民党の中川昭一元政調会長が、今国会への再提出が予定されている人権擁 護法案について反対する意向を表明したという(2/17)。理由は、「法案が成立した ら(人権侵害の名目で訴えられ)わたしも麻生太郎前幹事長も安倍晋三前首相も ブタ箱(留置場)に行くことになりかねない」からと。どうやら中川氏はこれまで自分 が何を言ってきたか分かっているらしい。どれだけ人を傷つけ、人権を蹂躙してき たか知っているようだ。
 でも中川氏が自分と同類だとして名指しした、安倍前首相氏や麻生前幹事 長・・・。前首相や次期首相候補と目される人物が人権擁護法案が成立したら「ブ タ箱」行きになるかも知れないなんて、なんて人権意識の低い、情けない国なんだ ろうか・・・

08年2月16日(土) 「苦渋の選択」

 新潟県柏崎市では、地震により原発が停止したことにより、毎年東京電力から入 ってくるはずの交付金や法人税が激減したため、市の財政が逼迫しているという 記事があった(2/15)。街と原発が共存していると言えば聞こえはいいが、本当に そうなんだろうか・・・?
 このことは原発だけでなく、米軍基地などを抱えている沖縄や岩国市、佐世保市 などでも同じなんだと思う。出来ることなら危険なものは受け入れたくない。しかし 受け入れなければ生活が成り立たない。そういう関係・構造に一旦組み込まれてし まうと、もう逃れたくても逃れられないんだろう。原発や基地を抱える人々の苦し み、悲しみが伝わってくるようだ・・・
 私たちが便利な生活を送る陰で、たくさんの人が犠牲になっている。せめてその 事実だけでもしっかりと知り、一人でも多くの人に伝えていきたい。

08年2月15日(金) 「日本史必須化」

 神奈川県で高校日本史が必須科目となるという(2/14)。中学校での歴史の授業 では時間がなく十分に教えてもらえない近代、特に戦前、戦中私たちの国がアジア 諸国や、戦争に反対する人に何をしたのかしっかりと教えて欲しいものだ。負の歴 史を学ぶことは決して恥ずかしいことではない。マイナスの面を直視することによっ てはじめてプラスの方向に向かって歩み出すことができるんだと思う。その営みの 中で、自然と自分が生まれた国に対する「愛国心」も生まれてくるんだろう。

08年2月14日(木) 「海外派兵に向けての準備」

 防衛省が、「ゲリラ攻撃」にも対処できる最新鋭の戦車を公開したという(2/13)。 でも思う。戦車が何台も出動するような「ゲリラ攻撃」なんて日本であるんだろう か?軍事のことはよく分からないけど、最近の自衛隊による装備の近代化は、「自 衛のため」というよりも、むしろ「海外派兵」を念頭に置いて行われているんじゃな いだろうか・・・?

08年2月13日(水) 「軍隊と犯罪」

 沖縄でまた米兵による痛ましい事件が起きた(2/11)。容疑者は海兵隊員だった という。海兵隊とは戦争が起これば真っ先に最前線に赴き戦闘をする部隊であ る。沖縄で起きた米兵による凶悪犯罪のうち半数以上が海兵隊員によるものだと いう。つまり戦争と凶悪犯罪には関連性があるということだろう。だからもしこのよ うな事件をなくそうと思ったら、米軍に出て行ってもらうしかないんだと思う。

08年2月11日(月) 「分裂支配」

 民衆を分裂させて支配するのは権力の常套手段である。
 岩国市長選で、米軍の艦載機移転を容認する候補者が反対する前市長を破っ て当選した(2/10)。今回の市長選は、移転の賛否を問う三度目の選挙となった が、民意はこれまでの反対から容認へと傾く結果になった。その背景には政府に よる「移転を受け入れれば交付金を支給する。反対なら支給しない」という「アメと ムチ」政策があったという。岩国の中では、国からの市への交付金がストップする 一方で、強引に事を進める国に対して「逆らってもどうしようもない」という諦めムー ドが漂い始めていたという。またそれに後押しをしたのが、日米安保の恩恵を一番 受けるはずの残りの圧倒的多数の国民の無関心だったんだろう。
 これはどこでも言える事だと思うけど、残念ながら市民運動というのは必ずと言っ ていいほど分裂する。闘う相手が巨大であればある程、闘いが長引けば長引く 程、運動は分裂していく。疲れ果て妥協する者が現れると同時に、より一層頑な (原理主義的)になっていくグループも出現する。かつての左翼運動でも、教団の 同朋運動でも然りである。また権力側はそれを見越して分裂政策を採ってくるのだ ろう。
 これにどう対応していくか、一人ひとりの自立と連帯、それが今後の私たち市民 の大きな課題となっていくのだろう。

08年2月10日(日) 「「真宗大谷派九条の会」設立集会レポート」

  昨日、雪が降りしきる中、京都・東本願寺の真宗本廟視聴覚ホールにて「真宗大 谷派・九条の会」の設立集会が開催された。確かな人数は分からないが老若男女 を問わず100名以上の念仏者が大雪の中全国各地から参集していた。
 勤行に続き、まず1996年6月に宗議会と参議会両会において採択された「不戦決 議」が朗読された後、呼びかけ人の一人である池田勇諦氏より開会の挨拶が行わ れた。池田氏は今回の呼びかけは、様々な立場を超え、真宗の教えに出遇った人 間として、その一点からこの会への賛同を呼びかけるものであると説明。また昨今 の改憲論の動機となっている安易な現実主義(「9条は国際社会の現実からかけ 離れている」など)を批判し、真宗教徒として「戦争の出来る国」に改変していこうと する現在の動きを看過できない!という思いから会設立に至ったことを強調され た。
 引き続き、哲学者であり「九条の会」の呼び掛け人でもある鶴見俊輔氏より記念 講演が行われた。鶴見氏は、ご自身の生い立ちやブッシュ大統領のイラク戦争開 戦時の演説などを紹介しながら、「私の中には権力と正義を両方持っている者に 対して非常に警戒心がある。正義の人は傍迷惑であるという思想が根底にある。 なぜ多くの日本人は支配者の悪いところをはっきりと悪いと言えないのか、不思議 でならない」と苦言を呈された。また、ご自身の戦争時代の体験を紹介する中で、 「私は実際に他人を殺すことはなかった。しかし一つ間違えれば殺していたかもし れない」と告白され、『歎異抄』の「心が善くて人を殺さないのではない」という箇所 を引用しながら、「私は悪人である。これからも悪人であることを通す。世界の悪人 よ団結せよ」と呼びかけられた。また印象に残ったのは、鶴見氏は講義に先立ち、 「私が死んだら自分の葬式には絶対に仏教の坊さんもキリスト教の牧師も呼ばな い」と会場に向かって宣言された。なぜなら、「戦争中、仏教の僧侶やキリスト教の 牧師は真面目な顔をして「これは聖戦だ!」とか「敵を殺せ!」と説教をしていた。 その姿が今でも脳裏に焼きついている」と仰る。しかし講演の最後に鶴見氏は、 「今日のこの会のレジュメの日付の欄に「流罪801年」と書いてあるのを見た。日本 の仏教はずっと国家のための仏教であった。それに対して法然や親鸞は反対し た。今一度その精神に戻ろうとここに書いてある。それが今の私の仏教教団に対 する唯一の希望です」と言って講演を終えられた。
 続いて、最初に読み上げられた「不戦決議」の成り立ちについて宗会議員の竹 田恵示氏より報告があった後、「念仏者九条の会」の代表である信楽峻麿元龍谷 大学学長より祝辞が述べられた。信楽氏は「念仏者として9条の問題に関わると き、戦争中、東西本願寺が何をしたのか、その責任を問うことなしに、今回の運動 は絶対に成功しない。私たちの教団は先の戦争を仏法の名の下に「聖戦」とした。 それがどれだけ教団全体の痛みとなっているのか?過去を無視して未来の平和 などありえない。今後もこの問題に対して共に頑張りましょう」とエールを贈られた。
 そして最後に閉会の挨拶として、呼び掛け人である児玉暁洋氏が「願に生きると はどういうことか?」と参加者に向かって問いかけ、「願とは四十八願の中の第一 願のことである。戦争と殺戮、抑圧のない世界を作るという願である。私たちは、 第十八願に乗託し、この第一願に生きるのである。それが念仏者が進むべき道で ある」と自らの決意を述べると、会場から割れんばかりの拍手が起こり、全ての日 程が無事終了した。

08年2月9日(土) 「自主的徴兵制」

 東京のある住民組織が「テロ」やサミット警備に備えて「自主的」に自警団を結成 したという。警察などとも協力しながら、「自主的」にパトロールを行い不審物(不審 者)の点検・発見を強化するという(2/9)。結成にあたり地元からは「地域が一体と なり、わが街の安心、安全を守ろう」とのかけ声が上がったという・・・
 将来日本は再び徴兵制を復活させるかどうかという議論がある。でも思う。何も 嫌がる国民を国家が強制的に徴兵しなくても、国民が自ら「自主的」に徴兵に応じ ていく、そんな可能性も将来なきにしもあらずということだろうか・・・。
 まあ、住民による「自主的」な取り組みと言いつつも、何らかの意図を持ってそれ を組織している人や団体が、今回の自警団設立の陰にもあるんだろうけど・・・。

08年2月8日(金) 「鈍感力」

 「君が代」の斉唱で起立しなかったことを理由に、定年後非常勤として再雇用しな かったことは違法であると訴えていた裁判で、東京地裁は元教師の訴えを認め、 都に賠償金を支払うことを命じたという(2/7)。同じように神奈川県でも、県教委が 起立しない教師の氏名等を学校に報告させていたことは不適切だという判断が下 されている。
 当然だと思う。でもあまりこのことがマスコミで取り上げられることもなければ、世 論も盛り上がらないよな・・・

08年2月6日(水) 「危機感」

 東京都の石原都知事。その差別的な発言等、正直あまり好きな人物ではない。 でも、良い悪いは別にして彼はすごく正直だと思う。
 今、ミサイル防御システムの整備が進んでいるが、石原氏は、皇居前に迎撃ミサ イルPC3を配備すべきだと主張しているといる。その理由として、「あそこで装備を 見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」と言うのである(2/6)。
 まさに彼の言う通りだと思う。莫大な予算をかけて整備しているMDシステム。そ の目的はどこかの国からミサイルが飛んできたときに打ち落とすというよりも、むし ろその装備を見せびらかすことにより、国民に危機感を抱かせようとしているんだ と思う。「こんなにヤバイんや!」「どっかの国が本当に攻めてくるかも知れない!」 と思わすことにより、9条改悪や戦争の出来る国″りを進めようとしているんだ ろう。

08年2月5日(火) 「凡夫」

 先日ある研修会で臓器移植の問題についてこんな話を聞いた。幼い我子の命を 救うために臓器移植を決意した母親が子どもと共にアメリカに飛び立つ。ドナーが 現れるまでしばらく待つことになったが、その時、毎週金曜日の夜が待ち遠しかっ たという。なぜかというと、アメリカでは金曜日の夕方から週末を田舎等で楽しむた めに家族みんなが車で出かけるという。だから金曜日の夜は交通事故が多くて、 移植のチャンスが増えるからだと。わが子の命を救いたいと願う一方で、心のどこ かで他人の死(不幸)を願っていたとそのお母さんは告白して下さったという。
 私にこのお母さんを批判することはできない。もし私も同じ立場ならと思うと・・・。 でも何かやりきれないよな・・・

08年2月3日(日) 「『ワーキングプア』を読む」

 『ワーキングプア』(門倉貴史著 宝島社新書)を読んだ。ちなみに「ワーキングプ ア」とは正社員なみにフルタイムで働いても、ギリギリの生活さえ維持が困難、もし くは生活保護の水準以下の収入しか得られない就労者の社会層のことを指し、 2002年時点で656万世帯いると言われている(『ウィキペディア』参照)。
 その中で一人の若者の声が紹介されていた。「格差社会がもっと広がって欲しい と思いますね。自分はこれ以上、上にあがることができないから。自分と同じ位置 に大勢の人が落ちてくればいいな、と。・・・たとえが悪いですけど。江戸時代の士 農工商制度。僕はずっと社会の最下層にいるんです。格差社会が広がっていけ ば、大部分を占めた農民が自分たちと同じ位置まで落ちてきてくれるわけだから。 結果、僕というダメな存在が目立たなくなる。そうなってくれたらいいなと思っている のです」(本文より)。
 確か以前にも、「戦争になればいい。そうすれば国内が滅茶苦茶になって、「勝ち 組」も「負け組」もなくなる。格差もなくなる。全て一から出直せる」と発言する若者 がいると聞いたことがある。格差の問題がいかに深刻か、またそれが若者からい かに夢や希望を奪っているかがよく分かる。 

08年2月2日(土) 「憲法違反」

 自民党の若手有志が「憲法に反する」との理由から外国人参政権に反対してい るという(2/2)。次期大阪府知事に当選した橋下徹氏が、「憲法の精神に反する」 との理由で、米軍基地移設に伴う住民投票をした前岩国市長の姿勢を批判してい るという。確かどちらも「今の憲法は押付け憲法だ!けしからん!!」と言っていた よな・・・

08年2月1日(金) 「民主主義の敗北」

 都内のホテルが、「右翼が来るから」との理由で日教組の会合のための会場使 用を、裁判所の命令にも関わらず拒否しているという(1/31)。以前にも同じような 理由で北朝鮮系の演劇団の会場使用を拒否した公共施設があった。「右翼が来 るから」と言って集会の自由を規制する。まさに今日本の言論の自由(民主主義) が暴力の前に屈服しようとしている。

08年1月28日(月) 「武器使用基準の緩和」

 今、政府与党内では、自衛隊の海外派兵のための恒久法が検討されている(1/ 25)。またそれと合わせて、任務に就く隊員の武器使用基準の緩和も検討されてい るという。国際貢献のために一生懸命頑張っている隊員の生命を守るためと言い たいのだろう。
 でも思う。厳しい武器使用の基準があったからこそ、今まで一人の犠牲も出さず に済んだんだと思う。厳しいからこそ、危険な場所での任務を予め控えることが出 来たし、行動にも制限を課すことが出来た。それが結果的に自衛隊員の生命を守 ってきたんだと思う。それなのにここで緩和してしまうと、かえって生命の危険が増 すと思う。これまで行かなかった危険な場所にも派兵されるだろうし、作戦範囲も 広がるだろう。そうすれば当然リスクも上がるはず。
 最近思う。「自衛隊を海外に派兵しろ!」とか「武器使用基準の緩和をしろ!」と か「憲法を変えろ!」と言う人ほど、同じ同胞である自衛隊員やその家族のことを 考えていないんだと思う。冷たいと思う。「同胞を大切にする」という保守の風上に も置けないヤツらだと思う。結局は自分が守られたいだけなんだ!

08年1月27日(日) 「岩国市長選挙」

 今日は、朝から大阪府知事選が行われている。自民党と公明党がタレント弁 護士≠推薦・支持するなど、これまで関西ではマスコミを中心に非常に注目され てきた。しかし、私は大阪府知事選よりもむしろ山口県岩国市の市長選挙の方が 気になる。
 岩国市では、米空母艦載機受け入れを巡り井原市長と議会とが対立し、市長側 がみたび民意を聞くために職を辞し、改めて立候補している。この選挙では、岩国 市民がこれ以上基地負担を受け入れるかどうか、政府による「移転を受け入れな ければ約束していた交付金を支給しない!」というアメとムチ$ュ策に対してど う判断するかが注目されている。
 どのような判断が下されるにせよ、他人(地方)の弱みにつけ込んで、物事を強 引に進めようとする政府のやり方のははらわたが煮え返る。国民よりもアメリカの 方が大事なんだろうか・・・

08年1月25日(金) 「運動の成果?」

 面白い世論調査の結果が出ていた。「日本国民であることを誇りに思う人」は9 3%。「国の役に立ちたい」と考える人は73%。「日本の歴史、伝統、文化を誇りに 思う人」は72%。よく見れば、 これまで教育基本法の改悪や愛国心教育の強制 の理由として保守派が「今の日本人にはない!」と言っていたことばかりである。い かに彼らがありもしない危機感を煽っていたか、それとも彼らの運動の成果が早く も現れたということだろうか・・・(?)

08年1月24日(木) 「私の真俗二諦=v

 昨日、「真俗二諦」についての研修会に参加した。私自身不勉強のなのでまだよ く分からないが、とりあえず「真諦」とは「仏法」、「俗諦」とは「天皇の命令」と理解し ていいんだと思う(細かいことは置いといて・・)。戦前、真宗教団(僧侶)は、「命終 えたら争いも差別もないお浄土に生まれることができるから、生きている間は天皇 の命令に従い、一人でも多くの敵≠倒し、自分の命も喜んで投げ捨てなさい」 と言って門信徒を戦場に送り出したという。つまり、仏法が死後の教えだけになり、 現状を無批判に肯定し、人びとの生きる力となりえなかった、そんな教学理解を指 すのだろう。
 まあ、ここまではこれまでにも色々な研修会や書籍などで知っていた。しかし、昨 日の講師の先生の話を聞く中で、私たちはもう一歩前へ踏み出さなければならな いんじゃないかと思った。「真俗二諦」という言い方よりも、「本音と建前」という言い 方の方がいいんじゃないかと思った。「「真俗二諦」の問題について考える!」とな るとどうしても過去の教団(教学者)批判、その過去を克服して切れていない現在 の教団批判で終わってしまう。しかし、「真俗二諦」の問題は、単に過去の問題、教 団の問題だけではないんだと思う。私自身の問題であり、私が今立っているところ の問題でもあるんだと思う。
 例えば、昨日の講師の先生が仰っておられたが、最近教団は「カラー布袍」なる ものを導入した。それに対して、「差別を助長する恐れがある」「同朋教団としてお かしい」という批判の声が宗門内から上がった。もちろんそれは当然だと思う。しか し、「カラー布袍」を批判するなら、今、私たちが法事や報恩講で着ている色衣はど うなるのか・・・?と。また、よく私たち僧侶は「最近の門徒さんは、お説教で聞いた ことを、お寺を本堂を出ると直ぐに忘れてしまう。教えを拠り所として生活していな い」と嘆く。しかし、そのような生き方をしてきたのは、まさに私たち僧侶ではない か・・・?と。よく言われる、「本堂の論理」と「庫裏の論理」を上手に使い分けてきた のが私たち僧侶であったはず。そんな自分自身を問うことなく、他人を批判しても、 少しも門徒さんの心には響かないと。
 「真俗二諦」とはもちろん最初に書いた教学理解のことであり、それを批判し、克 服していくのが私たちの運動だろう。それはそれで大事なことだと思う。しかしそれ で終わってはいけない。「真俗二諦」を問うということは、過去や教団を批判すると ころで終わるのではなく、さらに一歩踏み込んで「本音と建前」を使い分けてきた私 自身の姿を問うところまでいかなけらばならないんだと思う。確かにそれは「自分 自身の身を切る」という意味で、非常に痛みの伴う、辛い取り組みだと思う。でもそ れが本当の同朋運動なんだろう。本当の同朋教団への道のりなんだろう。
 昨日の研修会は、これまでの自分の甘さを痛感させられたと同時に、なぜ多くの 僧侶が運動に背を向けるのか、その気持ちが少し分かったような気がする。でも、 僧侶である限り、立ち止まるわけにはいかない・・・

08年1月22日(火) 「真宗大谷派九条の会」

 2月9日、「真宗大谷派九条の会」の設立集会が開催される。親鸞聖人の教えに 生きる非戦・平和を願う大谷派の僧侶・門徒が結集する非常に大きな集会になる そうだ。場所は、真宗大谷派(東本願寺)の真宗本廟視聴覚ホール(参拝接待所 地下2階)にて、14:00〜17:00まで。記念講演は、「九条の会」呼び掛け人である 鶴見俊輔氏。私も時間があれば是非参加したいと思う。

08年1月21日(月) 「後方支援」

 今週の言葉:「「後方支援」 銃を持たない わたしが 兵士に引き金を ひかせ る」
 インド洋での海自による給油活動が間もなく再開される。世論調査によると、賛 否は五分五分だという(1/19)。私たち日本人が一生懸命働いて払った税金で買っ た燃料がアメリカなどを中心にした艦船に給油される。そして給油された艦船から 戦闘機や爆撃機が飛び立って行き、無辜の市民の頭上に爆弾の嵐を降らせる。 それは沖縄にある米軍基地にも言えるのだろう・・・
 「日本は戦後六十年間一度も戦争をしてこなかった!」「戦後、日本人は戦争に よって外国の国民を一人も殺さなかった!」「平和国家だ!」と言う人がいるけど、 あれは絶対に嘘だと思う。まさに私たちは今戦争の当事者であり、多くの人々の上 に爆弾を落とし、人殺しをしている当事者なんだと思う。その自覚がない限り、いく ら憲法9条を守ったとしても意味がないような気がする。ちょっと言いすぎかな・・・

08年1月20日(日) 「ハンセン病問題基本法」

 「ハンセン病問題基本法案」が、超党派による議員立法で今国会に提出されるこ とになった(1/20)。私たちの本願寺派も法案が成立するよう全教団挙げて署名活 動を展開している。ところでなぜ私たちは教団として、僧侶としてこの「ハンセン病 問題」に取り組んでいるのだろうか?人権問題だからだろうか?元患者さんへ同 情からだろうか?僧侶だからだろうか?違うと思う。私たちの教団が、僧侶がかつ てハンセン病差別に加担してきたからだろう。国の差別政策に無批判であったば かりでなく、むしろ積極的に患者さんに仏教の名のもとに諦め≠説くことにより 差別政策を補完してきたからだろう。自分を外に置いて、第三者的立場からいくら この問題に関わっても、教団・僧侶の取り組み(運動)としては全く意味はないんだ と思う。

08年1月18日(金) 「憲法20条改定と排除・差別E」

 共同体の求心力を高めるための敵≠ヘ外だけではない。内にも敵≠作り 出すことで、より一層求心力が高まる。
 例えば、いじめの構造を考えてみるとよくわかる。イジメには二つの目的がある。 一つは、クラスという集団の共同体意識(仲間意識)を高めること。二つは、クラス という集団の中にたまった「暴力への欲求」を擬似的に解消することにある。その 目的を達成するために、「いじめられっ子」がいけにえ≠ノなるのである。しかし ここで大切なことはいじめられっ子≠ヘ常にクラスの中にいるということ。決して クラスの外に完全に排除されることはない。完全に排除されてしまったら当初の目 的が達成されない。だからもしいじめられっ子≠ェ転校するなどして本当≠ノ 排除されてしまうと、いじめっ子≠ヘクラスの中に新たないけにえ≠探すこ とになると(『「ケガレ」を考える』より)。
 つまり攻撃・排除の対象は常に共同体の中も必要だということである。それによ って共同体の一体感が更に強まるのである。昨今、日本国内で吹荒れるバッシン グの嵐。公務員バッシングに始まり、イラク人質事件、拉致被害者家族、亀田親 子、朝青龍、教職員・・・。また光市母子殺害事件の被告や弁護団に対するバッシ ングや「悪いヤツは吊るしてしまえ!」といった刑罰の厳罰化を求める声や死刑制 度の容認・・・。更には、これまで差別を受けてきた被差別部落やハンセン病元患 者、障害者に対する差別の激化・陰湿化など、全てここに原因があるのではない だろうか?

08年1月17日(木) 「憲法20条改定と排除・差別D」

 格差の拡大や雇用不安などを背景に「頼るべき価値」や「居場所」を失った人々 の不安や不平・不満を解消することを目的に、「愛国心」や「古きよき日本の伝統・ 文化」、「神の国」の復活が叫ばれているのではないかと書いた。しかし、人々の不 安や不平・不満の原因を根本的に解決することなく、小手先だけの対処をすること は非常に危険な気がする。日本という社会を、不平・不安・憎悪が渦巻く社会(= 戦争と差別・排除の社会)に変えてしまうのではないだろうか。
 自分以外の人間と融合したいという欲望は、人間の最も「根源的な熱情」(エーリ ッヒ・フロム)であるという。しかし、「その融合がネガティブな媒介、つまり不安や心 配、憎悪のようなものを接着剤にしているとしたら・・・、そこに成立する共同体は、 とりとめもない感情と同じように、焦点の定まらない、もろくてはかない共同体」 (『愛国の作法』)でしかないという。そこでそんなもろくはかない共同体の求心力を 維持するためにどうするかというと、共同体の外に常に「敵」を作るのである。異質 なもの、共同体の秩序を乱すものを敵≠ニしてみんなで攻撃することにより、よ り一層共同体の求心力を強めるのである。
 そのいい例が、かつて小泉元首相が「国家に殉じた「英霊」を顕彰して何が悪 い!」「中韓などの外圧には屈しない!」というメッセージを送って靖国神社参拝を 強行した後、それまで否定的だった世論が参拝支持に傾いたことだろう。またその 他にも、拉致問題をきっかけとした反北朝鮮キャンペーンなども、日本人のナショ ナリズムを大いに刺激し、国家への帰属意識(愛国心)を高める結果となっただろ う。しかしその反面、私たちの社会に残ったのは偏狭なナショナリズムとアジア人 に対する蔑視観(民族差別)ではなかっただろうか・・・
 「共同体的世界は、共同体の外にあるものがすべて、どうでもよくなったときに完 成する。もっと正確にいえば、共同体の外が共同体の敵対者、混乱を武器として ふりかざす敵にあふれた、待ち伏せと陰謀の未開地に見えたときに完成する。共 同体世界の内的調和は、出口の向こう側にひろがる暗い密林を背景にすると、余 計光り輝いてみえる。共通の温かみに群がる人たちは、彼らに共同体という避難 所をもとめさせた不安を、そこ、すなわち、未開の密林へと投棄したのである」(『リ キッド・モダニティ』 ジークムント・バウマン)

08年1月16日(水) 「憲法20条改定と排除・差別C」

 先日、松下電器産業が「松下」という名前を社名から外し、「パナソニック」ブラン ド一本に統一するというニュースがあった。創業者である松下幸之助氏の名前を 敢えて社名から外した背景には、経済のグローバル化に伴い益々激化していく国 際競争に企業としていかにして生き残っていくかという苦渋の決断があったという。 「あの松下≠ナさえ安心できない」という弱肉強食の大競争時代に今世界がある んだと改めて思った人も多いはず。
 以前、ある人とこんな話をしたことがある。企業にとってはこれまでの年功序列制 を中心とした日本型終身雇用システムのほうがいいのでないか?多少のコストは かかるが、「企業を親・家族とみなし、親・家族のために苦労を厭わず身を削って までも従順に働く子ども=労働者」といった大家族主義的な労使関係のほうが・・・ 実際に戦後日本の企業はそれで成功してきたはず。なぜだろう?と。
 でも最近思う。確かにそれに越したことはない。でも、今の世界経済における大 競争時代の中では、旧来の雇用システムではもう立ち行かない。競争に生き残れ ないんだろう。企業として競争に勝ち残るためには出来るだけ生産コストを下げな ければならない。そのためには人件費をカットするしかない。その結果として、これ までの雇用システムの崩壊があり、格差社会の進行があるんじゃないだろうか・・・

08年1月15日(火) 「憲法20条改定と排除・差別B」

 幕末から維新にかけて頻りに叫ばれた「尊王攘夷」。その背景には、一部の日本 人の中に、「(日本は)世界の中心から外れているという辺土意識(=仏教の発祥 地インド、あるいは中国が中心とすれば、日本はその辺境に位置しているという意 識)や粟散の小国という世界観(=日本はアジア大陸の大きさから言えば、粟を散 らしたような小さい国という意味)」があったという。その劣等感の裏返しとして、「尊 王」=「神国」観が形成され他国を蔑視する夷狄(異民族)観が形成されていった のだと。また、新政府成立後の士族の不平や、欧米諸国との間に結ばれた不平 等条約に対する不満や劣等感を解消するために、「神国日本」という考えをもとに しながら、「征韓論」や「脱亜入欧」などアジア諸国に対する蔑視観が醸成されてい ったという(ブックレット基幹運動『戦争と平和に学ぶ』より)。
 どこか「靖国参拝問題」や「北朝鮮バッシング」によってナショナリズムを煽ると同 時に、憲法20条を改定することによって「神国日本」の復活を目指す現在の状況と 似ているような気がする・・・

08年1月14日(月) 「KY≠フすすめ」

 今日の朝日新聞の社説にも同じようなことが書かれていたが、以前、確か爆笑 問題の太田光だったと思うが、最近の流行語の一つである「KY(=空気が読めな い)」について、「別にKYでもいいじゃないか!」「全ての人が時代や社会の空気を 読んで同じ方向へ流されるよりもよっぽどいい!」と言っていた。本当にその通りだ と思った。
 若者言葉である「KY」。今、日本社会全体が「異質なもの」・「異分子」・「共同体 の秩序を乱すもの」を「KY」というレッテルを貼って排除しようとしているような気が してならない。そんな時代であるからこそ私自身KY≠ナあり続けたい。

08年1月12日(土) 「フリーズ」

 補給支援法が衆議院の再議決により可決された(1/11)。今月中にも海自補給 艦がインド洋に向かうという。「国際貢献」と言えば、自衛隊を海外に派兵するこ と、米軍を支援することしか思い浮かばない、まさに思考停止状態(フリーズ)に陥 ってしまっているかのようだ。衆参が捩じれ状態にある今こそ、日本として今何をす るべきなのか、将来まで見据えた上で議論するチャンスだったのに、ほとんどまと もな議論もされないまま、初めから結論ありきの数ヶ月だった。悲劇を通り越して 喜劇である。



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