愛願人形 27




形兆が出て行ってから程なくして、階下から凄い音がした。何かが激しく壊れるような音だった。今、この家で一体何が起きているのだろう?形兆は何をしているのだろうか?億泰はどうしただろうか?
高まる一方の不安に苛まれていると、階段を上って来る足音が聞こえた。落ち着いた少し重い足音、形兆だ。は身を捩り、腕を縛る鎖をジャラジャラと鳴らして、これを解いてと訴えた。
だが、室内に入って来た形兆は、もがくを冷ややかな目で一瞥しただけで、訴えを聞くどころかほんの僅かに近寄ろうとすらもしなかった。


「・・・・・!!」

形兆はの事を完全に無視して、向こうの壁のフックに弓と矢を掛けた。
矢があるという事は、あの少年の喉から引っこ抜いて来たという事だ。ならばあの少年はどうなったのだろうか?
形兆も、億泰も、あの二人の少年も、どうなってしまうのだろうか?
全ての人が皆、この弓と矢の魔力にとり憑かれて破滅していくような気がして怖くて堪らず、涙が溢れた。


― 形兆君!!これを解いて!!お願いだから!!

は泣きながらもめげずに身を捩り、鎖を鳴らし続けた。
自由の利かない手では、堕ちていく形兆の手を掴む事も、その身体を抱きしめて引き止める事も出来ないのだから。


― 形兆君!!!

しかし、形兆は只の一歩たりともに近付こうとはせず、無言のまま再び部屋を出て行ってしまった。


「っ・・・・・!!」

閉ざされたドアを見つめながら、はボロボロと涙を零した。
どうして止められないのだろうか。もしもこの声が出ていたら、形兆を呼び止める事が出来たのだろうか。どんなに強く願っても何一つ叶う事がなくて、絶望の涙が止まらなかった。


「・・・・・!?」

その内に、階下からまた音が聞こえてきた。
形兆とあの少年達の争う声、爆発や破壊の音、振動。今度はもっと音が近い。恐らくこのすぐ下の2階から聞こえてきていると思われた。
きっと皆、そこにいるのだ。
そこにいて、命を落としかねないような争いを繰り広げているのだ。


「っ・・・・・!!」

こんな所で泣いていたって、それこそどうにもならない。
ここで泣いていたところで、形兆も億泰も救えない。
どうにかなるかならないか、全ては自分次第だと思ったらだんだん力が湧いてきて、涙が止まった。


― この鎖、これを何とかすれば・・・・!

鎖を壁のフックから外す事が出来れば、多少は動けるようになる。
まずはこの鎖を外そうと、は何とか床に座り込み、自由の利かない手を必死に動かした。
フックの位置はかなり低くて床に近い所にあり、後ろ手に縛られている為に手も思うように動かず、力も入り難い。
少し無理をしようとすると肩や腕の筋に引き攣るような強い痛みが走り、なかなかすんなりとは外れてくれなかった。


「っ・・・・!!」

しかし、痛いだの何だのと泣き言を言っている暇は無い。
歯を食い縛りながら四苦八苦して何とか手を動かし続けていると、暫くして遂に虹村兄弟の父親の鎖がフックから外れた。
1本外れてしまえば、鎖を動かすゆとりが出来たので、自分の分を外すのにはそれほど苦労しなかった。
鎖をフックから外してどうにかこうにか立ち上がり、壁の側から離れる事が出来ると、はひとまず安堵の溜息を深々と吐いた。
だが、まだ完全に自由になれた訳ではない。後ろ手に縛られたままではどうしようもないのだ。


「・・・・・・!」

は虹村兄弟の父親に背中を向けて縛られた手を見せつけ、注意を惹くように腕を揺すった。
気付いて!気付いて!そう願いながら腕を揺すり続けていると、それが通じたらしく、彼はの手に巻き付いている鎖を手に取った。


「ウゥゥゥ〜・・・・・・」
「・・・・・・!」

まずはそれを解いて、それから手首を縛っている手拭いを解くのだが、分かるだろうか?
説明する術が無いので、虹村兄弟の父親が自ら理解してくれるのを祈るしかなかったのだが、彼はその鎖を訳も分からずただ引っ張っただけだった。
何とか解き方を伝えようと腕を可能な限り動かしてみたり、どうにか自分で解こうともしてみたが、やはりこれ以上はどうにもならず、ひとまずは諦めてこのまま下へ下りるしかないと判断したその時、階下で一際大きな爆発音がした。
大地震が起きたのかと思うような激しい振動が屋敷全体を揺らした後、今度は一転して急に静かになった。


― な、何・・・?今の・・・・?

も相当に驚いたのだが、流石にこれには虹村兄弟の父親も驚いたらしく、辺りの様子を窺うようにキョロキョロと周囲を見回しながら、不安そうな呻き声を上げ始めた。


― 形兆君・・・・・!

形兆の身が心配だった。
は可能な限りの早足で歩き、部屋のドアを開けた。
だが、部屋を出ようとしたその時、階段のすぐ下から少年達の声が聞こえてきた。


「そ、それは駄目だよ!ぼ、僕は仗助君に傷を治して貰ったから生きてるけど、でもさ、あの弓と矢で誰かがまた射られたら、今度は死ぬかも知れないんだよ!この町で!」

その声に、その話に、はハッと息を呑んだ。
形兆に矢で射抜かれたあの少年は、無事に助かったのだ。
とすると、『仗助君』というのはきっと億泰と戦っていた方の少年で、その人があの『東方仗助』なのだ。
そして、この二人だけがここでこんな会話をしているという事は、形兆と億泰はきっと・・・・


「こ、ここにいてよ!ぼ、僕一人で探してくるからさ・・・・!」
「っ・・・・・!」

少年が階段を上がって来る気配がして、は慌てて部屋の中に逃げ戻った。
足音を立てないように気を付けるのが精一杯で、ドアをちゃんと閉める事が出来なかったのだが、それをする暇はもう無かった。


「・・・おい。」
「なっ、何!?と、止めないでよ・・・・!」
「止めねぇよ。早ぇとこ弓と矢をぶち折って、一緒に外に出ようぜ、康一。」

仗助と、『康一』という名前らしいもう一人の少年は、形兆と億泰をどうしたのだろうか?
多分、あの二人と戦って勝ったからここにこうしているのだろうが、その後二人をどうしただろうか?まさか殺したのではないだろうか?
話を聞いている限りそんな事をするような人達ではなさそうだが、しかし、絶対に無いとは考えられなかった。
ものの弾みという事も有り得るし、正当防衛という事もある、これ以上あの矢の犠牲者を増やさない為に敢えて手を下したという事だって考えられるのだから。
それを思うと怖くて混乱して、どうすれば良いか分からず、は咄嗟に虹村兄弟の父親を促して、一緒にドアの陰に身を隠した。


「屋根裏部屋があるよ・・・。弓と矢はここかも・・・・」

その内に、二人が部屋の前に立ったのが分かった。
壁を隔てた所でその気配を感じながら、は息を殺し、身を固くした。


「ハッ・・・・!?あ、あった・・・!弓と矢だ・・・!奥の壁に掛けてあるよ!」

康一が声を上げた。半開きのドアの隙間から、壁に掛かっている弓と矢が見えたようだった。
形兆の意思を汲むのであれば、死守するべきなのだろう。何としても二人を阻み、あの弓と矢を守れば、形兆はきっと喜んでくれるに違いない。
だが個人の意思は、この少年達の考えと同じだった。
形兆にとってはこの二人が敵だったのだろうが、にとってはあれこそが、形兆を狂わせていくあの忌まわしき弓と矢こそが敵だった。
堕ちてゆく形兆を止める為には、あれをこの人達に壊して貰うべきなのだ。たとえ形兆に詰られ、責められ、憎まれようとも。


「ア゛ア゛ア゛ァァァ・・・・・」

虹村兄弟の父親が、また呻き声を上げ始めた。


「・・・・おい、やっぱりヤベェな、何かいるぞ・・・・・」
「う・・・・」

その声は、ドアの前の二人にもはっきり聞こえたようだった。
は内心で大いに動揺した。どのような行動を取るべきなのかまだ考えも定まっていないのに、今踏み込まれてきたら、どうすれば良いというのだろうか。
しかし虹村兄弟の父親は、迷っているとは違って、二人に対しての警戒心を剥き出しにしていた。
酷く興奮しているのか呼吸を荒げ、敵を威嚇する獣のように恐ろしげな唸り声を上げ、半開きのドアをじっと見据えて、今にもそこへ飛び出して行きそうな様子に見えた。
ともかくいきなりそうなってはまずいと思って彼の鎖を掴むと、それで触発されてしまったのか、彼はビクリと身体を震わせて身じろぎし、鎖が引っ張られて音を立てた。


「何か鎖に繋がれているのか・・・・?」
「い、犬かな・・・・?この音、人間じゃあないよ・・・・?ど、動物っぽい音だ・・・・」

半開きだったドアが、向こうから更に開かれた。
それにつれて自分達の身を隠すスペースがぐんと狭くなり、は虹村兄弟の父親と身を寄せ合いながら、張り詰めるような緊張感に益々息を詰まらせた。


「ブゲェェ・・・・・!」
「やっぱり怖いよ、どうしよう・・・・!?」
「どうしようってよぉ・・・・!オメーが行くっつったんだぞ?」
「そうだけどぉ・・・・!」

怖いのはお互い様だった。
彼等は虹村兄弟の父親の唸り声に怯えているが、その声を出している虹村兄弟の父親もまた、彼等を恐れていた。
その身体がブルブルと小刻みに震えているのが、それを如実に表していた。恐れているからこそ、こんなにも警戒しているのだ。


「・・・・やるしかねぇんだよ。いいか康一、1、2の、3で、ドアを思いきり蹴飛ばして開けるんだ。脅かすんだぜ。そしたら俺が、弓と矢んとこ行ってへし折っからよ!いいな!?」
「う、うん・・・・!」

いよいよ彼等が踏み込んで来る。
は固唾を呑んで、二人が突入してくるその瞬間を覚悟した。


「・・・・行くぜ・・・・・、1、2の・・・・3!」
「っ・・・・!」

その瞬間、虹村兄弟の父親がドアの前へと飛び出して行った。
まるで二人が打ち合わせていた事を理解しているかのようにタイミングをピタリと合わせて、ドアを蹴り開けようとした康一の足を掴んだのだ。


「うわぁぁーーっ!!うわっ、うわっ、うわぁぁぁーーっ!」

虹村兄弟の父親に足を掴まれた康一は、そのままひっくり返ってパニックになったように絶叫した。


「な、何だこいつは!?康一!!」

虹村兄弟の父親は、そのまま康一を部屋の中に引き摺り込もうとした。
その人間でも獣でもない深緑色の腕が、とうとうこの二人の目にもはっきりと見えたようだった。


「うわぁぁぁぁーーーッッ!!助けてぇーーーッッ!!」
「この手はスタンドじゃあねぇ!モノホンだ!モノホンの肉体だぜこいつは!」
「た、助けてぇぇーーーッ!!」
「ドラァッ!!」
「ブゲェェッ!!」

何が起きたのか、の目には見えなかった。
何が起きたのかは分からないが、ほんの一瞬にして、康一の足を掴んでいた虹村兄弟の父親の手が千切れた。


「うわっ・・・・!」
「うえぇぇ・・・・!」
「せ、切断するつもりは・・・!」

きっと、仗助が自分のスタンド能力で攻撃したのだろう。それが想定していた以上の惨事になって動揺しているようだった。
確かにグロテスクな光景である。こんな光景を目の当たりにして平気な人などまずいないし、その瞬間はも反射的に動揺してしまったが、しかし結果的には大事に至らないという事を、はもう分かっていた。


「ブエウゥゥ〜〜・・・・・!」

流石にその瞬間は痛いのか、それとも怖かったのか、虹村兄弟の父親は悲鳴を上げながらドアの陰から走って飛び出し、木箱の側へと逃げて行った。
そしてそこでまた呻き声を上げ始めたかと思うと、手の千切れた部分から、そっくりそのまま新たな手が粘液に塗れつつ生えてきた。


「ひぃっ・・・・・!」

その様子を目の当たりにした康一が、悲鳴を上げた。


「ひぃぃぃ〜っ・・・・・!うぇぇぇぇ〜っ・・・・・!」
「いいぃぃぃぃ!?」

手の再生が終わり、振り返って部屋の中央へのっそりと出て来た虹村兄弟の父親を見て、康一と仗助は驚愕の叫び声を上げた。
この二人の心境は、にもよく分かった。
他ならぬ自身も、初めて彼に引き合わされた時、人外の様相を呈するその醜怪な姿に恐怖して悲鳴を上げたのだから。


「ウゥゥゥ・・・・・・」

のっそりと歩み出て来た虹村兄弟の父親は、突然弾かれたように俊敏な動きで駆け出し、床に転がっている切断された手をサッと取ってまた箱の側へと逃げ、背中を向けてモゾモゾと妙な動きを始めた。
アグアグと声を篭らせながら、時折咀嚼音をさせている。きっと千切れた手を食べているのだ。前に億泰もそんな事を言っていたし、この間アンジェロに襲われた時も、後になって気が付いた時には、彼の肉らしきものは綺麗さっぱり無くなっていたから、今もきっとそれをしているのだろうと想像がついた。


「な、何だこの生き物は!?俺んちの近所にこんなのが住んでたなんて・・・・!」
「おえぇぇぇ・・・・・」

更にグロテスクな光景に一層ショックを受けたような二人を見ながら、は自分に決断を迫った。
そうするより仕方がないのだ。もう何処へも逃げ隠れ出来ない状況なのだから。
意を決して恐る恐る一歩を踏み出すと、床に垂れている鎖が鳴って、二人の注意を惹いた。


「だ、誰だ!?そこにいんのはよぉ!?」
「ま、まだ誰かいたの!?」

もう出て行くしかない。
は恐怖と緊張に強張る足を励ましながら、ドアの陰からゆっくりと出て行った。


「お、女の子・・・・!?」
「あ、あんたは・・・・・!?」

後ろ手に縛られ、鎖を引き摺っているを見て、康一と億泰はギョッと目を丸くした。


「ど、どうしたんですか一体!?」
「虹村兄弟に捕らわれてたのか!?ま、まさかあんたもあの矢で狙われてたんじゃ・・・!?」

違う、そうじゃない。
首を振って即座に否定したが、彼等はそれよりもの手の縛めの方を気にした。


「は、話は後だよ仗助君!と、とにかく解いてあげなきゃ・・・!」
「お、おう、そうだな・・・!」

二人はの手を縛る鎖と手拭いをテキパキと解いた。敵か味方かも分からない、見ず知らずのに対して何の警戒もせず、ただこうするのが当然とばかりに。


「大丈夫ですか!?」
「どっか怪我したりしてねぇッスか!?」

緊縛の痛みがまだ幾らか手首に残ってはいるが、怪我という程ではない。
小さく頷くと、二人は安心したように、強張っていた表情を少しだけ和らげた。


「あんた誰だ?一体何があってこうなってた?それにそのバケモンは一体・・・」
「仗助君・・・・!」

矢継ぎ早に質問を重ねる仗助の袖を、康一が軽く引っ張った。


「この人もしかして、耳が聞こえないんじゃないかな・・・・?ほら・・・・」
「あ・・・・・」

二人は内緒話のトーンで喋りながら、が首から下げている筆談帳とペンに一瞬チラリと目を向けた。
はペンを取り、筆談帳に『耳は聞こえています』と書いて二人に見せた。
それを読んだ二人は益々気まずそうな顔になって、一瞬言葉を詰まらせた。


「あ、あのっ・・・・!す、すみません、その・・・!僕、失礼な事を・・・・!」
「す、すんませんッした・・・!」

失礼な事を言われたとは思っていないし、そんな事を気にしている暇も無い。
頭を下げて謝る二人に対してはすぐに首を振り、更にペンを走らせた。


「それより形兆君と億泰君は!?どうなったんですか!?」

その質問を読んだ途端、二人はハッと息を呑んでを凝視した。


「け、形兆君と億泰君だと!?あんた一体、あの兄弟の何なんだ!?」
「ど、どういう事ですか!?事情を聞かせて下さい!」

先に聞きたいのは、こちらの質問に対する答えだった。
とにかく早く虹村兄弟の安否を知りたい一心で、は自分の書いたその質問を指で忙しなくつつき、答えを催促した。
意思はそれで通じたようで、仗助がおずおずと答えた。


「あ、あの二人なら大丈夫ッスよ。億泰の怪我は治したし、兄貴の方は・・・・、まだ治してねぇけど、多分命に別状は無いかと・・・・。」

それを聞いた途端、深々とした溜息が出た。
ちゃんと本人達の顔を見るまでは、まだ本当に安心する事は出来ないのだが、ひとまず無事だという事が聞けただけでも、随分と不安が払拭された。


「・・・じゃあ、今度は僕らの質問に答えて下さい。まず、あなたは誰ですか?あの兄弟とはどういう関係なんですか?」

康一から受けたその質問に、今度はが息を呑む番だった。
虹村兄弟との関係?
彼等と出逢い、過ごしてきたこの数年間を見ず知らずの人達に端的に説明するには、どう言えば良いのだろうか?
答えに悩んでいると、不意に重い足音が聞こえて、誰かが部屋に入って来た。


「・・・・遂に見やがったな・・・、見てはならねぇものをよぉ・・・・」

形兆だった。
怪我をして血だらけになった形兆が入って来たのを見て、は大きく目を見開いた。


















「う・・・・、うぅ・・・・」

少しの間、気絶していたようだった。
気が付くと、仗助と康一はいなくなっていて、方々の壁が抜けており、部屋の中が瓦礫だらけになっていた。
だが今は、そんな事に気を回している余裕は無かった。あの二人はきっと、弓と矢を探す為にまだこの屋敷の中をうろついている筈なのだ。


「ぐくっ・・・・、ちっきしょお・・・・!」

咄嗟に砲撃のパワーを出来る限り弱めたが、被弾は免れなかった。
東方仗助のスタンド、『クレイジー・ダイヤモンド』は、考えていた以上に凄まじい能力だった。少し甘く見過ぎていたと認めざるを得なかった。
だが、見通しの甘かった自分を悔やんでいる暇とて無かった。
あの弓と矢だけは絶対に、絶対に、誰にも渡す訳にはいかないのだから。


「渡すもんかよ・・・、絶対に・・・!どこだ、東方仗助・・・・!?」

形兆はあちこち痛む身体を引き摺りながら、ひとまず部屋を出た。
すると、屋根裏部屋の方からあの二人の声が聞こえてきた。


「っ・・・・・!」

そこにいるという事は、あの弓と矢を見つけたという事だ。
そして、や父親とも対面したという事だ。
今まで必死に隠してきたもの全てが明るみに出てしまったと分かった途端、身体から急に力が抜けて、崩れ落ちてしまいそうになった。
袋の鼠とは、正にこういう事を言うのだろう。
だがそれでも、あの弓と矢を守らなければならなかった。
形兆は歯を食い縛り、息を切らせながら、屋根裏部屋へと続く階段を上って行った。
ドアは開いていて、弓と矢はまだ壁に掛かったままだった。それを確認して少し安心出来たのも束の間、部屋の中から仗助と康一の声が聞こえてきた。


「あ、あの二人なら大丈夫ッスよ。億泰の怪我は治したし、兄貴の方は・・・・、まだ治してねぇけど、多分命に別状は無いかと・・・・。」
「・・・じゃあ、今度は僕らの質問に答えて下さい。まず、あなたは誰ですか?あの兄弟とはどういう関係なんですか?」

二人はと話しているようだった。まだ殆ど何も聞いていないようだが、これから色々聞き出すつもりでいるのは明らかだった。そしてもきっと、黙秘を貫き通す事は出来ないだろう。
だが、口が利けず、何の関わりもないを、代わりに矢面に立たせる訳にはいかなかった。


「・・・・遂に見やがったな・・・、見てはならねぇものをよぉ・・・・」
「テメェ・・・・!」

部屋に入ると、仗助と康一がまた警戒に満ちた目を向けてきたが、それに応戦してやる力は、悔しいけれどももう残っていなかった。
もその側にいて、呆然と見開いた目で形兆を見つめていた。その手の縛めを解いてやったのは、きっと仗助と康一に違いない。
この二人の目には、囚われて生贄にされかけていた哀れな少女と、欲望に狂って次々に人の命を奪う悪魔にでも見えているのだろう。あながち間違いという訳でもないが。
形兆はから目を逸らすと、木箱の横で蹲っている父親を見据えて歩を進めて行った。


「・・・そこにいんのがよぉ・・・、俺達の親父だぜ・・・。これは・・・、親父に必要な物だ・・・・!」

形兆は、壁に掛けていた弓と矢を手に取った。


「親父の為にスタンド使いを見つけてやりたい、だからこの弓と矢は、断じて他の奴に渡したり破壊させる訳にはいかん!!」

そうはいくかと、仗助が再度攻撃を仕掛けてくる事も想定していた。
しかし、仗助はそれをしなかった。


「・・・何かの病気なのか?」
「病気?違うね。親父は健康さ、至ってね。食欲はあるしよぉ。ただ唸り声上げてるだけで、俺が息子っつうのは分かんねぇがな。」
「親父さんを治すスタンド使いを探してたっつう訳か。」

たったこれだけの話で全てを悟ったかのように早々とそう結論付ける仗助に、思わず笑いがこみ上げてきた。


「治す?・・・フッフッフッ・・・、オメーが治すってか?それも違うね。」

笑っている内に、急に胸が苦しくなってきた。
息がし難くなってきて、何かが胸につかえたようになって、気が付くと、情けなくも両の目から涙が溢れていた。


「ッフフッ・・・・・、フフフッ・・・・、逆だ・・・・!親父を殺してくれるスタンド使いを、俺は探しているんだよ・・・・!
親父は絶対に死なねぇんだ。頭を潰そうとも、身体を粉微塵にしようとも、削り取ろうとも絶対だ・・・・!」

この状況も理解出来ずに、いつものように木箱を開けようと蓋を引っ掻いている父親の手は、人間のそれではない。
しかし、それが普通の人間の手だった時が、確かにあった。
それを知る者はもう誰もいない、億泰でさえ覚えていないが、遠い昔、それは確かに人間の手だったのだ。
深緑色をした不気味な出来物だらけの化け物の手でも、幼い息子達を力任せに殴る鬼の手でもなく、優しくボールを投げたりしっかりと抱き上げてくれる、温かくて頼もしい『父親』の手だったのだ。


「普通に死なせてやりてぇんだ・・・、その為ならどんな事でもするって子供の時誓った・・・・。その為にこの弓と矢は絶対に必要なんだ・・・。さもなきゃ親父は、このまんま永遠に生きるだろう・・・。何故なら、親父は『DIO』っつう男の細胞を頭に埋め込まれて、こうなっちまったんだからなぁ!!」
「DIO!?『DIO』って言ったのか!?・・・承太郎さんの言ってた奴の事か・・・!」

仗助の反応は、形兆にとって思いがけないものだった。
東方仗助が、何故承太郎と繋がりを持っているのだろう?
ジョセフ・ジョースターの孫で空条ホリィの息子、そして、DIOを倒した男である『空条承太郎』と。


「・・・・少し、過去の事を喋ってやろう、東方仗助・・・・。満更、お前にも関係の無い話ではないからな・・・・。」

どういう繋がりかは知らないが、とにかく、仗助は多少なりとも事情を知っている。
そう思うと、いつもしっかりと固く閉ざしてある心が、少しだけ緩んでいくのを感じた。こんな気持ちになったのは、と出逢った時以来だった。


「・・・・全ては11年前、1988年に起こった・・・・。当時俺は7歳、億泰は4歳。俺達は東京に住んでた・・・・。
世の中はバブル経済とか言って浮かれてたが、当時の親父は全くツイてない男でよぉ、病気でお袋が死に、経営していた会社は倒産して、膨大な借金を抱えてた・・・。俺達を理由無くよく殴ったよ・・・。親父は完璧に負け犬だったのさ・・・・。
だがある時から急に、親父のところに札束が転がり込んでくるようになった。時には宝石や貴金属の時もあったよ。仕事もろくにしてねぇのによぉ・・・・。
後から調べて分かったんだが、その時既に親父は、DIOに心を売っちまってたようだなぁ・・・。金の為に、手下になってたのさ・・・・。
『DIO』って奴は当時、世界中からスタンドの才能のある奴を探してたらしい。どうにかして、親父にその才能があるってのを見つけたのさ。どんなスタンドだったのかは、今となっちゃあ分からねぇがな。
だが、ある日の事だ、10年経った今でもはっきり覚えているぜ・・・。昼の2時位に、俺が学校から帰るとよぉ・・・・」

思い出すのもおぞましいあの記憶を呼び覚まして、形兆は語った。
玄関で怯えて泣きじゃくっていた、幼い億泰の事。
キッチンの床に這い蹲って、苦痛にのたうち回る父の事。
そして、父が苦しみながら繰り返し口走った、あの断末魔の台詞。

DIOが死んだ。

肉の芽が暴走した。


「・・・・その日から1年ぐらいで、俺達が息子だっつう事も分からねぇ、肉の塊になったのさ。」

それから10年。そんなにも長い年月が、いつの間にか過ぎてしまっていた。
その間、この化け物に対して、どれだけの労力を費やしてきただろうか。
三度三度の食事の度にメチャクチャに食い散らかされる後を片付け、えも言われぬ悪臭に耐えながら垂れ流しの糞尿の始末をし、その内に我慢の限界が訪れて、それこそ鬼のような暴力でもって、力ずくでトイレでの排泄を躾けた。
発情の度に不快な大音量の奇声と汚らわしい発散行為に苦しめられ、耐えかねて、億泰以外に初めて心を通わせる事の出来た奴を、初めて好きになったという女を、周到な計画で誑かして母親の元から攫い、慰みの為の人形として宛がった。
そのと億泰が、僅かな望みをかけて、服を着る習慣と、人間の子供レベルの食事作法を根気強く教え込んだ。
けれども、そこまでだった。
血反吐を吐くような苦労をどれだけ重ねても、この化け物は、これ以上の状態にはならない。元の『虹村万作』という人間に完全に戻れる事はないのだ。
蓋を開けた木箱の中を引っ掻き回すのに夢中になって、箱ごと床にひっくり返る無様な父親を見ていると、心の中が情けなさと無力感で一杯になって気が遠くなりそうだった。


「DIOって奴はなぁ、信用出来ない奴の頭に自分の細胞を埋め込んで、操りたい時に命令出来た。親父はその肉の芽を埋め込まれていたのさ!
俺は10年かかって全てを調べたよ。スタンドの事、承太郎の事。そして、エンヤという老婆を知って、弓と矢を手に入れたんだがな。
だが色んな事を知ると同時に、親父は決して治らねぇという事を信じなくてはならなかった。DIOの不死身の細胞が、一体化しちまったんだからな。
一日中こうやってるだけだ。毎日毎日、来る日も来る日も10年間、無駄にガラクタ箱の中を引っ掻き回しているだけさ!
箱を取り上げると、何日も泣き喚くしよぉ!イラつくぜ、こいつを見てるとよぉ!生きてるって事に憎しみが湧いてくるぜ!」

おぞましい容貌。愚鈍な頭脳。
目の前にいられるだけで、不愉快で腹が立ってくる。
ただ見ているだけでも、特別これといった理由が無くても、ふと憎しみが湧いて、そのまま芋づる式に昔の恨みつらみが次々と引き摺り出されてくるのだ。
形兆は父親の首の鎖を力任せに引っ張り、箱から引き離した。


「散らかすなって何度も、教えたろうッ!」

そして、固めた拳をその顔面に思いきり叩き付けてやった。


「躾けりゃあ、結構言う事を、聞くんだがよぉッ!この箱を!ゴソゴソ!やるんだきゃあ止めやがらねぇ!!」

更に、悲鳴を上げて吹っ飛んだ父親の顔を力任せに踏みにじり、何度も何度も蹴りつけた。
この10年、何度こうして仕返しをしてきただろうか。きっともう、自分がやられた以上の回数をやり返してきている。それでもこの父親を許せる気には全くならないし、それどころかほんの一時の憂さ晴らしにすらならない。
いつもそうだ。力の限りに痛めつけて、この化け物が惨めったらしく泣いて悲鳴を上げれば上げる程、もっと痛めつけてやりたくなる。やればやる程に憎しみが燃え盛って、抑えが利かなくなる。
そして最後には、ズタボロになったこの惨めな化け物に対する哀れみと罪悪感だけが後味となって残る。最悪の悪循環だ。


「うえぇぇ・・・・!」
「おい!やめるのはお前だよ!お前の父親だろうによぉ!」

康一と仗助の目には、さぞかし残酷な光景に映っている事だろう。
だがこいつ等に、何が分かるというのだろう。


「・・・ああそうだよ、実の父親さ・・・、血の繋がりはな・・・。
だがこいつは父親であって、もう父親じゃあない。『DIO』に魂を売った男さ!自業自得の男さ!
そしてまた一方で、父親だからこそやりきれない気持ちっつうのが、お前に分かるかい!?だからこそ、普通に死なせてやりてぇって気持ちがあんだよぉ・・・・!」

自分の中でせめぎ合う、相反する二つの感情。
憎しみと、愛情。
同じ強さのそれらがぶつかり合う度に味わうこの苦しみを、誰が分かるというのだろう。


「こいつを殺した時に、やっと俺の人生が始まるんだ!
ちきしょーっ!!止めろっつってんだよぉ!!イラつくんだよぉ!!」

人の気も知らずにガラクタばかり漁っているこの化け物が、目障りで仕方ない。
激怒を通り越して発狂しそうになる程の激しい憤りに支配されて、形兆は再び足を振り上げ、渾身の力を込めて父親の背中を踏み付けた。


「っ・・・・!!」

そこへが泣きながら堪りかねたように走り出て来て、形兆の足元に這い蹲っている父親を庇った。


「おい!そこまでにしとけよ!」

仗助も駆け寄って来た。
やはり敵は敵、どちらかが死ぬまで戦り合うしかないようだ。
それに、どうあっても言う事を聞けないというのなら、億泰同様にも見捨てるしかない。


「この弓と矢は渡す訳にはいかねぇ、絶対になぁ!!!」

形兆はその覚悟を決めて無理矢理に気力を奮い立たせ、向かって来る仗助に応戦する構えを取った。


「勘違いするなよ、その弓と矢は後だ。気になるのは・・・、この箱だよ!」

だが、東方仗助のスタンドが攻撃したのは、形兆ではなく、形兆の父親の木箱だった。


「なっ・・・・・!?」
「は、箱を・・・・!?」
「・・・・・・!?」

砕けた箱が、クレイジー・ダイヤモンドの能力で瞬時に復元されていく。
木片が次々と元に戻って完全な箱の形を取り戻すと同時に、その中でまた別の破片が集まって、1枚の写真の形を成してヒラリと落ちた。
その写真を見て、形兆は大きく息を呑んだ。


「ああっ・・・・・!?」

形兆の古い記憶の中に朧げに残っている風景が、そこに写っていた。
いつも温かな光と笑い声で溢れていた、広々とした家族のリビング。
痩せさらばえてしまう前の美しく健やかな母と、優しかった頃の父親。
まだ赤ん坊同然の億泰と、自分では大きい兄貴のつもりだった、まだまだ小さいその兄。


「何か千切れた紙切れのようなものを摘まんでいるから、何かと思ったらよぉ、なるほどな・・・」

粉々に壊れてしまった幸せを見るのが辛くて、凶暴な鬼と化した父親が憎くて、家族写真、特に父親の写っているものは全て、とうの昔に処分してしまっていた。
それがどうして残っていたのだろうか?この木箱から出てきたようだが、今までこの中のどこにあったのだろうか?


「ウ゛ウ゛ウ゛ゥ・・・、ウ゛ウ゛ウ゛ゥ・・・、ウ゛ウ゛ウ゛ゥゥゥ〜〜ッッ!!!」

震える手でその写真を取り上げ、堰を切ったように咽び泣く父親を呆然と見つめながら、形兆は掠れて消えてしまいそうな古ぼけた記憶を頭の中で辿った。


「か、家族の写真・・・。い、意味があったんだよ・・・!10年間繰り返していたこの動作には、意味があったんだよ!
当時の息子達の写真を、探していたんだ!
今の事は分からないのかも知れない、でも彼の心の底には思い出があるんだよ!昔の思い出が!」

悔やむように、慈しむように、写真に頬ずりしながら号泣する今の父親には確かに、とっくに失くしたとばかり思っていた人間としての感情があった。
知性も感情も記憶も無くして、ただ無意味に生きているだけの化け物だと今の今まで思っていたが、この男は確かに康一の言う通り、昔の思い出を探し続けていたのだ。この10年間、ずっと。
どれだけ殴られようが蹴られようが決して止めなかったのは、それ程に強く求めていたからなのだ。


― 父・・・さん・・・・

認めるしかないそれを認めてしまった瞬間、痛い位に張り詰めていたものが緩んでいくような気がして、形兆は知らず知らずの内に父親の鎖を取り落としていた。



















幾つもの紙片が1枚の写真へと姿を変えたその不思議な瞬間に、は悟った。
脳に埋め込まれた肉の芽が暴走して、もう何も分からない化け物になったと昔形兆は言っていたが、そうではなかったのだ、と。
時間が経つにつれて、破壊された脳の機能が次第に回復してきているから、それにつれて記憶や感情も少しずつ戻ってきて、出来る事が増えたり何となく意思を汲み取れるようになってきたのだと思っていたが、彼は記憶も感情も、最初から失ってなどいなかったのだ。
ただ思い出を語る言葉を失くしてしまっただけで、息子達への愛情や悔恨を表す事が出来なくなってしまっただけで、肉の芽の支配が及ばない心の奥底で彼はずっと、失くした家族を想い続けてきたのだ。
だとすれば、発情の事も理解が出来た。何かの拍子に妻の事を思い出すと、遠い昔の愛の記憶が蘇って、彼女の温もりを求めずにはいられなかったのだろう。
彼もきっと、形兆と同じ気持ちだったのだ。
形兆にしてみれば到底許せないだろうが、それでも彼は形兆と同じように、失くした家族をずっと想っていたのだ。


「・・・・・殺すスタンド使いよりよぉ、治すスタンド使いを探すっつうんなら、手伝っても良いぜ。」

力を失ったように呆然と立ち尽くしている形兆に、仗助はそう言った。
その瞬間、形兆はハッとしたように顔を跳ね上げた。


「けど、その弓と矢は渡しなよ。ぶち折っからよぉ!」
「っ・・・・」

いつも自信と強固な意思に満ち溢れている形兆が、他人の言葉に動揺するところなど、は今まで見た事がなかった。
瞳が揺れて、弓と矢を握り締める手が微かに震えている。今なら、ほら、と手を差し出せば、躊躇いつつも渡してくれるかも知れない、そんな風にさえ見えた。
しかし形兆は動揺を露わにしながらも、それでもまだ拒絶するかのように一歩退いた。


「・・・・逃げる気なのかよ?」
「っ・・・・!」

再び、希望が見えたと思った。
きっとこれが、最後にして本物の希望なのだ。
再生という、神様の力のようなスタンド能力を持つこの東方仗助という人こそが、罪の底に堕ちていこうとする形兆の手を掴んでくれる人なのだと、は今、強く確信していた。
けれども、差し出された仗助の手を形兆に掴ませるにはどうすれば良いのかが分からなかった。
焦って急かして強く後押しするのは却って逆効果だという事だけは分かっていたが、ならばどうすれば良いのだろうか?どうすれば、形兆が自らこの救いの手を取ってくれるだろうか?
考えあぐねていると、不意に遠慮がちな足音が聞こえた。


「・・・・兄貴ィ、もうやめようぜぇ・・・・」
「・・・・億泰・・・・!」

億泰だった。
傷だらけの形兆と違って、億泰は掠り傷ひとつ負っていなかった。
さっき仗助に聞かされた時はどういう意味か分からなかったが、今はあの不思議な再生の能力で治してくれたのだとすぐに理解する事が出来た。


「なぁ、こんな事はよぉ・・・、もうやめようぜぇ・・・。なぁ・・・・?」

いたのかよ、と仗助が呟いた。
しかし億泰はそれには答えず、まっすぐに形兆だけを見つめて、ゆっくりと、ゆっくりと、慎重に歩み寄って行った。


「親父は、治るかも知れねぇなぁ・・・・・。肉体は治んなくともよぉ・・・・・、心と記憶は、昔の父さんに戻るかもなぁ・・・・。」

胸が詰まり、止めようもない涙がの瞳から溢れた。


「なぁ・・・・・!?」

億泰の手が、遂に形兆の弓を掴んだ。
は祈るような思いでそれをじっと見守った。形兆がその手を放してくれる事を、心の中で強く願った。
すると、ふと形兆の瞳が動き、を見た。
束の間目が合ったその後、それまで呆然と立ち尽くしていた形兆が、激昂したようにまた険しい表情に立ち返って億泰を睨みつけた。


「っ・・・・!億泰ぅ、何掴んでんだよぉ!」
「あ、兄貴ィ・・・・!」
「どけぇ億泰ぅッッ!!俺は何があろうと後戻りする事は出来ねぇんだよぉッ!!この弓と矢で、町の人間を何人も殺しちまってんだからなぁッ!
それに俺は、既にテメェを弟とは思っちゃあいない!弟じゃねえから、躊躇せずテメェを殺せるんだぜ!」
「あ、兄貴ィ・・・・・」
「オメェらよぉ、この親父の他に、まだ身内がいるのかよ!?」

突然、仗助が何の脈絡も無くそんな事を訊いた。
明らかに何かを警戒しているようなその顔は、何故か天井の明り取りの窓に向けられていた。


「身内?俺達は4人家族・・」

億泰がそう答えかけた時、億泰のすぐ近くにある壁のコンセントから火花が出始めた。
初めは目の錯覚かと思った程度の火花だったが、それは瞬く間に煌々とした電光のようになり、バチバチと危険な音まで発し始めた。


「っ・・・・・!?」

古くて傷みの激しい家屋だから、漏電でもしてしまったのではないかと考え、パニックに陥りかけたその時。


「億泰ぅッ!ボケッとしてんじゃねーぞ!!どけぇッッ!!」

突然、形兆が叫び声を上げ、億泰を思いきり殴り飛ばした。
そして次の瞬間、形兆の胸からその眩い電光が刺し貫くかの如く激しく噴出し、形兆は大量の血を迸らせた。


「あ、兄貴ィッ!!」
「ぐぁぁぁ・・・・!」

― 形兆君っっ!!!

は思わず音の無い叫び声を上げた。
突然起きたこの惨劇が余りにも衝撃的で、身体が凍りついてしまったかのように動かなくなった。


「き・・・・、貴様・・・如きが・・・、この、弓と矢を・・・・」

激しい電光の中に取り込まれていきながら、形兆は途切れ途切れにそう呟いた。
一体誰と話しているのか、には全く分からなかった。


「っ・・・・、バッド・・・・カンパニーッ・・・・!うあぁぁぁ!!!」

何が起きているのか分からないまま、形兆は一際大きな声で絶叫した。


「・・・・・!!!」

形兆君!!!
出ない声でまたそう叫んだが、当然ながら、そんな事をしたところで形兆を助ける事は出来なかった。たとえ声が出たとしても、それでどうにか出来る訳がなかった。
誰にもどうする事も出来ないまま、形兆の身体はの目の前で、みるみる内に目の眩むような金色に透けていった。


「こ、これは・・・・!」
「で、電気だ!億泰の兄さんが電気になっていく・・・・!弓と矢まで・・・・!」
「兄貴ィィ!!!」

電光と同化し、コンセントの中に吸い込まれていく形兆に向かって、億泰が手を差し伸べた。しかし、形兆はその手を取らなかった。


「お、俺に触るんじゃねぇ!!オメェも・・・、ひ、引き摺り込まれるぜぇ・・・・!」
「あ、兄貴ィィ・・・・!」
「く、くそ・・・・!弓と矢が・・・!盗られちまうぜ・・・・!
億泰・・・、オメェは、よぉ・・・、いつだって俺の、足手纏いだったぜぇ・・・・!」

まるで遺言だった。
これが2度目の、遺言だった。
拒絶する形兆のせいにして、このまま何もせずに形兆が死ぬのを傍観するのか?
1度目の時と同じようにただ見送って、またあの時と同じ思いをするのか?
そう自問した瞬間、の足はひとりでに駆け出していた。


「・・・・・・!!!」
ッ・・・・・!?」

もう二度と、あんな思いはしたくない。
何もかもを形兆のせいにして、形兆を一人で逝かせる訳にはいかない。
その一心で、は荒れ狂う電気の嵐の中に飛び込み、形兆に強くしがみ付いた。


「やめろぉッ・・・・・!放せ・・・・・!離れろーーッ・・・・!!」
「・・・・・!!!」

幾ら言われても離れる気は無いし、もはやそれが叶う状況でもなかった。
今すぐにでも全身が消し飛んでしまいそうな凄まじい衝撃をどうにか耐え凌ぐのが精一杯で、もう自力では指1本動かせない状態だった。


「うわぁぁぁぁーーーッッ!!!」
「ーーーーーっっ・・・・!!!」
「兄貴ィィィーーーーッッ!!!ネーちゃーーんッッ!!!」

億泰の叫び声を聞きながら、は形兆と共に激しい潮流のようなものに巻き込まれ、流されていった。
自分が何処へ向かっているのか、まるで分からない。身体の自由も利かない。
抗う余地が一切無いまま、只々、何処かへ流されていく。多分、これが『死ぬ』という事なのだろう。
しかし、後悔は無かった。
形兆の背負っている重荷を下ろしてあげる事も出来ず、形兆が罪を犯しそれを重ねていく事も止められずにここまで来てしまった今、形兆にしてあげられる事は、せめて一緒に逝く事だけなのだから。
身体が融けて形兆と混ざり合いながら、はこれが自分の運命だったと、粛々とした気持ちで受け入れていた。
出逢うべくして出逢ったのだ。
互いに互いの拠り所となって生き、死の苦しみも分け合いながら一緒に旅立つ、きっとそういう運命だったのだ。
最期にひとつだけ願わくば、何人もの人を殺してしまった形兆の罪と、形兆がそうする事をみすみす見逃してきた自分の罪が、等しい重さであるように。
そのたった一つの願いを胸に、来たるべき時を待っていると、何処からか舌打ちのような音が聞こえた。


「あーあ、女もついて来ちまった。」

舌打ちに続いて、面倒くさそうにぼやく男の声もした。
形兆ではない、知らない男の声だった。
もしかして、三途の川の渡し人や地獄の番人だろうか?もうあの世に着いたのだろうか?


「何だよコレ。白けるなぁ。クセぇ純愛ドラマかっつーの。」
「音石・・・・・・!!」

いや、そうではないみたいだった。
その声の主を、形兆は知っている様子だった。


「助けてくれ音石、頼む・・・!助けてくれぇッ・・・・!」

形兆はその声の主、『音石』という男に向かって、必死に助けてくれと繰り返し懇願した。しかし相手は、そんな形兆を馬鹿にするようにせせら笑った。


「ケッ、今更命乞いかよ、ダッセェなぁオイ。あんだけ散々偉そうにしといてよぉ、ザマァねぇな。
ようやくこの俺の凄さが理解出来たようだが、しかしもう遅い。
この俺をコケにしてくれた罪はヒジョーに重いんだぜ。お前の命と、この弓と矢でもって償って貰う。」
「助けてくれ・・・・!こいつには・・・、こいつには手ェ出さねぇでくれ・・・!!」
「・・・・何?」

形兆は何を言われても、只々命乞いを繰り返していた。
自分の命ではなく、の命に対して。


「こいつ関係ねぇんだよ!俺が巻き込んだだけなんだ!こいつは何も関係ねぇ!
お、俺のせいで、大事なもん沢山失っちまったのに、こ、この上・・・、命まで失わせる訳にはいかねぇんだよぉ・・・・!
こいつだけは殺さねぇでくれ、頼む、頼む・・・・!」

形兆の声は、咽び泣くように震えていた。
侮辱され、あれ程固執していた弓と矢も、自分の命までも奪われようとしている中、只々の命だけを乞い続ける形兆が愛しくて堪らなかった。こんな状況なのに、喜びさえ感じる程に。


「・・・・・・!!」

もう一刻も早く、其処へ行きたかった。
もう何も要らない。
誰にも邪魔をされたくない。
このまま形兆と二人で、この眩い光の彼方へ。


「・・・・あああああああぁぁぁぁ!!!!」

突然、音石が凄まじい声で絶叫した。


「イラつくなあオイイイィ!!!何なんだよコレェェェ!!!オメー馬鹿か!!!ここは血ヘドぶち撒きながら涙と鼻水垂れ流して惨めったらしくテメーの命乞いするところだろーがよおぉぉ!!!何やせ我慢して『コイツには手ェ出すな』とか言っちゃってんだよこのヘナチンヤンキーが!!!カッコつけてんじゃねーよ!!!
オメーもよぉ、いきなりしゃしゃり出て来て後追いみたいな事してんじゃねーよこのクソビッチ!!!
人前で自分達の世界にドップリ浸ってイチャコラするオメーらみてーなバカップル、ホント許せねーんだよなああぁぁ!!!」

異常なまでに激昂する音石の声が聞こえた後、身体を弾けさせようとする衝撃が一層強くなった。


「あああぁぁどうすっかなー!?!?こういうのマジでイラつくぜえぇぇー!!
このクソッタレのヘナチン野郎の頼みを聞いてやるのは癪だしよぉ、かと言ってこのまま二人纏めて始末するのも、クッセぇ純愛ドラマを最後まで見させられるみたいで胸クソ悪いしなぁ!
あああぁぁどーすっかなぁーーーー!?マジムカつくわーーーー!!」
「音石・・・・、頼む・・・!こいつを・・・!た・・・、助・・・、け・・・・」
「やかましいんだよぉぉぉーーーッ!!!」
「ぐわぁぁぁっ・・・・・!!」
「っ・・・・・!!」

身体が際限無しに膨張していくようだった。
内側からどんどん膨張していって、もう抑えきれなかった。


「あああぁぁもういい!!!もう知るか!!!どうとでもなるようになりやがれーーーッッッ!!!」
「うわぁぁぁーーーーッッ・・・・!!」
「ーーーーーっっ・・・・!!!」

遂に『その時』が訪れた。
抑えきれなくなった激しい力が身体の内側から噴出し、形兆とは融けて混じり合ったまま、まるで塵のように、眩い金色の電光の彼方へと消し飛ばされていった。


― 形兆、君・・・・・・

出来ればこのまま、いつまでも、何処までも、一緒に。


その願いを最期に、の意識もまた、肉体と共に弾けて消滅した・・・・






















「・・・・・チャン・・・・・、ネーチャン・・・・・」
「・・・・・・」
「ネーちゃん、ネーちゃん・・・・・!」
「・・・・・・」
「起きろよ、起きてくれよ!ネーちゃん!!」

突然間近に聞こえた億泰の大きな声に驚いて、はハッと目を開けた。


ネーちゃん!!!良かったあああーーーッッ!!!」

その瞬間に目に飛び込んで来たのは、大きく見開いた目からボロボロと涙を零している億泰の泣き笑いの顔だった。
何が何だか分からなくて、ただ呆然としていると、顔の上に億泰の大粒の涙がボトボトと降ってきた。
もうあの世に着いたのだろうか?
あの世に着いて、幻でも見ているのだろうか?
そう思ったが、次から次へと降ってくる涙はちゃんとしょっぱい味がした。


― 私・・・・、生き・・・てる・・・・?

それを確かめようと手を動かしてみると、至って普通に動かす事が出来た。脚もちゃんとついている。信じられないが、本当に生きているというのだろうか?
更に、自分が横たわった姿勢でいる事にも気付いて、訳も分からないままおずおずと身体を起こすと、黄昏時の不思議な色合いの空の下に広がる町の景色が見えた。


「あああぁぁぁーー!!良かったぁぁぁーー!!良かったぜぇぇぇーー!!」

億泰に肩を掴まれてガクガクと揺さぶられながら、ここは一体何処なのだろうか、やっぱりあの世なのだろうかと考えていると、すぐ隣で『億泰!』と叫ぶ切迫した声が聞こえた。


「兄貴の方も終わったぜ!!」
「あっ、兄貴ィッ!!!」

その声、仗助と億泰のやり取りを聞いた途端、ははっきりとした意識を取り戻した。
形兆と一緒に部屋のコンセントの中に引き摺り込まれて、死んだ筈だったのだ。
それが今、億泰や仗助の近くにいて、どうやら生きているらしいという事は。


― 形兆君・・・・!?

は弾かれるようにして横を向いた。


「兄貴ッ!!兄貴ィッ!!目ェ覚ましてくれよ、兄貴ィッ!!」

のすぐ隣で、形兆が眠っていた。
あんなに傷だらけで血塗れのボロボロだったのに、まるで何事も無かったかのように綺麗な状態で、長い睫毛を伏せて眠っていた。


「もう平気だろ!?仗助が治してくれたんだからよ、もう全然大丈夫だろ!?ネーちゃんだって起きたんだからよぉ・・・!!?なぁ兄貴ィッ・・・・!」

泣きじゃくる億泰にガクガクと揺さぶられながら、穏やかな、綺麗な顔をして、眠っていた。
いつもなら、その眉間に深い皺が何本も寄って、顔が不機嫌そうに顰められていって、『うるせぇぞ億泰ぅ!』とか何とか、大きな怒鳴り声が響き渡っているのに。


― 形兆、君・・・・・・?

どれだけ激しく揺さぶられても、大声で騒がれても、形兆はただ静かに眠っていた。
静かに、永遠の眠りに就いていた。
一緒に逝った筈なのに、を置き去りにして、たった独りで。


「・・・・いやあああぁぁーーーーーっっ!!!!」

それに気が付いた瞬間、悲痛な叫び声がはっきりとした音を伴って、の喉から迸っていた。




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後書き

何だかんだで遂にここまで漕ぎつけました!
いよいよラストになります。
ここまででもかなり長々とお付き合い願いましたが、あともう少しだけ宜しくお願いします!