「形兆君!!形兆君!!」
は無我夢中で形兆の身体を揺さぶり、肩や腕を叩いた。
「嫌だよこんなの・・・・・!起きてよ、ねぇ・・・・・!」
泣きながら呼びかけ、必死に形兆を起こそうとし続けた。
それが無駄だと思い知るまで。
何をしようが形兆はもう目を覚まさないのだと悟るまで。
認めたくもないその事実を認めてしまうと、身体から急速に力が抜けて、はガクリと肩を落とした。
「・・・・ネーちゃん・・・・」
億泰が不意に、呆然とした声で呼びかけた。
「声・・・・・」
「・・・・・?」
「出てる・・・・・」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「ネーちゃんの声、出てるぜ・・・?今、喋ってるぜ・・・・?」
「・・・・・え・・・・・?」
そこではようやく、自分の耳に届いている自分の声に気が付いた。
「・・・・私の・・・声・・・、出て・・・る・・・・?」
この2年近く、どれだけ泣こうが叫ぼうが虚しい呼吸音しか発さなかった喉が、今確かにちゃんと意味の通る言葉を、人の耳に届く声を、発していた。
その事実に只々驚いて呆然としていると、億泰が涙に濡れそぼった目を優しく笑わせた。
「・・・・多分、兄貴かな・・・・。」
「・・・・・え・・・・・?」
「いや、分かんねぇよ?多分、俺の想像なんだけど・・・・・。
でもさ、兄貴ああいう性格じゃん?だからさ・・・・、だから・・・、最期にちゃんと・・・、責任・・・、取ってったんだろうなぁ、ってよぉ・・・・」
言葉尻が震えて、やがて静かに途切れた。
だが、億泰はもう泣かなかった。
鼻を啜り上げ、拳で目元をゴシゴシと拭ってから立ち上がった彼は、もう形兆の死を受け入れたように見えた。
「・・・・とりあえず、ちゃんと部屋で寝かせてやろうぜ。もう暗くなるし、寒くなってきたしよ。」
その言葉に釣られるようにして空に目を向けると、黄昏の青紫が宵闇の紺色へと移り変わろうとしていた。
「・・・仗助、康一。俺ハシゴ持ってくっからよぉ、兄貴とネーちゃん下ろすの、手伝ってくれっか・・・・?」
億泰は二人に背中を向け、遠慮がちに、躊躇うように、ボソボソと呟いて頼んだ。
「・・・おう・・・・!」
「勿論だよ・・・・・!」
そして、仗助と康一の返事を聞くと、そのまま床の下へと飛び下りていった。
億泰が下りていった所は屋根裏部屋の天井の窓だったようで、割れた窓ガラスの破片がそこら中に散らばっていた。
形兆の寝ている周りにも幾つかあったので、形兆の身体や大切に着ていた学ランが傷付かないように、はそれらを拾い上げて彼から離れた所に移動させ始めた。
「・・・・え・・・と・・・・、、さん・・・・?」
ぼんやりとその作業を繰り返していると、仗助がおずおずとに声を掛けた。
明らかに気を遣い、どう接するべきか戸惑っていると分かる表情だった。
見ず知らずの年下の少年にこんな顔をさせるなんて恥ずかしい、気丈に、しっかりと振舞わなければいけない、頭ではそう分かっているのに、その気力がどうしても湧いてこなかった。
「あんた、虹村形兆の彼女さんだったんスね。」
そうだったのだろうか?
形兆はの事を、父親の為の人形だと言っていた。
だが形兆は、自分の命を懸けてまで、その人形を愛してくれた。
それを思うと、首を縦にも横にも振る事が出来なかった。
はその質問に答えられないまま、いつもの癖で筆談帳とペンを手に取り、声が出た事を思い出して、恐る恐る口を開いた。
「・・・・どうして・・・・」
「はい・・・・?」
「どうして・・・・、私だけ助かったんですか・・・・?私達、一緒に・・・・、死んだ筈なのに・・・・」
声は本当に出ていた。
消え入りそうに小さく掠れた声ではあるが、確かに、ちゃんと人に聞こえる位の声が出ていた。
「さっき、あんた達がああなる直前に、そこの窓から誰かが覗いてたんスよ。その直後にああなって・・・・・。
それで窓割ってここへ上がって来てみたら、あそこの電線の上に、虹村形兆とあんたが引っ掛かってたんです。二人共黒焦げで、とても生きてるようには見えなかった。
けど、億泰のスタンドで引き寄せてみたら、微かだけど、あんたにまだ息があって。それで俺のスタンドで急いで・・・・。」
「あの・・・・、こんな事を言うのは何ですけど、仕方がなかったんです。まだ生きてる事が分かったのがあなただったので、だから仗助君が怪我を治す順番も、必然的にあなたからになったというか・・・。
だからその、あの・・・、仕方のなかった事なんです・・・・。」
仗助と康一が説明してくれる事を聞きながら、は形兆の寝顔に視線を落とした。
安らかな、綺麗な顔だった。約束は果たしたと満足しているのだろうか?
確かに、そういう約束を交わしていた。
どんな形であれお前への責任を取ると、かつて形兆は確かにそう誓ってくれた。
けれども、こんな形は望んでいなかった。
まるで命と引き換えかのような、こんな悲しい形など。
「あなたの辛い気持ちは分かりますが・・・・、でも僕は、あなただけでも助かってくれて良かったと思ってます。
きっと億泰君もそう言うに違いないし、誰よりも形兆さんが一番そう思っていると思います。だって、一緒に死のうとする位に深く想ってくれていた、大切な、大切な、恋人なんですから。」
康一のその言葉が、今際の際に聞いた形兆の声を蘇らせた。
― お、俺のせいで、大事なもん沢山失っちまったのに、こ、この上・・・、命まで失わせる訳にはいかねぇんだよぉ・・・・!
「・・・・うぅっ・・・・・」
咽び泣くようだったあの時の形兆の声が、の耳にまだ残っていた。
― こいつだけは殺さねぇでくれ、頼む、頼む・・・・!
声なんて戻らなくても良かった。
何を失ったって構わなかった。
形兆以上に大切なものなど、何も無いのだから。
「ううううぅぅっ・・・・!!」
穏やかに眠る形兆の頬を撫でながら、は喪失の痛みと悲しみに慟哭した。
仗助のスタンド能力で全ての身体的ダメージが治癒していた形兆の死因は、結局、不明とされた。真相は当然、明かせる筈もなかった。
原因不明の突然死という診断を下された形兆の遺体は、すぐに家族の元へと帰され、杜王町内の斎場にてひっそりと荼毘に付された。
喪主は億泰が務め、虹村兄弟の父親は、気の毒ではあったが、人目に触れて混乱を招かないよう参列させなかった。
その代わりかのように参列してくれたのが東方仗助と広瀬康一、それに、海洋学者の空条承太郎という男性だった。
その人は28歳でありながら、高校1年生である仗助の実の甥だと言った。彼の母方の祖父が60歳を過ぎて道ならぬ恋に落ち、その時生まれたのが仗助であるらしい。
なかなか聞かないような珍しい話だが、しかし真に驚くべき事はそれではなかった。
その空条承太郎という人は、全ての発端となった『DIO』を倒したスタンド使いだったのだ。
11年前、彼は祖父のジョセフ・ジョースターや仲間達と共に、エジプトで『DIO』と壮絶な戦いを繰り広げた。それこそが正に、形兆が長い時間をかけて必死に調べていた事だった。
仗助から話を聞いたと言って駆けつけてくれたその人は、億泰とにとって、非常に心強い助っ人になってくれた。形兆の葬儀の事や様々な手続きの面でも、そして、形兆を殺した犯人の追跡においても。
手掛かりはが聞いた『音石』という名前だけで、その名に心当たりがある者は誰もいなかったが、空条承太郎はたったそれだけの手掛かりを元に、犯人捜しを買って出てくれた。
億泰とは、彼のその申し出に甘える事にした。
形兆の弔いや屋敷の手入れなど、やらなければならない事が山積していたからだ。
形兆を殺したあの男は勿論許せないし、奪われてしまった弓と矢の事も気になるが、も億泰も、今はまだあまり沢山の事を一度に考えられる状態ではなかった。
ただやらなければいけない事を一つずつ片付けていくのが精一杯で、その日その日を慌ただしく終わらせていくような日々が暫く続いた。
そうこうしている内に、荒れ果てていた屋敷がボロボロながらもこざっぱりと整い、杜王町内の霊園に虹村家の墓が建った。
そして、億泰がぶどうヶ丘高校への通学を始めた。
今は5月下旬、随分とスタートが遅れてしまったが、新しい生活がこれでひとまず順調に滑り出したと言えた。
「承太郎さんがよぉ、ネーちゃんに何か話があるって・・・。」
空条承太郎が虹村家を訪ねて来たのは、その新生活が始まった直後の事だった。
学校帰りの億泰について来たらしい彼は、玄関で出迎えたに優しげな微笑みを向けた。
「出来れば二人で話したいと思っている。億泰は君さえ良いなら構わないそうだ。
無論、出来ればというだけで、どうしてもという訳ではない。君がその方が良いというなら、億泰に同席して貰っても一向に構わない。」
恩人とはいえ、知り合って間もない大人の男性と急に二人きりで話をするのは、正直なところ少し怖かった。
しかし、だからと言って断る訳にもいかなかった。
その話というのは多分、形兆を殺した犯人の事やこの家全体に関わる事ではなく、もっと個人的な話なのだろうから。
「・・・・・億泰君、ちょっと駅前のスーパーまでお使い頼める?あんドーナツ買ってきて欲しいの。お父さん凄く気に入ったみたいで、昨日買ったやつ、もう全部食べちゃったんだ。」
「分かった。あんドーナツだな?んじゃ、ちょっと行ってくらぁ。」
「一口サイズの、袋に7〜8個入ってるやつだからね。パン売り場にあるから。お願いね。」
「おう、分かったぜぇ。」
億泰は通学鞄をそこらにポイと放り出すと、そのまま出掛けて行った。
玄関のドアが閉まると、は承太郎の足元にスリッパを差し出した。
「・・・どうぞ、上がって下さい。」
「ありがとう。」
は承太郎をリビングに案内した。リビングとは言っても、部屋の中にあるのはTVとラグマットの上に置いた炬燵だけだ。
洋館のリビングルームにはチグハグなインテリアだが、壊れたり傷んでいる部分を修繕するのが精一杯で、家具調度品を買い揃えてインテリアを一新させる余裕や気力はまだ無かった。
辛うじてあった座布団を差し出して客人を座らせると、はダイニングに引き返し、温かいお茶と茶菓子を用意して、彼の元へと運んだ。
「すみません、紙コップで。お客さん用のカップや湯呑が無いので。」
「いや、これで十分だ。有り難く頂くよ。」
承太郎はの差し出した紙コップの緑茶を早速飲んで、美味い、と呟いた。
「国見峠霊園に墓を建てたそうだな。ここに来る途中、億泰から聞いたよ。
虹村形兆と、昔亡くなった彼らの母親の遺骨を、一緒の墓に納めたとか。」
「はい。ここで落ち着いて暮らしたいからって、億泰君が。」
億泰はこの町が随分と気に入ったようだった。多分、ずっとここで暮らしていこうと思っているのだろう。だから墓を建て、形兆と、今までずっと手元に置いていた母親の遺骨を共に納めたのだと、は思っていた。
「本当に、色々とありがとうございました。承太郎さんには本当に感謝しています。色々とお世話になってしまって・・・・・。」
「出来る事を手伝っただけだ、大した事はしていない。君達の方こそ色々と大変だったな。」
「どうも・・・・・」
「やっと一区切りがついたばかりという時にどうかとは思ったんだが、やはり、出来るだけ早い内に話をしておきたくてな。それで今日、億泰に頼んで取り次いで貰った次第だ。」
「そのお話って、一体何でしょうか・・・・?」
「悪いが、君の事を調べさせて貰った。」
その一言に、は小さく息を呑んだ。
多分そんなところだろうとは思っていたので驚きはしなかったが、自分の事情、それも人には知られたくない事を知られてしまった事に身構え、緊張せずにはいられなかった。
「、18歳。K県Y市出身。Y市内のスナック『若葉』の雇われママをしている母親と二人暮らしだった。
1994年12月、中学2年生の時、2学期の終業式に出席したのを最後に家出をし、以降消息不明。
年が明けた1995年早々に、君の母親が警察に捜索願を出しているが、君が好きな男の所で暮らすという旨の書き置きを残していった事から、事件性は極めて低いと判断されていた。
一方で、虹村一家は1994年8月に東京からY市に転入。虹村形兆は君と同じ中学の同じクラスに2学期から編入した。
そして、それから約半年後の1995年2月、父親の仕事を理由に、突然C県へと引っ越した。」
「・・・・・何が・・・・、仰りたいのですか・・・・・」
「君と虹村形兆との間にあった事を、根掘り葉掘り聞かせろという気は無い。それは君と彼の、二人だけの大切な思い出だ。
ただ、君には捜索願が出されている。俺はその事を話しに来たのだ。」
しかし承太郎は、が暴かれるのではないかと恐れていた事を、何も訊かなかった。
が家出をするに至った理由や詳しい経緯も、形兆がを虹村家に住まわせた目的や、に与えていた『役目』についても。
「行方不明になって7年が経てば、法律上死亡したと認められる。
君のお母さんがその手続きを取れば、君は生きながらにして死人になってしまうのだ。それが良いか悪いか、判断はつくだろう?」
こうして言われるまで、そんな事は考えてみた事もなかった。
だが言われた通り、良いか悪いかの判断はすぐについた。
「そうなるまでにまだ2年以上の猶予はある。だから何も一刻を争うという訳ではないが、それでも、君の今後の人生とお母さんの気持ちを考えれば、出来るだけ早い内に家に帰るべきだ。」
母は今、どうしているのだろうか?
最後に別れた時の、激昂した母の顔を思い出していると、久しぶりにあの感覚に見舞われた。胸がどす黒い何かで塗り潰されて重くなり、息が苦しくなる、あの感覚に。
「・・・・家出をした理由は、虹村形兆との関係の為ばかりか?もしかしたら、他にも理由があったのでは?そう思ったから、億泰を外させたんだ。
これは俺の余計な詮索だが、その理由というのは、君が家出する直前に君の家で暮らすようになった、安原信次という人じゃあないか?」
承太郎はやはり知っているようだった。
その名前を知っているのなら、母の現在の状況も知っているのだろう。
聞きたくはないが、それでも訊かずにはいられなかった。
「・・・・あの人達は・・・・、今どうしていますか・・・・?それだけ調べているのなら、多分、ご存知ですよね・・・・?」
「ああ。君のお母さんは、君が家出をした3ヶ月後に、彼と正式に結婚した。
が、彼はろくに仕事もせずに一日中パチンコ屋に入り浸るような生活を送り、君のお母さんがスナックの稼ぎで養っている状態だったそうだ。
それから2年程で、彼が消費者金融に多額の借金をしている事が発覚し、離婚した。君の家だった当時のアパートは、その際に引き払われている。」
「じゃあ今、母はどこに・・・?」
「同じ市内だ。前の家からさほど遠くない場所に住んでいる。」
自分は行方をくらませておきながら、母の転居に動揺し、その転居先が元の家から近いと分かると途端に安堵するなんて、我ながら自分勝手だった。
勝手ではあるが、それでも母があの男と別れ、まだあの街で暮らしている事を内心で喜び、今頃随分と心細い思いをしているのではないかと案じずにはいられなかった。
しかし、この話にはまだ続きがあった。
「・・・隠しても仕方のない事だからはっきり言うが、離婚前後の時期に店のある常連客と懇意になったらしく、今の住まいはその人の家だ。」
その情報に、はショックを受けずにはいられなかった。
「・・・・それは・・・・、その人と、結婚したって事ですか・・・・?」
「一緒に暮らしてはいるが、籍はまだ入れていないようだ。」
「・・・・そう・・・ですか・・・・」
考えてみれば、予想はつく事だった。
結局、同じ事を繰り返しているのだ。
何度も何度も同じ事を繰り返して、もう慣れきっている筈なのに、それでもまた決して小さくないショックを受けているのは、母がこれまでの生き方を省みて変わってくれているかも知れないと、心の何処かで期待してしまったからだろうか。
「・・・・・実は、俺にも娘がいるんだ。まだ幼いがな。」
が黙り込んでいると、承太郎は低い声でそう呟いた。
「え・・・・・・?」
「娘の事はずっと女房に任せきりで、父親らしい事など何もしてやっていない。
女房にももう文句さえ言われない。すっかり呆れられてしまっている。
だから、他人の家庭や親子関係について偉そうな事を言える立場では決してないんだがな。それでも、君が心配なんだ。」
を見る彼の目は、鋭いのに、温かく感じられた。
こんな目を向けてくれた大人は、今までにいなかった。
「そこに君の居場所があるとは、俺も思っていない。
だが君は何としても、もう一度あの街に帰らなければならない。
これからの君の人生の為に、あの街に帰って、ケリをつけなければならない。」
「ケリ・・・・・?」
「それをどのようにつけるか、俺は指図をする気は無いし、その権利も無い。
ただ、君がケリをつけるに当たって、出来る限りのバックアップをするつもりではいる。
お母さんとの間を取り持つ事も引き受けるし、相談事があるなら何でも聞く。独立し、復学するのに必要な費用も全額出す。
特に、高校へは是非とも進んで欲しい。通学が難しければ通信制でも構わない。とにかく、高校卒業の資格だけは取っておくべきだ。
今の日本では、それが無ければ働き口もまともに見つからない。今後の君の人生が、非常に困難なものとなってしまうからな。」
「そ、そんな事・・・・・!」
いきなりそんな事を言われても、戸惑うばかりだった。
確かに承太郎には色々と世話になった。形兆を殺した犯人捜しに至っては、全面的に頼ってしまっている。
しかしそれはあの危険な弓と矢を奪還するという目的があるからこそであって、自分個人の進学や独立にかかる費用を彼に出して貰うというのは、にとっては話が別だった。
「とても有り難いお話だとは思います。でも、そんな事をして貰う理由がありませんから・・・・」
「理由ならある。」
「え・・・・?」
「11年前、DIOを倒したのはこの俺だと話しただろう。これはその償いだ。」
「どういう、事ですか・・・?」
「俺にも俺の事情があった。母親の命が懸かっていたんだ。
俺の母親は当時、発現したスタンドをコントロール出来ず、スタンドに自分のエネルギーを吸い取られて病気になり、死を待つしかない状態だった。
それを助ける術は母親のスタンドを消滅させる事だけ、そしてその方法がDIOを倒す事だった。
奴の肉体は、俺の母方の血筋に当たる『ジョナサン・ジョースター』という男の肉体で、奴がスタンド能力を身に着けた時、俺や母親、そして俺の祖父にも、共鳴するように次々とスタンドが発現したんだ。」
形兆がその人生を懸けて死に物狂いで調べていた話を、は今、思いがけず聞く事が出来ていた。
まだ幼かった形兆と億泰に苛酷な運命を背負わせたものは、一体何だったのだろうか。今更知ったところで形兆はもう帰って来ないが、今更ながらでも、それを知った時の形兆の心に寄り添いたかった。
「『DIO』というのは・・・、一体、何者だったんですか・・・・?」
「吸血鬼だ。今から100年以上前に生身の人間から吸血鬼になったというその男は、深い因縁のあった俺の先祖、ジョナサン・ジョースターと戦い、共に海の底に沈んだ。
だが、奴はそこでジョナサン・ジョースターの肉体を奪って密かに生き永らえ、現代に蘇ったのだ。」
『DIO』という者が普通の人間でない事は理解していたつもりだったが、こうして聞くと、やはり想像を絶する話だった。
形兆はたった一人でこれを調べ上げて、どう受け止めたのだろうか?
今更ながらに、何の助けにもなってあげられなかった自分が歯痒くて、やりきれなかった。
「この通り、俺には俺の事情があった。奴を倒す為に、俺や俺の祖父は多くの犠牲を払ったが、奴を倒した事を後悔した事は無いし、これから先もしない。
俺は自分の母親を、俺の祖父は自分の娘を、見捨てる事など出来なかったからだ。諦めて、見殺しにする事など出来なかったからだ。
だが一方で、払ってしまった犠牲を無かったものとする事も出来ない。
俺は自分の母親の命と引き換えに、多くの他者の命を失わせてしまった。幼かった虹村兄弟から父親を奪い、地獄のどん底に突き落としてしまった。それは決して消える事も書き変わる事もない事実であり、俺の罪だ。
だから君達に対して、君達のこれから先の人生に対して、出来る限りの力添えをしたい。それが俺のせめてもの償いなんだ。」
「・・・・私は・・・・、別に・・・・」
また滲みそうになる涙を何とか堪えて、は形ばかりの微笑みを浮かべた。
「それは億泰君にしてあげて下さい。私は何の関係もありませんから・・・」
「当時の事には直接関係なくても、君はこの数年間、母親を含めた他の人々との関わりを一切絶って虹村一家に尽くし、虹村兄弟の父親の面倒をひたすら看てきたのだろう?
そしてその結果、君は口が利けなくなった。
億泰から聞いたよ。一昨年の夏頃から虹村形兆の事件があったあの日まで、君は口が利けなかったそうだな。強い精神的ストレスが原因の、失声症という病気だったとか。」
しかし、無理に繕ったその微笑みは、あっという間に凍りついた。
「弟と共にまだ幼い頃から地獄のような日々を生き抜いてきた虹村形兆が、その苦しみに耐えかねて、それを分け持ってくれる者を欲した。
彼への恋心故にそれを分け持った君も、次第にその苦しみに耐えかねていった。
自分ではそう思っていなかったとしても、君の心と身体が、君の意識していないところで限界を超えてしまった。だから声を失ってしまったのだろう。」
違う、そうじゃない。
承太郎の話を聞きながら、は胸の内で彼の見解を否定した。
結局、何も助けてあげられなかったのだ。
形兆の背負っている苦しみを分け持っているつもりだったのに、結局、形兆にとって何の助けにもなれなかった。
そしてその結果、形兆は苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、たった独りで死んでいったのだ。
「関係無くなどない。俺にとっては虹村兄弟も君も同じだ。
俺は億泰だけではなく君にも、前を向いて、自分の人生を生きていって欲しいと思っている。助けられなかった虹村形兆の分まで、億泰と君の助けになりたいと思っている。虹村兄弟の父親に対してもな。」
「・・・・ありがとう、ございます・・・・。でも、急に言われても、私・・・・」
「それはそうだ。今この場で簡単に決められる事じゃあない。自分の納得のいくように、良く考えてみてくれ。」
承太郎はお茶を綺麗に飲み干してしまうと、懐から折り畳んだメモ用紙を取り出して、に差し出した。
「俺は暫くこの杜王町に留まっている。滞在先は杜王グランドホテル324号室。これは俺の部屋の直通番号だ、いつでもかけてくれ。もし出なかったら、留守番電話にメッセージを残しておいてくれれば良い。」
「・・・・・はい・・・・・・」
邪魔をしたなと言い置いて立ち上がる彼に、は自分の胸の内に蟠っている思いを、ほんの僅かにも明かさなかった。
君はケリをつけなければならない。あの時、空条承太郎はそう言った。だが、どうすれば良いのか分からなかったし、そもそも考える気にさえなれなかった。
自分のこれからの人生なんて。
「・・・酷いよ、形兆君・・・。どうしてあの時、一緒に連れてってくれなかったの・・・・?」
目の前の真新しい墓石を仰ぎながら話し掛けると、今日もまた、涙が零れた。
毎日毎日ここへ来て泣いているのに、涙は一向に枯れない。悲しみも全く薄れない。
もしも俺が死んだら俺の事は忘れろと言われはしたが、忘れる事など出来なかった。
「・・・無茶言わないでよ・・・、忘れられる訳ないでしょ・・・・」
あんな一方的な約束は、とても守れなかった。
形兆の事を何もかも綺麗さっぱり忘れて、承太郎の言う通り、前を向いて自分の人生を生きていくなんて。
「・・・そんな事・・・、私には出来ないよ、形兆君・・・・」
形兆が生前繰り返し口にしていた『自分の人生』というものの中には、彼が存在していた。の人生の中に、虹村形兆は存在していて当然の人だった。
その彼がいなくなってしまったのに、どうやって『自分の人生』というものを生きていけばいいのだろうか。
虹村親子の身の回りの世話以外にやるべき事は何も無いし、こうして毎日形兆の墓参りに来る事以外、したいと思う事も何も無いのに。
形兆を想いながら、は今日も涙に暮れた。そして、泣くだけ泣くと、ハンカチで涙を拭いて立ち上がった。もうすぐバスが来る時間なのだ。
それに乗って家に帰って、今日もまた、いつもの用事を片付けながら、虚しく続いていく時間を潰すだけだった。
形兆が亡くなってから、には自由が戻っていた。
億泰はが一人で外出する事を禁止も制限もしないし、声も出るようになった。
けれども、その自由を謳歌しようという気にはなれなかったし、そもそもそれを喜ばしい事だとも思っていなかった。
何もかもが全て、形兆の命と引き換えだったも同然なのだから。
「また明日、来るからね・・・」
『虹村家』と刻まれている墓石にそう呟きかけて、は霊園を出た。
そして、すぐ近くのバス停を目指して歩き出したその時、道の向かい側に建っている家のドアが開き、コック姿の男性が出て来て、の方に歩いて来た。
「ボンジョルノ、シニョリーナ。」
何となくそんな気はしていたが、やはりその人はに話し掛けてきた。
見ず知らずの大人の男性、しかも金髪碧眼の外国人だ。にこやかに微笑みかけられても、思いきり身構えてしまって、とても笑顔で挨拶を返す事など出来なかった。
「ワタシ、トニオ・トラサルディーといいマス。今日、そこにイタリア料理店をオープンさせまシた。その記念すべき最初のお客様に、アナタになって貰えたらと思って、声を掛けまシた。」
パッと見は一軒家かと思ったそこは、よく見てみると、民家ではなくレストランだった。
ドアの脇にメニュー表らしきものがスタンドに載せて置かれてあり、ドア上部にはオレンジ色と黄色の半円型の看板が掲げられていて、『TRATTORIA トラサルディー』と書かれている。
それでようやく合点がいった。要するに客引きなのだ。
「あ・・・・、すみません、折角ですけど私は・・・・・」
は曖昧な笑みを口元に浮かべて、彼の横をすり抜けてしまおうとした。
しかし彼は、決して強引なやり方ではないものの、明らかにの足を止めようとしてきた。
「ほんのチョット立ち寄って頂くだけでも結構デス。どうか、ゼヒ。」
「すみませんけど、今お腹も空いていませんし、お金もありませんから・・・・」
「記念ですので、お金は要りまセン。お腹が空いていナイのなら、ドリンクやデザートでもイイですし、お水だけでも構いませんヨ。」
随分と無茶苦茶な客引きだった。
タダでいい、水だけでもいいなんて、胡散臭いにも程がある。
もうこの際、多少不躾でも強引に振り切って行かなければと思った途端。
「オープンは今日ですが、ワタシは暫く前から、お店作りやオープンの準備の為に、ここへ毎日のように来ていまシタ。
アナタも毎日、お墓参りに来ていますネ。あそこのお墓の前で、毎日、泣いていますネ。」
「・・・・え・・・・?」
「帰る時、アナタいつも悲しい顔をして、目が赤くなっていマス。」
思いがけない事を言われて、は思わず呆然と彼を見た。
すると彼は、その青い瞳をまた優しく笑わせた。
「ワタシのお店のもの、食べたり飲んだりすれば、元気になりマス。さあどうぞ、シニョリーナ。」
ついて行ってはいけない、頭ではそう思っていたのに、気が付くとはトニオ・トラサルディーと名乗ったコックに連れられて店に入り、椅子を引いて貰って、そこに腰を下ろしていた。
「ワタシのお店、メニューありまセン。ワタシがお客様を見て、出す料理を決めマス。」
「・・・・あの・・・・、それって・・・・・」
うっかり流されかけていたが、その発言では我に返った。
妙だ妙だとは思っていたが、やはりここは悪質な店のようだった。
調子の良いセールストークを並べ立てて客を引っ張り込み、その後は有無を言わさず一方的に料理を出して、高額の請求をふっかける気なのだ。
「すみません、やっぱり私帰りま・・」
は慌ててバッグを手に立ち上がりかけた。
するとトニオは、チョット失礼、と形ばかり断って、突然の手を取り、掌をまじまじと見つめた。
「な、何するんですか・・・・!?」
「ン〜・・・・・、やっぱり、そうデスね。」
少しして顔を上げたトニオは、真剣そのものな表情になっていた。
「アナタ、暫くろくに食べていませんネ。身体の中のエネルギーがすっかり無くなってしまってイル。大変失礼デスが、最近急激に痩せてしまったでショウ?」
彼の言う事は当たっていた。
形兆が亡くなってから以降、食欲がまるで湧かず、億泰に心配を掛けない為に少し摘まんでみせる位にしか食べていなかったのだ。
そんな生活が暫く続いていたせいで、最近、手持ちの服や下着が全て緩くなってきていた。
「反対側の手も見せて下サイ。」
トニオは次に反対側の手も取り、また掌をじっと観察した。
「寝不足もヒドイ。1日2日の夜更かしではありませんネ。もう何日もちゃんと寝てイナイ。多分そのせいでショウ、胃腸の壁も荒れて弱っていマス。」
それもまた当たっていた。
明け方近くまで眠れなかったり、早い時間に就寝したとしても、変な時間にハッと目が覚めてそれから眠れなくなったり、もうずっとそんな調子で、最後に熟睡した日はいつだったか思い出せない位だった。
それにしても不思議なのは、人の体調をことごとく言い当てるこのトニオという人だ。一体何者なのだろうか?
呆然としていると、トニオはやんわりとをもう一度椅子に座らせてから店の奥へ行き、グラスと水のピッチャーを持ってすぐに戻って来た。
そして、そのグラスに水を注いで、に差し出した。
「まずはお水をドウゾ。」
曇りも水滴の跡もない綺麗なグラスに注がれた水は、何だかやけに清らかに、美味しそうに見えた。
悪質な詐欺行為を働く店かもしれないという警戒心はまだ残っていたが、この水を飲んでみたいという欲求がみるみる内に強くなり、とうとうそれに抗えなくなって、は一か八かのつもりでグラスに口をつけた。
「っ・・・・・・・」
その水は、想像以上に美味しかった。
適度な冷たさがあり、身体の中に籠もっている不快な熱気を清々しく流してくれるような、そんな気分になった。
そのあまりの爽快感に、は思わず残りの水を全て飲み干した。
凄い勢いで一気に飲み干してしまったせいだろうか、飲み終わって一息ついた途端に涙が出た。
そんなに無我夢中で飲んでしまった自分を恥ずかしく思いながら瞬きをして誤魔化したが、誤魔化せたと思ったのも束の間、また涙が出てきた。
「え、えぇっ・・・・・!?」
たちまちの内に、泣くというレベルではなくなった。
変だと思った時にはもう、涙は滝の如くになっていて、ドボドボ、ザバザバと、両方の目から盛大に流れ出ていた。
「ちょっ・・・・!な、何ですかこのお水!?何で涙がこんなに・・・・!?」
ハンカチもまるで役に立たないようなこの涙の滝に堪りかねて、は思わずトニオに助けを求めた。しかし彼は、至って落ち着き払ったままだった。
「心配要りマセン。そのうち止まりマス。落ち着いて、そのままデ。」
「えぇっ・・・・!?」
そんな事を言われてもとても信じられないが、かと言ってどうする事も出来ず、はそのまま涙を流し続けるしかなかった。
その内に痛くなったり苦しくなったり、何かもっと深刻な事態に陥るのではないかと内心怯えていたのだが、しかしそうはならず、暫くしてだんだんと涙の勢いが弱まっていき、やがてトニオの言った通りに止まった。
「・・・どうですか?目がスッキリしたデショウ。」
完全に涙が止まると、トニオの言う通り、目がスッキリしていた。
ずっと腫れぼったかった目がパチリと開くようになり、視界がくっきりと冴えて、何だか頭の中まで洗い流されたかのようにシャキッとしている。
これは一体どういう事なのだろうかと呆然としていると、トニオはまたに微笑みかけた。
「これは、アフリカ・キリマンジャロの5万年前の雪融け水デス。眼球内を汚レと共ニ洗い流し、睡眠不足を解消してくれル水なのデス。
さあ、では料理を始めまショウか。」
トニオはそう言い置いて、また店の奥へ行きかけた。
「あ、あの・・・・・!」
慌てて呼び止めると、彼は足を止めて振り返った。
「ハイ?」
「やっぱり私・・・・、あんまり食欲は・・・・」
この水の凄さは十分に理解した。
しかしだからこそ、無料な訳がないという警戒心が拭えなかった。この水1杯に5千円・1万円と言われたって、何らおかしくないと思える程の効果だったのだ。
それに、百歩譲って本当に無料だったとしても、何かを食べたいという欲求自体がやはり湧いてこなかった。
「・・・・オカピート。でしたらドリンクにしましょう。」
トニオはニッコリ笑ってそう言うと、店の奥へと消えていった。
暫くして再びホールに姿を見せた彼は、チョコレートの香りを漂わせる白いカップをの手元に運んで来た。
「これは・・・・・」
「チョコラータカルダといいマス。」
香りでココアかと思ったその飲み物は、見てみると、ココアよりももっと濃厚そうに見えた。
「アナタの身体は今、車に喩えるとガソリン切れの状態デス。
適度な量の甘イ物は、人間の身体にとってとても良いエネルギーになりマス。すぐにパワーが湧いてくる。
さあドウゾ。スプーンで掬って召し上がっテ下サイ。」
甘い香りの湯気が、を不思議な程に惹きつけた。お菓子や甘い物も、全く欲しいと思えなくなっていたのに。
はカップに添えられているスプーンを恐る恐る取り上げ、艶々と深い焦げ茶色に蕩けたチョコレートを掬って口に運んだ。
「・・・・美味しい・・・・!」
口の中で瞬時に広がったチョコレートの濃厚な甘みが、に幸福感をもたらした。
たった一口のチョコレートで、今確かに、喜びを感じたのだ。
ついさっきまで悲しみと虚無感で重く沈んでいた心が、たったそれだけの事で。
「それは良カッタ。では、ドウゾごゆっくり。」
トニオが店の奥に引き返していくと、ホールはただ一人になった。
誰もいない店内で、は一人、チョコラータカルダを夢中で飲んだ。
如何にも胸焼けしそうな濃さなのに、実際には幾ら飲んでも全く胸焼けせず、そればかりか、不思議と他の事を何も考えられなかった。形兆の事さえも。
今はただ目の前のこの温かく芳しいチョコレートを味わう事しか考えられず、は夢中でそれをスプーンで掬っては口に運び、掬っては口に運びを繰り返した。
ハッと我に返ったのは、カップの中がすっかり空っぽになった後だった。
それと同時に、重くて仕方のなかった身体が、何だか軽くなっている事に気が付いた。
さっきの水といいこのチョコラータカルダといい、どう考えても普通ではない。
この店は一体何なのだろう?あのトニオ・トラサルディーという人は一体何者なのだろう?気になる事は色々とあるが、差し当たって一番気になるのは支払いの事だった。
代金は不要だと言われてはいたが、だからと言って一言も無しに帰る事も出来ず、は帰り支度を済ませると、トニオがいる筈の店の奥を覗きに行った。
そこはきっと厨房なのだろう。所謂『関係者以外立ち入り禁止』の場所の筈だ。だから中まで入って行く事は憚られて、はホールとの境目にある入口から、あの、すみません・・・・、と恐る恐る呼び掛けた。
すると、すぐに奥から返事があり、トニオがまた姿を現した。
「何かご用デスカ?」
「いえ、あの、お会計を・・・」
は意を決してそれを口にした。
金額については、他の店よりはうんと高いのだろうが、流石に手持ちの数千円以内で収まる程度だろうと無理矢理にでも楽観視するしかなかった。
それでももし本当に何万円、いや、何十万円と言われたらどうしようという恐れを消せないままに、トニオの返答をビクビクと待っていると、トニオはその青い瞳をニッコリと笑わせた。
「先程申しまシタ通り、記念ですので要りまセン。アナタが少しでも元気になったのなら、それで十分デス。」
その優しげな微笑みは、人を陥れる為の罠ではなくて、本物だというのだろうか。
最初から驚きの連続だったが、それがここにきてとうとう極まった。
「・・・・どうして・・・」
「ハイ?」
「どうして、こんなに親切にしてくれるんですか・・・?
それに私の身体の事も、どうしてあんなに色々分かったんですか・・・?」
「ワタシはお客様に料理を楽しんデ頂いテ、そして快適になって頂く事が最高の喜びデ、最大の幸せデス。
ワタシは両手を見れバ、肉体全てが分かりマス。ワタシのこの能力デお客様が楽しク健康になってクレる事が、ワタシの生き甲斐であり、ワタシの望む全てなのデス。」
トニオの言うその『能力』というものは、もしかして。
そう考えた途端に形兆の顔が思い浮かんで、居ても立ってもいられなくなった。
「あの、その『能力』って、もしかしてスタンドですか!?」
「スタンド?何ですかソレは?」
「その能力をどうやって身に着けたんですか!?まさか金髪の男の人に弓矢で・・」
「ワタシは、ワタシの理想とスル料理を求めテ世界中を旅してイタ時に、初メテ自分のこの能力に気付きマシタ。」
「そ・・・、そうですか・・・・」
どうやらこのトニオという人の能力は、形兆とは関係のないもののようだった。
形兆の面影を追いたい一心でついそんな事を訊いてしまったが、よく考えてみれば、訊いたところで仕方のない事だった。
もしも仮に、この人が形兆にあの矢で射抜かれたのだとしても、自分の知らなかった形兆の話を聞く事も、彼の死を悼んで貰う事も、何も望めないのだから。
「ソレがどうかしましタカ?」
「い、いえ、何でも・・・・・!あの、それじゃあお言葉に甘えて、ご馳走様でした。とても美味しかったです。」
「グラッツェ。またのお越しを、お待ちしておりマス。」
がぎこちない笑顔を作ってペコリと頭を下げると、トニオはまた優しく微笑んで優雅な一礼をしてみせた。
そして、それ以上何も訊く事なく、を丁重に送り出してくれたのだった。
『トラサルディー』という不思議な店を見つけてから、何日かが過ぎた。
最初は詐欺かも知れないとあれだけ警戒したのに、その翌日もそのまた翌日も、はトラサルディーに立ち寄り、気が付くと、墓参りの帰りにトラサルディーでチョコラータカルダを飲むのがすっかり習慣になっていた。
「グラッツェ。コチラ、おつりとレシートです。」
「ごちそうさまでした。」
今はもう、トニオに対する警戒心は無かった。
トニオはあの空条承太郎と同じく、至って紳士的な人だった。年の頃も多分同じ位だろう。
この店も勿論、詐欺を働く悪質な店などではなく、ちゃんとした店だった。
価格も、チェーンのファストフードやファミリーレストランと同等ではないが、駅前の本格的なレストランや喫茶店と比べれば同じようなもので、十分に良心的だと言えた。
尤も、の小遣いで毎日通うにはチョコラータカルダが精一杯で、それもそろそろ厳しくなりつつあるのだが。
「顔色、ダイブ良くなりましたネ。良かったデス。」
「あ・・・・・、はい。ここのチョコラータカルダのお陰だと思います。ありがとうございます。」
この店に通うようになってから、体調は随分と良くなっていた。食欲も幾らか回復してきたし、夜も一応眠れるようになっている。
だが、形兆を失った悲しみは、まだ癒えてくる気配が無かった。
「・・・ご家族デスか?」
「え?」
「アチラに眠っていらっしゃる人。」
トニオはそれを見透かしているかのように、ドアの向こうの霊園へと、その眼差しを向けた。
「・・・・・はい・・・・・」
迷った挙句に、はそう答えておいた。
家族の一員になれ。父親の為の人形で在れ。形兆にはそう言われてきた。
しかし、そんな話を誰が理解出来るだろうか。
「亡くなったばかりデスか?」
「はい、4月に・・・・・」
「それはお辛いデスね。お気持ち、分かりますヨ。」
いつもにこやかで丁寧ながらも、何も言わず何も訊かずに淡々と接客するトニオが、こんな慰めの言葉をに掛けたのは初めてだった。
「・・・私・・・、何もしてあげられなかったんです・・・。私に出来る事は何でも協力するって、約束したのに・・・・」
適当な返事で誤魔化して、さっさと帰ってしまう事も勿論出来た。
だがはトニオに対して、自分の胸の内に蟠ったままの無念を吐露していた。
何もこの人に甘えて慰めて貰いたいという訳ではない。ただ、誰かに聞いて欲しいと、ふと思ったのだ。
形兆を助けられずに独りで死なせてしまったこの無念と悲しみを、はまだ誰にも訴えていなかった。口に出して言える相手がいなかったのだ。
幾ら何でもこんな泣き言を聞いて貰う為に承太郎に電話をする事は出来ないし、仗助や康一は億泰の友達であっての友達ではない。
まして億泰にだけは絶対に言えなかった。
億泰はと同じ、いや、それ以上の無念と悲しみを抱えて、それでもその辛さをおくびにも出さずに、前を向いて新しい日々を過ごしているのだから。
「・・・・家族を亡くスのはとても辛い事デス。でも、時間が癒してくれマス。
ゆっくり、少しずつデモ進んで行けバ、心の痛み、だんだん和らいできマス。美味しいものを食ベテ、何かしていれば、その内にまた笑えるようになりマス。
そして、亡くなった人もきっと、それを望んでいマス。」
心の痛みは、まだ和らがない。
けれども、少し前までなら信じられなかっただろうその言葉を、今は少しだけ信じられる気がしていた。
悲しみに暮れるばかりの相変わらずの日々の中に、チョコレートの甘い香りが、まるで黒く分厚い雲の隙間から薄らと射し始めた陽光の如く、ささやかな喜びをもたらしてくれているのだ。
形兆を忘れる事はきっと永遠に出来ないけれど、いつか前を向いて、自分の人生を始められる日が来るだろうか。
もしも俺が死んだら、お前はお前の人生を始めてくれと言った、あの日の形兆の言葉通りに。
「・・・・ありがとうございます。それじゃあ・・」
これから少しずつ、自分の中の何かが変わっていきそうな、そんな不思議な予感を密かに覚えながら、は店を出ようとした。
その同じタイミングでドアが向こうから開き、初老の女性客が10人程、賑やかに談笑しながらゾロゾロと入って来た。
「いらっしゃいマセ。どうぞ、こちらのお席ニ。」
トニオはに微笑みを投げ掛けると、彼女達への応対を始めた。
いらっしゃいマセと繰り返しながら、一人一人に椅子を引いて回る彼の様子を何となく見ている内に、元々数の少ないテーブルがたちまち埋め尽くされ、すぐに満席状態となってしまった。
「あらやだホント、素敵なシェフ!あはははは!」
「ハンサムだわぁ〜!映画スターみたいねぇ!うふふふふ!」
「ね〜!?ほら言った通りでしょお!?それにお料理も美味しいし、何よりとにかく不思議なお店なのよ!ずっと悩んでた肩の痛みが、ここのペン?ペン何とかっていうマカロニみたいなのを食べた途端にケロッと治っちゃったんだから!」
「やだホント!?じゃああたしもそれが良いわ、ペンペン・ナントカ!」
「あたしは膝なのよぉ!膝の関節痛に効くやつ何かないかしら!?」
「私は歯!もう辛くて辛くて・・・!何とかなんないかしらこの歯槽膿漏!」
「オゥ、すみまセンが、当店にはメニューはございマセン。お客様に出す料理は、ワタシがお客様を見て決めていマス。」
「そうなのよー!この人変わってるの!手を見てメニュー決めちゃうのよー!」
「あらぁ不思議ねー!じゃあ早速見てちょうだい!さあさあ!」
「あら私も私も!」
「さあさあ!」
「早く早く!」
「あ・・・ハハ・・・・」
いつも静かで落ち着いた雰囲気の店内が、一瞬にして大賑わいとなった。
このおばさま団体客の賑やかさと勢いに気圧されたのか、流石のトニオも明らかに笑顔を引き攣らせていた。
「ま、まずはお水をお持ち致しマス。少々お待ち下サイ。」
ひとまず撤退とばかりにそそくさと店の奥に行ってしまうトニオの後ろ姿を見ていると、突然、心が動いた。
前を向いて自分の人生を始めるなんて、どうすれば良いのかまるで分からなかったのだが、ふとそれが分かったような気がしたのだ。
それは多分、言葉の響きほど大仰な事ではない。
とても大変で困難な事のように思えていたが、多分、意外にほんのちょっとした事なのだ。
そして、その『ほんのちょっとした事』を実行に移す勇気があるかないか、きっとそこが分かれ道なのだ。
「・・・・・!」
は意を決してトニオを追って行き、ホールとの境目にある入口を潜り抜けた。思った通りそこは厨房で、トニオが一人で沢山のグラスを用意している姿が見えた。
そこにいるのは彼一人で、他には誰もいなかった。やはりこの店はトニオが一人で何から何までこなしているのだと、これで確信した。
「・・・・・あの!」
は勇気を振り絞り、トニオに声を掛けた。
「ハイ?」
トニオは『何してるの?』と言わんばかりのキョトンとした顔で、を見た。
反射的に逃げ帰ってしまいたくなったが、しかしここでそれをすれば、悲しみに暮れるばかりの日々から永遠に抜け出せなくなる。
「あの・・・・、もし・・・・、良かったら・・・・・」
そんな事はきっと、誰も望まない。
承太郎も、億泰も、形兆も、そして他ならぬ自分自身も、きっと。
「・・・・・て・・・、手伝わせてくれませんか!?」
トニオのキョトンとした顔を居た堪れない思いで見つめながら、は当たって砕けろという勢いに任せてそう口走った。
すると、暫しの沈黙の後、トニオはに歩み寄って来た。
「・・・・・髪を結ぶ物、持っていますカ?」
トニオはそう言いながら、自分の肩の辺りに手をやる仕草を見せた。
そう、肩だ。去年の夏の終わりに、形兆に短く切り揃えて貰った髪は、いつの間にかまた肩のすぐ下まで伸びていた。
つい昨日の事のように思えるが、しかし、それだけの時間が確実に流れていたのだ。
「は・・・はい・・・・」
死んだ者の時は止まるが、生きている者には時が流れ続ける。
それは時に残酷でもあるが、認めて、受け入れるしかないのだ。
前を向いて自分の人生を生きるというのは、きっとそういう事なのだ。
「では、髪を結んデ、ソコの石鹸でしっかり手を洗って下サイ。」
「・・・・・はい・・・・!」
そしてそれは多分、そう大袈裟な事ではない。
ほんの些細なきっかけで、ほんのちょっとの勇気を出して行動すれば、そこから自ずと始まっていくのだろう。
今のには、そう思えてならなかった。