愛願人形 29 〜 farewell ending 〜




「ご馳走様でした。あ〜、お腹いっぱい。」

箸を置いてお茶を飲んでいると、億泰に唖然とした顔で凝視されている事に気が付いて、は億泰の方を見た。


「何?」
「い、いや、別に。ただ、良かった〜と思ってよぉ。こないだまで全然食わなかったのに、最近結構食ってるじゃん?何かちょっと太った気もするし。」

はコップを置くと、わざとジト目で億泰を見据えた。


「あー、女の子にそういう事言っちゃダメだよ億泰君。それ禁句中の禁句。」
「あぁっ!?い、いやっ、そーゆー意味じゃなくってよぉ!だってほら、兄貴が死んでからみるみるゲッソリしてったじゃん!?それが元に戻ってきて良かったなって意味で言っただけで・・・・!あ・・・!わ、悪ぃ・・・!」

億泰は失言を重ねたと思い込んで狼狽しているが、勿論、そんな事はない。
悪いのは随分心配を掛けてしまっていた自分の方なのだ。
は首を振りながら、億泰に笑いかけた。


「ううん。ウソウソ、冗談。私の方こそ心配かけてごめんね。一番辛いのは億泰君なのにね。」
「い、いやぁ、そんな事は・・・・」

億泰ははにかんで言葉を濁しながら、誤魔化すようにしてご飯の残りを慌ただしく掻き込んだ。
億泰の父親は一足先に食べ終わって、もう自分の部屋に戻っている。
話をするタイミングとしては、今が丁度良さそうだった。


「・・・・・あのね億泰君、ちょっと話が・・」
「あ、あのよ」

話を切り出そうとした正にその瞬間、億泰もやけに真面目な顔をして口を開いた。


「え?な、何?」
「え、あ、そ、そっちこそ何?」
「ううん、いいの。億泰君が先に話して。」

先を譲ると、億泰は踏ん切りをつけるように息を吐いてから、再び口を開いた。


「兄貴の仇、あの音石って野郎を見つけたぜ。」
「・・・・・え・・・・・・」
「見つけて・・・、俺がこの手でブッ倒してやったぜ!」

急すぎる展開に、頭がすぐにはついていけなかった。


「・・・・い・・・いつ・・・?」
「今日!今日見つけて、今日ブッ倒した!」
「ど・・・・、どういう事!?」

形兆を殺したあの音石という男は、承太郎が捜してくれている筈だった。
名前も分かっているし、当初は見つけるのにそう時間は掛からないだろうと考えられていたが、名前を基に杜王町の住民登録を調べても該当しそうな人物がおらず、当初の予想に反して捜索が難航していると聞かされていた。
それがどうして今日突然、全ての決着がついたのだろうか?


「実は今日の朝、承太郎さんから呼び出されたんだよ。仗助と康一も一緒によぉ。
兄貴を殺した野郎をよぉ、見つけ出す事の出来るスタンド使いが今日の正午に杜王町の港に着くから、そいつを皆で護れってよぉ。」
「ま、護れってどういう事?だってその人、スタンド使いなんでしょ?じゃあ自分の能力で戦えるんじゃ・・」

思わず口を挟んだに、億泰はにんまりと笑いかけて、まぁとりあえず最後まで聞いてくれよと返した。


「そん時、向こうから姿を現しやがったんだ!野郎、俺が乗ってった兄貴のバイクのバッテリーに潜んでついて来てやがったんだ!
んで、そこで対決よ!野郎、恐ろしくズル賢い奴でよぉ、心理戦っつーの?人の頭ん中を引っ掻き回すような事言うのがとてつもなく巧ぇのよ!
んで、まんまとそれに嵌められちまって危うく殺されかけたんだけど、仗助のお陰で何とか命拾いしてさぁ。
んで、とにかくそのスタンド使いを護らなきゃっつーんで、港に行ってよぉ!俺と承太郎さんがボートに乗って、そのスタンド使いが乗ってる船まで行ったんだ!
その間に、港で待機してた仗助と康一の所に音石がまた現れやがって、今度は仗助と戦ったんだよ!
んで、一応仗助が勝ったんだけれども、あんにゃろう、とんでもなくしぶてぇ奴でよぉ!何と泳いで船に乗り込んできやがって、護衛のスピードワゴン財団の人に変装して、またまた堂々と俺の前に現れやがったんだ!
んで、またまた難しい心理戦よ!本物のスピードワゴン財団の人と偽物の音石、ちゃんと見分けなきゃあそのスタンド使いが殺されちまう!全てはこの俺一人に懸かってるんだ!この凄まじいプレッシャー、このギリギリの緊張感、分かる!?」

話している内にかなりボルテージが上がってしまったらしい億泰が、思いきりズイとの方へ顔を突き出してきた。


「う、うんうん・・・・!で、どうなったの?」

が続きを促すと、億泰はまた姿勢を正し、強気な笑みを浮かべて、握り締めた右手を見せびらかすようにの前に出した。


「音石の顔面にブチ込んでやったのよ、俺の渾身の右ストレートをな!」
「ど、どうやって見分けたの!?」
「見分けてねぇ!繰り出したのが右ストレートだったから、とりあえず右側にいた奴にブチ込んだだけ!
次の一撃で左側の奴もブン殴るつもりだったんだけどよぉ、たまたま一発で正解した、へへへ〜っ!俺の勘すごくね!?」
「あ・・・、ははっ・・・・・!そっかぁ・・・・・!あはははっ・・・・・!」

ごく自然な笑い声が、自分でも意識しない内に溢れていた。
黒く分厚い雲が晴れて、もっと沢山の眩しい光が射してきたような、そんな気分だった。
それで形兆が帰って来る訳ではない、たとえ音石を殺したって形兆が生き返る訳ではないが、それでも億泰がその手で仇を討てたのは本当に嬉しいし、億泰が音石の命を奪わずにおいた事に対しても救われる思いだった。


「・・・・音石の野郎は、承太郎さんとスピードワゴン財団に任せた。
気持ち的には殺してやりたかったんだけどよぉ、野郎が兄貴から奪った弓と矢のありかを吐かせなきゃなんねぇしな。
それによぉ、いざとなると、やっぱり怯んじまってさ・・・・。
俺この町が・・・、今の暮らしが好きなんだ。勉強は大嫌ぇだけどよぉ、仗助と康一と学校行って昼飯食ったり、行き帰りにブラついてアイス食ったりカフェでダベったりよぉ、そういう事出来る今の暮らしが凄ぇ楽しいんだ。
でも音石の野郎を殺しちまったら、もうそれが出来なくなるんじゃねぇか、もう仗助や康一と一緒にいられなくなるんじゃねぇかって思って、そうしたら、奴にとどめを刺す事がどうしても出来なかった・・・・。ごめんよ、ネーちゃん・・・・」

億泰が謝らなければならない理由など、何も無い。
は微笑んで首を振った。


「ううん、それで良かったんだよ。私は、億泰君が音石を殺さないでくれて良かったと思ってる。
あいつを殺したってそれで形兆君が帰って来る訳じゃないし、億泰君までそんな罪を背負って欲しくないから。
それで良いんだよ。折角良い友達が出来たんだから、ここで自分の人生始めなきゃ。形兆君だって、ずっとそれを望んでたでしょ?」
「・・・・ネーちゃん・・・・」

はにかむ億泰の口元が、少しだけ震えるのが見えた。
それから、何となく潤んだ目が何度かパチパチと瞬いて、またいつものカラッとした笑顔になった。


「そうっ!そんでよぉ、そのスタンド使いって奴!一体誰だったと思う!?」
「えっ、誰?」
「何と何と!仗助の親父だったんだよー!」
「えぇっ!?・・・って事は、ジョセフ・ジョースターさん!?」
「そうっ!いやぁ〜ビックリしたぜぇ!体はデケェんだけどよぉ、もうヨッボヨボのじーさん!耳も遠いし、ちょっとボケも入ってるしよぉ!確かにあれじゃあ戦えねぇわ〜!
承太郎さんは止めたらしいんだけど、弓と矢の事を知って、勝手に日本に来たんだとよ!そんで唐突に親子の対面だよ!仗助もじーさんもギクシャクしててさぁ!
ほら、あのじーさん、仗助が生まれてた事ずっと知らなかったって言ってたじゃん?だから何か、どうしていいか分かんなかったみてぇだなぁ。
まあでも何だかんだで最終的には、うまくやってけそうな雰囲気は出てたけどな、シシシシッ!」

明るいテンションで喋っていた億泰は、不意にその勢いを失くして、どこか物憂げな視線をテーブルに落とした。


「・・・そのじーさんがさ、俺に謝ったんだよ、親父の事。そんな事になってたなんて全然知らなかった、悪かった、ってな。
すんげぇヨボヨボの、今にも死にそうなじーさんがさ、ガックリ肩落として本当に済まなそうに謝るんだよ。
そんな事されたらさぁ、何かこっちが悪い事してるみてーじゃん?別に俺は元々、あのじーさんや承太郎さんのせいだなんて思っちゃいねぇのにさ。
んで、別にそんなのいいッスよとか適当に返事してたら、承太郎さんとスピードワゴン財団の人に、アメリカにあるスピードワゴン財団の特殊機関に親父を預けないかって言われたんだ。」
「えっ・・・・?」

スピードワゴン財団。世界有数の大財閥で、創設者の代からジョースター家との親交が深く、承太郎がDIOと戦った際にも様々な支援を受けたという話は、も承太郎から聞かされて知っていた。


「そこはよ、スタンドに関する調査や研究、その能力を解明する所なんだと。そこで親父の身体や知能なんかを色々と調査して、治療方法を研究してくれるらしいんだ。
向こうはすぐにでもOKだって言ってた。何なら明日明後日にも、その船に乗せてアメリカに連れて行く事も出来るって。」
「ちょ、ちょっと待って、そんな急な話なの・・・・!?」

あまりと言えばあまりに突然すぎる話に、動揺せずにはいられなかった。


「そもそも、調査や研究って具体的に何するの?」
「何か、普通の健康診断とか心理テストとからしい。後は環境の良い所でのんびり暮らさせてくれるらしいぜ。実験動物みてぇな扱いは絶対にしねぇって言ってたし、それは俺も信用出来ると思う。
そんで研究の結果、やっぱどうしようもねぇってなった時には、コールドスリープとかいうやつで眠らせてくれるとも言ってた。」

承太郎が嘘を吐いて騙すとは、も思っていなかった。
その話はきっと信用出来るのだろうし、誰にとってもきっと最善の道なのだろう。
しかし、頭ではそう分かっていても、意外と諸手を挙げて喜ぶ気分にはなれなかった。


「・・・・・それで、どうするの?」

自分の胸中はひとまず明かさぬまま、はまず億泰の意向を尋ねた。
決定権はあくまでも実の息子である億泰にある。億泰が直ちに預けたいというのなら、それに反対する事はには出来なかった。


「うん、それなんだけどな・・・。ネーちゃんには悪いけどよぉ、とりあえず、当分の間はいいッスって断った。」
「・・・・・え・・・・・・?」

しかし億泰の答えは、の想像とは違っていた。


「そりゃあさ、預けちまえばうんと楽にはなれんだよ?
けどよ、兄貴が死んで、親父までそんな遠い所に行っちまうなんて、やっぱ寂しくってさ・・・。
そりゃあさ、ずぅ〜っとこのまんまやってって、最終、俺達が年寄りになって死んでも親父一人が残っちまうなんて事になるのはアレだし、それ以前に、もし本当に治す方法を見つけて貰えんならよぉ、やっぱそれに越したこたぁねぇじゃん?だから親父の為にも、いずれは預けなきゃいけねぇんだけどな。
でも、今はまだそんな気になれねぇっつーかよぉ。ネーちゃんには引き続き面倒掛けちまう事になるのに、勝手に決めて悪ぃなとは思ったんだけどさぁ・・・。」

面倒だなんて、どうして思うだろうか。
の気持ちも、億泰の気持ちと同じなのに。


「・・・・・ううん。良いよ。私もそれで良いと思う。」

形兆の死後、虹村兄弟の父親はまた変化を見せていた。
昔の家族写真が見つかった時から木箱を漁る事をピタリと止め、代わりにあの写真をずっと眺めているようになったのだ。
写真を見ている時の目には明らかに感情が篭っていて、写真を見つめながら話し掛けでもするかのように、時折何か不明瞭な言葉を呟いたりもするようになった。
その様子は、更なる回復の兆しだと受け取れるものだった。
スピードワゴン財団の特殊機関に面倒を看て貰えば、もっと飛躍的な回復を果たす可能性があるのは分かっているが、それでももう暫く、もう少しだけでも、このまま様子を見させて欲しいというのがの気持ちだった。


「そ、か?・・・なら良かったけど、へへへ・・・・・。」

億泰は何だか決まりが悪そうに笑うと、あ、と呟いて目を丸くした。


「んで?そっちの話は?」
「あ、うん・・・。私ね、近い内、Y市に帰ろうと思ってるんだ。」
「え・・・・・・」

億泰のポカンとした顔が、みるみる内に焦りの表情へと変わっていった。


「ど、どういう事だよ!?何で急にそんな事・・・・!」
「私が家出してすぐの頃、お母さんが警察に私の捜索願を出していたの。」
「捜索願って・・・・・!」
「このまま放っておいたら、7年経った時点で死んだと認められるんだって。
そうなったら私、生きてるのにこの世にいない人間になっちゃうんだって。」
「マ、マジかよぉ!!超ヤベーんじゃねーのそれ!?」
「うん、超ヤバい。だからY市に帰って、お母さんとちゃんと話をして、警察にも届けなきゃいけないの。」
「そ、そっか、そりゃそーだよなぁ・・・・・。で、でもよぉ、じゃあその後は!?その後どうすんだよ!?」
「・・・・・その事で、億泰君にお願いがあるの。」

は今、虹村家に入った時の事を思い出していた。
あれは形兆がいたからこそ実現した事だった。
形兆は父親の為にの協力を求め、は自分の居場所を求めた。今までの暮らしは、その2つの要因があってこそ成り立ってきたものだった。
しかし、これから先は違う。
虹村親子にとってはよりも遥かに頼もしい協力者が何人も現れたし、もまた、自分の居場所を作り、自分の事だけを考えていける状況を望めるようになった。


「な、何だよ・・・・・・?」
「私、Y市に帰ったら、お母さんと会って話をして、警察や役所の手続きとか、しなきゃいけない事を全部してこようと思ってる。
それで、全部終わったらその後・・・・、その後私また、この家に帰って来ても良い・・・・?」

それでもこのまま、形兆の眠るこの町で、『家族』で暮らしていきたい。
それがの望みであり、の思う『自分の人生』だった。


「・・・・・へ・・・・・・?」
「私ね、私も・・・・・、ちゃんとこの町に引っ越して来たい。
ずっと隠れてコソコソするんじゃなくて、ちゃんとこの町に引っ越して来て、ここで生きていきたいの。
形兆君の側で、億泰君と、お父さんと、これからも暮らしていきたい。
でも、今までみたいにいかない事は分かってる。だから私、アルバイト見つけたの。」
「バイト!?ど、どこで!?」
「トラサルディー。朝10時からお昼2時までのランチタイムで、ホール係兼皿洗いで雇って貰える事になったんだ。」
「えっ!?ウソ、マジで!?いつの間に!?」

墓の近くにトラサルディーという凄いイタリア料理店を見つけたのだと億泰が誇らしげに教えてくれたのは、があの店に通うようになってすぐの頃だった。


「前に億泰君、あの店の事を教えてくれたでしょ。でも実は、その時には私ももう何度か行ってたの。」
「マジかよぉ!」
「黙っててごめんね。億泰君が凄い店見つけたーってあんまり嬉しそうにはしゃいでたから、水を差すような事言い難くて・・・。」
「いや、別に謝るような事じゃねぇけどよぉ・・・。でも、バイトなんていつの間に決めたんだよぉ?」
「1週間前。実はこの1週間、試用期間って形でもう働いてたんだ。それで、一旦今日で終わった。
これからY市に帰って用事を片付けて、杜王町に戻って来たら、その時に改めて正式に採用して貰う事になってるの。
それでね、昼間トラサルディーで働きながら、定時制の高校に通おうかと思ってる。
その学費もあるから、沢山って訳にはいかないんだけど、でも出来る限り生活費入れるから、だから・・・・、これからもこの家に置いて下さい・・・・!」

は億泰に向かって、深々と頭を下げた。


「・・・・・な・・・・・、何だよぉーーッ!!」

暫くして、億泰の絶叫がダイニングルームに響き渡った。


「急に改まって真剣な顔して色々言うから何かと思ったじゃんかよぉー!あービックリしたぁ!ビックリしすぎてちょびっと涙出ちまったぜ!
何かよく分かんねぇけど、とにかくすぐ帰って来るって事だよな!?な!?」

億泰は凄い勢いでに念を押しながら、の手をガシッと掴んだ。
その力の強さに驚きつつも、はうんうんと頷いた。


「う、うん、多分2〜3日ぐらいで・・・・。」
「あーーー良かったぁーーーっ!もーっ、ビックリさせねーでくれよぉ〜!俺頭悪いの知ってるだろぉ〜!?一気に色々言われても頭ついてけねーんだよぉ〜!」
「ご、ごめん、でも大事な事だから・・・・!」

がそう弁解すると、億泰は盛大な溜息を吐いての手を放した。


「別によぉ、金とかそんなこたぁどーでも良いんだよぉ。
兄貴がキッチリやり繰りしてたお陰で、まだ暫く食ってける位は残ってたし、高校出たら俺も就職して働くんだしよぉ。だから水臭ぇ事言うなよぉ。」
「就職って・・・・・、もう卒業後の進路決めちゃうの?」
「決めちゃうよぉ?だって俺ベンキョー嫌ぇだもんよぉ。これ以上行く学校っつったら、自動車学校ぐれぇだよぉ。もーそれが限界。もーそれ以上勉強ムリ。マジ無理だから。」

億泰はまるでそれが当然の常識だと言わんばかりの真顔でそう言い切ると、またあっと声を張り上げた。


「そうだ!ちょ、ちょっと待っててくれよ!」

億泰はドタドタと騒々しい足音をさせてダイニングルームを出て行き、暫くして、またドタドタと戻って来た。
戻って来た億泰の手には、1冊のノートと、見覚えのある箱があった。


「これ!ネーちゃんにやるよ!」

手渡されたその箱はやはりクレヨンの箱で、蓋の隅に『さくらぐみ にじむらけいちょう』と書かれてあった。


「これ・・・・!」
「開けてみてくれよ。」

億泰はきっと、がこの箱の中身を知っているとは思っていないのだろう。そんなような表情だった。
は微かに息を呑むと、蓋を開け、中のハンカチ包みを開いた。前に見た通り、そこには大粒のダイヤモンドの指輪と、白い真珠のネックレスがあった。
顔を上げたと目が合うと、億泰は照れているようなぎこちない顔で笑った。


「ほ、本当はさぁ、これ兄貴の役目だよなぁ!何で俺なんだよぉ!ネーちゃんも俺もリアクションに困っちまうじゃんかよぉ、なぁ!?」

ギクシャクと笑う億泰の赤くなった顔を見ていると、億泰はふと黙り込んだ。


「・・・・でもさ・・・・、兄貴の・・・・、遺言だったんだ。」
「え・・・・・?」
「ほれ。これ読んでみてくれよ。」

億泰が開いたノートを差し出してきたので、はクレヨンの箱をテーブルの上に置き、それを受け取った。
そこにはよくよく見覚えのある繊細な字、形兆の手書きの文字が、びっしりと、かつ整然と纏まった状態で並んでいて、中でも一番目につき易い所に、この母親の形見の宝石の事が書かれてあった。


― 形兆君・・・・・

その文字を目で追っていると、形兆の声が聞こえてくるようだった。
その文字に触れていると、形兆の手に触れているかのようだった。


「・・・どっちか片方をネーちゃんにやってくれって書いてるけどよ、どっちもやるよ。」
「え・・・・?」
「・・・んあっ!?ち、ちげーよ!?そういう意味じゃねーんだよ!?そーゆーコトじゃあねーんだけどもぉっ・・・・!」

億泰はまた一段と顔を赤くさせてうろたえたが、すぐに落ち着きを取り戻すと、穏やかな微笑みを浮かべた。


「・・・・・きっとこうするのが、兄貴もお袋も、一番喜ぶと思うんだよ。ネーちゃんにはよぉ、うちの事でずーっと面倒と迷惑かけっぱなしだったからさぁ。
俺もこれからはネーちゃんに甘えてばっかいねぇで、もっと色々やるよ。家の事とか、親父の世話とか。
これからはネーちゃんも色々忙しくなるもんなぁ。バイトして、学校行ってさぁ。だから協力してやってかねーと!だって俺達、『家族』だろ!?」
「・・・・・億泰君・・・・・」

笑う億泰の顔が、ぼんやりとぼやけて滲んでいった。
留めていられなくなった熱い雫がポロリと零れ落ちると、淡く滲んでいた億泰の笑顔がまたくっきりと鮮やかに見えた。


「・・・・・だからさ、ぜってー帰って来いよな・・・・・、何か美味いお土産付きで!シシシシッ!」
「・・・・・うん・・・・・!」

カラッと明るい億泰の笑顔は、頭上にある黒く分厚い雲を完全に消し飛ばしてしまう、夏の太陽のようだった。



















K県Y市。
梅雨晴れのある日曜日の午後、は馴染み深いかつての最寄り駅に降り立った。
荷物を手に何ら変化の無い改札口を出ると、そこに懐かしい人が立っていて、を待っていた。


!!」

その人、の母親・和代は、の顔を見るなり号泣しながら駆け寄って来た。


「ああぁぁぁーーー!ーーー!会いたかったあぁぁーーー!!」
「お母さん、久しぶり・・・。」
「4年も5年も連絡ひとつ寄越さずにどこ行ってたのよこのバカ娘!!親不孝者!!」
「ごめんなさい・・・・・。」

泣きながら、怒りながら、それでも力一杯に抱きしめてくる和代を、もまた抱きしめ返した。
そうして暫くお互い純粋に再会を喜び合い、和代の気持ちがひとまず落ち着いたところで、と和代は駅前の喫茶店に入った。
その直後は飲み物を注文したり、お土産に持って来たS市の銘菓を和代に渡したりしていたのだが、やがて注文した飲み物が手元に来ると、和代は煙草に火を点けつつ、苦笑いを零した。


「この間、空条さんって人が店に来た時は吃驚したわよホントに!
全然見た事ない人が突然やって来て、あんたの事で話があるなんて言うから、最初は何かの詐欺じゃないかって思った位よ!でもホント、無事で良かった・・・・・!」

承太郎は本当に、と和代の間を取り持ってくれた。
和代の店に自ら出向いて、の無事と大まかな近況を報告し、連絡先を伝えてくれたのだ。
5年も音信不通だった母娘がこうしてスムーズに再会出来たのは、承太郎が骨を折ってくれたお陰に他ならなかった。


「元気そうね。すっかり大人びて、綺麗になっちゃって、ふふっ・・・・・。」

和代は目を細めてを見つめながら、懐かしい匂いの煙を吹かした。
初めて言われたその誉め言葉に対する恥じらいや戸惑いと、変わらないこの匂いがもたらす切なさとを、は冗談めかした笑いでまとめて誤魔化した。


「ま、多少は成長したのかな。一応これでも18だから。お母さんも元気そうで良かった。」
「まあ何とかね。こっちは相変わらずよ。」

和代はアイスコーヒーを少し飲むと、もう一口煙草を吸って、まるで溜息のように煙を吐き出した。


「こないだの電話じゃあんまり話せなかったけど、今までどうしてたの?あの例の彼氏の所にずっといたの?」
「・・・うん。」
「M県の杜王町って言ったっけ?今住んでる所。彼氏の地元なの?」
「ううん。今年の4月に引っ越したの。それまではC県にいた。」
「C県の人だったの?」
「ううん。」

更に根掘り葉掘り訊かれるかと思ったが、和代はただ呆れて諦めるような目でを一瞥しただけで、それ以上は追及しなかった。


「・・・・まあ良いわ。で、その彼氏は?あんた一人で帰って来させて、まさか自分は知らん顔する気?
あんたが無事元気に帰って来てくれたから良かったけど、でもお母さん、その男の事はまだ許してないんだからね。
まだ中学生だったあんたを家出させて、高校にも行かせずに人生メチャクチャにしておいて、自分だけ名前も顔も素性も明かさないままシレッと別れられると思ったら大間違いよ。人をナメるにも程があるわ。」

憎々しげにそう吐き捨てる和代の険しい顔から、はそっと視線を逸らした。


「急に帰って来る気になったのって、大方そいつとうまくいかなくなったからなんでしょ。だけど簡単に別れてやる事なんてないんだからね。それ相応の責任は取らせなきゃ。
こんな大それた事しでかしてくれたんだから、責任取って結婚して一生養うのが当然よ!さもなきゃお金!それなりの慰謝料を払って貰わないと!」
「お母さん、それは・・・・」
「4年も5年もベッタリ一緒に暮らしてりゃ、妊娠だってしたんじゃないの?今は?どうなの?大丈夫なの?まさかもう子供産んでたりなんかしないわよね?」

和代は人に聞かれまいとするかのように声を潜めて、を問い詰めた。
確かに和代にしてみれば、それは全くもって歓迎出来ない、忌むべき事態なのだろう。
しかしは、虚しい仮定だと知りつつも、心の片隅でそれを望まずにはいられなかった。もしも形兆の忘れ形見がこの身に宿ってくれていたら、どんなに良かっただろうか、と。
何となく、遠い未来に実現してくれる事を漠然と夢見ていたそれを、今はもっとリアルに、もっと切実に、望まずにはいられなかった。
今の自分に子供を産み育てる基盤は無いし、形兆もまた一時の快楽や欲望に呑まれてしまうような人ではなかったと、よくよく分かってはいても。


「・・・それは無いよ。今も大丈夫。心配しないで。」
「本当に?」
「うん、本当に。」

がそう言い切ると、和代は渋々のようにまた溜息を吐いた。


「なら良いけど。でも責任を取らせる事に変わりはないからね。とにかく会わない事には話にならないわ。まずはそいつをここに呼びなさい、話はそれからよ。」

呼べるものなら呼びたい。彼に一番逢いたいのは私だ。
そう言いたくなる気持ちを抑えて、はさざ波の立ちかけた心を鎮めた。


「・・・・悪いけど、それは出来ない。」
「どうしてよ!?庇う気!?」
「亡くなったの。」
「えぇっ・・・・!?」
「ちょっと前に、事故でね。だから呼べって言われたって呼べないし、責任取らせるったって無理だよ。」

淡々とそう言ってのけると、和代は途端に何とも言えないような表情になった。


「・・・、あんた・・・」
「それに、お母さんそんな事言うけど、お母さんだって責任取らせる事なんて出来なかったじゃん、私のお父さんにさ。」
「それは・・・・・!」

痛いところだと分かっていて突いてやると、和代は予想通り、決まりが悪そうに口籠った。


「・・・・だからこそ悔しいんじゃないの・・・・!あんたまで昔のあたしみたいに弄ばれて人生狂わされて泣きを見るだけなんて・・・!」
「私、弄ばれてなんかなかったよ。人生狂わされたなんて思ってない。全部私が自分で納得して、自分で決めてきた事だから。
私、あの人との事の何もかも、後悔なんてしないよ。今までも、これからも。」
・・・・」

和代は悲しげな、けれども優しい眼差しでを見た。


「・・・・・分かった、もういい。死んじゃったもんはしょうがないもんね。
そういう事なら、もう何もかも水に流して、母娘二人、新しく出直そう。」
「でもお母さん、今誰かと一緒に住んでるんでしょ?安原さんじゃない人と。」
「それは・・・・・」
「安原さんとはどうなったの?その人は一体誰?」

和代の今の恋人について、その詳細は聞かされていなかった。
深く調べる必要の無い事を調べるのは単なるプライバシーの侵害にしかならないからと、承太郎が敢えてそこまでは調べていなかったのだ。


「・・・・しょうがなかったのよ。色々あったのよ、あたしにだって・・・・」

承太郎は訊くも訊かぬも君の自由だと言ったが、としては、どちらを選んでも同じだった。
居所を知らせた以上、和代は今後も何かと連絡を寄越しては色々と言ってくるだろうし、もまた、特にそれを拒むつもりは無かったからだ。
これまでのように関係を断絶し続ける訳でもなく、かと言って、昔のように自分を押し殺して只々つき従う気もない。これからは今までとは違う、新たな母娘の関係を築いていきたかった。


「あんたが出て行って心配で心配で、あたしにしてみたら心の支えは信ちゃんだけだったのに、あいつときたら籍入れても働きもせずに毎日毎日プラプラ遊び歩いて、人の気も知らずに能天気に・・・!
挙句の果てには、夫婦で小料理屋やろうなんて調子の良い事散々言っときながら、金貯めるでもなく逆にサラ金で何百万も借金こさえてさぁ・・・・!
もう愛想もクソも尽き果てて、別れて叩き出してやろうとしたんだけど、お金無いからテコでも出て行かなくって・・・・!
そんな時、お店の常連だった村田って人が凄く親身になってくれたのよ。小さいけど内装会社の社長やってる人でね。あいつが出て行かないなら、アパート引き払って自分ちに来れば良いって言ってくれて・・・・。」
「そう・・・・・。良かったね、親切な人じゃない。」
「それはそうなんだけど・・・」

和代は明らかに不服そうな顔でぼやき、煙草の煙をもうもうと吐き出した。


「でもね、あの人バツイチで、齢はまだ52なんだけど、もう成人してる娘と息子がいて、孫も2人いるのよ。
子供達を育てたのは別れた前の奥さんなんだけど、あの人ともずっと交流があったみたいで。これが何かっちゃあ頻繁にうちに来るの!
娘は結婚してるんだけど、自分が旦那や友達と遊び歩く為に、うるさい盛りで手の掛かる小さい子達を当然みたいな顔してしょっちゅう預けに来るんだよ!それに、やれ子供のお祝いだ何だってバンバンお金も出させて!
息子はまだ独身なんだけど、チャラチャラ遊び惚けてばっかで、金に困るとあの人からちょこちょこせびってさ!小遣い程度の額でもチリも積もって馬鹿にならないのに、この間なんか新車の頭金まで出させたのよ!
二人共いつもお礼の一言も無しに、厚かましいったらありゃしない!娘の子供達も、ワガママでキーキー喚いてばかりの猿みたいな子達だし!そんな遠慮も可愛げもないような奴ら、可愛がれる訳なんてないでしょ!?
なのにあの人ときたら、お前にとっても子供や孫みたいなもんなんだから快く世話してやれの一点張り!
自分は良い顔だけして面倒な事は全部こっちに押し付けてさ!あの人は親切っていうか見栄っ張りなのよ!
何が子供よ!何が孫よ!冗談じゃないわ、私にとっちゃあどいつもこいつも赤の他人よ!皆大っ嫌い!
おまけに前の嫁まで、いつまでも本妻気取りでちょくちょく出しゃばってきて腹が立つったら!大体、あの女が子供達の躾もまともにしてこなかったから、こっちは大迷惑してるってのに!」

和代は相変わらずな調子で盛大に不満をぶちまけると、不意に泣き出しそうな顔になってを見つめた。


「・・・・やっぱりだけだよ。あたしにはあんたしかいない。帰って来てくれて本当に良かった・・・・!」
「・・・・お母さん・・・・・」
「昔はさ、あたしの少ない稼ぎしかなかったから、あんたに色々と苦労かけたけど、これからは違う。二人で働けるんだから、前よりもっと良い暮らしが出来るよ!
取り敢えず、すぐにでも部屋見つけないとね!あ、何なら明日にでも早速・・」
「お母さん。」

は静かに、かつ毅然と、和代の話を遮った。


「私が今回帰って来たのは、ケリをつける為なの。」
「ど・・・、どういう事?ケリって何よ?」
「私、ちゃんと役所に届けを出して、正式に杜王町に引っ越しする。
あっちでイタリアンレストランのホール係のアルバイトを見つけてあるの。そこで昼間働いて、夜は定時制の高校に通おうと思ってるんだ。」
「・・・・・な・・・・・、何言ってんのよ!」

想定していた通り、和代は目を見開いて声を張り上げた。


「彼氏死んだんでしょ!?ならもうそんな所にいる理由無いじゃないの!何でわざわざそんな遠い所で暮らし続けなきゃいけないの!?」
「あっちにあの人のお墓があるから。それに、家族もいるし。」
「家族って・・・・・」

その言葉に傷付いたのか、和代は愕然とした表情になった。


「あんたの家族はあたしでしょ!あたしはあんたのたった一人の、実の母親よ!?
それを差し置いて、他の誰が家族だっていうの!?まさかやっぱり子供でもいるんじゃ・・」
「あの人のお父さんと弟。これまでもずっと一緒に暮らしてたの。」
「何よそれ・・・・!そんなの益々戻る事ないわよ!当の彼氏が死んだのに、その父親や弟なんて関係ないでしょ!
まさか、引き続き自分達の世話をしろって言われてるの!?そんなのビシッと断りゃ良いのよ!家出娘だと思ってナメてかかって甘く見てんのよ!
良いわ、お母さんが一緒に行ってあげるわよ!本人が死んでても親がいるんなら、何としても償いをさせなきゃ気が済まないわ!」

残念だが、やはり分かっては貰えないようだった。
5年前ならば、この重圧のような愛情と激しい剣幕とに押し負けてしまっていただろうし、和代がもしも今独りぼっちで暮らしていたのなら、思わず心が揺れてしまっていたかも知れない。
けれどももう、の心はしっかりと固まっていた。


「私が家出したのは、好きな人が出来たからってだけじゃないよ。あの時私を家から追い出したのは、お母さんだよ。」
「あ・・・、あんなの只の言葉の綾でしょ!そんな事いつまで根に持ってんのよ!」
「確かに、私の家族はお母さんだけだったよ。あの時の私にとってはね。
けど、お母さんは安原さんとも家族になりたがった。
ううん、安原さんだけじゃない。それまでにも何人も何人も、同じような人がいた。そうでしょ?」
「・・・・よくもそんな当てつけがましい嫌味を・・・・。あたしがあんたを育てるのにどれだけ苦労してきたと思ってんのよ・・・。どんな気持ちでずっとあんたの帰りを待ってたと思ってんのよ・・・・。」

は、涙を浮かべて睨みつけてくる和代の目をまっすぐに見つめ返した。
胸の重苦しさは感じているが、この苦しみから逃れる術の無かった5年前とは、もう違う。
は今、はっきりと自分のこれからの人生を見つめていた。


「そんなつもりじゃない。責める気なんて無いよ。」
「じゃあ何のつもりよ・・・!?」
「私はもう子供じゃない。これからはちゃんと自分で考えて、自分の人生を生きていく。だからお母さんも、自分の人生を頑張って。」

きっと、血の繋がりだけが家族の絆ではないし、絆というものは、側にいなければ断たれてしまうものではない。
側にいなくても、いられなくても、心の中に想ってさえいれば、きっといつまでも結ばれている筈。


― そうだよね、形兆君・・・・・。

は今、強く強く、そう信じていた。



















3日後の夕方、は予定通り、杜王町へと帰って来た。
杜王駅の改札口を抜けると、学校帰りらしい学生服の少年が三人、並んで立っていた。
髪型は少しワイルドな感じに変わったが、相変わらず実直そうな、小柄な少年。
ハート形の飾りが個性的な改造長ランを着こなす、背の高いリーゼントの少年。
それに、兄と共に拘り抜いて改造した短ランを今日も今日とてその身に纏う、顔に大きな×印の傷痕がある不良少年。
その三人が、改札を出て来たを見た途端、晴やかに笑って大きく手を振った。


「お帰りなさい、さん!」
「うっス。お帰りなさい。」
「お帰りぃー!ネーちゃーん!」

駆け寄って来る三人の少年、広瀬康一、東方仗助、そして虹村億泰に、も笑って手を小さく振り返した。
その笑顔があまり上手く形作れなかったのは、想定外の二人、仗助と康一までもが出迎えに来てくれていた事に恐縮したせいだった。
この二人とは、形兆の葬儀以降会っていなかったのだ。


「た・・・、ただいまです・・・。わ、わざわざ来て貰ってすみません・・・。」
「億泰がすげぇ心配してたんスよ。もしかしたらさん、やっぱお袋さんと一緒に暮らすっつって帰って来ねぇかもって。」
「挙動不審になるぐらい心配してたよね。」
「だっ・・・・!テ、テメーら!余計な事言うんじゃねー!」

億泰は顔を赤らめて仗助と康一に喚き散らすと、ハッとを見て、怒られる寸前の顔になった。怒っている形兆の顔とセットでよく見た顔だった。


「ご、ゴメン・・・。べ、別に疑ってた訳じゃねぇんだけどよぉ、ついつい・・・、やっぱ心配になっちまって・・・・」

暫くぶりにその顔を見られた事が何だか嬉しくて、もついつい吹き出した。


「ふふっ、約束したでしょ?ちゃんと帰って来るって。・・・お土産付きでね。」

持っていた大きな紙袋を皆の前に差し出すと、『おおおーーっ!』と嬉しそうな歓声が上がった。
は更にその紙袋の中から、もう少し小さいサイズの紙袋を2つ取り出し、仗助と康一にそれぞれ手渡した。


「これはお二人に。少しですけど。」
「うわぁ、ありがとうございますー!貰っちゃって良いんですかー!?」
「何かすんません、気ィ遣わせちまったみたいで。」
「そんな、全然。こっちこそ色々お世話になって・・・・。」

ささやかではあるが、この二人にようやくお礼が出来た事で、また一つ区切りがついたような気がした。


「この町の事で何か分かんない事とかあったら、いつでも聞いて下さいね!僕で力になれる事なら、何でもお手伝いしますんで!」
「俺も、何かあったら手伝いますから、何でも言って下さい。」
「あ・・・、ありがとうござます・・・・・。」

康一も仗助も、気の優しい、良い人達だった。
初めて会った時には敵だったが、今では二人共すっかり億泰の良い友達になってくれている。今まではそう思っていた。
だが。


「・・・・あの・・・、じゃあ、早速、なんですけど・・・・」
「はい?」

彼らは億泰の友達であって、自分の友達ではない。
当然のようにそう線引きしてしまっていた自分を、臆病な自分を、これからは変えていかなければならなかった。


「割れた鏡って・・・・・、直せますか?」
「割れた鏡?はぁ、直せますけど?」

只の社交辞令なのに本気にするなんて、厚かましいと思われるだろうか?
いや、多分それは無い。そんな風に考える人ではないだろう。
それに、もしも仮に厚かましいと思われたって、あの鏡の事だけはどうしても仗助に頼まなければいけないのだ。
買い替えは勿論、修理も出来ない、この世にたった一つだけの、形兆の形見の鏡。
あれだけはどうしても、絶対に、諦めたくないのだから。
仗助にキョトンとした顔で見つめられて大いに緊張しながら、は内心でそんな自問自答を繰り返した後、遂に勇気を振り絞って口を開いた。


「あ・・・、あの、早速厚かましくて悪いんですけど・・・・、直して貰えませんか、私の鏡!これ位の大きさなんですけど・・・!」

どうか、どうか。
そんな切実な思いを込めて仗助の反応を窺っていると、ほんの少しの間を置いて、返事が返ってきた。


「いいッスよ。いつでも。」
「あ!良い事考えた!じゃあよー、オメーら今からうち来いよ!早速皆でお土産食ってゲームしようぜぇー!ヘヘヘ〜っ!」
「良いねー!あ、ねぇ競争しようよ!で、優勝した人は明日カフェ・ドゥ・マゴでケーキ奢って貰うってのはどう!?」
「グレート!んじゃ仗助くん本気出しちゃおっかなー!」

それは、拍子抜けする程簡単な、随分あっさりしたものだった。
こちらの心境などお構い無しに、お土産のお菓子とゲームの事で盛り上がる彼らを見ていると、疎外感ではなく、不思議な一体感を覚えた。


「あ・・・、ありがとう・・・・・!」

私もこの杜王町の住人になったのだ、と。
これから彼らと、この町で生きていくのだ、と。

















2000年、晩夏。


着替えを済ませ、すっかり綺麗に食べ尽くした賄いランチのトレーと自分の荷物を持つと、はスタッフルームを出た。
階段を下りると、厨房では店主のトニオ・トラサルディーが調理の最中だった。
M県S市杜王町・国見峠霊園の側にあるイタリア料理店『トラサルディー』は、開店1周年を迎えた今、すっかり杜王町屈指の名店となっていて、毎日開店から閉店までほぼ客が途切れない。午後2時や3時になっても、まだランチの客が入ってくるのだ。
は荷物を勝手口の側に置き、トレーを持って厨房に入った。


「ご馳走様でした〜!今日も美味しかったです!」
「そうデスか?それは良かッタ。」

調理中のトニオと他愛のない会話を交わしつつ、自分の使った食器とトレーを手早く洗って片付けを終えると、これで本日の仕事は終了だった。
仕事は午前10時から午後2時までの契約で、その時間内は給仕や電話応対、レジ打ち、掃除や皿洗いの仕事をし、2時になるとスタッフルームで賄いランチを食べて帰る事になっているのだ。


「じゃあ、お先に失礼します!お疲れ様でしたー!」
「お疲れさまデシタ、行ってラッシャイ!」
「行ってきます!」

笑って手を振ってくれるトニオに笑顔で手を振り返し、は荷物を持って勝手口から出た。
そのドアのすぐ横にはトニオの愛犬の犬小屋があって、この時間、大抵はいつもそこで気持ち良さそうに昼寝をしているのだが、が出て来た音で目を開け、『あ、もう上がり?』とでも言うかのように、可愛い寝ぼけ眼でを見上げてくる。
彼の頭を撫でてバイバイしてから一度家に帰って、億泰と当番制での家事をこなし、休憩を取ったり課題を片付けたりして、夕方5時からは隣町にある定時制高校で夜9時まで授業を受ける、それがの今の暮らしだった。
月曜から土曜まで週6日、とにかくその繰り返しなのだが、もう一つ、大切な日課があった。
今日もいつもと同じように店を出たは、そのまますぐ側の国見峠霊園へと入って行った。
そう、墓参りである。
月曜から土曜まで週6日、雨の日も風の日も雪の日も、欠かさずに行っている日課だった。


「今日もあっついねー!いつまで暑いんだろうね!?」

虹村家の墓の前に着くと、は手桶に汲んできた冷たい水を墓石にかけ、持参してきた花束を供えた。
今日の花束は、水色の紙に包んだミニヒマワリとカスミ草である。頭上に広がっている夏空をそのまま小さく模したようなこの花束を、形兆と形兆の母もきっと喜んでくれる筈だった。
火を点けた線香も供えると、は墓の前で手を合わせ、瞳を閉じた。

特に何を祈る訳ではない。ただ家族の雑談のように、この24時間の内にあった事を取り留めもなく報告するだけだ。
聞いて欲しい事が沢山ある時には何十分でもこうしているし、忙しかったり体調が悪かったりすれば、数分で切り上げる事もある。
花も、萎れてきたら取り替える事にしていて、毎日新しい物を持って来る訳ではない。
ただ家族が居間や食卓で他愛のない会話を交わす時のように、無理をせず、ごく自然に、同じ空間の中で暫しの時を共有する。今のにとっての墓参りはそういう意味を持つ行為、言うなれば、家族の団欒のようなものになっていた。
『会話』を終えて目を開けると、は周囲の景色を見回した。
小高い丘の上から見下ろす田園風景は、まだ青々とした夏の色をしていながらも、そろそろ微かに秋の気配を漂わせ始めていた。


「・・・・・また・・・・、夏が終わるね・・・・・」

夏の終わりは、形兆と出逢った季節だった。
これで6度目。きっと、まだまだ何度も巡って来るだろう。
巡っては過ぎてを何度も何度も繰り返しながら、形兆と生きた日々を少しずつ少しずつ、遠ざけていくのだろう。


「じゃあ、また明日ね!行ってきまーす!」

けれども、あの日々は無くならない。
虹村形兆と出逢い、魂が惹かれ合うようにして愛し合った時は、どんなに遠くなっても決して消えはしない。
人を愛する事の喜び、悲しみ、幸せ、苦しみ、全てを教えてくれたあの日々はきっと、これから先もずっと自分を支え続けてくれると、は信じていた。


巡り巡る季節を越えていったその向こうで、いつかまた、出逢う日が来るまで。




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後書き

悲しく死んでしまったキャラは沢山いますが、私の中で、形兆兄貴はその中でもダントツです。
正義の下に戦って仲間の為に死んでいったというのではなく、自分も取り返しのつかない罪を幾つも背負っていて。
でもそれは、お金欲しさや快楽を貪りたいが為ではなく、自分の家族の為で。
でもやっぱりそれは、被害者からすれば、理不尽以外の何物でもなくて。

形兆は、シーザーや花京院やアヴドゥルやイギーにはなれない。
でも、J・ガイルやアンジェロや吉良吉影でもない。
一口には正義とも悪とも言えない、どちらにも属さない、孤独で哀しい人。
でも私はそこに堪らなく惹かれて、この作品を書き始めました。
長い時間がかかりましたが、ちゃんと完結させられて良かったです。


まあ、アニメ見てたら突然降って湧いたネタを膨らませ過ぎた、というのが実情ですが(笑)。
それと、途中ほったらかしてた時間もかなり長かったのですが(笑)。


次は生存ルートのエンディングです!
もういっちょ、頑張りまっさぁ!
でもひとまず、最後までお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました!