あの悪夢のような夜以来、二人の間には深い亀裂が入っていた。
二人でいると、どうしても気まずくなる。
それでも間柴はなるべくの側にいようとしたが、はそんな間柴を頑なに拒んだ。
間柴はのその態度に次第に負け始め、とうとう一切の連絡が途切れてしまった。
黙々と仕事をし、練習をこなして、家へ帰る。
間柴はすっかりと出会う前の生活に戻っていた。
以前はこの日常を特別どうとも思わなかった。
しかし今は違う。
大事なものを失ってしまった。
を、守れなかった。
どうしてもっと早く気付かなかったのか。
どうしてあの時もっと早く駆けつけなかったのか。
しかし今更もうどうしようもない。もう遅い。
間柴は不甲斐無い自分をずっと責めていた。
心に大きく開いた穴を塞ぐ術もなく、間柴はただ毎日を機械的に過ごしていた。
淡々と仕事へ行き、終われば家に帰る。
もまた、間柴と出会う前の生活を送っていた。
しかし以前とは全く違う。
かけがえのないものを失くしてしまったのだから。
そうしたのは自分だ。
間柴はこれ以上ない程、自分を気遣ってくれた。
しかしは、間柴の優しさに甘えることが出来なかった。
あの夜、間柴はあの男に拳を使ってしまった。
そのことがもし公になっていれば、間柴の人生は取り返しのつかないことになっていた。
状況が状況だっただけに百歩譲って実刑は免れたとしても、プロボクサーのライセンスは剥奪されただろう。
もしそんな事になっていたら。
は、激しい自己嫌悪に苛まれていた。
それ故に、間柴を拒絶していた。
しかし、いつまでもこのままではいけない。
は、固い表情で二人の写真を見つめた。
練習を終えた間柴は、大急ぎで公園へ向かっていた。
しばらく連絡のなかったから、昨夜電話があったのだ。
話がある、と。
恐らく良い話ではないだろう。
しかし絶対にそうと決まったわけでもない。
間柴は僅かな希望に賭けていた。
「よお、久しぶりだな。」
「久しぶり。急に呼び出してごめんね。」
「別に構わねぇよ。」
公園に着いた間柴は、先に来ていたに声を掛けた。
は案外と落ち着いており、うっすらと笑顔すら浮かべていた。
これなら大丈夫かもしれない。
間柴の期待が高まる。
しかし、の口から出たのは。
「別れて欲しいの。」
やはりか。
嫌な予感が的中した。
「・・・・・何でだ」
「もう了の側にいられないから。」
「だから何でいられないんだ」
「これ以上一緒にいたら、私また了にどんな迷惑掛けることになるか分からない。そんなのは嫌なの。」
予想に反して淡々と喋るに、間柴はうろたえた。
「迷惑じゃねえって言ってんだろが!」
「迷惑よ。私、もう少しで了の人生台無しにするところだった。このまま一緒にいたら、本当に取り返しのつかないことになるかもしれない。」
「んなもんどうでもいい!勝手に決め付けるな!」
「どうでも良くないわ。了の人生を狂わせるなんて出来ない。」
「ごちゃごちゃうるせぇ、もう黙れ!」
「もう決めたの。お願い、分かって。」
「分かってたまるかよ!」
「本当にごめんなさい。もう、二度と会わない。元気でね。」
「おい!待て、おい!!」
間柴の呼びかけに振り返ることなく、は去っていった。
少しの迷いもなく、凛と背筋を伸ばして。
の後姿からは、自分を拒絶する空気が流れている。
別れを切り出された時、もしが泣いたり喚いたりしていたら、何と言おうが己の気持ちを貫くつもりだった。
しかし、は終始冷静だった。
固い意思が表情に表れていた。
本気で二人の関係を終わらせるつもりなのがはっきり分かった。
だからあれ程取り乱してしまった。
しかしもう無理だ。
もう、は二度と振り返らない。
二度と、この手に戻って来ない。
追いかけることもままならず、間柴はその場に立ち尽くした。
不思議と心は穏やかだった。
涙すら流れない。
もちろん、別れたくて別れたわけじゃない。
出来ることなら、ずっと一緒にいたかった。
しかし、こうする事が間柴の為に出来る唯一の事だと思ったら、迷いはなくなった。
そう、これで良かったんだ。
それからほんの数日後。
は、思いもよらない知らせを受けた。