知らせを受けて駆けつけたは、警察の霊安室で物言わぬ父と対面した。
「この度はご愁傷様でした。」
案内してくれた刑事が、事務的に悔やみの言葉を発する。
は無言で頭を下げた。
一緒に来た母は、父の遺体にすがって泣いている。
「多量のアルコールが検出されました。どうやら泥酔して堤防から足を踏み外したようですね。状況から見て、恐らく事故死でしょう。」
父の死因は溺死だった。
淡々とした口調で説明する刑事の声が、遠くから聞こえるような気がした。
父の葬儀は、ごく近い親族のみの密葬で済ませた。
人の死というものは、悲しんでばかりいられるものではない。
すっかり気落ちしている母の代わりにばたばたと慌しく雑務をこなし、怒涛のような数日が過ぎた。
それからしばらくして、父の保険金が入った。
それで借金を完済し、今まで返済の為に使った金も何とか手元に戻って来た。
家に、ようやく平和が戻った。
しかし、の心には以前より大きな穴が開いていた。
何かに追われているうちはまだ良かった。
しかし全て片付いて日常に戻ってみると、言い様のない空しさがを襲った。
こんなにあっさりカタがつくなんて。
私は一体何の為にあんな思いをしたの?
何の為に了と別れたの?
途方に暮れた頭は、後ろ向きな考えしか出来ない。
しかし、死んだ人間を恨んでみても仕方がないし、失くしたものを惜しがってもはじまらない。
間柴の事を考える度、は前を向けと己に言い聞かせていた。
別れを告げられた日から、間柴はのピアノ教室の前を通らないようにしていた。
しかし、一日たりとものことを考えない日はない。
何度も電話しようとした。
何度も家や教室を訪ねようとした。
だがやはり出来なかった。
やっぱりこのまま忘れちまった方が楽なんだろうな・・・・。
間柴は、自棄のように『忘れろ、忘れろ』と心の中で繰り返す。
元々ずっと一人だった。
かけがえのない存在といえば妹だけで、他の人間はどうでも良かった。
女に溺れた事なんて一度もなかった。
あんなに愛してしまったのがどうかしていたのだ。
あんなに、愛してしまったのが・・・・
の事を忘れようと己の中で繰り返す思いに、間柴ははっと胸をつかれた。
そうだ、あんなにも愛していたんだ。
そして今も。
そう思った瞬間、間柴の迷いは去った。
別れを告げた時のと同じような固い意思を秘めた表情で、間柴は家を飛び出した。
間柴と別れた後も、は毎日あの道を通っていた。
まだ完全に忘れられたわけじゃない。
せめて思い出に浸るぐらいいいだろう。
まるで言い訳のように自分に言い聞かせ、もう二度と二人で帰ることのない道をは毎日一人で通り続けた。
我ながら勝手なものだ。
自分から別れを切り出したのに、まだ未練があるなんて。
は、未練がましく以前の習慣を続ける自分を自嘲する。
しかし人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではない。
間柴を想って泣くことはなくなっても、彼を求める気持ちはまだある。
本当に思い切りがつくまで、今は自分の気持ちのままに行動しよう。
それが散々悩んで出したの結論だった。
最後の生徒が帰り、いつも通りに帰途につく。
少しずつ移り変わる季節の色以外、何も変わることのない景色の中を一人で歩く。
もしここに彼がいたら。
この道を通る度、儚い望みが湧き上がる。
そんな事は有り得ないのに。
きっと今日も昨日と同じで、身勝手で馬鹿馬鹿しい考えを哂いながら家に着くのだ。
そう、今日も明日も明後日もきっと。
奇蹟でも起こらない限り・・・・
「何シケた面してやがんだ。」
「了・・・・・!」
なんでここに・・・・?
は我が目を疑ったが、自分の前に立っているのは紛れもなく間柴本人であった。
「なんで・・・・?」
「お前に言いてぇ事があってよ。好き勝手言われたまんまじゃ納得いかねえからな。」
驚きの余り目を見開いて立ちすくむを見下ろし、間柴は眉根を寄せながらボソボソと呟く。
「お前、俺の人生狂わせたくないっつってたよな?」
「・・・・うん。」
「けどな、俺の人生はとっくに狂ってるんだよ。」
間柴の顔が更に険しくなる。
「お前に惚れた時から、俺の人生狂ってんだよ。だから今更もうこれ以上狂いようねえんだよ。」
「え・・・・?」
「『これ以上迷惑掛けたくないから別れる』だ?勝手ばっかり言ってんじゃねえぞ?」
「了・・・・・」
「お前に俺の人生をどうこう言われる筋合いなんざねえ。俺は俺の思った通りにする。」
「了、私・・・・」
何事かを言おうとしたを、間柴は強く抱き締めた。
そして揺るがない意思の宿った声で、はっきりと告げた。
「俺の側に居ろ。」
奇蹟が・・・・・起きた。
「・・・・返事は?」
「・・・・・・・はい。」
もう離れたくない。
もう離したくない。
再びスタートラインに立つ二人を、柔らかく明るい月だけがそっと見守っていた。