悪魔の涙 9




翌日は、朝から陰気な空模様だった。
そのどんよりと陰鬱な曇天の下、ジャギに殺された女の葬儀はしめやかに、かつ人目を忍ぶようにして行われた。
ジャギの目に触れるのを恐れての事である。
殺された女は、長老の血縁者だった。
本来ならば村をあげての盛大な葬送を執り行うところだが、村人達はジャギの不興を買う事を恐れて、
彼とその一党がまだ眠っている午前の内に、村の外れでひっそりと彼女を葬る事にしたのだ。
長老一族は勿論の事、村中の全ての人間が彼女の死を嘆き悲しんだ。
間もなく結婚する筈だった婚約者も、荼毘に付す直前まで彼女の亡骸に縋って涙を流していた。
皆、声を殺して、ジャギの目を気にしながらも、幸福の蕾が今にも花開かんとしていた娘の死を悼んでいた。



「・・・・・・・・・」

その様子を、は部屋の窓から見つめていた。
ベッドの中でまだ眠っているジャギを起こさないように、カーテンの隙間からそっと覗き見る事しかには出来なかった。
葬儀への参列を許されなかったのだ。
参列はしなくて良いから、万が一にも葬儀の邪魔をされないよう、何でもしてあの男を
部屋の中に引き留めておけというのが、長老から下された命令だった。
分厚い雲を目指して立ち昇っていく煙を見つめながら、は昨日に戻りたいと願った。
時間を巻き戻せたら良いのにと、虚しく望んだ。
昨日の自分がした事の何もかもが愚かしく思えて、悔まれてならなかった。
何度も何度も、同じ事を繰り返し考えては後悔し続けていた。
何故、彼女のドレスに袖を通してしまったのか、
幾ら貸し与えられた物とはいえ、何故、人の大切な物を取り上げてしまったのか、と。
それを着る位ならば裸で居るとどうして言えなかったのか、
側女らしく、裸のままで彼をずっとベッドに繋ぎ留めていれば、きっとこんな事にはならなかったのに、と。
何度繰り返し悔やんでも、全てがもう手遅れだったが。



― あんたみたいな女が、人並みに愛だの恋だの言って良いと思ってるの?


― あんたみたいな女が、人並みに幸せを掴めると思ってるの?



昨夜の彼女の言葉は、棘のようにの心に刺さったままだった。
人並みに幸せを掴めるとは、自分が幸福の物語の主役になれるとは思っていなかった。
ただ、少しだけ夢を見てしまった。
救世主の庇護を受けて、村はいつまでも平穏安泰で。
その片隅で、静かに生きていけたら、と。
彼の伴侶になれるとは思っていない、その内飽きられても仕方がない。
ただこの村に居て、居続けて、時々気が向けば笑い掛けたり声を掛けてくれれば良い。
それだけで、それを支えに生きていける、そう思っていた。
それならば、その位ならば、望んでも良いだろうと思っていた。

だが、それも間違いだったのだろうか。
それとも、彼を救世主だと思う事が間違っていたのだろうか。
殺された彼女の言った通り、彼は救世主ではなく、村を乗っ取った只の賊なのだろうか。


― ごめんなさい・・・・・・

悲しみに暮れる村人と空に還っていく彼女を見つめながら、は心の中でひたすらに詫びた。













が弔問を許されたのは、その夜の事だった。


「失礼します、長老。です・・・・・・。」

酒宴の席を中座して、は長老の住まう小屋を訪ねて来た。
女給が持って来た伝言のメモに書かれていた通り、化粧を直してくると偽って。


「済みません、遅くなりまして・・・・・。」
「おお、来たか、。待っていたぞ。」

は長老の目の前で跪き、床に伏して詫びた。


「本当に・・・・・、申し訳ありませんでした・・・・・・・・。」

昨夜の件については、彼女がジャギの顔の傷を見て思わず怯えてしまい、彼の怒りを買ったと説明していた。
実際には怯えただけではなく、口汚く侮辱していたのだが、そんな事はの口からはとても言えなかった。
長老の血族を悪く言うような事など、どうして出来ただろうか。
に出来る事は、昨日も今日も、こうして只々伏して謝る事だけだった。


「私、何とお詫びすれば良いか・・・・」
「その話はもう良い。済んだ事は仕方があるまい。」

しかし長老は、の謝罪を遮った。


「そんな事の為にお前を呼んだのではない。お前にやって貰いたい事があるのだ。」

切羽詰まった表情の長老を見て、は身構えた。


「・・・・・・何でしょうか・・・・・・?」

呼び出しの伝言を受け取った時からそうではないかと思っていたが、やはり弔問は単なる口実のようだった。
精一杯平静を装いながらも、内心では逃げ出したくて堪らなかった。
出来る事なら、今すぐここから逃げ出してしまいたい。何も聞きたくない。
そう思いながらも、は長老が口を開くのをその場でじっと待っていた。


「あの男を、ケンシロウを殺せ。」

程なくして、薄々予感していた通りの命令が、に下された。



「これを寝酒にでも仕込んで、あの男に飲ませるのだ。」

長老は、言葉も無く立ち尽くしているの手に、液体の入った小瓶を握らせた。


「毒矢用の毒薬、これが最後の一瓶だ。くれぐれも無駄にせぬようにな。」

の掌の中にでも簡単に隠し持てるような小さな瓶だが、この中に入っている液体は猛毒の毒薬である。
これを飲めば、幾ら人並み外れた強さを誇る男と言えども死ぬ。
仮に早く気付いて致死量を飲むに至らなかったとしても、只では済まない。
半死半生の状態になり、とても反撃など出来ないだろう。
そう、幾ら彼でも。


「・・・・・・こんな・・・・こんな物が・・・・・、ケンシロウ様に通用するでしょうか・・・・・。
お酒に混ぜたとしても、すぐに気付かれるのでは・・・・・・・」

は微かに震える声で、独り言のようにそう呟いた。
しかし長老は、怖気付くなと言わんばかりにを厳しい目で見据えた。


「絶対に気付かれんように、何としてでもやり遂げて貰わねば困る。お前の命を懸けてでもな。
それが、お前があの娘に出来る唯一の償いだと思え。」

は、ジャギの姿を思い浮かべた。
毒を飲まされ、のたうち回って苦しむジャギの姿を。
彼の、恨みがましげに血走った眼を。


「好き放題飲み食いされるせいで、武器弾薬は底をついたまま、村の修復も思うように進まん、
それだけでも耐え難いのに、儂の姪まで・・・・、尊い人命までもが奪われたのだ・・・・!
これまでは黙って従ってきたが、もうこれ以上あの連中を野放しにはしておけん!
だがあの男は強すぎる、まともに立ち向かっても勝ち目が無い・・・・・!」

だが、に選択の余地は無かった。


「せめてあの男だけでも始末出来れば、残りの連中は何とでもなる。
、分かるな?村の命運は、お前にかかっているのだぞ・・・・・!」

肩を掴む長老の手を払い除ける事は、には出来なかった。
毒に悶絶するジャギの姿を想像しながらも、それでも尚、長老の命令に背く事など出来なかった。
毒の小瓶を握らされ、はジャギの待つ館に戻らされた。
広間では、まだ酒宴が続いていた。
いや、『続いていた』どころではない。が抜け出して来る前よりも更に一層の盛り上がりを見せていた。
昼の間にたっぷりと睡眠をとっていた男達は、どれだけ飲んで騒いでも一向に疲れを見せず、
時間が経てば経つ程ますます良い調子で酔いどれていく。
だが、暫くすると、ジャギは一人で先に部屋に引き揚げていった。
むさ苦しい男達のどんちゃん騒ぎに飽きてしまったようだった。
それに彼は、顔を隠すヘルメットのせいで、人前では殆ど何も口にしない。
他人が飲み食いする様をずっと眺めているだけでは、いい加減、辛抱しきれなくなるのも当然だった。
ジャギは引き揚げる間際、に酒の支度を命じていった。
はその命令に従い、台所で酒の支度をした。
ブラックペッパーの効いたスパイシーなチーズとジャーキー、そして琥珀色した芳しいウイスキー。
いずれも彼の好物で、そして、これが最期の酒になる。


「ケンシロウ様・・・・・・・・・」

は傍らに置いてあった小瓶を手に取り、暫しの間、それを思い詰めた表情で見つめていた。





















が部屋に戻ると、ジャギは椅子に腰を掛け、テーブルに足を上げた状態で、
機嫌が良さそうにのんびりと葉巻を燻らせていた。
そしてと、の持っているトレイを目に留めると、ニッと口の端を吊り上げて見せた。


「お待たせしました。」
「フン。気が利くじゃねぇか。」

トレイに載っているものが自分の好物ばかりだと分かると、ジャギは益々上機嫌になった。
そして、テーブルから足をどけると、トレイをそこに置かせ、にも座るよう椅子を勧めた。


「お前も付き合えよ。」
「はい。頂きます。」

が微笑んで素直に頷くと、ジャギは自らウイスキーの瓶を取り上げ、慣れた手付きで水割りを作り始めた。
酒は少なめに、水は心持ち多めに。
まだ酒に慣れていないの為に、わざと薄く作っているのだ。
はそれを、黙って見つめていた。


「ほらよ。」
「有り難うございます。」

出来上がった水割りをに渡すと、ジャギはもう一つのグラスに手酌でなみなみと酒を注いだ。
それを見届けてから、はジャギに笑いかけた。


「乾杯しましょう、ケンシロウ様。」
「フッ。おう、良いぜ。何に乾杯する?」
「ケンシロウ様に。」

はそう言うと、ジャギに向かってグラスを掲げて見せた。
するとジャギも、愉悦の笑みを口元に湛えながら、同じようにグラスを掲げた。


「・・・・に。」
「乾杯。」
「乾杯。」

チン、と小気味良い音をさせて、グラスが触れ合う。
はジャギの作ってくれた水っぽい水割りを、ゆっくりと味わいながら飲んだ。
二人差し向かいで飲む最後の酒の味を、しっかりと噛み締めながら。


「あぁ・・・・・、美味ぇ・・・・・!」

ジャギはストレートのまま、たった一口でグラスの中身を飲み干してしまっていた。
美味そうに喉を鳴らし、満足げな溜息を吐いている。
その様子を見つめながら、は静かに、しかしきっぱりと、告げた。


「・・・・・そのお酒には、毒が入っています。」

その刹那、それまで二人を包んでいた甘い空気は一変した。


「・・・・・・・・・何だと?」

ジャギの顔には、つい今しがたまでの上機嫌な笑みはもう欠片も残っていなかった。


「テメェ、何のつもりだ?」

ジャギは油断なくを見据え、唸るように低く呟いた。
殺気さえ見て取れるその険しい眼をまっすぐに見つめて、は答えた。


「毒を入れる、事になっていました。だけど、入れませんでした。」

は服のポケットから毒の小瓶を取り出し、テーブルの上に置いて見せた。


「・・・・・・どういう事だ?」
「お願いがあります。夜が明ける前に、部下の人達も連れてこの村から出て行って下さい。
決して村に危害を加えずに、誰も傷付けずに、黙って出て行って下さい。」

は穏やかにそう告げた。
自分で思っていたよりも、落ち着いて言えた。


「・・・・・・命を助けてやる代わりに条件を呑め、ってか?随分馬鹿にされたもんだなぁ。」

当然の如く、ジャギは腹を立てていた。
誰よりも強く、誰よりも傲慢で、誰よりもプライドの高い男なのだ。
小娘に命を助けられて、更にその恩を着せられるような要求をされて、彼が平気で居られる筈はなかった。
そんな事は、最初から百も承知していた。


、テメェいつから俺にそんな事言える立場になった?
ちょっとばかし可愛がられた程度で、この俺様を手玉に取ったつもりか?小娘が、勘違いしてんじゃねぇぞ。」
「お気を悪くさせたなら謝ります。気が済まないのなら、どうぞ私を殺して下さい。
だけど、村の人達を手にかけたり、村を荒らしたりするのはどうか、どうか・・・・・!」

は、怒りを露にするジャギの足元に平伏し、額を床に擦りつけて懇願した。
それがに出来る最大限の事で、が表現し得る精一杯の感情表現だった。



「・・・・・・お前、何故そこまでする?」

すると、の頭上にジャギの声が投げ掛けられた。
怒るでも嘲笑うでもない、呆れるでもない、何処か物悲しげな、痛ましげな声だった。


「お前が思ってる程、村の連中はお前の事など案じちゃいねぇと言っただろうが。
その証拠がこのザマだ。お前はこうして、この俺を消す役を押し付けられてる。」
「・・・・・・・」
「ヒットマンってのはな、命の保証は無ぇのが相場だ。相討ちでも御の字、下手すりゃ
返り討ちに遭ってテメェが殺される破目になる。ましてお前が俺を狙うってんなら、100%、
いや、1000%返り討ちだ。それ位、村の連中だって重々承知の筈だ。
つまり連中は、お前がしくじって死んだって構わねぇと思ってるって事だぜ?」
「・・・・・・・」
「なのに何でそこまでしてやる?何でそうまでしてこの村を思う?」

ジャギの言う事が分からないではなかった。
むしろその通りだと、自身思っていた。
だが、ジャギに同調する事は、には出来なかった。


「・・・・そうかも知れません。だけど、それでも・・・・・、やっぱりここが、私の居場所なんです。」

は頭を上げ、ジャギの顔をまっすぐに見上げてそう言った。


「確かに、私は蔑まれています。憎まれています。私なんて、只の憂さ晴らしの道具かも知れません。
だけど・・・・・・、だけどあの人達は、それでも私の面倒を看てくれました。」
「・・・・・・・・・」
「たとえ単なる労働要員だとしても、私を引き取って、食べさせて、ここまで育ててくれました。
他に行くあてのなかった私に、居場所を与えてくれました。
ここに置いて貰えなかったら、この村がなかったら、私は今頃どうなっていたか分かりません。」

ジャギの言う事は真理だった。
だが、自身の考えもまた、真理だった。


「だから・・・・・お願いします・・・・・・・。
ここには、この村には・・・・、危害を加えないで下さい、お願いします・・・・・・・・!」

は再び、伏して懇願した。
己の中の真理に従って、己の大切なものを守る為に。



「・・・・どのみち、長居をするつもりはなかった。」

やがて、ジャギがポツリと呟いた。


「俺達は、一つ所に長くは留まらねぇんでな。」
「え・・・・・?」
「お前も来るか?お前が望むなら、一緒に連れて行ってやっても良いぜ。」

はおずおずと顔を上げた。
そこには、仏頂面をしたジャギが立っていた。
何となく、僅かに目線を逸らして、口元は何だか決まりが悪そうに引き結ばれて。
傲慢でプライドの高い男が、小娘に負けて折れてくれたのだ。
あまつさえ、可愛げのないその小娘の身を案じてくれている。
そう思うと、の顔に自然と微笑みが広がった。


「・・・・・私がついて行っても、きっと私はケンシロウ様の足手まといにしかなりません。」
「俺の側に居たいとは思わねぇのか?」
「ケンシロウ様は、ずっと私の側に居て下さるんですか?
私をお嫁さんにして、一生ずっと私だけを愛して下さるんですか?」
「えっ・・・・・・」

己のプライドを折って引き下がってくれた優しさが、嬉しかった。
突然重たい質問を受けて思わず言葉に詰まる正直さが、愛おしかった。


「・・・・・ふふっ、でしょう?」
「い、いや、まあ、それはその、だな・・・・・」
「ふふふっ、良いんです別に。冗談です。お嫁さんにして貰えるなんて、最初から思っていませんから。」
「う、て、テメェ・・・・・!」
「でも、お言葉に甘えて連れて行って貰ったとしても、私には一人で生きていく力はありませんから。
だから、いずれケンシロウ様が私に飽きても、私はしつこくしがみついて、鬱陶しく追い縋ってしまいますよ。」

彼に出逢えて嬉しかったから。
彼が愛しいから。
だから今、ここで。
大好きな彼を困らせないように、笑顔のままで。


「だけど、そんな風にケンシロウ様を困らせたくはありません。
お荷物になって、嫌われたくありませんから。」

はそう言いながら、ジャギににっこりと微笑んでみせた。




「・・・・・お前、今何がしたい?」

少しの沈黙の後、先に口を開いたのはジャギの方だった。


「え?」
「最後の夜だ。お前のしたい事に付き合ってやる。」

の意図は、ジャギにも伝わったようだった。
伝わって、そして、ジャギもそのつもりになったという事だった。
『最後の夜』という言葉に押し負けないよう、は務めて笑顔を作り続けた。


「・・・・・・じゃあ、また、ダンスがしたいです。ケンシロウ様の歌で。」
「・・・・・良いぜ。」

差し出された手を取ると、ふわりと引き起こされた。
そのまま腕の中に抱き入れられて、はゆっくりと揺れ始めた。
あのメロディーが、低い声で紡がれ始める。
ラストダンスに相応しい、甘く気だるいスローテンポの三拍子。


「・・・・・・出来る事ならずっと・・・・この村の救世主でいて欲しかった・・・・・・・・・」

本当は、『いつかまた来て下さい』と言いたかった。再会を願い、約束したかった。
だが、それは出来なかった。
仮にジャギ達が再び村に来る事があったとしても、もはや彼等は招かれざる客、救世主にはなり得ない。
が夢に描いたようには、決してならないのだから。


「ずっと・・・・、この村に居て欲しかった・・・・・・・・」

ジャギの胸に頬を寄せながら、は呟いた。
それは独り言のような小さな呟きで、ジャギの耳に届いたのか届かなかったのか、返事も返ってこなかった。
それきり、言葉はなくなった。
ただ、ジャギの口ずさむ古いジャズのメロディーだけが、室内に小さく、切なく響き続けた。
いつまでも、いつまでも。




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後書き

ようやくここまで来ました!
次回が最終回になります。
あともう少し、宜しくお付き合い下さい!