夜明け前の村は、暗く、静かだった。
何十人もの人間が間違いなくここで生活しているのに、まるで誰も住む人の居ない廃墟のような静寂を感じさせる。
だが、もう間もなくして夜が明ければ、また人々は目を覚ます。
そして、各々の仕事に精を出すのだ。昨日と同じく、今日もまた。
そう。
この村には今日もまた、昨日と同じ一日がやって来る。
唯一違うのは、昨日まで居座っていた『救世主』の一味が忽然と姿を消しているという事だけで。
― あばよ、。
ジャギは最後にの寝顔を一瞥し、それから踵を返した。
別れを告げる気はなかった。黙って出て行ってくれと言われたからそうしてやるのだ。
・・・と、思いたいところではあったが、実のところは違っていた。
他ならぬジャギ自身が、と向き合うのを躊躇っていたのだ。
を起こして別れなど告げようものなら、泣かれてしまうかも知れない。それが嫌だった。
この世で女の涙ほど面倒くさいものはないのだから。
偶々通り掛かった村で、ちょっと面白い女に出会った。
卑屈な自己犠牲の精神が多少鬱陶しくはあるが、吃驚するぐらい純情で、健気で、今までに居なかったタイプだった。
とにかく珍しかったし、顔も身体もそう悪くはなかったので、まあまあ気に入って可愛がってやった。
ただそれだけだ。
お嫁さんにしてくれなどと言われても、嬉しいどころか困惑の一言に尽きる。
大体、『お嫁さん』という言葉からして、何とも間の抜けた響きだ。
幼稚な小娘の恋愛ごっこにズルズル付き合っていると、その内とんでもないお荷物になりかねない。
だから、これで良いのだ。
「・・・・・・・・・・」
ジャギは黙ったまま、静かにドアを開けた。
その時。
「ケンシロウ様・・・・・・・・・!」
背後から、の声が飛んで来た。
ジャギはその場に立ち止まったまま、うんざりと溜息を吐いた。
「ケンシロウ、様・・・・・・・・」
予想通り、は泣いていた。
ほんの数時間前に自分からあれだけ毅然と別れを切り出しておいて、今更になって泣くなんて、自分勝手にも程がある。
しかも、名前まで間違っている。
「・・・・・・・その名で俺を呼ぶな」
「え・・・・・・・?」
はきっと、思いもしていないだろう。
何の疑いもなく信じて呼んでいたその名が、まるきり別の、しかもジャギにとって
殺しても殺し足りないほど憎い男の名前だったとは。
「俺の名は・・・・・・・・、俺の本当の名は、ジャギだ。」
「ジャ・・・・ギ・・・・・・・」
案の定、は泣くのも忘れて呆然としているようだった。
「・・・・どういう・・・・事・・・・ですか・・・・・」
「お前には関係のねぇ事だ。」
その理由を、事情を、説明する気はなかった。
別れの直前にグダグダ長話する男など、みっともないとしか言い様がない。
それに、もう二度と会う事もないのに、そんな込み入った話を聞かせてやる必要などなかった。
はこれから、違う男と本当の恋をする。
自分もこれから、また何人もの女を抱く。
だから。
「もう忘れろ。俺の名も、俺と過ごした時間も、何もかもな。」
何もかもを終わらせて、ジャギは立ち去ろうとした。
だが。
「・・・・貴方がケンシロウ様でもジャギ様でも!」
の叫びが、ジャギの歩みを止めた。
「貴方は・・・・、私が初めて愛した人です・・・・。だから私・・・・、忘れません・・・・・・・・。」
今、はきっと、酷い顔になっているだろう。
子供みたいに泣きじゃくって、出逢った時の小汚い小娘に逆戻りしているに違いない。
恋愛の作法も、男女の駆け引きも、何一つ知らない幼稚な小娘の、
一丁前な殺し文句を背中で聞きながら、ジャギは微かに笑った。
「きっと・・・・・、忘れませんから・・・・・・・・・!」
そしてそのまま、決して振り返る事なく出て行った。
村を出たジャギは、一味を引き連れて荒野を走った。
何処でも良いから、何処かうんと遠くの、何かパッと気分の変わるような、新しい町に行きたかった。
だというのに。
「・・・・・故障だと?」
まだ幾らも走らない内に、ジャギのバイクが突如、故障したのである。
「テメェ・・・・・・、どういう事だ?」
「ひぃっ・・・・!もももも、申し訳ありません!!!」
荒野の砂に顔を擦りつけて詫びる手下の後頭部を、ジャギはグリグリと踏みにじった。
「整備はしてたのか?」
「ひひぃっ・・・・、す、すみません・・・・・・!!こここ、殺さないで・・・・・・!!」
「してたのか?してなかったのか?」
「・・・・・し・・・・・、して・・・ません・・・・でした・・・・・・」
消え入りそうな頼りない声で答える手下に、ジャギは大きな溜息を零した。
すると手下は、必死になって弁解を始めた。
「ま、まだ出発する気配がなさそうだったので・・・・・!
だ、だけど今日、今日やろうと思ってたんです!本当です!」
下手くそなその言い訳は、ジャギを酷く苛立たせた。
「・・・・俺のマシンはデリケートなんだ。整備は怠るなと言っといた筈だろう?」
「ひっ・・・・!」
「いつ出発するかは俺の決める事だ。お前じゃねぇ。」
「い、いや・・・、ジャギ様・・・・・!」
「この役立たずが。」
「いやああぁぁぁあばわっ!!」
苛立ちに任せて手下の頭を踏み潰してから、ジャギは残りの手下達全員に向き直った。
「おい、早く直せ。」
「へ・・・・へいっ・・・・・!」
「す・・・、すぐに直します・・・・・!」
仲間が始末されるのを目の前で見ていた手下達は、揃って青ざめながらジャギのバイクに駆け寄っていった。
ところが、これが意外と難航した。
どうやら部品を交換せねばならないという事が判明したのだが、その部品がこんな荒野の真っ只中にある筈もなく、
それを取る為に手下のバイクを分解するところから始めなければならなくなったのだ。
「チッ・・・・・、冗談じゃねぇぞオイ・・・・・・・」
砂漠のど真ん中で、汗だくになってバイクを分解している手下達を少し離れた場所で眺めながら、
ジャギは独り言ちた。
こんな所で立ち往生なんて、全くついていない。
だからと言って、修理すれば直る愛機をこんな砂漠に乗り捨てて行く事など考えられなかった。
ましてや、の村に引き返す事など。
「・・・・・くっそ・・・・・・!」
引き返すどころか、さっさと行ってしまいたいのに、何故こんな所で足踏みしないといけないのか。
こんな所でグズグズしているのが知れたらと思うと、気が気ではなかった。
そんな格好の悪い事だけは断じて避けねばならない、断じて。
「まだ直らねぇのか!?テメェらさっさとしねぇと・・」
全員ぶっ殺すぞ、と怒鳴りかけたその時、ジャギの視界の隅に砂煙が小さく見えた。
「ん・・・・・・?」
風が砂塵を巻き上げたのかと思ったが、違う。
「おい、双眼鏡よこせ。」
「へ、へいっ・・・・・!」
手下が怖々と差し出してきた双眼鏡をひったくって、ジャギは砂煙の方角を注意深く観察した。
すると、もうもうと上がるそれに混じって、バイクに乗った野盗のような男達の姿がちらほらと見えた。
その連中が、の村の方角に猛スピードで駆け抜けていく様子が。
「・・・・・・・・・」
一瞬、嫌な予感がした。
「・・・・・・・・貸せ!!」
「あっ、ジャ、ジャギ様!」
「どこ行くんですか!?」
ジャギは側に居た手下からバイクを奪い取ると、連中の後を追って走り出した。
つい今しがたまで悶々としていた事など、一瞬で吹き飛んでいた。
ただ、一瞬感じた嫌な予感が当たらなければ良い、それしか考えられなかった。
違えば良い。
そうでなければ良い。
祈るような思いで、ジャギはの村に引き返した。
だが。
「うっ・・・・・・・・・!」
悪魔の祈りは、神に届かなかった。
の村は野盗の襲撃を受けて、今まさに壊滅せんとしていた。
目の前に広がっている地獄の光景に、ジャギは言葉を失った。
「・・・・ちっきしょう・・・・・・・」
不気味に立ち昇る黒煙。
陥落を物語るように無防備に開け放たれた門と、破壊され崩れ落ちたバリケード。
そして、血塗れの死体、死体、死体。
「・・・・・・・・・」
恐らく、いつかのように迎撃したのであろう。
だが、敵わなかった。村はそんな様子だった。
最前線を守っていたのであろう村の男達が何人も、崩れたバリケードの周辺に散らばり、
それぞれに苦悶や無念の形相を浮かべて絶命していた。
「・・・・・・、はどこだ・・・・・・・」
男共などどうでも良い。
ジャギが気になるのはただ一人、だった。
「・・・・・・・・!」
の姿を求めて、ジャギは村に踏み込もうとした。
その時、累々と横たわる男達の死体の中に、女を一人、見つけた。
「!!」
だった。
「!!」
ジャギはすぐさま駆け寄り、を抱き起こした。
はまだ息があり、ジャギが抱き起こすと、苦しげに睫毛を震わせた。
「しっかりしろ、!」
「・・・・ケン・・・・シロ・・・・・・さま・・・・・?」
「そうだ、俺が分かるか!?」
薄らと目を開けたは、儚げに微笑んだ。
「そ・・・だ・・・・、ごめ・・・さい・・・・・、ジャギ様・・・・でした・・・ね・・・・・」
「んな事ぁどうでも良い!!良いか、気をしっかり持てよ!すぐに助けてやるからな!」
ジャギがそう言うと、は僅かに力なく首を振った。
「私は・・・・い・・・・ですから・・・・・、村を・・・・・村、を・・・・・」
「何言ってやがんだ!」
「今、村には・・・・・・、ろくな武器が、ないから・・・・・・、このまま、だと・・・、皆・・・・」
はジャギに縋り付くようにして、息も絶え絶えに訴えた。
「お願い・・・・、村を・・・・・、村を・・・・・護って・・・・・・!」
本物だったのだ。
この村を大事に思う気持ちも、ここで生きていくという決意も、の思いは全て本物だった。
ちょっとやそっとの好意でそれを翻させる事など、不可能だったのだ。
血と埃に塗れ、涙を浮かべて懇願するの姿に、ジャギはそう思い知らされた。
「・・・・心配すんな。この俺様が戻って来たからにはもう大丈夫だ。
あんな連中、3秒とかからずに叩き出してやる。だから、まず先にお前の手当てだ。」
ジャギが諭すように言うと、は浅い呼吸を繰り返しながら、心細そうな眼差しでジャギを見上げた。
「私・・・・、助かる・・・んですか・・・・・?」
「馬鹿。お前、この俺様を誰だと思ってんだ?」
ジャギは余裕と自信に満ちた声でそう答えると、おもむろにの身体のある一点、
経絡秘孔を突いた。
「ぁ・・・・・・・」
「どうだ?痛くなくなってきただろう?」
は小さく頷いた。
苦痛に歪んでいた表情もみるみる内に和らいで、あっという間に穏やかになった。
「血も止めた。もう大丈夫だぜ。」
「凄・・・・い・・・・・・・」
「この俺様の奥義をもってすれば、この位、造作もねぇ事だ。」
ジャギはの乱れた髪を優しく梳りながら、堂々と言ってのけた。
これから死にゆくに、たとえ欠片程の不安も抱かせたくなかったのだ。
実のところ、はとても助からない状態だった。
致命傷を負っており、出血も多すぎた。
遅かったのだ。
今のジャギに出来る事といえば、死の苦痛を感じないようにしてやる事、
そして、偽りの安心感を与えてやる事ぐらいしかなかった。
「やっぱり・・・・・、貴方は・・・・・・、救世主・・・・だった・・・・・」
そんな嘘で塗り固めた優しさを、は喜んだ。
嬉しそうに微笑んで、力の入らない腕を一生懸命に持ち上げ、ジャギの冷たい鉄仮面に触れた。
「・・・・・・・」
「ジャギ様・・・・・・・、貴方は・・・・・私の・・・・・、救、世・・・主・・・・」
そして、野の花が開いたような微笑みと共に、の腕が滑り落ちた。
「・・・・・、・・・・・・?」
その呼びかけがもう届いていない事は、分かっていた。
何度呼びかけようとも、どれ程強く抱きしめようとも、にはもう何も届かない。
そうと分かっていながらも、ジャギは暫し、を抱きしめたまま動かなかった。
動こうにも、動けなかった。
「・・・・・・・うるせぇなあ、ドンパチドンパチよぉ・・・・・・」
そうしている間にも、騒ぎはどんどん大きくなる一方だった。
爆音、銃声、村人達の悲鳴と野盗共の高笑い。
その全てが、許し難いほど耳触りだった。
ジャギにとっては、そのどれもがの眠りを妨げるノイズでしかなかった。
「待ってろよ、。今、うるせぇ蠅共を叩き潰してきてやるからよ・・・・・」
ジャギはをそっと地面に横たえると、村の中へと踏み込んで行った。
そこには、村の入口付近よりもなお酷い地獄絵図が広がっていた。
だが、それも当然だった。
戦える男達は殆どが最前線で死に絶え、残ったのは女子供と年寄りばかり。
そんな非力な連中に何が出来ようか。
だが、そんな事はジャギには関係のない事だった。
目の前で死んでいる子供や年寄りにも、向こうで薄汚い男達に群がられている女にも、憐憫の情など欠片も湧いて来なかった。
ジャギは足元に転がっている数々の死体を跨ぎ蹴散らしながら、我が物顔に暴れ回っている野盗共だけを見据えて進んで行った。
「あぁん!?何だぁテメェ!?」
「どっから湧いて出やがった!?」
「何とか言えよこラ・・、ら・・・、らべっ!!」
「なっ、何だテメェッ!?」
「い、今なにしやがった!?」
「な、何だコイツ!?う・・・、うわぁぁっ・・・・!!!」
只々、を静かに眠らせてやりたい、その一心で。
気が付くと、村には静けさが戻っていた。
誰の声もなく、何の気配もせず、時折吹く風が花壇の草花をそっと揺らすだけ。
人という人が死に絶えた無残な光景が広がっているというのに、何故か平和さえ感じさせるような静けさだった。
ジャギは村の広場の植え込みの中に、穴を掘り始めた。
掘り始めてすぐ、追いついて来た部下達が恐る恐る話し掛けてきたが、背中で追い払った。
訳も分からないままとりあえず手伝おうとする者もいたが、他の連中が慌てて止めたようで、全員そそくさと出て行った。
それっきり、また静かになった。
不思議なくらい穏やかな静寂の中で、ジャギは一人で土に塗れ、大きな穴を掘った。
そして、その中にを横たえた。
砂と埃と血に塗れた頬を綺麗に拭ってやり、植え込みの白い花を一輪、髪に挿してやった。
それから、その幸せそうな寝顔に『あばよ』と呟いて、土をかけた。
の身体が大地の腕にすっぽりと包まれた後、ジャギはその上に花を植え直した。
完全に元通りとはいかなかったが、ありったけの花を敷き詰めたそこは、この村で一番綺麗な場所になった。
これならきっと、も喜ぶだろう。
自分に微笑みかけるの顔を思い浮かべて、ジャギは僅かに口元を綻ばせた。
そこを覆い尽くす花に触れてみたくなったのは、ほんの思い付きだった。
指先で少しだけ戯れて、すぐに立ち去るつもりでいた。
最後のポーズを決めて、最期まで白馬の騎士になりきってやれた自分に満足して、終わる筈だった。
なのに、どうしてだろうか。
「っ・・・・・・・・」
突然、胸が詰まって、息が出来なくなった。
苦しくて苦しくて、堪らずに膝を着いた。
その途端に、熱いものが両の眼から溢れ始めた。
そんなものは悪魔に似合わない、お前はそんな惰弱な男ではない筈だと己を叱責するも、
どういう訳か、それは止まってくれなかった。
土に跪いたまま、その場を動かないジャギの姿を、の微笑みのような花だけが見守っていた。
冷たい鉄仮面の奥から伝い落ちてくる熱い雫をその身に浴びて、静かに揺れながら。