「ごめんなさい!ごめんなさい!」
薄暗い廊下に、の悲痛な声が響いていた。
は今にも泣き出しそうな声で、何度も何度も謝っていた。
「このドレスは、今すぐお返ししますから・・・・!」
「もう要らないわよそんな汚いもの!」
「洗いますから!今すぐ綺麗に洗ってきますから・・・!」
「幾ら洗ったって、あんたの着たものなんて着られる訳ないでしょ汚らわしい!」
女のヒステリックな叫びの後、消沈した小さな声が聞こえた。
ごめんなさい、と。
そこまで悪し様に言われてもまだ尚、『ごめんなさい』と。
「あんな化け物に取り入って、何のつもり!?あの男の力を借りて、私達に仕返しでもしようっていうの!?」
「そんな事・・・・・・!私の方がただ一方的にあの方をお慕いしているだけで・・・」
「呆れた!本当に好きなの!?あんな化け物が!?
いやだ、そんなに趣味の悪い女だとは知らなかったわ!あんなゲテモノが良いだなんて!」
一方、女の方は言いたい放題だった。
何をそこまで怒り狂っているのかは知らないが、悪口雑言の限りを尽くしてを、そしてジャギを蔑んだ。
するとは、そこで初めて反論した。
「そんな風に・・・・、言わないで下さい・・・・・。私の事はともかく、あの方の事は・・・・。
あの方は、この村を救ってくれた恩人なのですから・・・・。」
それは反論というよりは、控えめに窘めるという程度に過ぎなかったが、
ともかくは女に言い返した。
自分自身の事は、どんな言われ方をしても決して言い返さなかったのに。
「何が恩人よ、散々恩を着せて、好き放題してるだけじゃない!
この村は、あいつらに乗っ取られたのよ!
あいつらのしている事は、あの野盗達と何も変わらないわ!」
「そんな事ありません!ケンシロウ様はこの村を守って下さっています!」
女達の言い争いは、どんどん激化していく。
ジャギは気配を殺したまま、それを聞いていた。
「あの方を、野盗と一緒にしないで下さい!」
「何言ってるのよ、同じじゃない!むしろこの間のより一層性質の悪い連中じゃないの!」
「そんな事ありません!だってあの方は、この村の誰にも危害を加えていないじゃないですか!
それにこの間だって、ケンシロウ様は私の代わりに夜番まで・・」
「何よ!?」
「・・・・いえ・・・・・」
やがて、の方から先に勢いを失った。
ばれるとまずい事をついうっかり口走りそうになって、我に返ったのだろうか。
それとも、ただ相手の迫力に気圧されただけだろうか。
しかしいずれにしても、は屈服した訳ではなさそうだった。
「・・・・だけど、ケンシロウ様が居る限り、きっと誰もこの村に手出しは出来ないと思います。
あんなにも強い人は、今まで見た事がありませんから・・・・・。」
はまた声のトーンを落としながらも、女を説得するように一生懸命になって話し始めた。
「あの方に居て貰えれば、この村は安泰です。どんな敵が現れても、きっと撃退して下さいます。
それにケンシロウ様は、とてもお優しい方です。確かに、顔に傷はありますけど、でも本当は・・」
「何それ。」
しかし、女には通じなかった。
黙っての話に耳を傾けているかと思っていたが、そうではなかったらしい。
女が鼻で笑うのが、ジャギの耳にもはっきりと聞こえた。
「はいはい分かったわよ、あんたよっぽどあの男が好きなのね。
だけどそれならそれで、考えてみなさいよ。
あんたみたいな女が、人並みに愛だの恋だの言って良いと思ってるの?」
「・・・・・・・・」
「あんたみたいな女が、人並みに幸せを掴めると思ってるの?」
女の嘲笑うような声だけが、暗い廊下に響いた。
「厚かましいにも程があるわよ、死神の娘が。」
女はとどめとばかりに、そう吐き捨てた。
さっき部屋でも同じ言葉を吐いたが、死神の娘とは何なのだろう。
それを考えていると、洟を啜る音が小さく聞こえた。
「惨めなものね。あんな化け物にでも、相手にされて嬉しかった?でもいい気にならないで。
あんたは村の皆の、いいえ、この世界に生き残った全人類のお情けで生かして貰ってるのよ。
あんたは誰の目にも障らないように、ひっそり生きてなきゃいけないの。分かったわね!」
何の事かは分からないが、何の事だろうが関係無い。
を泣かせ、自分をここまでコケにしてくれた、それだけで、ジャギにこの女を生かしておく理由は無かった。
「おい女、テメェさっきからバケモノバケモノ連呼してやがるが・・・・・、そいつは俺の事か?あぁ?」
ジャギは、言いたい放題言って去ろうとした女に向かって、ゆっくりと歩み寄って行った。
「ひぃっ・・・・・・・!」
「ケンシロウ様・・・・・・!」
立ち塞がるジャギを目の前に、二人の女は顔を強張らせた。
一人は死の恐怖に、もう一人は、恐らく今から目の前で起こるであろう惨劇を予期して。
「折角に免じて許してやろうかと思ったが、やっぱやめだ。」
「ケンシロウ様、駄目・・・・・!」
は再び止めに入ろうとしたが、今度は手遅れだった。
不機嫌を通り越して、ジャギは怒っていた。
この女に対して、許し難い怒りを覚えていた。
「い・・・、いやあああっっ、助けてっ・・・・・!!!」
「死んで詫びろ、クソアマが!」
「あぐっ・・・・がっ・・・!」
ジャギは女の細い首を片手で掴むと、一息の下にへし折った。
ゴキリという嫌な音と共にへしゃげて垂れた女の首は、の方を向いており、
一瞬の内に生気を失った不気味な瞳が、をどんよりと見つめた。
「ケンシロウ、様・・・・・・・」
ジャギが女の骸を投げ出すと同時に、は膝から崩れ落ちた。
「・・・・フン」
その場に座り込み、ほとほとと涙を流すから目を逸らし、ジャギは一人で部屋に戻って行った。
のその悲しい瞳を、絶望の涙を、受け止めきれなくて。
が部屋に戻って来たのは、暫く経ってからの事だった。
無言で部屋に入って来たを、ジャギもまた、何も言わずに迎え入れた。
何と声を掛ければ良いか、分からなかったのだ。
まさかが自分の元に戻って来るとは思っていなかったから。
「・・・・・・俺が怖ぇか?許せねぇか?」
自分から一歩距離を置いたところで無言のまま立ち尽くしているに、ジャギは尋ねた。
「・・・・・ケンシロウ様のお力は・・・・、本当言うと、怖いです。
だけど、許されないのは私の方なんです・・・・・。
私がいけなかったんです、私が、身の程を弁えない事をしていたから・・・・・・」
少しの沈黙の後、は沈んだ声でそう答えた。
「・・・・お前、何であんな言われ方しなきゃならねぇんだ?」
ランプの灯りにぼんやりと浮かび上がるの寂しげな顔を見つめながら、
ジャギは更に問い掛けた。
「死神の娘ってなぁ何だ?」
「・・・・・・・そのままの意味です。私は、この世界を滅ぼした人間の娘なんです・・・・・」
この世の罪を全て背負ったような顔で、まるで懺悔でもするかのように答えるは、
ジャギの目には、やはりどこまでも平凡な娘にしか見えなかった。
どこにでも居そうな、どこに居ても目立たなそうな、只の小娘でしかなかった。
「私の父は科学者でした。出身はこの村ですが、D国の国立大学の研究所に所属していて、
父はそこで母と結婚し、私もそこで生まれました。」
「・・・・D国だと?」
D国という言葉を聞いて、ジャギは思わず訊き返した。
その国は今はもう無い、けれどあの動乱の時代を生きていた者なら誰もが知っている大国だった。
「ちょっと待て、あそこは確か・・・」
「そうです。最初に核ミサイルを発射した国、世界が滅ぶ元凶となった国です。
そして、その核ミサイルの開発責任者が、私の父でした。」
の話に、ジャギは内心で驚いていた。
それ程に、予想外の話だった。
「父の作った核ミサイルが引き金となり、世界中のあちこちで次々と戦争の火の手が上がりました。
父はそれに巻かれて亡くなり、母は死に絶えたこの世界を見て絶望し、罪の意識に耐えかねて自殺しました。」
「・・・・・・・・それで、お前一人が残ったって訳か。」
ジャギがそう呟くと、は小さく頷いた。
「生き残っても、私はまだ子供で、独りでは生きていけませんでした。
そうやって生き残った子供は他にも沢山居て、皆、放っておかれていました。
生きようが死のうが、誰も構わない、構えない・・・・。
だって、他人の子供を気に掛ける余裕なんて、誰にも無いんですから・・・・・。」
その通りだった。
当時既に青年で、北斗神拳の力も身に着けていたジャギですら、
当時は生きるか死ぬかの切羽詰まった状況に立たされていたのだから。
「でも、私は幸運でした。父の大学の同期だという人が、父の故郷だというこの村に連れて来てくれたんです。」
「って事は、お前はそれまでこの村に来た事が無かったのか?」
「はい。」
「そいつもこの村の奴だったのか?」
「いいえ。その人も家族を連れて移動するところで、丁度通り道だからと・・・・・・」
「なるほど。」
の父親の同期だというその某は、比較的親切な人間だったのだろう。
天涯孤独になった友人の子供を見捨てるのも気が引けるが、かといって自分が面倒を看る気もなく、
父親の故郷でなら引き取って貰えるだろうと、名案だと、そう考えてをここに連れて来たのだろう。
だがその某は、きっとそこまでしか考えていなかったのだと、ジャギは思った。
尤も、赤の他人に対してそれ以上の熟慮を求めるのも図々しい話だが。
「親の故郷、か。親に死なれたガキの預け先にゃ、確かにうってつけよ。
だが、お前は歓迎されたのか?」
ジャギの指摘に、は沈黙した。
その反応を見て、ジャギは己の推測が当たった事を確信した。
「・・・・やっぱりな。この辺りは戦争前からド田舎だ。
ド田舎の小せぇ村から余所の国の研究所に所属する程の科学者が出たとなりゃあ、知らねぇ奴は居るまい。
お前の親父は、この辺りじゃ昔からよぉく知られた存在だったんだろ、良くも悪くもよ。」
「・・・・・その通りです。戦争前は、神童だ、天才だともてはやされていたそうですが、戦争が起きてからは・・・」
「一変して死神扱い、か。ま、そりゃそうだな。あの物騒な国に核ミサイルを拵えてやったんだもんな。
大方、気違いに刃物持たせた張本人、みてぇに思われてたんだろ。」
「・・・・・・・・」
「身内も全員そんな感じだったのか?親父の故郷なら、ジジィだのババァだの色々居たんだろ?」
「父の身内は・・・・・、私がこの村に来た時には、もう誰も居ませんでした。
亡くなったり、出て行ったりしたとかで・・・・・。」
「・・・・・なるほど。」
それならば、この村はにとって、益々縁もゆかりもない場所だったという事になる。
しかも、元々住んでいた親族でさえ居辛くなって逃げた位なのだから、
いきなり現れた見ず知らずの娘が歓迎して貰える訳がない。
「お前、よく引き取って貰えたな。
それにお前もよ。歓迎されていないのを百も承知で、よく居座れたな。」
ジャギは呆れていた。
感心やら同情やら他にも色々、思うところはあるのだが、総括して一言で表すと『呆れる』だった。
村人達に対しても、に対しても。
「確かにここは食うには困らねぇ村だが、そいつは歓迎されてこその話だろ?
お前、ここまで憎まれて虐げられて、それでも尚・・」
「違います。それは違います。」
だが、はそれを否定した。
ジャギの声を遮って、きっぱりと否定した。
「村の人達も・・・・・、村の人達も皆・・・・・、苦しんでいるんです・・・・・。」
「・・・・・・・・・・」
「あの人達は、私や父を憎んでいる訳じゃないんです。争いを、世界を滅ぼしたあの核戦争を憎んでいるんです。
皆、ただ毎日を一生懸命に生きていただけなのに、悪い事なんか何もしていないのに、
何でこんな目に遭わなきゃいけないのか・・・・、って・・・・・・」
は、擦り切れそうなか細い声で、切々と訴えた。
「皆、本当は優しい、良い人達なんです。だから私の事も引き取ってくれたんです。
そうじゃなければ、私は今ここに居られません。だってそうでしょう?
私の事が本気で憎ければ、引き取らなければ良いんですから。
何処でなりとも野垂れ死ねって、放り出せば済む話なんですから。
何なら殺したって構わないんですから・・・・・!」
真剣に、必死になってそう訴えかけてくるを、ジャギは憐れみの目で見つめた。
「・・・・なるほど。そうやって、いつも良いように良いように解釈して、自分に言い聞かせてるって訳か。」
が憐れだった。
「お前、本当は分かってるもんなぁ。お前の事を気に掛けてる奴なんかこの村には誰も居ねぇって。
自分は単なる労働要員で、村の連中の憂さ晴らしの為の道具に過ぎないんだってよ。」
自分に都合の良いように必死で思い込もうとしているが、馬鹿馬鹿しい程憐れだった。
「本当にお前を憎んでねぇんなら、こんな扱いしねぇよ。人間以下の虫ケラみてぇな蔑み方しねぇよ。」
「・・・・・・・」
「あいつ等は別に葛藤なんてしてねぇぞ。思いっきりお前を憎んでんだよ。」
そうして無意味に耐えているが、健気すぎて苛々する。
「だがな、そいつぁ只の逆恨みだ。親父のした事とお前と、何の関係がある?
何もお前がミサイルぶちかませって命令した訳じゃあるめぇし、親父にしたって同じだろう?
全ての決定権は国のお偉方にあった、お前の親父は科学者としてただブツを作っただけ。違うか?」
違う筈はなかった。
何もの父親が諸悪の根源という訳ではない、見方を変えれば彼もまた時代の犠牲者に過ぎず、
ましては何の非も無い、純然たる被害者なのだから。
幼かった当時ならいざ知らず、今のにその事が分からない筈はない。
抜け出そうと思えば抜け出せるのに、謂れのない侮辱を甘んじて受けて、
自虐的な日々を敢えて送っているが、ジャギには理解出来なかった。
「・・・・例えば、何か重いものを抱えていたとして、思い切り投げたくて堪らなかったとして・・・・」
不意に、が口を開いた。
「そこにとりあえずぶつけられそうな的があったら・・・・やっぱりぶつけたくなりませんか?」
「あん?」
意味が分からず、ジャギは首を捻った。
すると、は微笑んだ。
「私は、その的なんです。」
優しく、微笑んだ。
「幾らぶつけたところで、怒りも悲しみも消えないけど・・・・・、
だけどそれで今日を生きる為の正気は保てる・・・・、でしょう?」
「・・・・・お前・・・・・・」
「きっと、それが私の使命なんです。」
の微笑みには、何の迷いも見当たらなかった。
躊躇いなく、疑いもなく、『使命』と言い切ってみせるに、ジャギはもう返す言葉が無かった。
「最初は、とても悲しくて、悔しくて、どうして私一人だけこんな目に遭わなきゃいけないんだろう、
私は一体何の為に生き残ったんだろうって、そう思ってましたけど・・・・・、
でも、だんだん、そう思うようになってきたんです。
村の人達だって、いいえ、この世界に生き残った人達皆、そう思っているんだ、
何でこんな世界になったのかって、やり場のない苦しみや悲しみを抱えているんだ、
私はきっと、その気持ちをぶつける的になる為に生き残ったんだ、って・・・・・・」
変かも知れませんけど、と付け加えて小さく笑うを、ジャギはじっと見つめた。
「・・・・・・お前は、それで良いのかよ?」
ようやく出た言葉は、訊くまでもない愚問だった。
案の定、は微笑んでみせた。
わざわざ言葉にして訊かずとも、どうせそうだろうと分かっていたのに。