何虧子さんと、遺族:王桂雲さん

 何虧子(何魁之)さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年8月5日「心臓弁膜症兼脚気」により24歳で死亡とされています。日本に残された資料では「何魁之」となっていました。
 何虧子さんは44年7月24日、農作業をしている最中に日本兵に包囲されて捕まえられ、日本軍の拠点で様々な拷問を受け取り調べられました。何虧子さんは当時22歳、父親と母親、14歳の妹、10歳の弟、妻、2歳の息子とまだ1歳にもならない娘と共に暮らしていました。彼の家は農作業と油を搾って加工する仕事で生計を立てていました。その一番下の娘さんが王桂雲さんで、94年9月3日付の証言をもらっています。

父が連行されて(クリックで証言へ)

 この証言は中国保定市の河北大学を通じていただいているものですが、その劉宝辰先生が98年2月12日に整理された文章の中で、鮑瑞西さんは次のように語られています。

 「何虧子は、温厚篤実で骨身を惜しまず働く農民でした。口数の少ない人で、一日に二三言も話さない日もありました。病気になっても休まず、辛抱しながら一日も早く家に帰れる日を待ち望んで、ただ黙々と働いていました。大阪で、45年のたぶん1月か2月の頃だったと思いますが、労働者たちに一度賞品が出たことがあるんです。大隊全部に対して、30足の黒いゴム靴と黒い靴下が支給されました。その時何虧子は靴と靴下と、賞品を二つも貰っているんです。それは彼が一番たくさん出勤していたからなんです」

 何虧子さんは拉致の時から大阪にいる間も鮑瑞西さんとずっと一緒でした。鮑瑞西さんは生きて故国に帰ることが出来ました。2003年3月、鮑瑞西さんは来阪し追悼会に参加しました。大阪にいる間に何虧子さんのことをたくさん語ってくれました。

何虧子の空襲被害後の経過(クリックで証言へ )

 この高潮は9月17日〜18日の枕崎台風の時と思われます。『港区誌』(56年8月15日、大阪市港区役所編)では高潮による水は「約40余日間減水せず」としています。収容所そのものが使えず西区に移転しているようです。そうした事情で鮑瑞西さんは帰国時、何虧子さんの遺骨を持って帰ることが出来ませんでした。

 何虧子さんがその後遺症により亡くなった、6月1日大空襲の凄まじさは、関西大学名誉教授の小山仁示さんが書かれた次の簡潔な文章を読んだだけでも推し量れるでしょう。

6月1日大空襲について(クリックで資料へ)

 ピースおおさか内「大阪空襲死没者を追悼し平和を祈念する場(刻の庭)」(05年完成)にある大阪での空襲犠牲者の名を刻むモニュメントでは、当時の資料による「何魁之」の名で刻まれています。
モニュメントのプレート 空襲犠牲者モニュメントのプレート
 その右二人も大阪に強制連行され空襲で犠牲となった中国人たちです。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい

地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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