鮑瑞西さんの証言

 何虧子さんは45年6月1日、陸で仕事をしていて仕事先で焼夷弾を受けて酷く火傷をしました。右手と胸の真ん中が焼けました。一旦火傷がだいぶ良くなりかさぶたになってきたので、仕事に出るようになったのですが、当時は空襲であまり仕事がなかったということです。ところが7月に入ると身体がむくみ始め、だんだん酷くなるばかりでした。食も細くなり、一回の食事に小さなマントウ(本来小麦粉で作った蒸しパン状のもの)半分も食べ切れなくなってきました。弱ってきて、空襲の時も鮑瑞西さんが背負って逃げることになります。何虧子さんは「危険だから自分を置いて逃げろ」と鮑瑞西さんを案じて言っていました。
 8月になり、鮑瑞西さんが仕事に行っている間に亡くなりました。火葬場もないので鉄板(トタン?)に載せもう1枚をかぶせて置いていました。
 日本の敗戦後、8月21日に鮑瑞西さんらが遺体を焼き、遺骨を紙に包んで枕元に置いていました。
 ところがある日、監視員の竹内が遺骨の箱を(人数分)持ってきました。死亡した者の遺骨だというのです。15cm角ぐらいの箱で、名前が書かれている。何虧子さんの遺骨は鮑瑞西さんが自分で焼き自分で保管していたので、持ってきたものが偽物と分かります。箱を空けると骨が入っていたので、それを捨て、自分が保管していた遺骨を入れ換えました。
 その遺骨の箱は棚に積んでいたのですが、高潮で47の遺骨が流されてしまいます。
       (03年3月22日大阪での聞き取りから整理)