6月1日大空襲について小山仁示さんの文章から

 強制連行された中国人たちが収容され、働かされていた港区の西部が猛爆撃を受けたのは六月一日の午前中であった。この日のアメリカ軍の爆撃目標は、淀川(新淀川)左岸の地域と大阪港沿岸の地域であった。攻撃時刻は、六月一日九時二八分〜一一時〇分。マリアナ基地を発進したb29の攻撃部隊は五〇九機。うち四五八機が二七八八トンを大阪市街地に投弾した。この空襲で大阪市の西部・大阪港沿岸一帯は大打撃を受けた。なお、硫黄島基地のp51戦闘機(ムスタング)一四八機がb29援護の目的で出撃したが、悪天候のため大阪上空に二七機だけが到達し、住民に機銃掃射を加えた。
 六月一三日付の大阪府警察局長の報告によると、六月一日空襲の被害は港区西部・築港署管内では全焼二万〇三二三戸、被災者数七万二九六〇人、死者一四八六人。港水上署管内では全焼一六四八戸、被災者数六一二八人、死者一七七人。安治川水上署管内では死者二九人。そして、市岡署管内については記載がない。三月一三〜一四日の大空襲で消滅した港区東部・市岡署管内には、もやは燃える構造物は存在しなかったのである。こうして、二回の大空襲で港区は壊滅したのである。
 (「月刊 ヒューマンライツ第182号」03年5月10日 現代史の目21)