白同愛さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年3月6日「慢性腎臓炎」により21歳で死亡とされています。 白同愛さんは、旧暦44年6月15日に捕まりました。当時抗日青年会主任をしていました。石家庄を経て8月15日塘沽に連行されていきました。5人兄弟の長男、次男は早くに死去。白同愛さんが連行されたとき三男白日英さんは10歳くらい(97年脳出血で逝去)。四男は5〜6歳。五男は1〜2歳でした。白同愛さんは結婚して妻と3〜4カ月の男の子がいました。(この子はその後2〜3歳でなくなりました。)4〜5ムーの土地がありなんとか食べていけていました。祖父はなくなっており、祖母はいましたが、家の主要な働き手は白同愛さんでした。彼が日本へ連行され、働き手を失い残された一家は野草や木の葉をとって食べざるをえない苦しい生活となりました。 白同愛さんについて一緒に連行された幸存者范臘月さんが次のように語っています。 監督の暴行(クリックで証言へ) 先の死亡診断書はこの事実を隠蔽しています。 再び范臘月さんの証言を聞きましょう。 白同愛さんの遺骨(クリックで証言へ) しかもその遺骨は故国に持ち帰ることが出来ませんでした。 遺骨が海に!(クリックで証言へ) *** *** *** 10年以上前に中国保定市の河北大学の調査によって判明した遺族の消息を教えてもらいました。それは白同愛さんの弟・白日英さんの息子、白秋水さんでした(53年7月1日生まれ)。その白秋水さんが2001年大阪での追悼会に参加しました。白同愛さんが捕まった時の様子とその後の一家の暮らしの様子を語ってくれました。 ![]() 白同愛さんが連行されたことにより(クリックで証言へ) 日々の暮らしぶりについてさらに証言が続けられます。 一家の暮らし(クリックで証言へ) ![]() ![]() 白秋水さんは解放軍に参加し、退役後、定州法院の書記を経て、来日時裁判長でした。 |
![]() 中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。 戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい |
![]() ●遺族の所在地 多くの人にとって連行された人の故郷のまま |
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