魏五輩さんと、遺族:魏運庫さん・魏運輝さん

 魏五輩さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年7月8日「心臓性脚気」により42歳で死亡となっています。
 魏五輩さんは43年夏に日本軍憲兵隊に連行されました。当時31歳だったそうです。(死亡診断書の年齢とはずいぶん離れています。)残された子は、魏永増さん(13歳)、魏増署さん(7歳)、魏増余さん(5歳)、魏増水さん(3歳)、魏巧祥さん(1歳)、もうひとり6歳の子は病気になり、治療してやる金がないために亡くなりました。これだけの家族の大黒柱が突然拉致されてしまったのです。
 なお当時の日本側資料では「魏五倍」となっていましたが、正しくは「魏五輩」と分かりました。

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 2004年の手紙への返事は、魏増署さんの子・魏運庫さんと、魏増水さんの子・魏運輝さんの連名で来ました。魏五輩さんの人柄と連行時の様子を次のように書かれています。

信望の厚い祖父が突然連行される(クリックで手紙へ)

さらに残された家族の状況を語ってくれています。

残された妻と6人の子(クリックで手紙へ)

 また他では聞いたことのない事実を教えてもらいました。

天津に遺骨を取りに行った(クリックで手紙へ)

 日本の敗戦後中国から連行された人々はすぐには帰国できず、日本全国に残っていました。ようやく45年の10月〜12月に集中して集団送還されます。その時に日本で亡くなった同胞の遺骨を持ち帰った人もいました。その遺骨は当時の国民党が故郷への持ち帰りを禁止し、天津に留め置かれたようです。その数年後広報がだされ、該当者が取りに行った例があるようですので、魏さんの場合がその一人だった可能性があります。
 ただし築港の場合集団送還時に遺骨を持ち帰らなかったこと、また大阪で保管していた遺骨が高潮で流されたとの証言が多いことから、天津に届けられるまでの遺骨の経緯には多くの疑問点を抱えています。
現在の家族の写真 04年訪中時の魏さん一家
 奥中央が魏運庫さん、魏運輝さん。二人とも学校の先生です。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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