袁景林さんと、遺族:袁明位さん

 袁景林さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。当時の使用企業の記録では袁景森と記され、その死亡診断書では、45年日6月1日「爆創死 戦災に依る」として43歳で死亡とされています。
 袁景林さんは44年6月28日、日本兵によって捕まえられ、日本へ強制連行され強制労働させられました。その時44歳。今になっても遺骨も、いかなる遺留品も戻っていません。

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 10年以上前に中国保定市の河北大学の調査によって判明した消息を教えてもらいました。袁景林さんの息子の袁明位さん(父の被害当時4歳)から98年2月19日付けの証言をもらっていました。以後大阪からの報告を送ってきました。追悼記念碑建立後あらためて袁景林さんの詳細を教えてほしいと手紙を出すと、袁明位さんから手紙が届きました。
 証言と手紙を交え、袁景林さんの連行当時の様子を記します。

父は村で日本兵に捕らえられた(クリックで証言へ)

 残された家族の苦しみは続きます。

残された家族の苦しさ(クリックで証言へ)

 手紙に添えて、現在の遺族一家の写真を送ってくださいました。
現在の家族の写真 07年現在の袁明位さん一家

悲惨な出来事を永遠に忘れられない(クリックで手紙へ)

 築港収容所は6月1日の大空襲により全焼します。その時に袁景林さんも焼死してします。他の幸存者の証言によると、3人の病気で逃げられない人が犠牲になったということです。袁景林さんがその一人であったのです。
 ピースおおさか(大阪市中央区大阪城2-1、1991年オープン)に「大阪空襲死没者を追悼し平和を祈念する場(刻の庭)」(05年完成)があります。その中に大阪への空襲で犠牲になった人々の名を刻むモニュメントがあります。袁景林さんは当時の資料に基づき「袁景森」として表記されています。
モニュメントのプレート 空襲犠牲者モニュメントのプレート
 また西栄寺過去帳に、「袁景林」として記載されています。西栄寺過去帳については雷智玉さんのところを参照してください。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
ピースおおさかモニュメント
 ピースおおさかの空襲犠牲者モニュメント
 

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