段梅さんと、遺族:段枌さん・段玉爾さん・段玉昌さん

 段梅さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、45年3月28日「肺浸潤」により35歳で死亡となっています。
 病名はたいへん疑がわしいものです。同じく築港に連行され45年6月1日空襲における怪我のため帰国できず日本に残っていた陳修身が段梅さんの死亡の原因として日本人監督の暴行を証言し、48年アメリカ軍により開かれた大阪築港についてのBC級戦争犯罪法廷で認定されています。
 また当時の日本側資料では「段美」となっていましが、2004年の手紙によって「段梅」という本名が分かりました。
段梅さんは43年11月,解放区が緊急に必要としている薬品を持って北京から河北の唐県に戻る汽車の中で,日本軍の憲兵に捕まり日本に連れ去られました。それ以来ずっと音信がありませんでした。家族は様々な方法で探し続け、54年に近くの村で、段梅さんとともに日本で労工をして帰国後すでに亡くなっている人の息子さんを訪ね,そこでようやく,段梅さんが日本の大阪市で働かされたこと、監督に痛めつけられて死んだことを知ります。

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 手紙により、段梅さんが捕まった経緯を次のように知らせてくれました。

薬を運んでいる時、日本軍憲兵に強制連行(クリックで手紙へ)

 さらに、05年1月6日には段梅さんの弟、段枌さんが手紙で次のことを語ってくれました。

残された家族(クリックで手紙へ)

 段梅さんは6人兄弟の3番目でした。現在6番目の兄弟である段枌さん、段梅さんの子どもの段玉爾さん、段玉昌さんと手紙のやりとりをしています。
 追悼記念碑“彰往察来”建立に向け大阪市との交渉期間に、段さん一家から碑文内容に対する「希望に背いたもの」との厳しい批判を頂きました。特に日本による侵略の被害が曖昧であるという点です。私たちも同感するところが多かったのですが、諸条件と私たちの力量を考え、果たせなかったことは今後の課題にするという判断をしました。またその状況を段さんたちに手紙で話していきました。

 碑の建立後、次のような手紙を頂きました。

『兄さん、どうか安らかに!』(クリックで手紙へ)

 市民のごく身近なところにあった中国人強制連行の事実、そこで犠牲になったそれぞれの方々をできる限り浮かび上がらせ思いを馳せること、それをこのホームページを通じて広く知らせていくことは、せめてもやらねばならないことであると痛感しています。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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