漢書地理志楚地


漢書地理志楚地


楚地翼軫之分壄也 今之南郡江夏霊陵桂陽武陵長沙及漢中汝南郡盡楚分也
「楚の地は翼室、軫室(中国星宿)の分野である。今の南郡、江夏、霊陵、桂陽、武陵、長沙及び漢中、汝南郡はことごとく楚の領域である。」


周成王時 封文武先師鬻熊之曾孫熊繹於荊蠻為楚子 居丹陽 後十餘世至熊達是為武王浸㠯彊大 後五世至厳王總帥諸侯觀兵周室 并呑江漢閒内滅陳魯之國 後十餘世頃襄王東徒于陳
「周の成王の時、文王と武王の教育係であった鬻熊の曽孫、熊繹を荊蛮に封じて楚子(子爵)と為した。丹陽に住む。後、十余代、熊達に至り、(楚の)武王となり、しだいに強大になった。五代後の厳王に至ると、諸侯を総帥し周室に兵威を見せつけた。長江と漢水の間を併合し、内には陳と魯国を滅ぼした。後、十余代、頃襄王は東の陳に移った。」

 楚は周室の衰えた春秋初期に王を称した。頃襄王は秦の始皇帝の頃。巴蜀を併呑した秦を恐れ、都を東方に移している。


楚有江漢川澤山林之饒 江南地廣或火耕水耨民食魚稻㠯漁獵山伐為業 果蓏蠃蛤食物常足 故啙寙婾生而亡積聚 飲食還給不憂凍餓 亦亡千金之家
「楚には長江と漢水、その他の川や水沢、山林の豊かさがある。江南の地は広く、火で耕し、水で草を切る。住民は魚と稲を食べ、漁労や狩猟、山で竹や木を切って暮らしている。果物類や貝類、食物は常に充足している。それゆえ、弱々しく生を盗み、蓄積することをしない。飲食は供給が繰り返され、凍えや餓えを気にしないが、また、大金持ちもいない。」

 火耕水耨は江南の農業を語るときに出てくる言葉で、水田農耕と考えて問題ない。水はどんな農業にも必須なので、わざわざこれを採り上げるのはその使用法に特徴があるはず。火耕は水田でも火で草を焼き払うが、焼き畑の可能性を含むかもしれない。陸稲があり、稲も作られる。果蓏の果は木の実、蓏はスイカのような地面に転がっている実という説がある。蠃は巻き貝、蛤は二枚貝。要するに食べ物や寒さに苦労しないので、後先を考えず、楽観的に、のんびりくらしているわけである。記録しているのは北方の儒家なので、そんな暮らしには批判的だが、日本人には親しみを感じさせる記述である。


信巫鬼重淫祀而漢中淫失枝柱與巴蜀同俗 汝南之別皆急疾有氣執
「巫者や鬼を信じ、婬祀を重んじて、漢中では淫らで規律を失っている。巴蜀と同じ風俗である。汝南は別で、皆、せっかちでしつこいところがある。
   
 淫祀もまた、怪力乱神を語らないという儒家から見れば淫なのである。魏志倭人伝にある卑弥呼の鬼道も、鬼を信じるから鬼道と表現された。この淫祀に属している。中国太古から継承されてきた現世利益を願う土俗的信仰で、のちに仏教などの要素を加え、統合・教団化されて道教となった。この頃にはまだ成立していない。


江陵故郢都 西通巫巴東 有雲夢之饒亦一都會也
「江陵は昔の郢の都である。西は巫、巴東に通じ、雲夢沢の豊かさがある。また一都会である。」

 郢は南郡にある。巴郡南郡蛮と表されたトウチャ族こそが、荊蛮と呼ばれる楚人の本体である。苗系民族で、ミャオ族が根底にあり、トウチャ族が派生し、そこからまたヤオ族が派生したという関係になる。本源地は巴蜀で、川を下って東方に展開した。