古谷三代吉設計図面U



はじめに
 此処では、古谷三代吉の未公開図面の中で大正元年に京都市営繕課の建築技師を退職後、京都市電(京都四条寺町界隈)開通の為、道路拡張工事に伴う区画整理の設計に係わった関係で、祗園御旅町付近の神社の改築や、寺院の本堂の新築及改築、
其の他の設計と、その施工を依頼される。此処で公開する、目次のリストは全て新しく発見された未公開の設計図面です。ご覧下さい     2006・5・20 管理人。

 ・目  次
 八阪神社御旅所(北側)境内地社務所及大神宮設計図 縮尺三十分の一
 八阪神社御旅所(北側)稲荷及社務所并大神宮改築設計図 縮尺三十分の一
 八阪神社御旅所(北側)境内地建物改築設計図 縮尺五十分の一
 八阪神社御旅所(南側の一部)物置所改築設計図 縮尺三十分の一
御旅所北側建築図面解説
 八阪神社御旅所(南側)境内地御輿庫及び手洗形改築設計図(A案、B案) 
   平面図、縮尺五十分の一
 四条線御旅町巡査派出所改築設計図 (平面図、五十分の一 断面図、三十分の一   側面図、三十分の一 正面図、三十分の一 断面図、三十分の一)
 春長寺境内庫裏修繕宮殿并傳廊下新築設計図 縮尺六十分の一
 春長寺私有地借家新築設計図 縮尺五十分の一
 悟真寺境内地之内庫裏改築設計図 尺度三十分の一
 悟真寺境内地建物之内庫裏及方丈并附属建物改築設計平面図 尺度百分の一
  (当時は四条大宮に所在?)
 信行寺(東山線)庫裏及客殿移転改築設計平面図 尺度百分の一
 袋中庵(東山線)境界ブロック塀新築設計図 尺度十分の一・正面図、切面図
  附録
 京都地方裁判所構内(一部)移転計画平面図 縮尺二百分の一
 表門之図 縮尺二百分の一


四条寺町の御旅所 明治43年11月 御旅町は四条通の拡築前には四条通の
北側にあって西を向いていた。
御旅町(おたびちょう)

 京都四条通寺町東入る二丁目。
この町は、中央部に四条通が東西に通る。
東側に真町、西側に御旅宮本本町、南側に貞安前之町、北側に立誠学区の中之町が隣接する。
寛永14年(1637)「洛中絵図」には町屋とある。町名は元禄9年(1696)「京絵図」に、さしやの丁、
 寛保元年(1741)「京大絵図」に御旅町とあり、以後変更はない。


大正元年8月

平成6年8月

 今回私が、京都四条寺町御旅町界隈のHPを掲載するに到った理由(キッカケ)は
御旅町界隈に在住の或る方(K氏)からの一通のメール(2006年4月21日)を頂いたのが、発端です。
 私が古谷三代吉の設計図面と資料解析Aの中で春長寺のご母堂さんから
御旅カフェのことを聞き及んで、その資料とカフェの写真を探していると資料解析Aで述べました。
大正時代初期、京都に花を開いた文化、新しい形式の酒場、カフェとは。
其の中の一つ御旅カフェを、三代吉が春長寺の借家の地下に造った形跡があり、管理人は次のように推理しました。
 御旅カフェの場所を、私は春長寺借家(四条寺町東南角)二軒の内のどちらかの地下室に御旅カフェが存在したと?・・・資料解析Aで推理しました。
 K氏は、そのことに就いての疑問点と其の場所を、管理人の特定した所より、東に30bほど行った所ではないか?・・・と。
現実には、現在の御旅所の東側、四条センターの地下にある尾張屋(蕎麦)が御旅カフェではないかと。その根拠を示された内容のメールを頂きました。
ではK氏から頂いたメールの内容を紹介したく思います。

 テーマは「御旅カフェに就いて」
K氏・談 
 京都四条寺町東入る南側、角から一軒目、二軒目の話。
二軒とも、それぞれ独立した地下室が存在した。しかし湿度が強く、利用価値が殆んどなかった。そして昭和31年に木造の建物からRCに改築したときに地下室も整備したと話されています。
ビルの前の木造の建物は平屋であったとおっしゃっています。
管理人・ 
 三代吉が同じ所に大正元年に建築した、春長寺の借家二軒は木造の二階建て、そして地下室も設計されています。(春長寺私有地借家新築設計図で図面公開予定)
古谷三代吉の建築以降昭和31年まで平屋になっていた理由とは。
K氏・談 
 太平洋戦争の末期、京都は幸運にも戦災には遭いませんでした。しかし戦争末期には藤井大丸が軍需工場化していたので、周辺は強制立ち退きにあい、以降終戦まで更地になった。(三代吉の建築した木造二階建ての建物も戦争のため無残にも取り壊されました。)
K氏の話を前に戻します。二軒目からの話の続き
 私の推測での結論は、御旅カフェがあった位置は、今の「四条センター」というみやげ物集合店の地階にある、そば屋の尾張屋ではなかっただろうかということです。
四条センターの土地そのものは、元は春長寺のものであったのが、明治初年に八坂神社に移 ったと春長寺のご住職から聞いたことがありますが、できれば、再度、ご確認下さい。
四条センターは何時頃ああいう形になったのか、分からなくなりましたが、昭和40年前後のころではないかと思います。
そのとき、既に、現在のような地下室があり、そば屋、喫茶店、弁当程度を提供する和食店などが入っていました。
その後、そば屋専用になりましたが、あれだけの地下室をもし、あの改築時に作ったとしたら、相当な量の土が搬出されたわけで、何か、話題に上ったと思います。
つまり、地下室は四条センターに改築する前からあったんだろうと思います。
四条センターに改築する前、あの場所はなんであったか、残念ながら、記憶していません。ぼ んやりしたイメージとしては、七味屋の店などがあったような気もします。
そして、祇園祭には、昔も今も、店舗を畳んで、三基のおみこしが出御しす。
一つの物証として、昭和九年六月発行の「京極とその付近案内」(市民風景社刊)のコピーがあります。このコピーは原本 そのもののコピーではなく、「京を語る会」刊の「思い出のプログラム(新京極編)」の付録としてあったもののコピーのようで、私が、だれかに貰ったのだろうと思います。
それには、界隈の各商店が克明に記されています。また。著名店名をピックアップしてあります。
四条通寺町の東南の角から並んでいる店名は次の通りです。
都堂八ツ橋(上記の京菓子小売店) 浦松食器ガラス店。       
八坂神社御旅所 木村屋八ツ橋七味屋(これが私の記憶か) 前田金銀 八木コンブ 
八坂神社御旅所 藤岡写真 カフェ217 東真堂急{2字不明} 山本 うばぐるま 以下略
藤岡写真、山本 乳母車というのはぼ んやり頭にありますが、全くはっきりしません。
カフェ217は、地下でありますから、ここには適当な位置に挿入しているのだろうと推測しています。
木村屋から、八木コンブが、今の四条センターにあったのかもしれませんね。       そしてその地下部分にカフェがあった、と。
この資料の片隅に「著名商店案内」というコーナーがあり、カフェ-の部にオタビ・カフェ− 本 217(電話でしょう、本局の意味)(四条御旅町) とありす。
蛇足かもしれませんが、「京都実業界」というコピーがあります。刊行年が分からないという代物ですが、所載 の知事(大森鐘一)市長(川上親晴)の
在職からして、1912年(明治45〜大正元年)と推察されますが、この中にはカフェという分類は見当たりません。

管理人・ 
 K氏から、このような内容のメールを頂きました。
詳しく書かれた文面から当時の風景が偲ばれて、ワンカット、ワンカットの風景が眼に浮かぶようです。
特に「あれだけの地下室をもし、あの改築時に作ったとしたら、相当な量の土が搬出されたわけで、何か、話題に上ったと思います。この描写は秀逸で、説得力のあるものです。
そばや(尾張屋)の地下室は大正時代に造られたもので、戦後に造られたものではないと、御旅カフェは此処であったのではないかと、示唆されています。
 メールは2部に渉って頂きましたが、どちらも貴重な内容ではありますが、プライベートな箇所も多くあり残念ですが、後半の部分は割愛させていただきました。
K氏の貴重なご意見ありがとうございました。感謝します。   2006・5・18 管理人
 

次回より、目次に沿って(順不同)上記の設計図面を公開します。

文責:明治の建築家ののこしたもの・三代吉記念館、管理人
本記録の無断転載は禁じます。2006・5・20
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御旅所北側建築図面解説
御旅所北側建築図面解説