風を信じて

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風を信じて
〜夢、架ける時〜


第三章  風となって消える者として

1

 全ては終わった。

 暗黒教団はその中枢人物の大半を失うことになり、大幅に勢力を弱めた。

 まだまだ甘いセリスだが、二度と暗黒教団をのさばらせることはないだろう。

「父上……お疲れ様でした」

「あぁ。お前も、よくやったな」

 独特の風が、やって来たばかりの背後の人物を教えてくれた。

 私の息子、セティだ。

 シレジア独立戦争を勝利に導き、マンスターでは風の勇者と呼ばれたフォルセティの後継者。

 そして何より、フュリーの遺してくれた、かけがえのないシレジアの至宝。

「何を見ておられるのですか?」

「さぁ……何を見ているのだろうな」

 一人になった時、俺はよく雲を見る。

 今も、白い雲を見ていた。

 白い、天馬の羽根のような雲だった。

「父上、セリス様が相談したい儀があると申されております」

「オイフェにやらせろ」

 正直、今は誰にも邪魔されたくはなかった。

 バルコニーで雲を眺めながら、ゆっくりと流れる風に身を任せていたい。

 いくら必要だったとは言え、これ以上軍師の真似事を務める気は毛頭なかった。

「オイフェ殿は、既にシアルフィへの帰り支度をなされているようです」

 俺の考えていることはバカ息子には伝わらなかったらしい。

 あっさりと俺の意見を却下しやがった。

「なら、ラナに相談しろと言っとけ」

「……父上」

 ようやく俺たちの会話が途絶えた。

 心の中で何を思っていようが、王たる者が逡巡を見せてはいけない。

 それがラーナに教わった王たる者の資格だ。

 まだまだ、セティは未熟だと言うことだな。

「父上がそのようなことを言われるとは思いもしませんでした」

「王妃たる者、王を助けられずにどうする。セリスとラナにそう言っとけ」

 俺の言葉に、表面上は常に沈着冷静なセティがその仮面を脱ぎ捨ててきた。

 荒々しい感情を隠そうともせずに、真正面から俺にぶつかってくる。

「父上はセリス様の軍師でしょうが」

「俺は俺の目的でもって軍師をしていたに過ぎん。お前は俺を買い被り過ぎてんだよ」

「それでもかまいません。何卒、お戻り下さい」

 セティのイライラとした空気が、俺の頬を引きつらせる。

 いつの間にか育ってしまっていたこの息子は、まだまだ正直者だ。

 親の顔を見れば見るほど、首を傾げたくなるほどに。

「何を相談したいか聞いて来い。お前に言えないようなら相談は受けかねると言っとけ」

 今度は、セティの吐息が聞こえて来る。

 素晴らしく大きな吐息だった。

「わかりました。では、私が戻るまでこの場所にいるとお約束下さい」

「わかったわかった」

「母上に誓っていただきます」

 今度は俺が不快感を露わにする番だった。

 バカ息子も、少しは駆け引きというものを覚えたらしい。

 独立戦争の時には見られなかった成長は嬉しくもあり、その反面煩くも感じる。

「お前、親に向かってそう言うか」

「父上の逃走術は生半可ではありませんから」

「親を親とも思わぬ言動だな」

 もう少し口喧嘩を楽しみたかったのだが、セティにその気はなかったようだ。

 俺の言葉にスッと体を引き、頭を下げて来る。

「では、セリス様に用件を尋ねて参ります」

「あぁ」

 足音が遠ざかるのを待って、俺はようやく視線を雲から外した。

 いなくなったセティの背中を、視線に追い駆けさせる。

 廊下の曲がり角で辛うじて捉えたその背中は、すぐさま壁に邪魔をされて見えなくなった。

 それでも、俺は壁を見続けることにした。

「誰の背中を見て育ったんだろうな……」

 その呟きの答は、俺自身がよく知っている。

 セティは、フュリーに初めて出会った頃の俺にそっくりなのだから。

「フュリー、お前も男を見る眼がなかったな」

 とてもじゃないが、あんな男に惚れる女がいるとは思えない。

 セティの奴も、どうせ一人きりでシレジアに帰っていくであろうことは容易に想像ができた。

「俺にもう少し時間があればな……」

 もう少し時間があれば、セティにもっとマシな俺の背中を見せられたはずだった。

 決してフォルセティの使命に振り回されることのない、俺の背中を。

 

 

2

 母上からの連絡を受けて、慌てて帰国した俺を待ち受けていたのは、熾烈な戦場だった。

 検問のある平野部をやり過ごし、俺は風の導くままに険しい山間部を走り抜けようとしていた。

 そして、戦闘真っ只中の天馬騎士団を発見する。

「戦線を維持しなさいッ。数分だけでも持ちこたえれば、必ず本隊が来るッ」

「はいっ」

「死んで、たまるもんですかッ」

 天馬騎士団の統率は悪くはなかった。

 いや、寧ろ往年の力を取り戻しているかのような動きの良さだった。

 フュリーを中心とした騎士団は、数倍の敵を前に一歩も怯むことなく戦線を維持していたのだから。

「このフュリー、貴様らごときに殺されなどするものかッ」

「王妃は必ず守ってみせる……シレジア天馬騎士団の名にかけて」

 しかし、その兵力差が覆ることはない。

 一人落ち、また一人と戦線を脱落していく。

 しかし、誰一人として背中を向ける者はいなかった。

 これがシレジアの誇る天馬騎士団。誰もが認めた、最高の騎士団。

「……遅くなってしまったな」

 右手の魔道書が唸り声を上げていた。

 まるで、一刻も早く己を酷使しろとでも叫んでいるように。

 

 

 フォルセティを使うわけにはいかなかった。

 俺の生存を確かめにシレジアまで攻め入って来た、あのヴェルトマーの女将軍は本物だ。

 もちろん、その側近連中も極めて優秀な人材であることは間違いない。

 フォルセティの巨大な魔力を行使すれば、彼女は必ず俺の存在を見抜くだろう。

 アルヴィスの腹心と言うことらしいが、ヴェルトマーには本当に良い人材が集まっている。

 あながち、シグルド軍の敗北は当然の事だったのかも知れない。

「シレジアの風よ、敵を切り裂けッ」

 目の前の数人と過去への感傷を一気に薙ぎ払い、俺は戦場へと飛び出した。

 今までの根回しが無駄になろうが、目の前でフュリーが殺されるのだけは我慢ならない。

「新手だっ」

「一人だけの魔法使いだ。さっさと囲めっ」

 部隊長の男は馬鹿ではないが、愚かだったらしい。

 フュリー隊を攻めていなかった後方の部隊を俺に差し向けて来る。

「一人たりとて生き残らせるわけにはいかないんでなッ」

「ほざけっ」

 戦場において、風を意のままに操るのはさして難しいことではない。

 相手が動いた瞬間に生じる風の勢いを汲み取ってやればいい。

「ウィンド!」

 フォルセティの魔力は借りずとも、俺に敗因はない。

 目の前にフュリーがいる。

 それだけで、負ける筈はない。

 

 

 部隊を全滅させて立ち去ろうとした俺を、フュリーが呼び止めてくれた。

「レヴィン様……」

「苦労をかけるな」

「いいえ。私こそ、貴方の傍につくこともできず……」

 フュリーの胸の病が発覚して、俺はフュリーに居残りを命じていた。

 無論、病気でなくとも俺に付き合わせるつもりはなかったのだが。

「よく、耐えてくれたな」

「お言葉、もったいのうございます」

 槍を掴んでいるフュリーの手に、そっと手を乗せる。

 たった三年の間に、その手は細く、硬くなっていた。

「まだ、お前の腕の中に帰るわけにはいかないんだ」

「わかっております。私のことは大丈夫です。レヴィン様は……」

 フュリーの体が小さく撥ねた。

 慌てて周囲の気配を探るが、敵の気配はない。

 考えられるのは一つ。

 フュリーの内部がフュリーの体を撥ねさせたのだ。

「フュリー、許せよ」

「あっ」

 壊さないように、離れないように抱きしめる。

 鎧の上からでも、懐かしいフュリーの身体は十分に感じられた。

「心配をかけさせてしまいましたね」

「俺の前で無理はするなと言った筈だ」

「……申し訳ありません」

 フュリーの身体から力が抜けた。

 そのまま預けられた身体をしっかりと抱き留めたまま、俺はフュリーの髪の中に顔をうずめた。

「今生の別れになるかもしれない」

「……だったら、笑わせて下さい。貴方を、笑顔で見送らせていただきたいのです」

 フュリーの腕が、そっと俺の胸を押す。

 それには逆らわずに、俺はフュリーの頬へ手をやった。

「礼は言わない」

「恨み言は申しません」

「謝りもしない」

 フュリーが微笑んだ。

 泣きたくなる感情を必死に押さえ込んで、俺も黙って唇の両端をあげた。

「レヴィン様、フュリーの最後の雄姿、お見届け下さい」

「あぁ」

「では、失礼致します」

 フュリーは俺に背を向けると、手近な雪を口に含んだ。

 口の中で雪が解けるのを待って、フュリーが勢いよく口の中の水分を吐き出す。

 赤色が、真っ白な雪原をほんの僅かだけ染めた。

「フュリー……」

 俺の呟きは、彼女の背中に触れることすらできない。

 覚悟を決めたフュリーは、いつものように毅然としていて、慈愛に満ちているように見えた。

「シレジア天馬騎士団、これより本隊に合流する」

「フュリー様、あの方は?」

 風に乗って聞こえてくる騎士団の言葉は、そこで途切れた。

 しかし、フュリーが何を言ったのかは彼女たちの敬礼が教えてくれた。

「天馬騎士団長フュリー、出撃致します」

「あぁ……風の加護のあらんことを!」

「出撃!」

 上空に舞い上がっていく天馬の羽根を見つめながら、俺は魔道書を握り締めていた。

 もう二度と会うことのないだろうフュリーの姿は、涙の霞に消えていった。

 

 

3

「父上、父上ッ」

 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。

 俺の背中を揺すっているセティを、まったく気付くことはできなかった。

「……あぁ」

「セリス様が、旅立つ皆の見送りを共にして欲しいと」

 見送り、か。

 確かにそれくらいはしてやるのが筋だろうな。

「わかった。行かせてもらおう」

 そう言って俺は一歩を踏み出した筈だった。

 実際には上半身だけが傾き、俺の身体はセティの腕に支えられていた。

「……すまんな」

「いえ……大丈夫とは思えませんが」

 セティの表情は、あからさまな哀しみに変わっていた。

 そして、その表情が如実に今の俺の状態を語っている。

「風が休むわけにはいかないだろうが。風の吹かぬ国など、滅びを待つだけだ」

「ですが、その身体ではッ」

「セティ」

 厳しい口調に、セティがようやく気を取り直す。

 黙って頭を下げたセティに、俺は無造作にその頭を掴んだ。

「渡すものがある。最後に来い」

「……わかりました」

 今度は大丈夫だ。

 しっかりと足が動くのを確認しつつ、俺はセリスの待つ王座の間に向かって歩き始めた。

 

 

 次々と旅立って行く聖戦の勇者達は、皆一様に清々しい笑顔を見せていた。

 愛する者と結ばれ、手を携えてバーハラを後にする者。

 たった一人で困難な道に立ち向かっていく者。

 聖戦で得た仲間とともに国を治める為に戻っていく者。

 皆、希望に満ち溢れているのだろう。

「セリス様、しばしの別れだな」

「アーサー。君には辛い役目を押し付けてしまったのかもしれない」

「気にするな。自分達のことは自分でするさ」

「そう言ってくれるのは心強い。でも、一人で帰るのかい?」

「まぁ、そうするつもりだったんだけどな……」

 アーサーが言葉を区切るのを待っていたかのように、見慣れた緑色の髪が王座の間に入ってくる。

 大きな耳飾りは、一体いつになったら外してくれるのだろうか。

「父様、フィーはシレジアには帰りません」

「勝手にしろ」

「なればこそ、今、この場で父様からの祝福を授かりたいのですが」

 思わず、心の中で苦笑を漏らす。

 随分と淑女らしく振舞っているものだ。

 こうされると、この仮面を剥がしたくなるというものだ。

「家にも帰らん馬鹿娘に、何で俺が祝福なんぞしてやらねばならん」

「そこを曲げて……」

 ……沈黙してやった。

 さて、どうする?

「……って、さっさとしてよ! 時間が勿体無いじゃないッ」

「さっさとそう言え。気色悪いんだよ、慣れない言葉使っても」

 そう、慣れない言葉遣いはやめて欲しかった。

 残された時間を、娘を失ってしまった喪失感を抱いたまま過ごしたくはない。

 それは、父親としての我侭だろうか。

「父様、あたし、アーサーについて行くって決めたから」

「勝手にしろ。ただし、後悔して帰って来るなよ」

「うん……母様にも後で報告に行くから」

「そうしてやれ」

 セリスの言った言葉は耳に入らなかった。

 ただ、笑顔で頷くフィーの姿から目をそらすこともできずに眺めていた。

 可愛い娘だったのに。

 自慢の娘だったのに。

 時間は容赦なく俺を老いさせ、娘を成長させていく。

 

 

 セリスの言葉が終わったとようやく気が付いたのは、フィーが先に王座の間を出てから。

 そして、アーサーが俺の前で頭を下げた時だった。

「オレを信じてもらえますか?」

「信じる? お前のことは知ってるよ。嫌と言う程にな」

「今まで、ありがとうございました。フィーはオレが守ります」

「お前なら風を見つけられるだろう。ヴェルトマーのこと、頼んだぞ」

「必ず。王家も家族だという貴方の言葉は、決して忘れません」

「……行け」

 不思議な気持ちだった。

 あの紅色の瞳は、炎のように猛りながらも決して濁ることはない。

 あの瞳に、フィーは吸いこまれてしまったのか。

 あの瞳は、セティに勝るとも劣らない風を映し出している。

 何が、あの男をここまでに育てたのだろう。

 悲しみと怒りだけではない何かが、あの男を創り上げているに違いなかった。

 俺はただ、その背中を見つめているだけだった。

 そのアーサーの背中が、王座の間の扉の前で立ち止まる。

「アーサー、フィーのことを頼むな」

「お前こそ、ティニーを泣かしたら承知しないぜ」

「数年経ったら迎えに行くさ」

 銀髪の髪をなびかせて視界から消えていったアーサーの代わりに入って来たのは、セティだった。

 俺の見送りも、どうやら最後になったらしい。

「父上、セリス様、私もシレジアに帰らせていただきます」

「セティ、今度の戦いでは随分と世話になってしまったね」

「お気になさらずに。世話になったのはお互い様です」

「そう言ってもらえると助かるよ。元気でね、セティ」

「セリス様も」

 セリスとの会話を終えて、セティが俺の方を向いた。

 いつの間にか、フォルセティが似合う姿になっている。

「……セティ、シレジアのことは頼んだ。母上にも、宜しく言っておいてくれ」

「御祖母様には、御自分で別れを告げて下さりませんか?」

「そうもいかないんでな……わかってくれ」

 俺の肉体は、もはやシレジアに帰ることすら保証ができない。

 せめて、フュリーの眠る場所にだけは行っておきたかった。

「わかりました。では、これにて」

 あまりにも呆気ない引き際だった。

 あのテラスでの出来事が、セティにはこの上ない説得になってしまっていたのだろう。

 そのままに済ませればよいものを、俺は思わず腕を伸ばしていた。

「……父上」

「許せよ。俺も人の親だってことさ」

「泣いても構わないのですか?」

 黙ってセティの頭を押えつける。

 声を聞けばわかる。

 若きシレジア王が、こんなにも簡単に泣き崩れる姿など、誰が想像できるだろう。

「……さて、セリス、俺もそろそろ行かせてもらう」

「聖戦士レヴィン。貴方の名は、永くこの大陸中に響くことでしょう」

「さぁな……俺は風だよ。聞える者にだけ聞こえる、見える者だけに見えるだけの存在に過ぎん」

 セティの肩に手をまわす。

 昔は肘を伸ばさなければ届かなかったセティの肩が、今では肘を目一杯畳まなければならない。

 それでもセティは俺の息子だ。

「世話になった。俺達はこれで失礼する。セリス、ラナ、幸せにな」

「お世話になりました」

 数年ぶりにセティの背中を押すことができた。

 これほど気持ちよいものだったのだろうか。

 

 

4

 風が、俺の無意味に長くなった髪を撫でていく。

 その昔、フュリーの手が俺の髪を撫でてくれていた時のように。

「そろそろ限界かな」

 長年愛用していたターバンを外し、フュリーの隣に置いた。

 どうせ、セティがすぐさま俺の骨をフュリーの隣に葬ることはわかっている。

「さすがに疲れたな」

 フュリーの墓標に背中を預け、腰を下ろす。

 風が、木々の葉を鳴らしていた。

「いい……風だ」

 いい風が吹いている。

 空の向こうを駆ける天馬が、青い空に美しかった。

 

<風を信じて 了>