風を信じて
風を信じて
〜愛、斯ける時〜
第二章 風に吹かれた者として
1
風が、私の横を駆け抜けていく。
どんな風も、私の横に留まりはしない。
だから、少しくらいは愚痴らせて欲しい。
「……私は、風に嫌われたのかも知れないわね」
そう思いたくなるほど、私の横を風は駆け抜けて行く。
それでも、私は聖母の仮面を捨て去ることは出来ない。
私が必要なのだ、この国には。
私がいなければ、風はあざける対象を失ってしまうだろう。
誰も感じることのできない風を、私が受けることによって、全てのものに風を見せることが出来る。
それが、私に与えられた使命なのだ。
2
「ラーナ様、後をお願い致します」
「無事に帰って来るのですよ。貴方にはまだ、やるべきことが残っているのですから」
「……お約束は致しかねます」
フュリーの表情が曇る。
当然だろう。
彼女は病魔に犯され、残された命は少ない。そして、それを自覚しているのだから。
「嘘でも、承知するところですよ、フュリー」
「……はい」
不器用な娘。
そして、最高の娘。
「フュリー、泣き言は申しません。本懐を遂げて来なさい。それが、貴方の使命なのでしょう」
「ラーナ様」
「ほら、涙をお拭きなさい。みっともないわよ、軍団長が涙を見せたまま出陣するなんて」
「は、はい」
慌てて涙を拭う姿に、ふと抱きしめたい衝動に駆られる。
このまま、彼女を抱きしめて連れ去りたい。
でも、それだけは許されない。
「貴方も、シレジアの風なのね」
「はい?」
「大地を駆け抜け、空を動かし、人々を薙ぐ風。貴方も、風なのよ」
「ラーナ様?」
怪訝な表情を向けたフュリーに苦笑を返す。
「ごめんなさい。ただ、私だけが残されるとね……寂しいのかもしれないわ」
「申し訳ありません、ラーナ様」
「貴方の謝ることではないでしょう? 現に、もう貴方しか将はいない。シレジアを担うのは貴方。私ではないわ」
「……このフュリー、必ずや」
フュリーの言葉を遮ぎられた。
当然だろう。私が止めさせたのだから。
「ラーナ様ッ」
止めさせ方に怒ったのね。
無理もないわ、純情な子だもの。
「ふふっ、ごめんなさい。ちょっと、和ませてやろうと思ったのよ」
「それにしても、悪ふざけが過ぎますッ」
フュリーの頬が紅い。
この唐突な頬つねりが、少しでもこの娘の生命力の足しになればいいのだけれど。
「バカ息子の代わりよ」
「レヴィン様はこのようなことはいたしませんッ」
「そうね。あの子だったら、もっと優しく摘むのかしらね」
「そう意味ではなくッ」
怒るフュリーに背を向ける。
ずっと顔を見ていると、先に泣くのは私だろうから。
「……あと十年、私が年をとっていなければね」
「仕方ありません。あと十年ラーナ様が遅く生まれていれば、このシレジアはなかったでしょう」
「でも、貴方を見送らずに済んだわ」
「私は、レヴィン様と一緒に歩めたことで満足しております」
振り向かなくても判る。
この娘が、どんな様子で言葉を紡いでいるかなんて。
「ありがとう」
「いえ、私こそ」
「バカ息子には、本当に勿体無いわ」
いいえ、あなたという娘は、私にとっても過ぎたる娘よ。
「レヴィン様は、必ずお戻りになられます。その留守を預かるのは、私の責任ですから」
「……ありがとう」
それしか言えない。
それ以外の言葉を言うには、あまりにも状況が逼迫していた。
そして何より、私を一人の母親にしてしまうから。
「フュリー、貴方に風の神の御加護がありますように」
「……いってまいります、母上様」
3
フュリーが出て行った後で、枕の下に隠しておいた魔道書を手に取る。
何年も使い続けて来たその魔道書は、もうその中の一字一句を間違えずに暗誦できる程だ。
「さて、いつまでも茶番劇はしていられないわね」
そう、フュリーに見せた涙は嘘じゃなくても、私はただ泣き寝入るような女ではないのだ。
悪く言えば、レヴィンを育てたのは私と言うところか。
「……お待ち致しておりました」
「準備は?」
「怠りなく」
「そう。じゃ、いつものように留守番よろしくね」
着ていたローブを脱ぎ、数年ぶりに魔道服を着込む。
額のサークレットを外し、髪を括る。
これだけでもう、外見上は私とわかる者はいまい。
「……王妃」
「安心なさいな。さすがに、バカ息子のように、このまま全国へまわるような真似はしないわ」
「ですが、王妃」
「くどいですよ。私が一度言い出したら聞かない性格なのは、貴方も知っているでしょう」
シレジア王妃であると同時に、乱世に生きる女性だから。
そう、黙って待っているのは性に合わない。
やはり、戦ってこその人生。
風に吹かれるのは許せても、吹き飛ばされるつもりは毛頭ない。
シレジア王妃でなく、一人の乱世に生きる女としての人格が、城に留まることをよしとはしない。
「それに、黙って見てるのはつまらないわ」
「それが本音ですか」
長く仕えてくれた、古参の侍女。
もちろん、実家から連れて来たのは私だ。
「……お互い、年をとったわね」
「その年齢を考えないで突っ込んでいくのは、どこのじゃじゃ馬娘でしたかね」
苦笑を見せても、私の要求した上着は差し出す。
長年連れ添ってきた夫婦のように、私たちの間に細かい言葉は要らない。
それこそ、レヴィンの生まれる前から、いや、夫と出会う前から共にいる者だから。
「ま、今更白髪が増えても、貴方には関係ないでしょう」
何か言いたげな侍女の前で上着をオーバーアクション気味に羽織り、用意された馬の背に跨る。
そのタイミングを待っていたかのように、王妃直属の隠密部隊が姿を見せる。
「ここから北に向かった所に、敵の伏兵がたむろしているとの情報が」
「ま、しっかり働くとしましょう」
「おそらく、フュリー様の部隊を迎え撃つつもりなのでしょう」
「神懸りの戦を演出する為に、皆殺しです」
私の言葉に軽く頷いて、そろそろ壮年とも呼べなくなる隠密部隊の隊長が先に歩き出す。
その後ろ姿を見ながら、以前のような若々しさがないことを知る。
きっと、私もあのように見えるのだろう。
「……年寄りの冷水かしら」
「そう思うなら、フュリー様にお任せになって下さいませ」
「まさか。こんな面白いもの、見逃せると思う?」
「レヴィン様がお知りになれば、血相を変えて怒られますよ」
「そのレヴィンの為にも、この戦、勝利へ導かねば」
今度は、反論の言葉はなかった。
軽く振り返ると、頭を下げている彼女が見えた。
残された兵力は、あまりにも少ない。
病気のフュリーを戦場に狩りださねばならないほどに。
そして、この私のきまぐれが切り札になるほどに。
「かかれ!」
……風は、私が生んだもの。
私が風を愛するように、風は私を愛しているのだろう。
なぁ、バカ息子。
<第三章ヘ>