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イギリスを知る事典

「ミニチュアの国」の多彩な顔
ーイギリスを知るための事典群ー


 イギリスは、北海に浮かぶ小さな島国である。現代の地図をみると、この小さな島が、歴史におけるごく一瞬とはいえ、世界の4分の1におよぶ広大な領域を制していたとは、とても信じられない。20世紀を動かしたアメリカやロシアといった大陸国家と比べると、山も川もスケールが小さい。アメリカの歴史家R.K.ウエブの言を借りれば、イギリスは「ミニチュアの国」である。 ところがこの小さな島には、驚くほど多様な文化がぎっしりとつまっている。アクセントーつをとってみても、違いは著しい。ヨークシャーの片田舎でしゃべられる平民の言葉は、オックスフォードのカレッジで育った紳士の眉をひそめさせる。紳士には全く理解不能な調べさえそこには含まれている。バーナード・ショウがいみじくも言ったように、イギリス人は、英語すらまともにしゃべれない国民なのである。 

 イギリスが、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドという四つの国からなる「連合王国」the United Kingdomであることを、今更言う必要はあるまい。ただ、力づくの併合と紙一重のこのユニオンは、たかだか数百年の伝統しかなく、その道のりはたっぷりと血を吸ったものであったことを思い出すだけでよい。辛辣な歴史家は、イギリスはもともとThe Disunited Kingdomだったのだ、とまで言ってのける。イングランドの穏やかな外見に欺かれてはならない。歴史を知らないものは、牧歌的な風景の背後に隠された強烈なエネルギーに気づかないかもしれない。だがこの小さな島の住民は、人類史でも稀なほど、激しい炎となって争い燃え上がった。彼らは国民に対する反逆罪で国王の首を断頭台で切り、議会の言うことをきかない国王を追放した。海賊となって海を押しわたり、平然と阿片や黒人を売って巨万の富を築くかと思えば、一方、厳しい戒律の共同体を作るために命がけで大洋をわたった。裏切りと謀略と殺人、好計に満ちたリチャード三世の芝居を見ると、羊が草を喰む牧歌的な田園風景の裏に、暗い陰惨な歴史が潜んでいることを否が応でも思い出さずにはいられない。

 極東の島国から見れば、イギリスのもつ多様性は、「美味し」くみえるかもしれない。しかしイギリスの歴史の実像は、果てしない血みどろの闘争の連続であった。Prince of Walesという名称にどんな歴史が凝縮されているか。タータンにどんな悲しい歴史が織り込まれているか。実らぬポテトが、100万人のアイルランド人をいかに苦しめたか。誰がアイルランドの土地を奪ったのか。それを知るとき、イギリスの多様な風景は、新しい意味をもって迫ってくる。 

 さて、イギリスを知るための事典といっても、辞書類などをすべてはぶくとしても、実にさまざまなジャンルに無数の事典がある。その中からいくつかスタンダードなレファレンスを紹介しておこう。ただし筆者の専門から、歴史関係に偏ってしまうのはご容赦いただきたい。
 まずAdrian RoomのDictionary of Britain (Oxford University Press)は、イギリス文化のあらゆる領域における日常的な摩詞不思議な出来事をカバーする、イギリス屋にとって必携の事典である。たとえば、lollipopとladyという言葉を知って いても、まず普通の人にはlolly pop ladyが何かを想像することは難しい。あのイギリスの街角に点滅する謎めいたBelisha beacomとは何か。これも簡単には分かるまい。この本は、そうした日常の秘密を解きあかすための事典である。woolsackとはいったい誰が座る椅子か。Winter of discontentというシェイクスピアの言葉は、現代では何を意味するのか。こうした事どもが、Winnie the Poohと同じページを繰るだけで、分かってしまうというのは、おかしくもあり楽しくもある。写真も豊富で、browserのパラダイスというのは、まさにこの本のことであろう。日常の暮らしの全域におよぶバラエテイにとんだエントリーは、この本を「読んでうならせる」事典に高めている。イギリスにはまってしまった人には、枕元において是非読んでいただきたい逸品である。  

 同じような趣向のものとして、Bamber Gascoigne ed., Encyclopedia of Bitain(Macmillan)がある。ただしこちらは日常生活よりも、歴史や政治経済の固い項目に傾いているきらいがある。歴史遺産という観点にしぼったものとしては、Alan Issacs and Jennfer Monkeds., The Cambridge Illustrated Dictionary of British Heritage (Cambridge University Press)も堅実な事典といえよう。さらに主として現代の政治経済だけに特化した編成だが、John OaklandのA Dictionary of British Institution (Routledge)も、いざというときに役に立つ。Lord ChamberlainとLord Lieutenant, Lord President of the Council, Lord Privy Seal, Lord Provostといった いかめしい役職の違いなどは、これに詳しい。  

 各地域についての事典もたくさんあるが、特にロンドンとオックスフォードについては、それぞれ大部の事典、Ben Weinreband Christopller Hibbert ed., The Encyclopedia of London(Macmillan)とChristopher Hibbert ed., The Encyclopedia of Oxford (Macmillan)が出されており、極めて興味深い情報が満載されている。例えば、オックスフォード大学の立法機関にあたるCongregationでは、実に1854年までラテン語だけが使われていたこと。大学の名誉総裁的地位にあって儀式を司るChancellarは、すべての大学の修士Master of Artsによって選挙され、(つまり大学の教員だけではなく、修士をとったすべての卒業生によって)終身の地位として任じられること。ただし大学の実務は、なんとかの王政復古以来、Vice Chancellarに委ねら れている、といったぐあいである。古色蒼然とした伝統の重みとしがらみとはどんなものか。読み進むにつれて重苦しい伝統に息苦しくなるとともに、どこかに一抹のおかしみすら感じる。 

 辞書は取り上げない方針だけれども、読んで楽しいと本といえば、どうしても引用句辞典をあげざるをえない。この分野では最近出版されたThe Oxford Dictionary of Political Quotations (Oxford)も実に面白い。Democracy is the worst form of Government except for all those of other forms that have been tried from time to time.という有名なチャーチルの言葉などもちゃんと刻まれている。しかしこのジャンルでは、なんと言っても大冊のThe Oxford Dictionary of Quotationsに指を屈せざるをえない。例えば警句の王者Geroge Barnard Shawを引いてみる。するとHe who can does. He who cannot teaches.なんていう心臓に悪い言葉があるかと思えば The Golden rule is that there are no golden rules.といったまことにもっともなご託説あり、Democracy substitutes election by the incompetent many for appointment by the corrupt fewてな毒のこもった章句もある。An Englishman thinks he is moral when he is only uncomfortable.といったぐさっと鋭い慧眼、Have you no morals, man? Can't afford them, Govenor.なんていうピグマリオンの中の鋭い風刺には、アイルランドのプロテスタント出身のショウの独特の辛口の言葉を感じることができる。もちろんフレーズよる索引も完壁に作られており、索引というもののあるべき姿の一つを示している。一人前のスノッブになるには、こうした引用句を自在に使ってみせねばならない。だとすれば、なかなか紳士の体裁をリスペクタビルに保つのも容易ではない。 

 さて歴史プロパーの事典としては、J.P.Kenyonの手になるA Dictionary of British History (Secker & Warbreg)が以前から使われている。項目も多く、参考書としては信頼できる。だが図版も少なく楽しみで繰る事典ではない。これに対して、Christopher Haighed., The Cambridge Historical Encyclopedia of Great Britain and lreland (Cambridge University Press)は、ふんだんに図版を用いた新しいスタイルの歴史事典で、調べる事典というより、読むだけでなく見る事典としての性格をもっている。この事典の最大の特徴は、本分の右横にキーワードの短い解説を載せていることである。これは、事典につきものの大項目編成と小項目編成の矛盾を、この形で和らげようとしている。  

 歴史事典といえるかどうかは別として、時間に沿って事跡をたどるものも読み物としては面白い。年月日を詳細に記したクロノロジー、例えばJames Trager, The People's Chrology (Aumm Press)や、Andley Butler, Dictionary of Dates (J.M.Dent &Sons)も有用である。だが、読んで楽しいのはカラフルなクロニクルである。ロングマンからは、Chronicle of the World (Longman)と Chronicle of the 20th Century (Longman)という二種類の巨大なクロニクルが出されている。後者は特に、1年づつ新聞記事風に出来事がまとめてあり、三面記事的な出来事が満載されているので、公式な歴史書ではなかなか味わえない時代の雰囲気を知るには格好の武器であ人名事典としては、むろんDNB(Dictionary of National Biography)が標準的なレファレンスである。この巨大な人名辞典を縮小したのが二巻本のConcise Dictionary of National Biography (Oxford)。大抵の日常の用はこれで足せる。Chmabers Biographical Dictionary (Chambers)もこれを補う人名辞典である。現在の人名を調べるためのWho's Who (A&Black)については、くだくだしい解説の必要すらないであろう。オックスフォードからは20世紀についてだけのハンデイなA Dictionary of 20th Century World Biography (Oxford)などもでているし、専門的な人名辞典は他にもあるがここでは省く方が適当であろう。 

 地名についてはAdrian Roomの編になるDictionary of Place-names in the British Isles(B1oomsbury)も有用である。 歴史統計については、MitchelのBritish Historical Statistics (Cambridge)およびSecond Abstracts of British Historical Statistics (Cambridge)が基準的である。だが、社会的な統計としてはA.H.Halsey編のBritish Social Trends since 1900 (Macmillan)もきわめて有用であろう。また重要な法律や閣僚など、さまざま な歴史事実を使いやすい形で集積したものとしては、Chiris Cookが中心になってBritish Historical Facts (Macmillan)が編纂されており、1688-1760, 1760-1830, 1830-1900の三巻にまとめられている。1900年以後はBritish Political Facts (Macmillan)として出されている。もっと簡便な参考書として、18世紀以降現代までの基礎的な歴史事実を盛った一巻本の参考書としては、The Longman Handbook of Modern British History(Longman)があり、ここには代表的な研究トピックと参考文献まで載せられているので、イギリスの歴史を勉強するには常備すべき一冊である。  

 現代についての厳密な詳細な出来事の記録としては、毎年発行されるアルマナックが手元に必要であろう。これについてはアルマナックの古典的存在とされるWhitaker's Almanackが1868年以来継続的に出版されている。これを調べれば、1900年の天気の具合も分かるというわけである。  

 地図やビブリオ類についてはあまりにもいろいろな種類があるので、ここでは省路することにする。ただ覚えておいて損はないのが毎年HMSOから出されているBritain: An Official Handbookで、イギリス政府などの最新の動向が400ページ強のハンドブックにきっちりと納められており、物事を調べ始める上では良い出発点になる。  

 そのほかにも、学位論文のリストだとか、雑誌論文や書評の索引だとか、気の遠くなるほど膨大な量の多種多様な参考文献があるが、これらについては、Research forWriters (A&C Black)やDoing your Own Research (Mariyars)などに詳しい。
とはいえ、インターネットの登場によって、現在進行形の事柄についてのデータを収集する方法は、急激に変化しつつある。インターネットを通じて、代表的な新聞雑誌にアクセスできるのはもちとん、イギリス政府や議会の日々の動きについては、ダウニング街10番地の首相官邸のホームページ(http://www.number-10.gov.uk)や議会のホームページ(http://wo.parliament.uk/)にあたることで、一昔前では考えられなかったほど簡単に入手できるようになった。British Libraryやその他の図書 館が提供するデジタルライブラリーの内容や、インターネットを介した情報収集のありかたについても、別に稿をあらためて考えてみる必要がある。
  近代のリーダーとしてのイギリス像がはかなく崩れ、大英帝国の幻影が遠のくにつれて、老大国へのさげすみにかわって、古き良きイギリスヘのノスタルジックなあこがれが、デイレッタントの玩具として読書界を闊歩しているようにみえる。 もとより先進国のモデルを追い求めた時代はもはや戻っては来ない。穏やかに無限の進歩の道を歩んできた普遍的な文明の担い手を賛美するウイッグ史観は、大英帝国の終焉とともに永遠に舞台から姿を消すであろう。先進国が築いた巨大な生産力自体が、醜い悪臭を放っているこの時代にあっては、「近代」の文明の問題性を見据える ことが何よりも求められているからである。しかし時代に乗り遅れた老いさらばえた国を廟笑するのも、失われつつある貴族の文化を懐かしむのも、新しい地平線を切り開く態度とは言えまい。現実の称賛や、現実と格闘しないデイレッタンテイズムは、知的な勇気と希望を失ったしるしに過ぎない。必要なのは、「近代」文明の亀裂と矛盾を冷徹に解剖することにある。むやみな 理想化や蔑視が去った今こそ、ある意味でイギリスの多彩な文化の背後にある亀裂を見通す時代が始まったというべきなのかもしれない。