犬を飼うということ
ホーム 上へ 「常識」という非常識

 

 休日、久しぶりに夫婦で梅田方面に出かけた。帰りにビールでも飲もうかということで歩いていくと、ペットショップがあったので、迷わずに立ち寄る。二人ともすぐに柴犬のところへ行く。一匹コロコロしたのがスースー眠っている。一心に眺めていると、店員さんがその子犬を出して、妻に抱かせてくれた。生後3ヶ月の子犬である。私が代わると、顔をペロペロ舐める。手を齧る。なんともいえず可愛いものである。妻など、もう目に入れても痛くないという状況で、すぐにでも連れて帰りたそうな様子である。「躾けはどうするんですか」、「食べ物はペットフードだけで大丈夫なんですか」などと、どちらももうその気になって店員さんに色々と尋ねる始末である。完全に自分を見失っている。その間も子犬は愛嬌を振りまいては私たちを困らせる。

 「よく家族で相談します」と、かろうじて踏みとどまって店を出る。ビアホールで生ビールを一口飲むと、「おい、どないするんや」「お父さんこそ、どうするん」「俺は一切面倒見いへんで」「冷たいな」。数年前に妻がハムスターを飼ったことがある。そのうち家族の人気者になった。2年半ほど私たちと過ごした後、ある日去っていった。正直に言うと、私はそれが嫌だし、日頃運動という運動をしたことのない妻に柴犬の散歩というハードワークはきついという判断があった。だから近所のRくんやRiくんなどと、ときにふれあえる、それが私にはちょうどいいと思っていた。大阪くらしの今昔館にて

 そのうちに話は近い将来におこるであろう妻の両親の介護のことだとか、果ては私たち夫婦自身のことだとかということにも及んでいく。つまりそのときには犬の面倒はどちらかが見なければならないということと関連する。ひょんなきっかけで日頃お互いが心の奥に抱いていたことがいろいろと話し合われた。「やっぱり大変やな」「うーん…」「もおちょっと考えよか」「飼わなあかん、ということもないもんね」と二人のトーンは落ちていく。トーンの変化はひょっとすると柴犬を飼うということに対する思いからではなく、私たち夫婦が人生の峠を降りかけたという心情から発しているのかもしれない。

 こうして書いてくると、私の性格が自分自身嫌になってくる面もあるが、ペットを飼うということは他家のペットとふれあうということとは違う。我が家で柴犬を飼うということの意味がぐるぐると頭の中を駆け回っている。それは家族の一員として迎えるということであり、送るということである。喜びや楽しさだけではなく悲しさや辛さをも受け入れる覚悟が求められる。私たち夫婦の後半生はがらりと変わることになる。子犬に頬を舐められた嫌いではない感触を思い出しながらも、柴犬を飼うという決断ができないでいる。

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