六年前のことになる。当時私は近郊の山を独りで歩くことが楽しくてほとんど毎週のように何処かへ出かけていた。朝早く起きだしてオムスビをにぎり、出汁巻卵・ウインナーをおかずにした
、私にとっては定番の弁当をつくる。「行って来ます」とまだ寝ている妻に声をかけて静かに家を出る。もっとも山を降りたあと、梅田あたりで一杯引っ掛けてはいい気分で帰ってくるといういいかげんなハイカーに過ぎないところが「凡人」の凡人らしいところであった。
そのうちにハイキングの本を買って、さあこれからいろんなコースを少し真剣に楽しもうという気持になってきた。その手始めに選んだのが「大文字山・瓜生山コース」、距離14.5km、時間5時間6分という健脚者向きのコースだった。京都市営地下鉄の東西線「蹴上駅」近くの日向大神宮から大文字山を目指し、五山の送り火で知られる火床から京都市街のパノラマを楽しむ。一度銀閣寺近くに下山したあと、日本バブテスト病院近くから山道に入り瓜生山山頂を経てケーブル比叡駅に至るというルートであったが、完歩することなく、一乗寺下がり松あたりに下山してそれ以来山歩きをやめてしまっていた。
昨年東雲会の師匠と伏見稲荷から大文字のルートを歩いたのは東雲会番外勝負「煙突のあるところ銭湯あり」に記したとおりであるが、そのときは南禅寺境内からの登りであったため、このルートは六年ぶりということになる。東雲会の師匠をはじめとした六人の
方たちにご同行頂いた。今回の再挑戦の私の目的は六年前に遭遇した未知の方の縊死現場(第一発見者ではなかった)での合掌である。しかし結果的にはその現場を認識できずに通り過ぎてしまったことに気付いて、「申し訳ありません」と思いつつ、心の中で合掌しながら大文字の火床まで歩いた。私という人間のいいかげんさに驚いてしまった。後日その心情を話すと、東雲会の会員であり金峯山寺で修験道の指導をされている僧職の方から「そう思われることで、その方は救われていますよ」と仰って頂き逆に救われる思いだった。
大文字の火床に立つと京都の市街が一望できる。沢山の人がそこで喜んだり悲しんだりしているはずの風景であるが、博物館で見るパノラマのようで、不思議とどこか現実感覚に乏しいように私には感じられた。うまくいえないがそれが真実ではないかとふと思う。人間という存在など人間が思うほどたいしたことではないのが宇宙での意味合いではないか。
でも、せっかくだからいろいろと抵抗して生きようと思っている。
いつか、もう一度完歩しようと思っています。
合掌。
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