足の指の間が痒くなる心意気
2002年8月25日(日) 「恋と愛 〜日曜日の恋愛論」 |
「恋」と「愛」は同じなのか? それとも別個のものなのか? 「恋」はその対象を近年幼児から同性にまで広げつつあるように見受けられるものの、とりあえずこの場では「成熟した男女の間の恋」に論点を絞るものとする。また「愛」の対象も、広くは人類相手に留まらず、宇宙中の生物・無生物一般に対する愛、狭くは己の属する組織や肉親などに対する愛など、その裾野の広がりは果てしなく無限であるが、ここでは同様に「成熟した異性に対する愛」に限定したいと思う。 「恋」も「愛」も対象は同じだとすると、さて何が違うのか? 「恋」という言葉には「かわいい」「いとおしい」という感情が前提として含まれている。それは即ち一個人の一個人に対する感情であり、そこから何かを得よう、という感情である。また対象の広がりはそこで留まり、永遠に動かない。言い換えれば感性の産物である。 対して「愛」には「慈しむ心」「いたわる心」「思いやる心」という、人としての原理・原則と言うべき、いわば人が人たるゆえんとされる悟性によって生み出されるものであり、「与える」という行動を伴う。そしてその対象の広がりは無限であり、やはり一個人に留まらせるべきものではない。 人間が一番好きなもの。それは何だろう? 言うまでもなく、それは「自分」である。「恋」のその最も原始的なカタチは「自己愛」と呼ばれる自分自身への恋である。人はそこから抜け出すことは決してできない。 自分に「恋」する者はナルシストと呼ばれ、そこからは何も生まれない。鼻をつまみたくなる腐臭のみ。「ジサクジエーン(自作自演)」と蔑まれるのがオチである。 人に「恋」する者は、相手という鏡に映った自分に対して恋している。相手を喜ばせることが、結局自分の喜びになる。恋人と自分だけが喜べばいいのであるから、時として自己中心的な色恋沙汰を繰り広げる。これも一種の自己愛の域を出ることはなく、「恋愛の暗黒面(Darkside of the Love)」へと陥ることもまれではない。 人を「愛」する者は、人の向こうにいる自分を愛する。それは即ち「仁の心」であり、その愛は勇気を産む。その勇気とはもちろん「正しいことを行う」勇気である。正しいこと行うことは、時として非常な苦しみを生じることもある。それでも愛を貫くことができれば、文字通り、世界はあなた方を祝福するだろう。 しかし、やはり愛だけではときめかない。「キミさえよければ」「あなたが喜ぶのなら」と言うささやきこそが、二人の想いを燃え上がらせるのであるから、やはり「恋」と「愛」、その二つが揃って初めて「恋愛」の形をなすのである。 |
片言隻句 恋すれば 他人は全く 目に入らず 愛すればキミと 心は一つ かあくん 好きなだけ、では 薄い幸せ 3太郎 |