<一年B組担任、数学科、矢沢栄介のその日>

 私は、いつものように授業を続けていた。一応教室内は静かで、授業をよく聞いているように見える。しかし、中にはこういう不真面目なものもいる。
 私は視線はその、机にもたれてすやすや眠っている生徒のところで止まった。話しによれば常習犯らしい。この際担任の私から、一言注意すべきだろう。
「おい!山田!」
 私は彼の名を呼んだ。山田は、それでも机にもたれたまま眠っている。クラスの他の連中は、クスクスと笑い出した。
「おい・・・山田・・・」
 山田の後ろの席に座っている中谷が、山田の椅子を突つく。
「・・・ハイ!!・・・」
 彼は慌てて立ち上がった。
 ハハハハハ、みんなが一斉に笑い出した。
「おまえなあ・・・」
 思わず私まで呆れた声を上げてしまった。彼は、頭を掻きながら笑ってごまかしている。
「おまえなあ・・・居眠りもいいかげんにしろよ!」
 今回はそれだけ言うことにした。他のまじめな生徒たちのため、私は授業を続行することにした。


「矢沢先生」
「はい?」
 放課後、私は小島先生に呼び止められた。彼女は学内では一番の古株、もちろん教職員総て含めて、であった。定年間近の彼女は、ある意味この学園の“主”であったが、それでいて誰彼分け隔てなく気さくに話をする人であったので、どの教職員からも好感を持たれており、悪口など聞いたことのない今時珍しい存在だった。
「矢沢先生は、この学校内全部ご覧になったことありまして?」
 彼女は妙なことを聞いてきた。学内なら、去年見学に来たときに大方見て回っている。確かその時案内してくれた中に、小島先生も入っていたはずだ。
「ええ、大方は」
 大方というのは、去年この学校はまだ女子校であり、男性の私が立ち入ってはいけないところが大分あったからである。その後、春休みの間にいくらか校舎が改修され、男子更衣室や男子トイレが作られたと聞いている。
「今日、少し残業して頂けます?」
「え?」
 私は聞き返した。この人は何を言おうとしているのだろう。
「いや、大したことではないんだけど・・・男性陣の皆さんは今年からだし、この学校の真の姿をご覧になったことがないでしょう?だから今日、親睦会もかねて学内の見学会をしようと思うの」
 なるほど、ただ単に遠回しな言い方をしてみただけのようだ。この学校はもともと去年まで教職員も含めて一人も男性がいなかった、つまり完全に女性だけの職場だったのだ。そこに男性の我々が何人も入ってきたのだから、彼女たちにとっては相当な戸惑いや違和感があるだろう。少しでも親睦を深めておこうというのはごく自然に思える。もしかして今まで気さくに私たちに話しかけていたのもそういう理由であえてしてみていたのかもしれない。
「わかりました。で、何時に何処に?」
「下校時間の少し前に、礼拝堂の前ということで。ウチの生徒たちが聖母様にお祈りをしている姿を是非ご覧になって頂きたいの」
 礼拝堂を外から眺めたことはあるが、そこで生徒たちが“お祈り”をしているとは意外だった。見学に来たとき、中は男子禁制というので立ち入ることができなかったし、今時の女子高生が、どんな顔をしてお祈りしているのか・・・・私はその中の光景に興味がわいた。それにこの学校を一番愛しているだろう彼女の物言いとしては、生徒たちの姿を見て欲しいというのは早く学校を理解して欲しいと言うことに他ならないのだろう。
「わかりました。では礼拝堂の前と言うことで」
 今日は特に予定もない。私は二つ返事でそう答えた。小島先生はニッコリ微笑んで歩いていった。

 下校時間が近くなり、私は同僚の男性教師たちと一緒に礼拝堂の方に歩いていった。
 やはり今まで男性がいなかったためだろう。今はまだ授業を持つこともない二年、三年の生徒たちの多くも、我々の出現に戸惑い、好奇の視線を向けてくる。どういう好奇かはそれぞれだが。
 もう辺りは薄暗いというのに、礼拝堂には煌々と明かりが灯っていた。そういえば、この学校は礼拝堂の明かりを一晩中灯りを絶やさないと聞いたことがある。今までは新しい職場に慣れるのが精一杯だったので、確認したことも、しようとしたこともなかったがどうやらまんざらウソでもなさそうだ。
 約束どおり、扉が閉ざされた礼拝堂の入り口のところで待っていると、どこから集まってきたのか一年の女生徒たちがわあ、と嬌声を上げながら集まってきた。
「先生も一緒にお祈りしようよ!」
 彼女たちは口々に言いながら、我々の腕に絡みついた。後からゆっくりと歩いてきた小島先生がその光景を微笑んだまま眺めている。
「あらまあ、さすがに若い先生方はもてるわね。あなたたち、そんなはしたないことしないの。先生方困っているじゃないの」
 小島先生は、その光景を見て微笑みを絶やさぬまま続けた。彼女たちは、はあい、と良い返事(!)をすると重い扉を開けて一人一人中に入っていく。
「さ、先生たちもどうぞ」小島先生は、我々も中にはいるように促した。しかし、確か・・・
「礼拝堂は、男子禁制では?」一応確認の意味で私は小島先生に尋ねた。教職員が学校のルールを破るわけにはいかない。
「そうだけど、入るのは構わないですよ。もう理事長先生や教頭先生も先に入っておられることだし。きっと素晴らしいことが待っていますよ」
「そうだよ先生、行こう!」
「お祈りしようよ!」
 数人の女生徒がまだしつこく絡んでいる。小島先生の答は少し引っかかったが、理事長や教頭が先に入っているということならば、とりあえず入ってもお咎めはなさそうだ。
 私たちは、半ば女生徒たちに押し込まれるように扉の中に入った。
 中は、思ったより広いようだった。高い、まさに礼拝堂というような装飾の施された天井や壁、柱が、学校とは思えない厳粛さを醸し出している。そして、むせるような匂い。はじめてこの学校に来たときに感じた、たちこめるような女の匂いのさらに強力なやつが、この場所が男子禁制であることを私たちに訴えているようだ。
 驚いたことに、その中でおそらくほとんどの女生徒と、教職員までがひざまずいて祈りを捧げていた。そして一番奥にはこの学校で一番敬われているという聖母像が、とても優しい表情で、彼女たちを見下ろすように立っている。
 私は不意に、映画か何かの世界に迷い込んだような錯覚を受けた。去年までいた共学校の女生徒たちの姿からは想像も付かない異様に厳粛な雰囲気が私たちを飲み込んでいる。耳には、彼女たちが詠唱する祈りの声が反復していた。呆然と立ちつくす私たちに、小島先生がゆっくりと、はっきりとした声で促した。
「さあ、皆さんも祈るのです」
 この雰囲気の中で、彼女の声に逆らうのは無意味に思えた。私は、他の女生徒や女教師たちと同じように、ひざまずいて両手をあわせた。他の者達もそうした。
 全員が祈りの姿勢をとった時、突如何か強烈な閃光が走った。私が驚いて顔を上げると、不思議な光景が目に入ってきた。
 礼拝堂の前の方で、横たわって悶えているように見える二人の見慣れない年輩の女性。彼女たちと、聖母像との間に、お互いをつなぐように紐のようなものが存在していた。それだけではなかった。その紐の聖母像側の付け根、つまり聖母像の腹部から、なんと新しい紐が何本も生えだし、目にも留まらぬ速度でこちらに向かって伸びてくる。まるでスローモーションのように見えたがそれはほんのコンマ何秒の出来事だったのだろう。考える間もなく次の瞬間には私の腹部に先端が当たって、いや、吸い付いていた。
「なんだ、これは!」
 同僚の声で私は我に返った。周りを見回すと、私だけでなく同僚たちの腹にも同じ紐、いやチューブのようなものが繋がっている。私は慌ててそれを外そうと引っ張ったが、それは伸びるだけでまったく外れそうな手応えがない。同僚たちも同じだった。
(美しく清らかなる我らの聖母様・・・)
 女生徒たちは、なにも起こっていないかのように祈り続ける。その声だけが、私の頭の中で徐々に大きく響き渡っていく。それと同時に、何か暖かいものが腹から広がりはじめた。それは徐々に、身体に染み渡るように広がっていく。
(我らはあなたさまの娘・・・)
「さあ、皆さんも聖母様の娘になるのです・・・・この学校に相応しい姿に」
 小島先生らしい声が、祈りの声に混じって聞こえてくる。腹から、いや例の紐から何かが体の中に浸入してきている。それは体中に染み渡り、染み渡ったところからは心地よさがこみ上げると同時に力が抜けていく。私は両手を床に突いてなんとか身体を支えたが、その身体のあちこちが、異変を訴えていた。胸がむずかゆく、なんだか重くなっていく。腰から尻にかけても体の中でミミズでも這っているような、むずかゆいようなくすぐったいような感覚が走っていた。下腹部から、股にかけての辺りがとても熱い。まるで溶けてしまうかのようだ。
(どうか我らを清め賜え・・・乙女の清らかさを与え賜え・・・)
 ついには、膝と両手ですら身体を支える力さえ抜けてしまい、私は床にうずくまった。腕と胸になにかが当たる。いや、胸が腕にぶつかっているのだ。しかし腕が感じる胸の感覚は、ふんわり柔らかい。まるで女性の胸のように・・・・いや、事実そうだったのだ。
(聖母様の娘に・・・・)小島先生の言葉が脳裏に響く。もう遅かった。前の方にうずくまっているのはおそらく理事長と教頭だろう。そして、今我々の身にも同じ事が起こっている。
 信じ難かったが、周囲の同僚たちも同じ事だった。祈りの声以外は耳に入ってこないが、私の周り中で、男性が女性に変わっていく。そして私も・・・・
 すでに疑う余地はなかった。全身が心地よさを越えた恍惚感を訴えている。すでに下半身の感覚から、慣れ親しんだあの器官の感覚は消えていた。その代わりに身体の奥の方に今までとは違う感覚が存在している。筋肉質だったはずの胸には柔らかい二つの膨らみがあった。肩に何かがかかる。それは私の髪だった。
 恍惚とした感覚に包まれたまま、私は女の姿になっていった。それは身体の変化に止まらず、服装にさえ及んでいた。慣れない締め付けられるような胸の感覚と、身体にフィットした感覚。そして経験のない心地よい肌触りが私の皮膚に触れている・・・
「お疲れさまでした。もうお祈りの時間は終わりましてよ」
 小島先生の声で、ふと我に返った。周りではざわざわと、生徒たちがやはり何事もなかったかのようにお喋りをしながら礼拝堂を出ていくのがわかる。
 戸惑いながら、私は立ち上がった。まるで夢を見ているかのようだ。そして私は、身体だけが変化しているのでないことに改めて気が付いた。周りには、私と同じく男だった同僚がいたはずだったが、誰がそうだったのか、まったく思い出すことができない。それどころか、自分のことさえも思い出せない。記憶が混乱している。幼い頃のこと、学生時代のこと、かわいらしい女学生の姿。あこがれていた彼女、いや、彼女は親友だったのか?お下げ髪の少女、私の両親・・・・・
「矢沢先生、どうなさったの?」
 A組担当の八島先生に肩をたたかれて思い出す。今日はこれから親睦会だったはずだ。
「さあ、食堂へ参りましょう」小島先生が促す。私は他の皆さんと共に食堂へ向かった。


<一年B組:中谷 光彦>   <一年B組:高橋 佳一>   <一年B組:山田 明夫>

<翌 日>