関西の歴史街道
和歌山街道その1
和歌山街道は、和歌山の城下から伊勢国松坂に至る街道である。和歌山県では大和街道とも呼ばれ、奈良県では伊勢南街道とか高見越伊勢街道とか呼ばれていた。また、この街道は紀州徳川藩の参勤交代の道としても有名であったが、元文(1736~1740)の頃からはルートが変り利用されなくなった。
ここでは、和歌山県下の一部と奈良県下の一部でウォーキングに適したところを掲載した。
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街道の概要

行程記
区間
距離(約)
ウォーキング適格度
第1回 
岩出市船戸~紀の川市粉河 
11km 
4点(5点満点) 
第2回 
紀の川市粉河~かつらぎ町妙寺 
12km 
4点 
 第3回
 かつらぎ町妙寺~橋本
11km 
     4点 
 第4回
橋本~奈良県五條 
10km 
5点 

行程記 第1回 岩出市船戸~紀の川市粉河  距離 約11km 

出発はJR和歌山線船戸駅とする。ここは和歌山県岩出市である。
駅前の道を北へ行くと三叉路に突き当たる。この東西の道が和歌山街道である。和歌山県下には、大和街道と記された小さな道標が要所要所に設置され、迷うことなく橋本市の真土峠まで導いてくれる。ここの三叉路にも設置されている。
ここを右折すると、すぐのところに船戸の渡しがある。旅人はここから紀ノ川の対岸にある岩出の渡しまで船で渡ったのである。我々は少しバックして岩出大橋を渡り、対岸の岩出の渡しまで行くことになる。
岩出の渡しからは北へ延びる道を進む。岩出市街では右折、左折を繰り返し進まなければならないが、まずは岩出駅の南側の踏切を越えることとする。春日川に架かる大冠橋を渡り堤防を下りて行くと、高塚の道標が立っている。
高塚の道標(写真301)高さ 約1.5m 正面上部に弘法大師像が浮彫されている。
  (正面) 左り 紀三井寺 わか山 道
  (西面) 右 こかわへ二り半
          いせ かうや 道          かうや=高野  祢ごろ=根来
  (東面) 文政九年丙戌正月建之        文政9年=1826年
  (裏面) 左り 祢ごろ 大坂 道
道標の前の道を東へ進む。この辺り、地図で見るとのどかな道のようであるが、現実はかなりの宅地化が進んでいる。大きな工場やマンション、アパートが虫食い状態で侵食しているのがよくわかる。車の通行量も多い。
道標から1.2kmほどで紀の川市下井阪の集落に入る。集落の手前で道は少しの上り坂となっている。高塚の道標のある辺りは、昔は紀ノ川、春日川により頻繁に水をかぶったところであるが、下井阪の集落はそこより10mほど高くなっているので、ぎりぎり水害の被害は免れてきたようである。
下井阪の道は幅が狭く、緩やかなカーブを描き、旧道の雰囲気を色濃く残している(写真302)。下井阪から中井坂へのんびりとした田舎道を進み、中井坂を抜けると街道は県道14号に合流する。
合流地点に西田中神社が建っている。本殿2棟は県指定文化財に指定されているが、由来などは特筆すべきものがない。
しばらく県道歩きを続けると、毎日新聞販売店があるので右の細い道を進む。のんびりとしたよい道である(写真303)。右手前方に竜門岳の雄大な山塊を望むことができる。紀の川市上野に入ると街道は再び県道に合流する。
県道に面した田中小学校の少し先で、今度は斜め左の旧道に入る。打田(うちた)の集落の中を抜けるがまた県道に合流する。
県道と国道424号の交差点の少し北に東田中神社が鎮座する。最近、地元有志により鳥居脇に「一里塚跡」の石碑が設置された。
神社横の新興住宅街を抜けると、田んぼ道が続く。国道24号の陸橋を渡ると黒土の集落に着く。街道は少し下り坂となり、水路に沿って上田井の集落へと入っていく。街道はまた上りとなり、河岸段丘の南端を通っているという感覚である。街道に面して上田井八幡神社が鎮座している。この神社は以前紀ノ川のほとりに祀られていたが、水害によりこの地に移されたそうである。
上田井を抜けてなおも東進する。三叉路の突き当たりを左へ行く。この突き当りに土塀を有した旧家らしい立派な家が建っている(写真304)。この道を真っすぐ北へ行けば長田観音である。
長田観音
通称長田観音というが、正式には如意山厄除観音寺という。本尊は如意輪観世音菩薩で、厄除け開運に霊験あらたかである。平日でもそこそこの人がお参りしていて、人気の高さがうかがえる。
この北進する道の途中に長田の道標がある。
長田の道標
  (南面) 右 いせ かうや
  (西面) 左 長田除厄観世音
          こかわ寺へぬけみち
ここでいう「ぬけみち」とは、長田観音の境内から直接粉河寺へ行けるという意味である。
長田の道標のいう通り、ここを右に折れ、東進して国道を斜めに横断する。横断したところの街道の右手に風市森神社が鎮座している。社殿は街道に背を向けて、紀ノ川の方を向いている。やはり紀ノ川の鎮めのために祀られているのであろう。
松井の集落を抜けると田舎道となり、ミカン畑が少し残っている。粉河に入る辺りに自然石の道標がある。
粉河の道標  高さ 約1.1m
  (西面) 左 こかわてら
  (南面) 右 いせみち
この道標は以前道に置かれていたが、今は真四角のコンクリートの土台の上に乗っている。道標がこのような姿でおさまっているのは全然様にならない。前のように道に直に置いてもらいたいものである。
街道はやがて広い道に突き当たるので、少し南の藤崎井用水路の脇の道を東進する。この道は桜の並木道となっているが、やはりコンクリートの分厚い床板で覆われているのが無粋極まりない。
街道は粉河の中心部を南流する中津川に突きあたる。昔はここに一里橋という橋が架かっていたらしいが今はない。ここから先は道が不明瞭につき、中津川の土手を北に進み国道を右折し、井田の集落へ入っていくものとする。
写真301 高塚の道標
写真302 街道 紀の川市下井阪
写真303 街道 紀の川市花野
写真304 街道 紀の川市嶋

行程記 第2回 紀の川市粉河~かつらぎ町妙寺 距離12km

出発はJR粉河駅とする。粉河駅から南下して一度国道に出る。国道の粉河郵便局の横の道を北上し、すぐ東へと進む。これが和歌山街道である。初めは新興住宅の間を進むが、旧の井田集落に入ると、途端に古道の雰囲気が出てくる。
井田に入ったところに常夜灯があり、その足元に高さ70cmほどの道標がある。自然石のままなので、うっかりすると見落としてしまいそうな道標である。
井田の道標
  (正面) 右 こかわ 左 わか山 道
  (東面) 左 かうや いせ まきのを 道
この辻は淡路街道の起点となっていて、粉河寺の横を通り、現在の県道7号と重複しながら加太まで続いている。「右こかわ」とはこの淡路街道をいうことになる。
井田の道標から少し進むと高野辻に出る。高さ1.7mほどの立派な常夜灯が建っていて道標も兼ねている。
高野辻の常夜灯
  (正面) 右 かうや道
       弘法大師永代常夜燈
       左 いせ まきのを 道
  (南面) 文化十二乙亥年                文化12年=1815年
高野辻(図301)
粉河寺の参拝を終えた西国三十三所巡礼者のうち、次の第4番施福寺に行く前に高野山に参詣する人が多かった。高野山への別れ道となっているのでここを高野辻と呼んでいる。高野山へはここから道を南にとり、紀ノ川を渡り麻生津(おうづ)道で行くことができる。麻生津道は市峠、梨ノ木峠、花坂を経て矢立で高野山町石道に合流する。
和歌山街道は北へと曲がりJR線を越える。そこに東野地蔵堂がある。地蔵尊は小さなものであるが、珍しいことに地蔵尊は道標の上に祀られている。
道は王子集落を抜けて名手市場へと入っていく。名手川に架かる名手橋を渡る。街道ははその橋の東詰めから北へ一筋目の道である。この周辺は和歌山街道が小高くなったところで、市場の性格をもつ村落が形成され市場村として発展していった。
旧名手郵便局
名手市場の東端に旧名手郵便局がある。昭和3年に新築され、平成9年まで営業していた。外壁は木製の横羽目板取りである。昭和初期の洋風の郵便局の形がよく保存されている。
旧名手本陣
旧名手郵便局を少し東へ行くと旧名手本陣(妹背家住宅)に着く。妹背家は元市場村の富豪で名手庄(なてのしょう)の大庄屋となった。この妹背邸が参勤交代などの際に休憩や宿泊に利用されてきたので本陣と呼ばれるようになった。屋敷地約3,300平方mが国史跡に指定されている。屋敷地内には重要文化財の主屋と米蔵及び南倉が建ち、和歌山街道における本陣の遺構としての価値が高い。また、華岡青洲の人体実験に身を挺した妻「佳恵」の実家でもある。
本陣を中心として、街道筋の両側は古街道の雰囲気をよく留めている(写真305)
穴伏(あなぶし)の集落を抜けると国道420号に突き当たる。街道はここを北上し、JR和歌山線を越えるらしいが、正確なルートがわからない。ここではJR和歌山線の手前の道を東進し、妹背橋を渡ることとする。妹背橋を渡ると、かつらぎ町に入ることとなる。
国道24号に合流するが、すぐ先の高田交差点を左に折れ、丘陵を上っていく。
街道はJR線を越えるが、西笠田駅の手前で再びJR線の南に戻り、線路に沿った細い道を東進する。この辺り、背ノ山が紀ノ川に接近してきて、その間を国道、和歌山街道、JR線と並行して走っている。そして、和歌山街道は丘陵地の南限を通っているので、紀ノ川と国道より一段高く、紀ノ川中洲の船岡山を一望することができ、絶景が広がっている(写真306)
左手の背ノ山は、標高168mで、対岸には妹山という山があるらしいが、茫洋としてよくわからない。古代、この背ノ山が畿内(都に近い国々)の南限であった。
街道はJR線のガード下をくぐり、伊都浄化センターを目指して進む。しかし、街道は浄化センターで完全に分断されているので、浄化センターに沿って国道を500mほど歩かなければならない。浄化センターが途切れたところを左折し、すぐ右へ曲がりたんぼ道を東進する。
400mほどでかつらぎ町笠田中(かせだなか)の集落に入っていく。ここは道幅が狭く、車も通らない旧街道らしい道である。町中は少々入り組んでいるので、県が設置した大和街道の碑を頼りに進まなければならない。
集落の中をしばらく行くと、道中安全などを祈願して立てられた一字一石塔がある。
一字一石塔
  (正面) 一字一石
  (左面) 文政十二丑六月立之               文政12年=1829年
          酒屋 利兵衛
一字一石塔から少し行った右手に大きなクスノキが見えてくる。ここら辺りの道も街道らしさを色濃く残している。
十五社(じごせ)のクスノキ(写真307)
妙楽寺境内にそびえ、樹齢は600年と推定されている。一本の木でありながら、地上からすぐに何本もの太い枝に分かれていて、森のように見えることから十五社の森と呼ばれている。
この妙楽寺には、白鬚・八幡・天神・蔵王・丹生・高野・気比・熊野・牛頭天王・弁財天・恵比寿・大黒・山神・淡島・大将軍の15のお社が祀られていたので十五社と呼ばれたそうである。
笠田東を通り抜け、佐野に入ったところで、斜め右の道に入る。バカでかい門のある民家の横を通ると国道に突き当たる。国道を200mほど進むと五差路があり、斜め左の道に入る。蛭子の集落を抜けると、紀の川市庁舎のところで国道に合流する。役場前の交差点で国道を横切り、国道南の丁ノ町の細い道に入っていく。この細い道は直線道路で、周りも新建材の民家であるが、車の通行量は少ない。1.2kmほどで妙寺駅前の大きな道路に出会うことになる。
図301 高野辻
写真305 街道 名手市場
写真306 紀ノ川と船岡山
写真307 十五社のクスノキ

行程記 第3回 かつらぎ町妙寺~橋本 距離11km

出発はJR和歌山線妙寺駅とする。駅から南へ、国道を渡り一筋目の細い道が和歌山街道である。
約300m東へ行くと、文政十年(1827)、法花全部一字一石墳と刻まれた一字一石塔(写真308)が立っている。
一字一石塔とは、石に法華経の全文字を墨や朱で一字一字書き込み、その経文石を各地の要所に埋め、その上に塔を立て人々の安全を祈願したものである。江戸時代中期に高野の僧が行ったとされている。かつらぎ町には一字一石塔が15ヶ所ほどあるらしい。
妙寺の集落を抜けたところに延命地蔵があり、その前にも法花一字一石墳と刻まれた一字一石塔が立っている。
街道は西飯降(いぶり)の集落に入る。北へ曲がるところにも小さな一字一石塔がある。西飯降は昔懐かしい山村といった感じである。やがて街道の南側に小田井用水路が現れ、深い切れ込みをなしている。
そこに初桜酒造の情緒ある建物が現れる。ここら辺りの酒は、和歌山城下からみて紀ノ川の上流にあたるため川上酒と呼ばれ、名酒として愛されている。なかでも得意先は高野山である。厳寒の頃ともなると、いくら高野山の僧といえども酒でも飲んで温まらないと寝られなかったに違いない。
初桜酒造の隣の角に小さな道標がある。
  (正面) 右 高野山 慈尊院
       左 いせ
ここを南へ行ったところに紀ノ川の渡し場があった。慈尊院は対岸の少し上流にある。
街道は道標通り北東の細い道に入っていく。国道を横断すると少し上り坂になっている。河岸段丘の南端である。中飯降の集落を進むと街道はまた下りとなり、用水路に沿って東進することになる。
紀ノ川へ流れ込む少し大きめの川・嵯峨谷川が現れる。これから先は橋本市高野口町である。粉河寺から高野山へ回った西国三十三所巡礼者は、この嵯峨谷川の上流を辿り第4番施福寺を目指したのである。
北を走る京奈和道の高野口インターへ行く高架橋の下をくぐると街道は広くなる。250mほど行くと、広い道と重なるような細い道が北側に現れるので、そこを進み高野口町の市街へ入っていく。
明治33年紀和鉄道が開通すると、高野口駅が高野参詣の玄関口となり大いに栄えた。ルートは、高野口ー九度山ー椎出ー神谷ー不動坂ー女人堂である。しかし、昭和5年、高野ケーブルが開通するにおよび高野口は急速に寂れた。
街道の面影を少し残す細い道をしばらく進むと五差路に出る。道を南にとればすぐに高野口小学校に着く。昭和12年に建てられた大きな木造校舎が建っている。
和歌山街道は五差路で今来た道を直進する。すぐに前田邸が現れる。国登録有形文化財となっている。前田家は江戸時代から薬種業を営んでいた旧家で、庄屋も勤めていた。
JR高野口の駅前にも葛城館という国登録有形文化財が建っている。木造三階建ての旅館で、高野口が高野山参詣で賑わっていたころに繁昌した。今は旅館業を止め内部の見学もできないが、外観は一見の価値がある。
前田邸の前の道を東へ進む。道なりに左へ曲がるところに出る。両側の商家は街道の雰囲気をよく留めている。道は上り坂となるが、ここはババタレ坂(写真309)といわれている。牛馬が荷車を引き上げるとき、足腰を踏ん張るとよく脱糞したのでこの名がある。
JR和歌山線の踏切を越え、すぐ右に折れ、なおも緩やかな坂道を上っていく。瀧井寺の前を通り左に折れると住吉神社の2基の常夜灯が現れる。そこを東へ進みまた北上する。市街地を外れた辺りに名古曽廃寺がある。
名古曽廃寺
俗に「護摩石」といわれる古伽藍の三重塔の心礎がある。今はその心礎の上に方一間余りの宝形造りの小堂が建っており、なかに弘法大師の木像が祀られている。
名古曽廃寺の古い記録では、方八町の伽藍があったと伝えており、礎石の柱穴の大きさから高さ20mあまりの三重塔が建っていたと推測されている。
一里松
名古曽廃寺の北に一里松の跡がある。太平洋戦争中に伐採され、今は痕跡もない。和歌山城下から数えて10里のところであった。昔、罪人で国外(紀州藩外)へ追放される者は、これより東に追い払われたという。
応其(おうご)団地の北側そして野中池の北を道なりに進むと、家並みがまばらになる。小さな川を二つ越すと新興住宅街が続いている。ここら辺りは橋本市神野々(このの)である。住宅街の中を進むと、四つ辻に小さな道標がある。
道標には、きみ峠とか子安帯解菖蒲谷地蔵寺とかが書かれている。この南北の道が古い高野街道である。高野街道は、河内長野から高野山へ行く途中、南海御幸辻駅あたりの御幸辻で、橋本へ行く街道と西へ行き子安地蔵寺を回り込むようにして南下する街道とに分かれている。後者の道がここを南下していることになる。
次は橋本市の野という名前の集落で、街道に沿って長く家並みが続いている。道幅は狭くなり旧街道らしくなってくる。特に東の端は旧街道の雰囲気を色濃く残している(写真310)。街道は坂を下り、国道と合流するが、すぐに左手の細い道に入っていく。
国道371号の高架道路の下をくぐると橋本市東家(とうげ)である。市役所などがある官庁街の北側を沿うように進む。上り坂の始まりのところに大師の井戸という旧跡がある。街道はもと庄屋宅長屋門など古い建物を少し残していて、旧街道の名残は少しある。坂を下ると四つ辻に出る。東家の四つ辻(図302)である。南北の道は、先ほどの御幸辻から橋本・学文路へと続く高野街道で、昔は大いに賑わったところである。
四つ辻の東南角に、『紀州名所図会』にも載っている立派な道標が立っていたが、今は10mほど南に移動させられている。
東家の四つ辻道標  高さ1.5m  江戸時代後期
  (西面) 西 右 かうや
          左 京 大坂
  (北面) 北 右 わか山 こかは
          左 い勢 なら はせ道の追分
  (東面) 東 京 大坂道
  (南面) 南 南無大師遍照金剛 施主○○ 世話人○○
四つ辻からすぐ東に橋本川が流れ、松ヶ枝橋が架かっている。ここからが橋本宿である。橋本川の橋のたもとには一里松が植えられていたが今はない。松ヶ枝橋から東へ、ほんまち通りを進むとそこが和歌山街道である。現在は市街地再開発が行われていて、この通りもいずれ消滅するのではないかと思われる。
火伏医院
火伏医院はこのほんまち通りに面して建っていたが、曳家工事が行われ、今は南へ15mほどのところに移された。主屋は2階建て、切妻造りの平入りの町屋形式の建物である。主屋の西側には病院棟が建っている。洋風の木造2階建てで外壁は下見板張りである。火伏の洋館と呼ばれていた。
ほかにこの辺りでは、小林家住宅とか日本聖公会橋本基督教会旧礼拝堂とか見どころは多い。いずれも国登録有形文化財である。
街道はやがて国道24号に出る。少し西へバックすると、戎神社があり、そこに道標がある。玉垣と同じように扱われ、元の設置場所もわからないそうである。
この辺りが宿場の中心地であった。塩問屋が軒を並べ、本陣宿もあり、舟番所も近くに設けられていた。本陣は今も国道の南側に建っているが、途切れなく流れる車の往来に閉口しているようである。
街道は国道から分かれ北へと進むが、また右に折れすぐ国道と合流する。その角に古佐田の道標が立っている。
古佐田の道標  高さ1.0m  嘉永3年(1850)の建立とされる。
  (東面) 左 かうや 古かわ
          き三井寺 わか山
  (南面) 右 いせ 山上 よしの                  山上=大峰山
          なら はせ たへま                  たへま=当麻
写真308 妙寺の一字一石塔
写真309 ババタレ坂
写真310 街道 橋本市野
図302 東家の四つ辻

行程記 第4回 橋本~奈良県五條  距離 約10km

出発はJR・南海橋本駅とする。
橋本駅から前回の古佐田の道標を通り抜けて国道に出ると、紀の川が眼前に広がっている。しばらく国道を進むと左に細い道がありそこを進む。妻の杜神社というなにか由緒がありそうな神社があるが、社殿がなく万葉歌碑が立っているだけである。やがて道は国道に合流する。
オークワ橋本店の反対側に細い道が東へ伸びている。道幅は狭く、ところどころに旧家が残っていて、古道らしさはまあまあである。
国道から分岐したところから1kmほどのところに西光寺がある。この辺りにあった茶店では名物の「夫婦饅頭」が売られていて評判だったらしい。
闇峠(くらがりとうげ)
西光寺の先に闇峠という峠があり、碑もあったらしいが今は見当たらない。この闇峠の峠という字は山編の山が逆さまに書かれるそうで、山がひっくり返るほどの難所だったといわれている。また、河岸段丘の道が一旦紀ノ川に流れ込む小川の土手の面まで下り再び上ることから、通常の峠の反対の下り峠という意味で山を逆さに書いたという説もある。闇峠の闇の意図するところは不明である。
JRの線路を越え、国道に接する辺りに阿弥陀の森がある。
阿弥陀の森
古代、奈良の都から真土峠を越えてきた旅人たちは、この辺りまで来ると疲れて病気になることが多かったので、行基菩薩がここに阿弥陀堂を建て、薬を与えて人々を救ったという。今はその寺はなくなっている。
高橋川に架かる西国橋の橋詰めに一里松が植えられていたらしいが、今はかけらもない。和歌山城下から12里である。ここからの道はまっすぐに伸びており旧街道らしさは全然ない。
直線道路をずんずん進むと国道に出るのでそこを斜めに突っ切る。ここは橋本市隅田真土(すだまつち)である。国道を越えると細い田んぼ道で、田園風景が広がるがまた国道に吸収される。国道の南側に弘法大師ゆかりの大師井戸がある。どのような干ばつでも井戸は枯れたことがなくまた水が冷たいので冷水(ひやみず)と呼ばれている。
ここから国道は上りとなる。上りきったところは開削の跡が生々しく残っている。道の北側を見上げると、取り残された民家が4,5軒並んでいるのが見える。奈良時代の道は今の国道の南の真土山を通っていたようである。万葉集には、真土山・真土峠を詠んだ歌が多数あり、歌碑がたくさんこの辺りに散らばっている。
紀伊国と大和国の境には落合川が流れ、少し南に「飛び越え石」と呼ばれる大岩が流れの中にある。水はそのくぼみを流れていて、万葉人はその大岩をまたいで川を越えたのである。
国道を少し行き、左手の細い道を下って真土の集落に入る。道も狭く、両側の民家も旧街道にふさわしいたたずまいである(写真311)。中には今も「上げ見せ」の残っている民家もある。街道は落合川を渡る。その先は奈良県五條市である。
街道はまた国道に合流する。東への上り坂を進むと峠の頂に到着する。ここの標高は先ほどの真土峠より10mほど高いが、峠の名前はない。国道から別れた右の道を下っていく。途中、旧紀州街道と書かれた道標があるが、道標は新しすぎてなんだかモニュメントのようである。
再び国道に合流し、JR和歌山線の高架を越え、少しだけ国道から別れた旧道を経て、また国道を進むと、転法輪寺に到着する。
転法輪寺
ここは弘法大師と狩場明神が出会った場所で、寺の看板にも「高野山発祥地」と堂々と書かれている。
弘法大師が唐での修業を終え、日本で道場を開く場所を求めていたところ、高野山の山奥の話を聞き、狩場明神から白黒2頭の犬を借りて高野山に案内されたといわれている(図303)。この由来からここを犬飼町と名付けられている。
転法輪寺の前から国道を突っ切り、JRのガード下をくぐって北へ進む。すぐに右手の旧道へ進む。この辺りから五條市二見に入ることとなる。道幅が狭く、車の通行もないのどかな道である。のどかな道のまま町中を抜け、JRの踏切を越える。すぐ隣がJR大和二見駅である。
国道を突っ切ると三塚地蔵堂がある。堂の塀の陰に隠れるようにして一里塚が立っている。
少し先で大きな道路を横切り坂道を下ると、街並みは街道らしくなってくる。ここはまだ五條二見だがすぐ先の五條新町とともに新町通りと称され、平成22年、重要伝統的建造物群保存地区(商家町)に指定された。
この新町通りに松倉重政の顕彰碑が立っている。関ヶ原の戦いで功があった重政は二見に着任した後、新町通りに商家を集めて諸役御免などの優遇策を設けるなどして、新町通り繁栄の基礎を築いた。しかしながら、重政は九州島原に移転後、分不相応の城を築いたりキリシタンの弾圧に苛斂誅求を極めたりして、島原の乱を引き起こす要因を作ってしまったのである。
五條新町通り(写真312)  (五條市観光パンフレットから)
新町通りの町屋は、ほとんどが厨子(つし)2階建て(2階を屋根裏の物置にする)で、そのため庇は比較的低い位置でそろい、街並みとしての調和を保っている。2階壁面や軒裏は厚く漆喰で塗り込めて、虫籠窓をあけている。屋根は本瓦葺と桟瓦葺が混在している。これが五條の町屋の特徴であるが、個別の町屋では同一の意匠をしていることはなく、各要素が多様に組み合わさって微妙な変化をもたらしているのである。
新町を進むと、新町通りを覆う高架橋が現れる。五新鉄道の跡である。
幻の五新鉄道  (現地説明板)
明治時代末期、五條市から和歌山県新宮市までを結ぶ「五新鉄道」の建設熱が高まった。昭和12年から建設が着工されたが、その後の経済社会情勢の変化に伴い中止となった。跡地の一部は路線バス専用道路や宇宙線観測所として利用されている。
注) 路線バスの運行は、一部トンネルの老朽化により平成26年9月に中止となった。
保存地区の主な建物
まちなみ伝承館  街並みの歴史等の資料をそろえている。
まちや館  江戸時代の伝統的な町屋建築の様式を復元
一ツ橋餅店(写真313)  新町通りのシンボル的存在
栗山家住宅(市文化財)(本町)  元禄9年(1696)の棟札がある。単層に見せる構造となっている。
中家住宅(県文化財)  宝永元年(1704)の建築で、元禄の大火以降に建てられた。
栗山家住宅(国重要文化財)  慶長12年(1607)に建てられた。建築年代がわかっている民家では日本最古といわれている。国道168号の西。
保存地区には、79軒の江戸時代の町屋が残っているそうである。
街道は新町通りを抜けると国道168号に突き当たるのでこれを北上する。本陣交差点の南西角に、笠付きの立派な道標が立っている。頂部に常夜灯の明かりを入れる窓もついている。
本陣交差点の道標  高さ 約2m
  右 いせ はせなら/大峯山上/よしの 道
  左 かうや わか山/くまの 道
    安政二年乙卯春正月                安政2年=1855年
道標から真東へ、国道168号を横切り細い道に入ると、さくら井戸がある。昔、弘法大師が旅の途中、ここで水を求めたところ、老婆がわざわざ吉野川まで水を汲みに行ったので、大師が錫杖で地面を掘って水を出したと伝わっている。
突き当たりを北へとり国道24号を横切り、桜井寺の横を通り五條の駅前へと進んでいく。
五條市
新町通りのところで出てくる松倉重政が島原へ移ったのち、五條は天領となり、江戸時代中ごろに代官所が設けられた。しかし、江戸時代末期に天誅組に襲われたのがこの代官所であり、天誅組蜂起の地として有名になってしまった。
もう一つ、特異なことは市内に御霊神社が25社もあることである。御霊神社とは、この世に恨みをのんで亡くなった貴人をご祭神として祀っている神社である。その霊を慰めるためとそのパワーにあやかりたいためにお祀りしているのである。
御霊神社の中の中心ともいうべき神社が、御霊神社本宮として霊安寺町に鎮座している。ご祭神は、井上内親王、早良皇子、他戸皇子である。
写真311 街道 橋本市真土
図303 弘法大師と狩場明神
写真312 街道 五條新町通り
写真313 五條新町一ツ橋餅店
この項終わり。
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