関西の歴史街道
街道の概要
行程記
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区間
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距離(約)
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ウォーキング適格度
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第5回
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大淀町北六田~吉野町三茶屋
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13km
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4点(5点満点)
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第6回
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吉野町三茶屋~東吉野村杉谷
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13km
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5点
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第7回
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高見山登山口~高見峠
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往復8km
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5点
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第8回
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高見峠~松阪市飯高町波瀬
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往復16km
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5点
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行程記 第5回 大淀町北六田~吉野町三茶屋 距離 約13km
街道歩きを再開する。出発は近鉄吉野線六田(むだ)駅とする。この辺りの住所は、奈良県吉野郡大淀町である。国道歩きがしばらく続くが、東600m程のところに柳の渡し場跡がある。
柳の渡し場跡(写真314)
吉野川の堤防筋に柳の木が植わり、天明6年(1786)銘の常夜灯と小さな道標が立っている。美吉野橋を渡った対岸の橋詰には役行者像がある。
約3km上流の上市の「桜の渡し」と約3km下流の越部の「椿の渡し」とこれとを称して吉野川の三大渡しと称されていた。また、柳の渡しの対岸の少し山側には柳の宿というものがあって、これは世界遺産大峰奥駆道の七十五靡き(なびき)のうちの75番目の靡きである。靡きとは、熊野本宮大社から吉野までの奥駆道の重要な地点で、聖地に指定されている。熊野本宮大社から北へ奥駆道を進むのを「順の峰入り」といい、柳の宿は結願所となる。吉野から南へ奥駆道を進むのを「逆の峰入り」といい、吉野川の柳の渡しで水垢離をとって、身を清めてから出発するのである。
街道は増口まで国道歩きとなる。増口で旧道に入ると、そこには格子の家や蔵が残っており、道幅も狭く旧街道の面影を留めている。やがて街道は国道に合流する。ここから先は吉野町上市である。上市の中心市街はまだ先であるが、大和上市駅から南下してきたところから旧街道が国道から分岐している。
上市は奈良盆地から芋峠、竜在峠、細峠を越えてきた道が集まり、吉野と結ばれる交易地として、市がたったところから上市の名があるといわれている。吉野川と北岸の山に挟まれた狭い第一段丘にあるこの町は、どこにも空き地がなく、動かしようがない。特に中心部の道路網は昔のままで、そこに風情ある民家や蔵が建っている(写真315)。
上市の集落を抜け、立野の街を通ってなおも進むと、妹山(いもやま)を背にした大名持(おおなもち)神社が鎮座している。神社の前を東に進む道は東熊野街道で、川上村を通り熊野灘に達する。和歌山街道は神社から左へ折れ北に進む。
大名持神社
ご神体は背後の妹山で、ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)である。桜井市の大神神社の形態とよく似ている。創立年代は不明であるが、『延喜式神名帳』には名神大社として列せられている。
妹山 標高249m (『奈良県史』)
文字通りの円錐形で、古来神体山と仰いだ原始的民俗信仰により、樹叢には斧を入れない禁忌的信仰は今もなお生き続けている。よって樹林は鬱蒼として、生えている直物は478種もあるという。妹山の樹叢は昭和3年に国の天然記念物に指定された。
妹背山とは吉野川右岸の妹山と左岸の背山のことをいい、浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』でよく知られているが、背山は川を挟んで南岸にあるとしても、ほとんど霊性を持つような山ではない。
街道は妹山の麓に沿って北へ進む。やがて道幅の広い県道に合流する。車の往来の激しい何にもない道であるが、歩道があるのが救いである。合流地点から1.3kmほどの交差点を左へ進み、すぐ右の地道へ入っていく。佐々羅の集落を抜け平尾を目指す。周りはのどかな山村風景が広がっている。細峠越えの道が分岐する平尾の辻には、簡素な造りの常夜灯と貞享5年(1748)銘の道標が立っている。
上田家(善根宿)(写真316)
山口の菅生寺の先に上田家が建っている。上田家はかつて伊勢詣での施行宿を務めていたところで、今に施行宿の看板などを伝えている。施行宿とは善根宿ともいわれ、巡礼者や貧しい旅人などを無賃で宿泊させる宿をいう。宿泊させることは自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされていた。
山口の北外れに吉野山口神社と高鉾神社が鎮座している。鳥居の前に竜門滝を示す道標が立っている。竜門岳(904m)は神体山として付近の人々から崇敬を受けている。
吉野山口神社は、創祀年代は不明であるが、竜門岳の神霊を祀る祭祀場として発足したものとみなされる。高鉾神社は、最初竜門岳に祀られていたが、約500年前に吉野山口神社の境内に遷された。礎石が竜門岳山頂にまだあるといわれている。
両神社の先で、街道は先ほど佐々羅で別れた県道に再び合流する。ここから香束(こうそく)・柳・三茶屋(みつぢゃや)と吉野町の大字を進むが、コンクリート舗装の県道が淡々と続く。ただ、香束に小さな道標があるだけである。三茶屋の入口で左の旧道に入れば、道標もあり少し旧道らしくなる。
三茶屋 (吉野町文化観光商工課)
三茶屋の集落は、東西に走る和歌山街道と南北に通じる宇陀・吉野を結ぶ街道の交差点に位置し、古来から交通の要衝として発達したところである。かつて、この集落内には、上茶屋、中茶屋、なかやと呼ばれる3軒の茶屋があった。紀州徳川候が参勤交代の折、ここで中食をとるところと定められていたことから三茶屋と呼ばれるようになったといわれている。
三茶屋の道標(写真317)
大小2つの道標が立っている。
小さい方の道標 自然石に「右 伊勢道宮川へ二十二里」と刻まれている。
大きい方の道標
南 右 いせ道
東 右 うた はせ 道
左 大峯山三茶屋から近鉄大和上市駅までバスが出ているが、平日しか運航していないとかいろいろ条件がありそうである。
写真314 柳の渡し場跡 写真315 街道 吉野町上市□ 写真316 上田家(奈良テレビ放送から) 写真317 三茶屋の道標
行程記 第6回 吉野町三茶屋~東吉野村杉谷 距離 約13km
三茶屋の道標のある辻を東へ、小名(こな)を目指す。国道を突っ切ると久須斯(くすし)神社(三社明神)の鳥居前に着く。神社の前を右に進み山道に入り、神社の裏側を回り込むように坂を上る。やがて、もう何十年も使われていないようなコンクリートの階段が現れ、それを上りきると小名トンネルの手前に出る。
トンネルを通らずに小名へ行けないか、探してみても見当たらない。仕方がないので小名トンネルを潜り抜けると小名の集落である。隠れ里のような集落であるが、道幅がとてつもなく広く、旧街道の面影はまったくない。
集落の東端で右の細い道に入り小名峠を目指す。道は少し広めの山道である。緩やかな上りで、杉の植林地帯の中を進むと、標高485mの小名峠に着く。今は何にもないが コンクリート基礎の残骸が残っている。峠を下りもう一度ピークを越えると鷲家(わしか)である。ここから高見山まで東吉野村である。
鷲家
鷲家は、宇陀と吉野・熊野を結ぶ街道とこの和歌山街道が交差する交通の要衝であった(写真319)。徳川頼宜が和歌山藩初代藩主に任命されたとき、大和国内で、この和歌山街道に沿う吉野郡土田・越部・鷲家の三ヶ村が和歌山藩領に編入された。
鷲家には、和歌山藩本陣の辻家(辻本家・現在の鷲家郵便局)、藤堂藩本陣(橋本家・油屋)をはじめ、旅籠や伝馬所もあった。
鷲家の道標(写真318) 上部が常夜灯
西 右 小川谷 河上 道
左 いせ くまの
東 右 紀州 かうや 道
左 大峯山 たかはら
南 右 いせ 江戸 道
左 はせ 大坂
北 文政十一年 文政11年=1828年
施主当村 岩井庄兵衛
江戸を指す道標としては、山陽道の姫路市青山にも安政2年製の道標があり、「すぐ 大坂 京 江戸 往還」と書かれている。近畿地方の東西の両端に、それぞれ江戸を示す道標があるというのが面白い。
鷲家といえば、天誅組と日本オオカミが思い出される。天誅組の終焉の地であり、日本オオカミが最後に捕獲されたところである。日本オオカミのブロンズ像が東吉野村小栗栖(こぐすり)に立っている。
鷲家の集落を抜けると国道166号に出るが、しばらくすると左側に旧道が現れる。旧街道の面影はなく、山村の田舎道といった感じである。鷲家川に架かる細い橋を渡ると道は上りとなりまた国道に出る。
国道をしばらく進むと、国道の横に旧の自動車道が伸びている。これが和歌山街道かどうかはわからないが、これ以外の道がないのでこれを進むと木津(こつ)トンネルが現れる。トンネルを出たところが木津峠(450m)(写真320)である。ここから高見山の雄大な姿を望むことができる。
木津峠から下の新国道まで下りなければならない。和歌山街道がどのようなルートで下りているのかわからないので、峠を南にとり山道を下りることとする。南北の県道に出会うので、その道を折り返すように北へと進むと、新国道へ下りる道がある。
新国道の少し先に左への細い道があり、これが和歌山街道と思われる。500mほどで先ほどの県道に吸収されるがこれを進む。ここから杉谷の高見山登山口まで高見川(途中名前が変わって杉谷川)の北側に沿って緩やかな曲りを繰り返し続いている。一部国道と重複しているが、全般的に国道から離れているのでウォーキングには最適である。
宝蔵寺の枝垂れ桜(写真321)
木津の東で和歌山街道が国道を横切るところに木津八坂神社が街道に面して鎮座していて、その東隣に宝蔵寺が建っている。宝蔵寺には樹齢430年の枝垂れ桜があり、満開の頃ともなると淡紅色の花が空を覆うという景色が広がるのである。満開の時期は、伊勢本街道の諸木野のエドヒガンと同じで、奈良盆地のソメイヨシノの満開から遅れること5~7日である。
写真318 鷲家の道標 街道319 街道 東吉野村鷲家□ 写真320 木津峠 写真321 宝蔵寺の枝垂れ桜
行程記 第7回 高見山登山口~高見峠 距離 往復約8km
高見山登山口から高見峠を越えて伊勢国に入れば、出発地点まで帰ってくる公共交通機関がないので、高見峠まで登り、また引き返すしか方法がない。
登山口の標高は480m、小峠のそれは830m、高見峠のそれは905mとなっている。標高差は実に425mとなり、かなりの高低差がある。登山口から登り始める。道は登山道そのものといった感じではあるが、道の傍らには石仏や祠が多数祀られていて歴史を感じることができる。しばらく進むと石畳の道が現れる。昔の石畳は土の流出を防ぐためのものであるから階段などはなく、ただべたっと地面に敷いているだけである。雨の日などはつるつる滑りさぞ登りにくいと推察されるのである。
尾根筋の少し平坦なところに出ると、そこは古市という市場跡である。この道は伊勢の物資と大和の物資が行きかう交易路でもあって、この古市で市がたったのである。
しばらく登ると小峠(写真322)に着く。小峠には昔茶屋があって団子を売っていたらしい。
小峠の左にある鳥居をくぐり直登する道が高見山への登山道である。我々が目指す旧街道は右の地道を進むことになる。すぐにコンクリート舗装の道に出くわすが、この道は高見トンネルができるまでの国道であって今は林道となっている。旧街道はここから左の山道に入り東へ進む。旧街道は林道より10mほど高いところを林道と平行に東へ進み、約30分で高見峠に着く。高見峠(写真323)
旧街道の高見峠は、やはり林道より10mほど高いところにある。3本の石碑と、少し離れたところに立派な基礎を設けた石柱が立っている。3本の石碑のうち、2本の石碑には南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれている。林道まで下りると、ここにも鳥居があり高見山への登山道がある。付近は駐車場となっている。高見山
高見山は奈良県と三重県の境に聳える霊峰で、標高は1248mである。関西百名山の一つ(山と渓谷社刊の書籍による)。冬季の霧氷は有名である。
日本建国のとき、神武天皇が東征のみぎり、山頂から四方を見たという国見岩や、道案内を務めた八咫烏を祀る高角神社がある。
写真322 高見山小峠 写真323 高見峠の石碑
行程記 第8回 高見峠~松阪市飯高町波瀬 距離 往復約16km
ここも前回同様、車を麓に置いての高見峠の往復となる。しかし、行程記は高見峠からあたかも出発したように記述する。
高見峠から舗装林道を伊勢側に100mほど行くと、左に分岐道が現れる。国土地理院の2万5千分の1の地図では1本の山道となっているが、車が通れる林道の砂利道に変わっている。途中、枝道が何本も新設され、近畿自然歩道の標識もあるのはあるのだが、矢印を示す標識が欠如している。高見峠から途中の大二木(おおにぎ)茶屋跡まで非常に迷いやすい。古道の雰囲気も皆無であり、分岐のたびごとにどちらに行くのか考え込まなければならない。高見峠から40分ほどで大二木茶屋跡に着く。「伊勢の高見は高いようで低い。低い大二木の餅や高い」と唄われはやされたと説明板にある。ここから舟戸の集落まで、地図通りの山道で、尾根筋を通るので快適である。ただ、馬の背があり、つづらおりもありで、昔はほんとうにこんなところを殿様の駕籠を担ぎ上り下りしたのかと思うと人々の苦労がしのばれる。
舟戸の手前に五輪塔と曼荼羅石がある
五輪塔(伝蘇我入鹿首塚) (現地説明板)
大化改新(645年)で大極殿において中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)に暗殺された蘇我入鹿を祀ったものといわれている。上部から空、風、火、水、地を表す梵字が各四面に見られる。地輪には銘文があるが、判読は困難である。
飯高町郷土史には以下の記述がある。
「この五輪塔が蘇我入鹿の怨霊を鎮めるためのものなのか、あるいはまったく無関係のものなのかは不明」
「“火のないところに煙は立たない”のことわざ通り、蘇我氏とは何らかの因縁をもつ土地であったのだろう。怨霊が再び都へ舞い戻らぬためにも、高見山の裏側の舟戸の地へ鎮魂することは考えられなくもない」曼荼羅石 (現地説明板)
高さ2.2m、幅3.3mの自然石
右端に元和5年(1619)5月18日の年号
中央に南無阿弥陀仏、上部に日輪・月輪が刻まれ、両部曼荼羅の形式をとった石碑である。五輪塔の手前には、寺院跡「能化庵(のうげあん)」がある。蘇我入鹿の妻と姫君が、入鹿の首塚を祀るために住んでいたと伝えられている。
小さな川幅の舟戸川を渡ると、松阪市飯高町舟戸の集落である(写真324)。ここから飯高町落方の三叉路までは舟戸川に沿った舗装路が3kmほどくねくねと続いている。片側は川、片側は山ののどかな散歩道といってよい。舟戸集落には、道の傍らに地蔵尊とか板碑など多数見かけることができる。
三叉路から東へ、川は櫛田川と名をかえる。街道も櫛田川に沿うようになっているが、道幅も広くなり車の通行量も少しある。落方の北東端で国道と別れ北へ進む。山裾を回り込むように進めば波瀬(はせ)宿に着く。途中の最南部に、小さな如意輪観音像と石塔が露天のままの姿で立っている、石塔には、「光明眞言稱誦塔」と刻まれているらしい。
波瀬宿(写真325)
伊勢国の最初の宿場で、紀州松坂藩領であった。本陣・脇本陣の他伝馬所や高札場が設けられ、旅籠は4軒あったといわれている。本陣跡の家とか連子格子の家などが残っているが、宿場町の雰囲気はあまり残っていない。これから先、和歌山街道は櫛田川に沿って東へと進み、松阪市飯南町横野で伊勢本街道に合流する。
写真324 街道 飯高町舟戸 写真325 波瀬宿この項終わり。