あなたの傍に







ゴホンとわざとらしい咳払いが一つ。

「坊ちゃ〜ん、隊長〜、そろそろ離れて頂いてもよろしいですかねぇ・・・。出来たらこの坊主の傷の手当てをしてやりてえんですけど、お二人がいつまでもそこで熱〜い抱擁を交わされてちゃ、坊主に目の毒過ぎて前を通るに通れねえんですけど・・・。」

 片手で髪を掻き上げながらのヨザックの苦笑交じりの抗議に、有利はハッと顔を上げる。見るとヨザックに肩を抱かれたルーカスが、所在無げに視線を宙に彷徨わせていた。耳まで真っ赤だ。途端に感じた恥ずかしさに、有利はコンラートの腕の中から抜け出そうと慌ててもがき始めた。

「ご、ごめんグリエちゃん!で、でも熱い抱擁とかじゃないから!無事を確かめ合うハグだからハグ!」
「その『はぐ』ってのが何かは知りませんが、坊ちゃんはち〜っとも悪かぁないですよ。もう充分に無事を確かめたってーのに、いつまでも坊ちゃんにべったりしがみ付いて離れないヘタレた男の気が利かないだけなんすからね。お〜っと隊長、そんな怖い顔してもダメですよ〜。俺はただ、俺達の代わりに坊ちゃんを立派に護ってくれた、この坊主の怪我の手当てをしてやりたいだけなんですからね。別にあんた達の邪魔しようって気はねえですし、熱〜〜い抱擁は場所変えて後で思う存分やって下さいな。」

 そうは言うが、別に二人は出口の前に立ちふさがっていたわけではない。気を利かせてそっと出て行こうと思えばいくらでも出て行けたはずだ。それをしないでニヤニヤと笑い、明らかに面白がっている男の言葉に、コンラートは眉間に微かな皺を浮かべたが、恥ずかしがって腕の中でもがく主を開放する為にその身体を掻き抱いていた腕をそっと緩めた。愛しい温もりは忽ちその腕から逃れる。
 有利は恥ずかしさを誤魔化すかのようにワザと大きめの声を上げ、勢い良くルーカスに駆け寄った。

「ルーカス!ごめんな、大丈夫か?痛いとこないか?」
「・・・うん、大した事ないから平気だよ。これぐらいぜ〜んぜん痛くないよ。」

 傷の有無を確かめる様に体中をペタペタと触り、屈みこんで覗き込む有利に頷いて答え、それからルーカスは一度合わせた視線を戸惑ったように僅かに逸らせた。
 さっきまで薄暗かった小屋の中は、今は扉が開け放たれ、後処理の為に働く兵達が手にした松明の灯りが入り込んでほんのりと明るい。ルーカスにしてみれば、その明るさの中、はっきりと顔が見える距離でググッと間近に迫った綺麗な顔に戸惑い、はにかんだだけなのだが、有利はルーカスのそんな様子に心配そうに眉尻を寄せる。二人の微妙なすれ違いに気付いたのか、ヨザックは小さく笑い、殊更明るい声を上げた。

「大丈夫ですよ、坊ちゃん。さっき確かめたら腕も足もちゃんと動きますし、ざっとみたところ骨にも異常ありません。ただまあ打撲と擦り傷はちょっと酷いんで、坊主が言うように全然痛くねえって事は無いでしょうけどね。」

 言うと同時にヨザックは、ルーカスの背中をバンと大きな手で容赦なく叩く。

「うぎゃっ!痛ったぁ・・・・」

 途端に全身を走った痛みにピクリとルーカスの体が跳ね、その口から堪えきれない悲鳴が上がった。涙目で怨めしげに睨み上げる少年の赤い髪をグリグリと掻き混ぜ、ヨザックはイタズラっぽく口元を上げてニヤリと笑った。

「全然痛くないなんてやせ我慢すっからだ。」
「やせ我慢なんかじゃないやい!派手頭の兄ちゃんが僕の背中を思いっきり叩くから痛いって言ったんだい!」
「派手頭ってなぁ・・・、坊主だって充分派手な頭じゃねーか。」

 楽しげに笑う男は睨みつける赤い髪をまたぐりぐりと頭が揺れるほど乱暴に掻き混ぜる。頭の上に置かれたその大きな手を振り払い、ルーカスはぷぅっと頬を膨らませた。本来の子供らしさを取り戻したその仕草に、漠然と感じていた不安は消え去り、少年を見つめる有利の顔に自然と笑みがこぼれた。コンラートもまたそんな有利にそっと安堵の息を吐き、ルーカスの側まで歩み寄ると目線を合わせてすっと膝を付いた。

「ルーカス、良く頑張ったな。約束通り坊ちゃんを護ってくれてありがとう。」

 コンラートはそう言って、ヨザックによってぐちゃぐちゃにされた少年の頭を優しく整えながら撫でてやる。その無骨で大きな手に触れられた途端、膨らんでいた頬は一瞬で萎み、憧れの武人に褒められた嬉しさでルーカスはぱあっと顔を輝かせた。

「僕は出来る事をしただけです。」
「そんな事ないよ!コンラッド、ルーカスはホントに頑張ってくれてたんだぞ。いきなり変なヤツに連れて来られて怖くないハズないなのにさぁ、全然泣いたりしないし凄く落ち着いててさ。その上、俺が危なくなった時には小さい身体であいつらに全力でぶつかって行ってくれて、何度も助けてくれたんだ。ホントは俺が守らなきゃいけないのに、ルーカスが居てくれて凄く心強かった。ありがとうな、ルーカス。」

 有利はコンラートと並んでルーカスの前に膝を付いてニッコリと微笑み、もっと褒めてやってくれと言わんばかりに小さな英雄を賞賛する。その意図を汲みとった優秀なお庭番は少し腰を屈めて有利の顔を覗き込み、とっておきの秘密を教えるようにもったいぶった言い方で話しかけた。

「坊ちゃん、この坊主がやったのはそれだけじゃないんですよぉ〜。突然消えちまった坊ちゃん達の行方をこんなに早く見つけることが出来たのは、実はね、この坊主のお陰なんですよ。」

 そう言ってまた大きな掌でルーカスを軽くポンと叩いたヨザックは、照れくさそうに首をすくめる少年をニコニコとした笑顔で見下ろしながら、有利が連れ去られてから今までの顛末を話し始めた。

 ヨザックの話によると、宰相からの依頼で彼がこの地でコンラート達と合流したのは、タイミングが良いのか悪いのか有利たちが連れ去られた直後だったらしく、ボールだけを残して忽然と消えた二人を探す為に、兵達が入り組んだ路地裏を必死になって捜索している時だった。事態を知ったヨザックはすぐさま捜索に加わり、眞魔国一優秀なお庭番の名に相応しい働きで路地裏で遊ぶ子供達から有力な情報を聞き出す事に成功した。それは子供達の他愛の無い噂話にしか過ぎないかもしれないが、コンラート達を動かすには充分な内容だった。

「子供達が言うんですよ『この村の路地には偉い人だけが知ってる秘密の抜け道がある』ってね。まあ、どこの国でも町でも、有事の際にお偉方が逃げる為に使う秘密の通路ってぇのは良くある話だ。でも、流石にこんな長閑な村にそんなものがあるとは想定外でした。で、さっそく坊ちゃんが居なくなった辺りを調べなおしてみたら、隊長が不自然な壁を見つけて大当たり〜!壁の一部が開いて隠し通路になってまして、そこを進んでみたら村の外れの森へと繋がってました。でも奴らもかなり警戒してたみたいで、人が通った形跡は上手く消してある。結構広い森だし、こりゃ虱潰しで調べていくしかねえなって思ってた時に、隊長がコレを見つけたんですよ。」

 そう言ってニヤリと笑い、ヨザックは懐から何かを取り出した。有利に見せるように差し出された大きな手のひらには、色とりどりな模様の大小のガラス玉と少し赤み掛かった円柱型の木片が乗っていた。

「これって、ビー玉と・・・何かの栓?」
「坊ちゃんの所じゃこれを『びー玉』って言うんですかい?俺達は『ゴロ玉』って呼ぶんですけど、ガキの頃は良くコレをぶつけ合って遊んだもんです。」
「コンラッドも一緒に遊んだの?」
「ええ、子供の頃は二人でゴロ玉の数を競い合ったりしましたよ。」
「あっ、ひょっとして、相手に上手くぶつけて勝った方がそのゴロ玉だっけ、それを貰えるの?」
「そうですよ〜、二人して近所の悪ガキにゴロ玉勝負仕掛けちゃあ数増やしてましたね。ゴロ玉いっぱい持ってるヤツはガキどもの中じゃあちょっとした英雄だ。坊ちゃんの所でも同じ遊び方ですか?」
「うん、ほとんど一緒だと思うよ。で、その子供の遊び道具のゴロ玉ともう一つは・・・?」
「それとこいつは葡萄酒の樽の栓です。」
「あっ!?」

 二つの物の共通点に思い至ったのか、有利が小さな声を上げた。

「そう、こんな子供の遊び道具が鬱蒼とした森の中に転がってるのはちょっとばかし不自然だ。なもんで、注意してそこらを調べてみたらゴロ玉が転々と落ちてたんですよ。それもほとんど一定の距離を置いてね。これはもう落ちてるんじゃなくて、わざと落としてあるとしか思えない。」
「それって、ひょっとしてルーカスがやってくれてたのか!?」

 有利は驚きの表情で振り返りルーカスを見詰めた。その視線を受け止め、少年は少し照れた表情ながらもしっかりと頷いた。

「うん、僕は樽の中でも気を失ってた訳じゃなかったから・・・。運ばれてる間も外の様子が気になって、試しに中から押してみたら樽の栓が抜けたんだ。でね、外を覗いてみたら葉っぱとかしか見えないし、どこに連れて行かれるか分からなかったから・・・・。穴がね、ちょうどゴロ玉が通るぐらいの大きさだったんだ。だから、友達と遊ぼうと思って持ってたゴロ玉を目印に一つずつ落としておいたんだ。コンラート閣下達なら絶対見つけてくれるって思って・・・。」
「坊主が思った通りに俺達はこの道しるべを見つけた。で、ここまですぐに辿り着けたって訳です。」

 ヨザックは少年にニヤリと笑いかけ、その笑顔のまま、どうです?この坊主はなかなか凄いでしょう?と有利の顔を覗き込んだ。

「うん、凄いよルーカス!俺なんかココに運ばれるまでずっと樽の中でただ寝てただけだぞ?それなのに、ルーカスはそんなことまでしてくれてたんだな。」
「だって、僕がコンラート閣下の代わりにミツエモン兄ちゃんを護るって約束したからね。」
「ありがとうルーカス!」

 はにかみながらも端然と話す小さな英雄に、有利は感動の声を上げガバッと勢い良く抱きついた。

「後は坊ちゃん達もご存知の通り。隊長と合流する前に色々と俺なりに調べてましたからね。」

 調べていた事柄の中に、恐らくエリスとその親の目論見が含まれていたのだろう、ヨザックはそこで一瞬気まずそうに眉を寄せた。

「坊ちゃん達の行方不明と盗賊団との繋がりが直ぐに解りました。で、双方の状況を把握した後、当初の作戦通り兵を盗賊団の残党のアジトへ向わせ、こっちは狭い小屋だったんで大勢で踏み込んでも混乱を招くだけだってんで兵士数名を外で待機させ、まずは隊長と俺が奴らをブッ倒す為に乗り込んだって訳です。まあ、隊長が直々に先頭に立って乗り込んだ理由はそれだけじゃ〜ねえですけどね。」

 ヨザックはそこまで話して態とらしく肩をすぼめ、揶揄するような笑いを含んだその眼差しを言葉少なに立つ男へと送る。しかしコンラートはさらりとその視線を受け流し、大切な主に穏やかな微笑みを向けた。

「普段から鍛錬している武官でも、皆が皆、追い込まれた状況下で咄嗟に判断し、今あるもので最善の対応を出来る訳ではありません。この歳でそれが出来るルーカスは、きっと将来優秀な軍人になりますよ。」
「そうだよな!コンラッドが言うんだから間違いない!ホントお前って凄いよルーカス〜!」

 ルーカスを褒めるコンラートの言葉に嬉しくなり、有利は小さな身体を抱きしめる腕にさらに力を込めた。だが、抱きしめられた少年は真っ赤になって腕の中でもがいていた。褒められるのは嬉しいが、端麗な顔立ちがありえない距離にあるのが恥ずかしい。その上、ギュウギュウと手加減無く締め付けてくる腕は苦しいし、何よりさっき受けた打撲で体中がズキズキと痛い。しかし自分を褒めて抱きしめてくれる優しい腕を無碍にもできはしない。
 そんなルーカスの心の葛藤にも気付かず、感情のままにギュッギュッっと強く抱きついてくるその腕に、ルーカスがもう限界とばかりに悲鳴を上げてしまいそうになっていた、まさにその時、ルーカスにとってはナイスなタイミングでのんびりとした声が二人の横から掛かった。

「はいはい坊ちゃ〜ん、もうそのへんにしといてやって下さ〜い。坊ちゃんに褒められて『はぐ』されるのは坊主にとっても大変喜ばしい事だとは思うんですけどね、なんせ今は体中酷い打ち身だ。このままギュウギュウ抱きしめられてちゃ、坊ちゃんの腕の中で坊主がくたばっちまいますよ〜。」
「ああっ!そうだった!ごめん!」
「だ、大丈夫だよ。」

 その声でやっと気づいた有利は慌てて腕を解いた。強すぎる抱擁から開放されたルーカスはホッと安堵の息を吐く。その肩に手を置き、ヨザックは少年をさりげなく外へと促した。

「そんじゃあ、坊主を連れて行きますね。」
「うん。あっ、ちょっと待って!」

 部屋を出て行こうとする後姿に、有利は慌てて声を掛け呼び止めた。そしてルーカスの背の高さに合わせて屈みこむと、今度は優しくそっと、気遣うようにその小さな英雄の身体に両腕を回した。すぐにふわりと温かで神秘的な光が全身を包み込む。
 その様子に、コンラートとヨザックは互いに顔を見合せた。しかし心優しい主を止めるのをあきらめ、やれやれと肩を竦めて苦笑を浮かべる。
 数秒後、ゆっくりと小さな身体から腕を放し、最後に薄っすらと血の滲んだ口元を拭ってやると、有利は綺麗な笑顔を浮かべて少年の頭を優しくポンポンと叩いた。

「ルーカス、ホントに今日はありがとな。」

 温かな光に包まれた途端、体中の痛みが不意にすっと消えていった事にキョトンとしていたルーカスは、視線を合わせた有利の笑顔に恥ずかしそうに笑みを返した。

「ミツエモン兄ちゃんこそ、今日はやきゅう教えてくれてありがとう。きゃっちぼーる楽しかったよ。」
「俺も楽しかったよ。あっ、家帰ったらちゃんと腕の筋肉解しとけよ。じゃないと明日、腕が痛くなるからな。」
「うん!」
「んじゃ隊長、俺はこの坊主を家まで送り届けてきますんで。」
「ああ、頼む。」

 恐らくもう治療の必要はないだろう。ヨザックは少年の肩を抱き、外へと向って歩き出す。

「おやすみなさーい。」

 出口で振り返って手を振るルーカスに「おやすみ」と手を振って、有利も部屋を出て行く二人の後姿を見送った。


 小屋の外へ出ると、そこは鬱蒼と茂る森の中で、もう当に日は落ちていた。しかし、兵士達が灯した松明の灯りが所々で揺れ、真っ暗闇と言うほどではない。共に歩きながら、未だ忙しげに立ち働く兵達に視線を向けていたルーカスが、不意にヨザックに声を掛けた。

「ねえ、派手頭のお兄ちゃん・・・」
「あ〜ら、それはあたしのことかしら?」

 ヨザックは少年の顔を覗き込み、突然艶めかしく腰をくねらせ科を作った。声を掛けたものの、自分の肩を抱く男の豹変振りに、ルーカスはギョッと目を見開き、唖然とした表情を浮かべて固まってしまった。

「あたしの事は、グリエちゃんって呼んでねv」
「グ、グリエ、ちゃん・・・?」
「そうよ〜vで、なにかしら?」

 腰が引け、距離を取ろうと後ずさる肩を逞しい腕でガッチリと掴んだまま、ヨザックはルーカスの顔を覗き込みニッコリと微笑んだ。間近に迫る妖しい笑顔に、ルーカスの顔はピキッと強張る。しかし少年らしい柔軟さで素早く立ち直り、少し言葉に迷いながらも意を決したように言葉を継いだ。

「あのさぁ・・・」
「ん?」
「あのぉ・・・、ミツエモン兄ちゃんの名前って、本当はユーリって言うの?」

 ルーカスのその問いに一瞬立ち止まり、今度はヨザックが僅かに目を見開いた。しかし直ぐにその表情を楽しそうな笑みに変え、少年の肩をポンポンと軽く叩きながらまた歩き出した。
 
「坊主は何でそう思ったんだ?」

 少年の質問に応える変わりに、ヨザックは問いを返した。その口調が元に戻っている事に、ルーカスは少しホッとして全身の力を抜く。その様が腕から伝わり、ヨザックはニヤニヤと笑みを深めた。

「さっきね、コンラート閣下が、一瞬だけミツエモン兄ちゃんの事をそう呼んでたから・・・」

 ルーカスのその答えに、ヨザックは表情は変えないまでも密かに驚嘆していた。ヨザックが認識する限り、コンラートが有利の名を呼んだのは僅かに2回。それもあの混乱の直後に囁くほどの声でだ。極度の緊張や恐怖の中なら普通は気付かれない。ましてや相手は子供だ。この少年は本当に将来かなり優秀な軍人になれる資質があるのかもしれない、ヨザックは心の内で呟いた。

「なるほどなぁ・・・」

 内心を読ませない飄々とした表情で、ヨザックはぽつりと洩らし言葉を続ける。

「で、坊ちゃんの名前が違うと何か困るのか?」
「だって!」

 ルーカスは立ち止まり、何かを思いつめたような真剣な表情でヨザックを見上げた。ぎゅっと手のひらを固く握りしめ、何かを言い出そうとして躊躇っている。

「だって・・・・、その名前って・・・・・」

 やっと搾り出した言葉だったが、自分の中でも葛藤があるのか、ルーカスはその先の言葉を濁す。暗闇で忙しなく働く兵の手にしていた松明の火がパチンと小さく爆ぜた。勢い良く飛び出したその小さな火の粉達の軌跡を目で追いながら、ヨザックは先を促すことなく、そんなルーカスの言葉が続くのをただ黙って待っていた。

「あのさぁ・・・・、今ね、僕、あれだけ痛かった身体が何処も痛くないんだ。これってさぁ、さっきミツエモン兄ちゃんが治してくれたからなんだよね?」
「・・・・ああ、そうだろうな。」
「やっぱりそうなんだ・・・。さっきね、ミツエモン兄ちゃんにそっと抱きしめられただけで、すぅーっと痛みが消えていったんだ。その前も撫でるだけで僕のタンコブ治してくれたし・・・。一瞬でだよ?そんな凄い魔力持ってて、その上あんな見たこともないぐらい綺麗で、コンラート閣下があんなに大切に接してて・・・。髪も瞳も黒くないけど、でも、その名前って」
「まあなぁ、坊主の言いたい事も分かるけどなぁ〜」

 ルーカスの言葉を切るように声を上げ、ヨザックは片手で自分の髪をわしゃわしゃと掻き混ぜながら少し強張る小さな肩を宥めるように撫でてやる。

「名前とか立場とか、ましてや髪や瞳の色なんて、別にどーでもいいじゃねーか。」

 見上げる真っ直ぐな少年の瞳に笑みを返し、またゆっくりと歩き出しながらヨザックは言葉を続けた。

「坊ちゃんは、この地に居る隊長を訪ねてきた客人で、たまたま坊主と出会った。そうだろ?」
「・・・・・うん。」
「で、とびっきり麗しいお姿なのにご自分に関してはトンと無頓着で、意外に口が悪くて、良く食って、良く笑って、驕ったとこなんか全然なくて、ご自分が悪いと思ったら、それが誰であろうと素直に頭を下げられるお人だ。だから坊主も坊ちゃんと仲良くなったんだろ?」
「うん。」
「やきゅうが大好きで、面倒見が良くて、皆にお優しくて、時々無鉄砲だけど弱い者が苦しんでいたら放っておけない。それが俺の知ってる坊ちゃんだ。どうだ?坊主が知ってる『ミツエモン兄ちゃん』と違うか?」

 ヨザックの問いに、ルーカスは直ぐに大きく横に首を振った。

「だろ?俺の知ってる坊ちゃんと、坊主の知ってる『ミツエモン兄ちゃん』は同じだ。どんな名前でも、どんな姿でも、あのお方はあのお方で変わりねえ。そう思わねえか?」
「うん、そうだね。」

 しっかりと頷くルーカスの赤い頭を見下ろし、ヨザックはどこかうれしそうに双眸を細める。そして赤い髪を無造作にくしゃりと混ぜた後「そう言うこった」とポンポンと軽く叩いた。ルーカスはその大きな手に首をすくめながら、チラリとヨザックの顔を見上げた。

「あのさぁ・・・・」
「何だ?」
「何年かしてさぁ、僕が立派な軍人になれたら・・・・、ミツエモン兄ちゃんのお傍に行けるかな?」

 真っ直ぐ見つめてくる少年の瞳。ヨザックはその瞳をしっかりと受け止め、にんまりと口端を持ち上げてくせのある笑みを浮かべた。一見、意地悪げな笑顔だが、その瞳は優しい。

「今日だって坊主は隊長との約束通りしっかりと坊ちゃんを護ったんだ。それに、さっき隊長が言ってたじゃねぇか、『きっと将来優秀な軍人になる』って。天下のウェラー卿コンラート閣下のお墨付きだぜ?自信持てって。」
「うん!」
「坊ちゃんのお傍で、隊長も俺も待っててやっから。きっと坊ちゃんも喜ぶぜ。」
「うん!」

 篝火に浮かび上がるルーカスの顔は満面の笑顔だ。

「さてと、坊主の父ちゃんと母ちゃんが心配してるから急ぐとするか。坊主、馬に乗ったことあるか?」
「えっ?馬って軍馬?軍馬に乗せてくれるの?」

 途端に目を輝かせる少年に、ヨザックはニヤリと笑う。

「おう、特別にな。農耕馬と違って尻がキュッと絞まってて、走るとすげー速いぞ。」
「やったー!マリオに自慢してやろう!」
「ほら、そこの木の所に繋いであるだろ?見えるか?綺麗な栗色のべっぴんだぜ。」
「凄い!あんなカッコイイ馬に乗れるんだ!」
「おう!んじゃ、あそこまで競争だ!」
「あっ、先に走り出すなんてずるい!待ってよ、派手頭の兄ちゃん!」
「グリエちゃんって呼んでって言ってるでしょ〜!」

 ルーカスの顔に、もう不安や戸惑いの色はない。そこにあるのは決意に満ちた真っ直ぐな瞳。将来有望な小さな英雄は、薄暗い森に不似合いなほどうきうきとした表情で、先に駆け出したヨザックの背中を追いかける為に一生懸命に駆け出して行った。



***



 ジジッと蝋燭の火が微かに音を立てて揺らめく。
 ふぅ、っと小さな溜息が洩れ、有利は濡れた髪を拭きながら、宿の粗末な寝台にどさりと腰掛けた。やはり気を張っていたのだろう、風呂で温まった全身からどっと一気に緊張が解けていく。まだかなり湿ったままの髪は本来の色を取り戻し、柔らかな蝋燭の灯りを受け艶やかに光を弾いている。その黒髪を些か乱暴にガシガシと拭きながら、有利は長かった一日に思いを馳せた。
 穏やかだった一日の始まりから、出会い、戸惑い、焦燥感と共に寂しさや不安、色んな感情が渦巻いた。様々な葛藤の末、今、最後まで自分の心を占める感情は何だろう、そんなことをぼんやりと考えていると、ふと目の前が翳った。
 手を止めて顔を上げれば、ほわりと湯気の立つカップがそっと差し出される。「ありがとう」と温められたヤギ乳の満たされたそのカップを両手で包み込むように受け取ると、有利が頭から掛けていたタオルを取り上げ、正面に立ったコンラートがその艶のある黒髪を丁寧に拭き始めた。そっと揺らさないように布越しに触れてくるその手つきは慎重で、まるで壊れ物を扱うかのようだ。その仕草がひどく優しくて、触れる大きな手は心地よく、少し照れくさく思うものの、しばし心の葛藤を忘れ有利はされるがままにそっと瞳を閉じていた。
 終始無言のまま、過保護な保護者は慣れた手つきで髪を丁寧に拭いていく。誘われる眠気を振り払うようにカップに口を付け、そっと顔を上げる。二人の視線がぶつかり、ふっと先に目を逸らしたのはコンラートだった。それを切欠にした様に髪を拭き終え、手櫛で綺麗に整える。そして手にしていたタオルを丁寧に畳んだ後、コンラートは不意に有利の前で膝を折った。

「・・・・・陛下、申し訳ありません。」
「え?」

 突然目の前で跪き、深く頭を垂れるコンラートの思いがけない謝罪に、有利のまぶたが数度瞬く。

「俺が護ると誓っておきながら、陛下を危険な目に遭わせてしまいました。申し訳ございません。」

 そう言ってキュと唇を引き結び、コンラートはまた深々と頭を下げる。普段見る事のないダークブラウンの旋毛をジッと見下ろしながら、有利は両手で包んだカップを傾け、ことさらゆっくりとミルクを飲み干した。口に含んだミルクは案の定、優しい甘さを舌に残す。

「・・・・陛下なんて言うなよ、名付け親のくせに。」

 小さく呟き、カップをベッド脇のテーブルに置く。静まり返った狭い空間に、ゴトッというその音は思いのほか大きく響いた。

「ユーリ・・・」

 有利の言葉に、コンラートはぴくりと肩を震わせ、伏せたままだった顔を上げた。有利の名を呼び、真っ直ぐに有利の顔を見詰めるその顔に浮かぶのは深い悔恨。それに気付いた有利は、そっと腕を伸ばし、いつもコンラートがしてくれている様に、目の前に跪く男の髪に優しく指を這わした。

「何でそんな顔してんだよ。あんた、ちゃんと俺のこと助けてくれたじゃんか。」
「ですが、俺の不手際の為にあなたが巻き込まれてしまったのは事実です。俺は彼女の気持ちやその親の思惑に気付いていたのに、もうすぐこの地を離れると思い最低限の対応しかしていなかった。全て俺の所為です。」
「そんなの気にすんなよ。いつもは俺の無茶であんたを巻き込んでるんだしさぁ。」
「・・・ユーリは俺を甘やかし過ぎですよ。」

 屈託のない笑みを向けてくれる主に、コンラートは苦笑し、眉を寄せたまま緩く首を振った。

「そう?俺はあんたが絶対助けに来てくれるって信じてた。で、あんたはちゃんと助けてくれた。俺は怪我も無く無事だ。それで問題ないだろ?あんたはちゃんと俺を護ってくれたよ?」
「それでも、俺は自分が許せないんです。あなたの傍に居ながら、あなたを護ると誓いながら、あなたを危険な目に合わせて、怖い思いをさせてしまった・・・。」

 コンラートは膝の上で拳を強く握り、後悔を露に床を睨みつけた。束の間の沈黙。部屋の空気が重く二人を包みだしたころ、有利はぼそりと呟いた。

「うん・・・、確かに怖かったよ。」

 有利の声に、俯いていたコンラートがハッと顔を上げる。その表情の固さに気付き、有利は「違う、違う」と慌てて目の前で両手を振り、男にふわりと微笑み掛けた。

「攫われて閉じ込められた事は怖くなかったんだ。これはホント。何度も言うけど、俺はあんたが絶対に助けてくれるって信じてたからさ。でもね・・・」

 有利はそこで言葉を切り、迷いを表わすかのように膝の上に肘をついて口元で軽く握っていた両手を開いたり握ったり、それを何度も繰り返した。やがて最後にその手の平を組み合わせ、ぎゅっと強く握りしめて言葉を紡いだ。

「エリスさんの言葉を聞いてて、急に凄く怖くなったんだ。」

 柔らかな笑顔から一転、何か思いつめたかのような切なげな表情を浮かべる有利。その言葉と表情の意味を問うように見遣るコンラートの視線から、今度は有利がふっと顔を逸らした。

「エリスさんが言ってたんだ、どうして貴方だけが、当然のような顔をしてコンラッドの傍にいられるんだ、って。」
「ユーリ、それは」
「うん、分かってる。それは俺が魔王で、あんたがその護衛だからだ。」
「それだけじゃない!」

 コンラートは強く言い放った。しかしすぐにハッと気付き、大きく一つ息を吐いてから出来るだけ穏やかな声で有利に告げた。

「それだけじゃないから・・・。」

 その声に有利も肩の力を抜き、ゆっくりとコンラートの顔を見上げてぎこちない笑みを向けた。

「うん、それも分かってる。コンラッドは俺をとても大切にしてくれてる。魔王と護衛って以上にね。義務や職務ってだけでここまでしてくれるとは、色々と鈍い俺でも流石に思ってないよ。だから俺も甘えてたんだ、当然のようにいつもあんたが傍にいてくれるって・・・。」
「あの時俺があなたのお傍を離れてしまったから」
「違う!そうじゃない!そう言う意味じゃないんだ!」

 コンラートの言葉が終わるのを待たずに、有利は勢い良く言葉を続けた。

「上手く言えなくてごめん。でもそう言う意味じゃなくてさぁ・・・」

 有利は肩を竦め軽く首を振ると、コンラートから一度視線を外し、頼りなく揺れる燭台の炎を見つめた。逡巡しているのか、言葉を口にしようとしては閉じ、しばらくそれを繰り返す。そしてようやく決心したのか、迷いを見せていた視線を真っ直ぐにコンラートに向け、少し掠れた声で言葉を紡ぎだした。

「あんたって普通にモテるだろ?だから、いつか・・・、それがいつになるか分かんないけど、いつかまたエリスさんみたいにさぁ、コンラッドの事を好きだって言う人が現れると思うんだ。そうじゃなくても、逆にあんたがどっかの娘さんに一目惚れするとかさぁ、きっとあると思うんだ。」

 予想外の事を言い始めた有利に、コンラートは混乱していた。しかし、一言も言葉を差し挟まず、ただ黙って聞いている。

「そしたら、あんたは誰かと恋をして、今みたいに朝俺が起きてから寝るまでほとんど一緒に居るなんて事もできなくなっちゃう。あんたと俺が今まで何度も交わした言葉や、ずっと一緒に過ごしてきた時間なんか、いつか現れるその誰かとの会話や時間に、きっと追い越されちゃう時が来るんだなぁって。そう思ったらさぁ・・・、凄く怖くなったんだ。」

 想像しただけで有利の胸はツクンと脈打ち、泣き出しそうな気分になる。激しくせり上がって来る胸の痛みに、その声は微かに震えていた。それでもジッとコンラートを見つめ、懸命にその想いを伝える。コンラートは、戸惑いを隠す術を忘れたかのように呆然と双眸を見開き、言葉を失ったままそんな有利を見つめていた。

「俺にとっても、コンラッドはとっても大切な人だよ。だから、もしコンラッドに大切な人が出来たら、俺はあんたの幸せを一番に考えるつもりだったんだ。『恋人ができた』って聞いたら一緒に喜んで、『デートなんだろ早く帰ってやれよ』とか言って、笑ってあんたの背中叩いて執務室から放り出したりさぁ・・・。でも、エリスさんに言われて、そんなの奇麗事だって気付いた。俺にはエリスさんみたいなこと出来ないし、他人を傷つけてまでやっちゃいけないことだと思う。でも、人の心はどうしようもないのに、それでも何もしないまま誰かに渡せないって気持ちはわかったんだ。」

 有利はグッと唇を噛みしめた。眉根に僅かに皺を寄せて、視線を再び伏せてしまう。心臓がバクバクとうるさいぐらいに高鳴り、息が詰まりそうだ。
 この先を言うべきか、それとも言うべきでないのか、これからの二人の関係の上でどちらが正解なのかは火を見るより明らかだ。今ここで告げる事はコンラートを困らせるだけだし、言ったところでどうにもなるものではない。

 それでも、堰を切ったように溢れ出す感情は止められない。

「想像するだけで胸が痛くて、苦しくて・・・。あんたの傍に居るのが俺じゃないのが気に入らなかったり、どうして俺以外にそんな優しそうな顔で笑うんだよって勝手に怒ったり・・・。あんたの、その銀のキラキラを散らした瞳に映るのは、誰よりも俺でいたいなんてバカな事考えるし・・・。そんな事考えてる俺って、すげー我侭で嫌な奴だなって思ってた。でも、でもさぁ・・・、奇麗事じゃないんだよな。これって当たり前の気持ちなんだよなぁ。俺は・・・」

 泣きだしそうな顔のまま、有利は一つ息を吐く。

「俺は、コンラッドのことが好きなんだから・・・・・。」

 解き放った言葉。一瞬の静けさが部屋を包む。
 その静寂をどう捉えたのか、有利は熱くなる目頭に、必死で唇を噛み締めた。大好きな人を混乱させた、その謝罪を口にしようとした瞬間、フッと影が揺れ、伸ばされた指先が、噛み締めて赤くなってしまった唇を撫でるように触れてくる。有利は弾かれたように顔を上げ、その無骨な、でも優しい指の主を見つめた。
 コンラートを見つめるその顔は、愛の告白というより、まるで懺悔でもした後のように苦しげだ。その表情が切なくて、そしてとても愛しくて、気がつけばコンラートは有利を強く抱きしめていた。そのまま腕に力を込め、有利のまだ細い肩にゆっくりと顔を埋める。

「コン、ラッド・・・?」

 戸惑った様に有利が小さく名前を呼んだ。突然の出来事に、有利は一瞬何が起こったのか理解できていなかった。しかし肩口に感じるコンラートの吐息で、自分が抱きしめられていることを知る。

「ユーリ・・・。」

 少し掠れたその声は、吐息と共に有利の肩に吸い込まれ酷く聞き取りにくかった。

「我侭を言って下さい。俺の傍に居ろと、傍を離れるなと。俺を独占して下さい。俺の時間を全て、あなたが・・・。」
「コンラッド、でも」
「お願いです、ユーリ!」

 言葉を遮るように強く抱きしめ、頬と頬を重ねる。耳元に唇を寄せながら、少し固い声で囁く。

「俺が、それを望んでいるんですから・・・。」
「えっ?」
「あなたを独占したい、ずっと傍にいたい。」
「コンラッド・・・?」

 小さな声で名を呼び、戸惑ったままで動けずにいる有利の項に手を伸ばし、コンラートはそっと黒髪に触れた。

「告げてはいけない感情だと思っていました。ずっと胸の奥に閉じ込めておこうと。あなたにいつか愛しい人ができたら、静かに見守ろうと、あなたの幸せだけを願い生きていこうと・・・。」

 少し湿気の残る髪を撫でながら、コンラートは静かに言葉を続ける。 

「でも、もう、我が儘な自分を止められない。あなたを・・・」

 コンラートの手がそっと頬を包み、少し潤んだ有利の瞳をまっすぐに覗き込んだ。真摯な眼差しで愛おしい者を見つめ、そのまま滑るような仕草で艶やかな黒髪に両手を差し入れた。

「あなたを愛しているんです。」
「う、そ・・・・」

 漆黒の瞳が、これ以上無いほど大きく見開かれる。

「嘘じゃありません。ずっとあなたを想っていました。あなたの幸せを願いながら、あなたの瞳に映る誰もが妬ましく、俺だけを映して欲しいと思っていました。」

 聞きなれた心地よい声が信じられない言葉を紡ぎ、その意味が身体の奥深くまで流れ込んで来るにつれ、有利の心臓は壊れそうなほど大きく鼓動を刻む。やがて、戸惑いに揺れていた瞳の奥に、震えるような喜びが浮かび上がった。

「我侭を言っても良いですか?」

 コンラートの問いかけに、ユーリはこくんと頷く。

「これからもずっと、あなたの傍にいさせて下さい。」
「うん」
「魔王ではない、あなたの、渋谷有利の時間を俺に下さい。」
「うん、うん」

 こくんこくんっと何度も何度も有利は頷く。コンラートは柔らかく微笑みながら、そのまろやかな頬をゆっくりと撫でた。

「ユーリ、あなたに触れさせて・・・。」

 コンラートの触れた頬がカッと熱を持つ。優しい瞳がゆっくりと近付いて、触れそうな距離で唇に感じる熱い吐息。
 有利は強い眩暈に似た感覚を覚え、自然と瞳を閉じていた。
 唇に感じた柔らかな感触。
 触れるだけのそこから流れ込む甘やかな感情。
 まさかコンラートからも同じ想いを返されると思ってもいなかった有利の胸は、喜びに震えていた。
 やがて互いの唇が離れ、間近に迫ったコンラートと目が合った瞬間、今起こった事実、すなわち、コンラートと口吻けたということにやっと思考が追いついた有利は、頬を赤く染め恥ずかしそうに視線を泳がせ始めた。わたわたと何か言い訳をしようとしている有利を更に強く抱きしめ、コンラートは再びその唇を求めた。

「あ、あの、コンラッド・・・?」
「ユーリ・・・」

 低く甘い声で名を呼ばれ、それだけで有利の鼓動は高鳴った。銀色の虹彩を浮かべた綺麗な瞳がじっと自分を見つめていて、その視線に灼かれたかのように全身が熱くなるのを感じる。
 すっと頬を撫でられて、次の瞬間、さっきとは全然違う噛み付くような性急さで、コンラートの唇が有利の唇に重ねられていた。
 逃げるような有利の唇を追い、苦しげに薄く開かれた隙間から舌を忍ばせる。途端に心臓の奥が熱く滾って、全身に甘い痺れが駆け巡った。唇だけではなく、心も、身体も、その全てを求めるような口吻け。舌を絡め取り貪るように口吻けが深くなるにつれ、有利の吐息が熱く乱れていく。

「・・・・ん、・・・っ」

 互いの熱が、吐息が、融けて混ざり合うような感覚に襲われる。呼吸まで呑み込まれてしまいそうなほど深く、執拗なまでに口腔を探られて、有利はさすがに息苦しくなり、鍛えられた胸元を軽く握った拳で数回叩いた。それでもなお深まる口吻けは、優しく柔らかく、時に荒々しく有利を翻弄してしまう。
 やがて、もがく様にばたつかせ始めた手をコンラートが捕まえる。最後に唇を舌先で舐め、ちゅっとわざと音を立てるように下唇を軽く吸われて、ようやく有利の唇は開放された。

「ちょっ、あ、あんた飛ばし過ぎ!」

 ぜいぜいと肩で息をしながら、有利はじとりとコンラートを睨みつけた。しかしそんな非難の眼差しも、ニコニコと上機嫌な笑顔に弾き返されてしまう。

「俺、超初心者なんだから、もうちょっと手加減してくれよ!い、いきなりこんな上級者レベルには付いていけないって!い、息できないし・・・」

 真っ赤な顔で叫ぶ有利に、コンラートは楽しそうな笑みを浮かべた。

「すいません、つい嬉しくて夢中に・・・。」

 そう言うと、握っていた手を口元に運んでその指先に唇を落とした。

「ひゃっ!」

 軽く吸い上げられた感覚に、有利は思わず奇声を発し、慌てて手を引き抜いた。取り戻した手を胸に抱き、有利は益々赤くした顔で抗議の声を上げる。

「だ〜か〜ら〜、そう言うのも初心者には恥ずかし過ぎるの!俺は年齢=彼女居ない歴なんだよ?モテまくりの夜の帝王の次元にいきなりは無理!だ、から・・・、も、もうちょっと、手加減してクダサイ・・・。」

 どこか嬉しそうに、じっと自分に注がれている優しい瞳に、言葉がだんだん小さく尻すぼみになる。その視線に晒されるうちに、顔がまたじわじわと火照り、もう何も言えなくなってしまう。頬を染め黙りこくった有利を眺め、コンラートは形の良い唇の端を上げて柔らかく微笑んだ。

「仰せのままに・・・」

 胸の前に手を当てて優雅な礼をとる。その瞳が悪戯めいた光を灯し、コンラートの唇が有利の頬でちゅっと音を立てた。

「少しずつ、ゆっくりと教えてさしあげますね。」

 蕩けるような甘い声が耳元で囁く。瞬間、ボンッと音がしそうな勢いで、有利は首筋まで一気に紅く染めた。

「あ、あんた、キャラ変わってない・・・?」

 ぼそりと、低い声で不満を告げる。あまりの劣勢に不貞腐れたように唇を尖らせ睨む有利に、コンラートは微苦笑を返した。

「少し浮かれてるんです、許してください。それとも、こんな俺は嫌ですか?嫌いになりました?」

 問いかける声が不安げに揺らぐ。

「ば、ばかやろう・・・・俺は、別に、どんなあんただって好きだよ。」

 迷い無く返される答え。しかしさすがに恥ずかしいのか、最後の方はわざと拗ねたように言い、ツイッと横を向いてしまった。黒髪から覗く真っ赤な耳に、コンラートの笑顔が嬉しそうに弾けた。

「ありがとう、ユーリ。色んな俺も教えてあげるね。」

 熱を持った耳朶をするりと滑る唇と共に、楽しそうな口調で言葉が降ってくる。

「コ、コンラッドーーー!!」

 ガラスを震わすほどの大声で上官を叱責する少年の声に、宿の外で今度こそ本当に王都へ帰る準備を進めていた兵達の手が一瞬止まる。だが直ぐに何事もなかったかのように作業に戻った。
 王都から遠く離れた村は静けさを取り戻すが・・・。

 _____眠れる獅子の檻は今、解き放たれた










 





okan

(2011/12/11)