「フランク・キャプラかく語りき」(5)

生徒:
「我々はなぜ戦うのか」シリーズであなたが得た経験で最も重要なことは何だったか説明していただけないでしょうか?「我々はなぜ戦うのか」と「素晴らしき哉、人生!」は互いに密接な関係があり、この映画以後のあなたの作品にも影響しているように思えますが、映画監督として「我々はなぜ戦うのか」の中で得た最も重要と思われる経験は一体何ですか?
キャプラ:
おそらく2つ挙げられるでしょう。一つはリアリティに対してより意識的にさせてくれたこと。戦争の残忍さというのは本当にリアルなもので、それは戦うことの勇敢さとかヒロイズムをなくさせるほどまったく粗野で乱暴なものだった。私が戦後のハリウッドで、映画の中で起こっていることにリアリティを持たせるように作っていることはわかっていただけると思いますが、今日の他の映画だって戦前の映画に較べてリアルさというものをより意識して描こうとしていることは明白です。「我々はなぜ戦うのか」の仕事を通して戦前に私がハリウッドで作ってきた映画以上に世界にはいろんなことがあるのだということがわかり、リアリティというものについて考えさせらました。まずこれがひとつ。もう一つはフィルムの編集における多大な経験を与えてくれたことで、編集という作業がどれだけ大切なものか、どのように編集を行えばいいのか、どうしたら編集による様々な効果を得ることができるのか、そういうことを私に教えてくれました。そう、2本の同じフィルムを持っていたとしても、解釈を変えてつなげると、映画の流れも変わり、まったく違う効果をあげることができるのです。ここで得た編集技術の経験は私のその後の映画作りの一部分を担うものとなりました。戦後の私の作品は初期作品よりうまく編集されているはずです。リアリティと編集、それが私が「我々はなぜ戦うのか」から得たものです。
生徒:
キャプラさん、あなたのこの映画以外の他の多くの作品を見ていると、すべての作品においてある一つのやり方に固執していて、それがとても成功しているように思えました。そう、それはなにげない普通の一般大衆の一人一人に人格を持たせていることで、感動的な叙情ドラマの中では登場人物の誰もが一種の輝きを放っています。それはとてもエモーショナルで見事に観客の心を掴んでいます。あなたはどのようにしてこういった人物描写を打ち出して、それぞれの人物をより親近感溢れるものにさせるのでしょうか?
キャプラ:
おそらくそれは自分の経験から得たもので、私は一人一人の生き様を丁寧に描くことがなによりも大事なことであることをわかっていました。ある意味ですべての映画は自叙伝だと思います。いろんな人間の人生の断片を集めて一本の映画を作る、それをできるのが映画監督なのです。一般大衆についての映画を作ろうとするこのフィーリングこそが私の特徴であり、あなたの質問に対する答えにもなります。一人の移民の少年としてアメリカにやって来た時から、私はここに住む人々を愛してきて、みんなそれぞれが持っている歌を映画を通して歌いあげたかった。それは私の作品を見てもわかって頂けると思います。
生徒:
私は「素晴らしき哉、人生!」では3つの時代の空気が一つになるように表現されていると思いました。まだ小さかった主人公の弟がプールに落ちる1919年と物語が進行している1947年頃のフレイヴァー、それが観客が映画を見た時代と溶けあい、ある種の普遍的なメッセージとして私達に伝わるのです。それはとても素敵なことだと思います。
キャプラ:
どうもありがとう。映画製作においては、一時的なものを何らかの方法でもって、永遠なるもの、普遍的なものへと結びつけていくことが可能で、うまくそれができたときには手応えが感じられます。一時性を普遍性へ関連づける作業は映画製作の一つの構成要素であり、この二重性にこそ映画の素晴らしさがあるのです。
生徒:
最近の進んだテクノロジーを強調した表現は、俳優達の素晴らしい演技を弱めているように思いますか?あるいは今の時代は俳優達が素晴らしい演技をしていた30年代よりも後退していると思いますか?
キャプラ:
そう思います。最近の映画はカメラの移動、トリックなどの技術的なことが無駄に強調されすぎています。世界中の偉大な監督達は、カメラだけでなく、俳優という最良のツールを得てはじめて人間性に重きをおいた物語を完全に語ることができるのだということを知っていました。
生徒:
あなたは映画を作る前に俳優達にはクリエイティブなスピリッツ、あるいはやりたいことを前もって準備してきて欲しいと思いますか?もしくは彼らには前準備なしのオープンな状態で来てもらって、あなたがやらせたいことを現場で彼らに言い渡していたのですか?
キャプラ:
オープン、そう、とてもオープンな状態で来て欲しい。私は俳優達に物語について話したがってたし、俳優達もそこから演技を始めることができた。でも誰にでもそうしていたわけではありません。私は俳優達に自分達の解釈で物語を演じさせたくなかったのです。さっきの質問に戻りますが、映画作りにおける最も大事なツールは俳優達で、すべてが彼ら次第なのです。物語は俳優の演技によって語られ、映画を見る観客は俳優と同化するのであって、カメラと同化するわけではありません。観客がカメラや照明などの機材を意識するようならば、物語はかやの外に出されたも同然です。トリックというのはカメラなどの機材を観客に気付かせないためにあって、そこに写っている俳優にだけ注意を向けさせて、彼らが俳優であることも忘れさせる役目を果たします。観客達にはそこにいる人間達が一つの物語を作り出してるってことだけに関心を向けさせなければなりません。
生徒:
先ほどいい映画の中ではカメラや照明などの機材は観客には気付かれないとおっしゃいましたね。この映画の音楽担当にディオムキンがクレジットされていますが、私はこの映画を見ててまったく音楽を意識することはありませんでした。これは偉大な仕事のように思います。私が意識した唯一のことはこの映画全体の会話にはさまざまな高低のトーンがあってそれがほとんどオーケストレーションのようだったことです。あなたはそれぞれのシーンにおいて会話の音量の高さ、低さなどを意識して作っていたのでしょうか?
キャプラ:
この映画にそんな効果を発揮させるようにした覚えはまったくありません。ただ俳優達が叫んだり、囁いたり、大声でどなったり、普通にしゃべったりと、自然に見えるようには気を配りました。会話を調和よく組み合わせるなんて考えてもみなかったよ。もし君が音楽に気付かなかったというなら、それは素晴らしいことだし、私がこの映画について聞いてきた中で最もうれしい賛辞だな。(笑)
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