源三位頼政公探索


  京都市内から国道9号線を西に進み、老ノ坂を越えると亀岡市に到ります。
  明智光秀の「亀山城」と「保津川下り」で有名な亀岡市ですが、9号線沿いに西へさらに進
みますと、ほどなく「頼政塚」という交差点に出会います。この交差点のすぐそばに「源頼政」公
の首塚(と伝承される)、「頼政塚」があるのです。
頼政塚交差点

   今回はこの頼政公と亀岡市の関わりを主軸に、「源三位頼政(げんさんみよりまさ)」公に
ついて、探索してみようと思います。

絵葉書「頼政公の墓」 源三位頼政公。

   すなわち源頼政公と「おとらのしっぽ」の接点は、宇治における頼政公のお墓を写した一枚の絵はがきによります。

   かつて「ぎゃらりぃ」でもご紹介しましたし、「時をかけるおとら」でも一度取り上げた絵葉書ですが、この一枚から頼政公とのお付き合いが始まったのでした。

源氏略系図

  頼政公は「源頼光(みなもとのよりみつ)」の玄孫にあたります。頼光は大江山の鬼退治で
有名な武将で、安倍晴明と同時代の人です(たしか…)。
  この頼光の弟に頼信という人がいまして、この人が「八幡太郎義家」のお祖父さんにあたる
わけです。義家は源氏の頭領として名高い武将ですが、義家の孫に義朝(よしとも)がいまして
(なんだかややこしくてすみません)、この義朝が、後に鎌倉幕府を開く頼朝(よりとも)の父親
なわけです。

  …つまり何が言いたいかというと、頼政公はいわゆる「源氏の頭領・源氏嫡流」とされる義
家の血統ではないということなのです。この点、少し覚えていてください。

  さて、頼政公の誕生は長治元年(1104)。そして53歳の時、保元の乱(1156)にて後白
河天皇方に付き、又、平治の乱(1159)には義朝ら源氏に背を向け平清盛(たいらのきよも
り)らと行動を共にして、この難しい時勢を乗り切ったのでした。
  その後、治承三年(1179)、従三位に昇進。頼政公76歳、ここから「源三位頼政」、正確
には剃髪していたため「源三位入道頼政(げんさんみにゅうどうよりまさ)」と呼ばれるようにな
ります。ちなみに源氏で「三位」に上ったのは頼政公が初めてです。
  しかし、翌治承四年(1180)、以仁王(高倉宮)の令旨により打倒平家へ挙兵。時に利なく
宇治にて戦死されたのでした。ちなみに頼朝が挙兵したのはそれから3ヶ月後のことでした。



三井寺から宇治へ− 「橋合戦」

三井寺その1
三井寺その2

  ところで、頼政公が平氏打倒に挙兵した際、最初に依ったのが琵琶湖西岸にある三井寺
(園城寺)(写真上)です。「近江八景探索」でも訪問しましたが、ここで三井寺&延暦寺の僧兵
の力を借りようとしたわけです。

  三井寺の僧兵や、延暦寺の僧兵は、度々京都へ上って強訴していたほど、強力な勢力で
す。ところが両寺の足並みが揃いません(元々、仲が悪いですから)。六波羅への夜襲を企て
たものの機を逸し、失敗します。
  頼政公は以仁王を奉じ、急遽奈良へ向かう決意を固めます。奈良には同調する興福寺ら
の勢力があるからです。

  夜半、三井寺を脱出した頼政公ら一行は夜陰に乗じて逢坂の関を越え、山科を経て奈良
へ南下しよと思ったのです。だいたい現在のJR奈良線のルートでしょうか。
  しかし、平家軍2万がすぐに追跡します。頼政軍は以仁王の疲れもあり、とうとう宇治で追
いつかれてしまいます。
  ここに宇治川を挟んで「橋合戦」が始まるのでした。

宇治橋

  頼政公は、宇治橋(写真上)の橋板をはずして(約20メートル強と考えられます)防戦しま
す。「平家物語」は激戦の模様を伝えていますが、追討軍は宇治川の渡河を強行します。渡河
を指揮するのは「足利又太郎忠綱」、あの藤原秀郷の末裔です。念のためですが、室町幕府
の「足利尊氏」とは別の一族のようです。


  結局、強行渡河に成功した平家軍に押され頼政軍は劣勢に立ち、平等院にて頼政公は自
害されたのでした。
  辞世の句と伝えられるのが
  「埋木(うもれぎ)の花さく事もなかりしに/身のなる果てぞ悲しかりける」 という歌です。

  その頼政公の自害された場所と伝えられるのが「扇の芝」で、ここで頼政公は芝の上に軍
扇を敷き自害されたと言われています。絵葉書のお墓は平等院塔頭最勝院(鳳凰堂の背後に
あります)に存在します(改築されたようですが)。
扇の芝
(扇の芝)
頼政公お墓