自害後− 「頼政塚」

頼政塚の碑
頼政塚説明板

  頼政公自害の際、その首を家来が持って逃げ、埋めたと言われるのが「頼政塚」です。亀
岡には頼政公の領地がありましたから、家来はここへ持ち帰ったのでしょう。
  その頼政塚へ早朝、訪問してみました。朝霧の中に立つ石碑はなかなか、雰囲気がありま
した。
  ところでこの首塚、どうみても古墳なんです。現地の説明板にも古墳であると書かれていま
す。古墳に首を埋めたと言うことなんでしょう。

  さて、伝承は伝承として尊重しなくてはなりませんが、実際のところ真偽のほどはどうなので
しょうか。

  まず、頼政公の首は宇治にて追討軍側の検非違使、平景高(たいらのかげたか)により首
実検されています(宇治市史より)。そのような状況下、家来が奪って持ち帰るのはまず不可
能のようにも思えます。
  もっとも「平家物語」では家来の「渡辺唱(わたなべのとなう)」により介錯後、宇治川に沈め
たという話と、別の家来、下河辺藤三郎清親(しもこうべのとうさぶろうきよちか)により首をとら
れた後、御堂の板壁の中に隠したという話(長門本)もあります。後者はその後、首が下総の
古河へ運ばれたことを示唆しているようです。

  とは言え、その下河辺藤三郎には頼政公の子、仲綱(なかつな)の首を御堂の床下に隠し
たとの記述もありますから、混同されているのかもしれません。

  さらに、亀岡市史によると、石碑は安永八年(1779)、松井宗安により建てられたことが記
録されています。この松井氏というのは鎌倉上杉氏の家臣太田氏の末裔で、太田氏は頼政公
の孫、広綱をその祖と伝えているそうです。
  つまり、松井氏が祖先顕彰の意味で石碑を建てたというわけです。

  ですから、実際に頼政公の首が埋まっているかどうかは、ちょっと(かなり)怪しくなってくる
わけです。

亀岡市文化資料館

  亀岡市文化資料館にお邪魔しましたが、頼政公に関する調査はあまり行われていないとの
ことでした。これはここの頼政公の伝承は、あくまでも伝承の域を出ないものとされていること
を物語っていると思います。
  とは言え、ここでは数多くの資料を閲覧させていただきました。ありがとうございました。



もうひとつの伝承− 「鵺」

  先に、ここ亀岡には頼政公の領地があったと書きました。その領地というのが「鵺(ぬえ)」
退治の恩賞によるものであり、亀岡にはその鵺退治にまつわる、ある伝承も伝わっているので
す。

  頼政公の鵺退治は有名な話なのでご存知の方も多いでしょうが、少しご紹介します。「平家
物語」によりますと、仁平(にんぴょう)年間(1151〜54)、ある物の怪が夜な夜な天皇(近衛
天皇)を悩ましていました。その物の怪の退治に推薦されたのが頼政公です。時に久寿二年
(1155)、頼政公52歳。腹心の家来「猪の早太(いのはやた)」を連れ退治に向かいます。
  余談ですが、この「猪の早太」が前述した太田氏(首塚の石碑を建てた松井氏の祖先)の
祖にあたるとする話もあります。
  さて、やがて物の怪に遭遇した頼政公は、見事に矢で射止めます。次いで猪の早太が駆け
寄りとどめを刺します(記述によればメッタ切りという表現がふさわしいです)。

  物の怪の正体は「頭は猿、からだは狸、尾は蛇、手と足は虎のよう。鳴く声はとらつぐみ」と
いう異様なものでした。これが後、怪物としての「鵺」とされていきます。しかし、本来「鵺」とは
「とらつぐみ」という鳥のことで、その鳴き声が不気味でしたので、平安貴族から忌み嫌われて
いたという経緯があります。

  実は頼政公は、この事件から約10年後の応保年間(1161〜63)にも鵺退治を行ってい
ます。このときは二条天皇の治世でしたが、「鵺という化鳥(けちょう)、禁中に鳴いて」天皇を
悩ますという事件が起こりました。この場合はもしかすると本物の「とらつぐみ」であったかもし
れません。とまれ、頼政公が再び呼び出され、今回も矢で射止め武勇を誇ったのでした。

  さて、この二度目の鵺退治により、頼政公は知行地を賜っています。「平家物語」によりま
すと、それは「伊豆の国」、「丹波の五箇庄(たんばのごかのしょう)」、「若狭の東宮(わかさの
とうみや)」という場所です。

  実のところ、頼政公と丹波地方の関わりを正史で確認できるのは、この「丹波の五箇庄」だ
けなのですが、これは残念ながら、現在の亀岡市ではないようなのですが…
  しかし、伝承によるとその際与えられた土地が、「矢代の庄(やだいのしょう)」、すなわち現
在の亀岡市内にある「矢田(上・中・下矢田)」の地であるというのです。

矢の根地蔵   さらに亀岡市内「横町西堅町地蔵堂」に祀られている「矢の根地蔵」にまつわる伝説は興味深いものです。
  この「矢の根地蔵」は頼政公の家に伝えられてきた守り本尊で、頼政公の母親がよく信仰していたものなのだそうです。

  頼政公が鵺退治を仰せつかり緊張していたとき、この地蔵尊に祈願したところ、夢のお告げで「矢田の奥の山に飛んでくる鳥の羽を矢に付けたならば、鵺を射止められるであろう」とのことであったそうです。それにより見事、鵺退治に成功したということなのだそうですが、この地蔵が持つ錫杖は、その際、用いられた矢であると「和漢三才図絵」にも伝えられているのです。
矢の根地蔵   わたしが見学させていただいた時は、丁度、地蔵堂の改築祝いの最中で、特別に地蔵の拝観が許されていた時でした。
  許可を頂き撮影させていただいたものをご紹介させていただきます。フラッシュをたくことが憚られましたので、手持ちで撮影したので、ややわかりにくいかもしれませんが錫杖の尖端が鏃になっているのがわかるでしょうか。
  尚、この地蔵は八百数十年ほど前の製作らしく、頼政公の時代と概ね一致する古いものだそうです。
(「横町西堅町地蔵堂」縁起書より)
鵺退治   それから鵺退治の場面を描写した掛け軸も掛けられていました。わかりにくいですが、鵺に覆い被さっているのが猪の早太です。

  尚、鵺退治を高倉天皇の時代(1168〜80)としている書物もあります(「十訓抄」)。



頼政公をめぐる謎

  ところで頼政公は、なぜ平家に反旗を翻したのでしょうか? 

  頼政公が三位に昇進したのは平清盛の斡旋によるものと言われています。三位昇進は閣
僚級への昇進でもあり重い意味があります。頼政公自身、その昇進を熱望していたようです
が、「玉葉(ぎょくよう)」によると、頼政公の正直な人柄と老齢のうえ重病に悩むその境遇に同
情した清盛が三位昇進を斡旋したのだそうです。頼政公はいたく喜んだようです。
  それなのになぜ? 
  平家物語によると名馬「木の下」にまつわるいさかいが原因としていますが、さてどうでしょ
うか。

  平家物語では頼政公が以仁王を口説いて挙兵に立ち上がらせたとありますが、事実は逆
で、以仁王が頼政公を口説いたのかもしれません。
  加えて「源氏の長者」としてのプライドはどうでしょうか。平治の乱ににおいて義朝に背を向
けた頼政公には、もしかすると頼信の血統であり義家の孫として源氏の正統とされる義朝への
反感があったのかもしれません。そして今、義家の血統は没落し、源氏で初めて三位に昇進し
た自分は、名実共に「源氏の長者」と目されています。
  とはいえ平氏全盛の時勢です。自分は三位に上れても子供達にはその保証はありませ
ん。かえって、平氏から警戒され不遇をかこつことになるかもしれません。
  それらの事情が絡み合うことにより、以仁王からの誘いに乗り、一発勝負に出たのだとした
ら…。

  自分の血筋を「武家の頭領」にする!

  これは大きな動機になりそうな気がします。さて、真実は?
(参考文献:「平家物語鑑賞 頼政挙兵(武蔵野書院刊 梶原正昭著)」
「亀岡市史」  「宇治市史」  「篠村史」)           



  今回の「時をかけるおとら」は、今までとは少々毛色の変わったものとなりました。

  しかし一枚の絵はがきから遡れる風景には様々なものがあります。訪問した先々での風
景。それは目に見えるものだけではないでしょう。そのような「絵葉書の風景」にも関心を持つ
ことができるはずです。
  そういう意味ではこれもまた「時をかけるおとら」だと言えるのです。

  …しかし、歴史に興味がないとさっぱりおもしろくないでしょうね(笑)。


  余談。

  源頼光の家系は「桔梗紋」を使っていたそうです。やがて土岐源氏へと繋がっていく血筋で
すが、後、土岐源氏明智光秀が亀岡を治めることになるとは不思議な縁かもしれません。
  光秀はこの地に頼政公ゆかりの伝承があったことを知っていたのでしょうか…

  「ときは今天が下しる五月哉」
  光秀が挙兵にあたり詠んだと言われる歌です。

  そう言えば頼政公の挙兵も五月でしたが…(笑) 
  それと信長って確か平氏だったような…(笑)。