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大沢自治会の紹介

地 域 概 況

 大沢自治会は、歴史的・社会的に大沢と称される地縁で繋がった大字の区域である。
その区域は地勢上、兵庫県中部の東端、京都府に接する篠山市域の南端に位置します。
JR福知山線篠山口駅周辺の約20haの地域です。地区内には若狭舞鶴自動車道、JR福知山線、国道176号線が南北に貫通し、交通の結節点となっています。これらの交通施設の西側には自然豊かな里山が控え、なだらかな丘陵地に集落が展開しています。
大阪・神戸の大都市圏域への時間距離は約60分弱、地域の市街地形成は篠山市に見られ、直近の10万都市は時間距離30分の三田市があり、利便性にも優れ、しかも定住圏域は良好な生活環境に恵まれた絶好の地勢のもとにあります。

b歴    史

 大沢の歴史は広くは丹波地域、もう少し狭めると篠山盆地の歴史に包含される。2.5億年前、丹波に相当する地域はアジア大陸の南部斜面の一部から海底に存在していたといわれる。
その後、ジュラ紀変動によって、隆起し、一転して陸地が広がった。篠山地域に相当する内陸部には淡水湖が出現したとされている。アジア大陸の東縁の一部である日本列島は大陸から離れ、後氷期を経て、その後の温暖化のもとで、海水は平野部に浸入し、篠山湖は次第に河川土砂の流入によって、土砂に埋まって湿原盆地になっていったとされています。

 これが今の湖沼を示す「大沢」という地名になったといわれています。何とも、にわかには信じ難い話ですが、篠山盆地の南端の最低地に位置する我々の地域は、事実、日本でも最低標高の分水があるところであり、奈良時代ごろまでは、篠山盆地の中でも最後まで帯水していたことが実証されています。

 今日でも地内に、「火灯し山」(ひとぼしやま)と称される山の名称が残されています。この灯が湖沼の舟運の安全を守る目印になったといわれています。

<奈良・平安は省略>

 1200年代に入り、承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒幕せんとした乱・・結果、上皇方は鎌倉勢に大敗することとなる)では、在丹波の勢力は、その殆どが上皇方として参戦した。鎌倉幕府は没収地を戦功の恩賞として分与した結果、丹波には東国武士が流入し、彼らに当地域が支配されることとなった。わが大沢には、相模より酒井一族が入り、大沢城を居城とした。戦国に入り、因幡石見から波多野が進出し、大名領国を形成し織田信長の天下平定に対抗し、毛利などと結んで、丹波国内60余城を従え、京都西方の一大勢力を形成していたといわれる。

 酒井一族は波多野に組み入れらながらも、酒井党として地域的な結合を図り、半ば治外法権のような権勢を有していたといわれる。大沢城主の家臣の杉本が政務を取り仕切ったといわれる。これの末裔が杉本家として今に残るところである。

 織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じ、2回にわたる丹波攻めの結果、大沢城も落城、家老杉本は帰農し、豪農となっていった。大沢城跡から焼き米が出たことがあり保管米が城の焼き討ちで焼けたものと伝えられ、大沢城跡を「焼け城」と称されている。大沢城主酒井は「犬死には無駄じゃ。戦はこれまで。皆のものは再起を期すべし」として降服、服従することとしたといわれている。城主酒井は明智に臣従し、山崎の合戦に破れ安土から坂本に向かう途中、討ち死にしたと伝えられる。

 こうして多くは帰農し、「大沢」を居場所と定め、戦国の百姓としての苦難の生活の中で村落共同体を強固なものとして形成していった。これがわが集落の起源と考えられる。大沢城のふもとから平坦地にかけてのなだらかな丘陵地に居を構え、集落形成していったものであろう。

 農地は低湿地であるが、それだけに肥沃地として豊穣が約束されたものと思われる。土地生産性は優れたものであっても、低湿なるがゆえにその労働生産性は痛々しいものであったと想像される 。
徳川から今日まで、数次にわたって、干拓、排水処理、河川の付け替えなど大規模な土地改良事業が実施されてきた。

 特筆すべきは、近年になってからであるが、大正年間末期には受益面積178haについて河川の付け替えを伴う地形を一変させるような大規模な耕地整理事業が実施され、全国の先進事例として、遠く京都府北部農村からも視察団が派遣されたとの記録が残っている。
その後、時代の変遷の中で同質的な農村地域社会は崩壊し、今日にに至っている。その間、当地域では、阪鶴鉄道(大阪・舞鶴間の民営鉄道。現JR福知山線)、国道R176、若狭舞鶴自動車道などの公共事業を受け入れ、これらの成果のもとに、

 今日では都市開発の手法を選択して将来を見据えていこうと、一大決断、「夢・未来」をテーマに組合営土地区画整理事業を実施して市街地形成を図っているところである。大沢の古地図はこちらからどうぞ。

 c地域特性

 居住快適性、交通アクセスともに恵まれた、篠山市の玄関口としての性格を有する地域である。土地区画整理事業で生み出された篠山口駅周辺の優良宅地には集合住宅(約100戸)が立地し、国道沿線には事業所、商業施設サービス施設が進出して小規模ながら都市機能の集積が進みつつある。

 国道の西は旧集落50戸が散在し、戸建て住宅の進出も見られる。ゆっくりとではあるが、しっかりとした都市計画、土地利用計画のもとに地域整備の進展が期待できる。

 旧篠山町の市街までは約4km。1609年徳川家康は大阪城攻略の拠点として篠山城を築き、城下町篠山は今日まで丹波の都として栄えてきました。

 城下町の雰囲気を今に伝える歴史的な街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定され、徳川から近代の黎明期にかけての文化遺産が多く、見ごたえのある町並みである。また、旧丹波は千年の都・京都の文化をささえてきたものです。

 京都との人的・物的交流も深く、生活習慣や地域文化の面で市内随所に京文化の影響を深くのこしているところです。加えて、夏の暑熱、秋の深い霧、気温の大きい日較差、適度な降水量、豊かな森が保障する水に支えたれた多くの「うまいもの」の産品を求めて、四季を通じて観光客の入りこみが絶えないところです。
これらの入り込み客は鉄路、自動車いずれも我々の自治会の区域を結節点として旧篠山町市街へ入ることとなります。

 d地域資源 

     自  然

      豊かな里山、渓流の水辺空間

   土地資源

      地区面積17haの土地区画整理事業で創出された整備水準 の高い優良宅地

   歴史遺産

      中世の山城

       大沢城・・・標高442mの奥谷山頂にある。承久の乱により相模から進出した東国武士が戦に陣取った城。主郭の 南北にそれぞれ一つの郭を配し、東に門を構え、門下にさらに郭を設置。南北に掘り切り、門跡の平地から2〜3m急斜面を登ると郭が西に向かって連なり、帯曲輪が郭を取り巻いている。尾根の北と南は急斜面で敵の侵入を防ぐようになっている。明智の丹波攻めの際、敵侵入を滑落させて防ぐために急斜面に敷き詰めた竹の皮に火が放たれ、焼失落城したと伝えられる。           

       禄庄城・・標高326mにある。酒井の家老杉本の塁とされている。8間四方の本丸、段、大手門、深さ1間の堀切り、出丸などで構成されていた。杉本の屋敷、家来屋敷なども構えていたといわれる。

       佐幾山城・・北東からの攻撃に備えた出城とされる。

      遊歩道

       中世ロマンコース・・中世の3山城を巡る遊歩道が「中世ロマンコース」として整備されている。山頂からの眺望は絶景。3城は尾根伝いに連なっている。昔日の湖沼干拓の歴史が一望できる。戦国の世に因州から進出した波多野の居城「八上城」が霧梅に浮かぶ。眼下に大沢自治会の区域が一望できる。少し足を伸ばし、湖沼時代の舟運の目印になったといわれる「火灯しし山」(ひとぼしやま)山頂から分岐して西に向かうと、渓流の流れに沿って林間を縫うように進むなだらかなコースもあり、途中「音羽の滝」の美しい姿に出会うことが出来る。それでは、ロマンいっぱいの遊歩道へ誘(いざない)います。ご案内はこちらからぞうぞ。

      大沢八幡神社

1482年、二村神社の氏子に大沢も含まれていたが、神事の日、氏子座席のことから紛争が起こり、祭器などを分け取って分裂したといわれる。大沢は神輿、獅子を持ち帰り、新たに社を起こしたと言われる。大沢村は正八幡宮を奉迎し、氏神としたといわれる。ハトがシンボルになっています。     

     千首塚

源平の乱の戦死者の首を埋めたとされる。現在では阿弥陀堂に祀られている。平資盛の先隊が源義経軍を防ぐための戦闘による戦死者の供養塔といわれる。       

     若宮神社

応神天皇の若王子大神を祀るといわれる。中腹の大岩に行者神を祀っている。9月に八朔祭りが行われる。

     阿弥陀堂

明治初年の神仏分離令により天台宗のご本尊薬師如来を堂を建立してここに移されたといわれる。郡内88箇所霊場の17番札所。4月に大師講、阿弥陀講が行われる。源義経陣を防ぐため、平資盛陣が先遣隊をおくり、これがこの地で交戦しその際の戦死者の供養塔が建立されたと言われ、阿弥陀堂に移設され祀られています。印塔のほか五輪が残されています。

     文禄検地帳

太閤検地と徳川の承応年間検地の中間に当たるもの。当時の耕作状況、土地所有状況を知る上で重要。杉本家に現存。当時の大沢村の範囲は現在の大沢自治会の範囲より広範であるが、石高大沢1003との記述あり。

      人的資源

進取の気性に富んだオンリーワンの人物多数あり、活力に満ちている。

     交流施設

集会施設の「おおさわふれあいセンター」、都市公園の1号公園、2号公園を有している。施設規模は次の通り。

     ふれあいセンター

鉄筋コンクリート2階建。80人収容のホール(舞台、ピアノ、音響設備)、50人収容の和室、10人収容の会議室、
調理台2脚の厨房を供えている。利用に当たっての問い合わせ、予約などはこちらから。

     都市公園

1号公園はゲートボール競技可能。

 e歳 時 記

 は る   阿弥陀堂の大師講、阿弥陀講, 桃の節句、うずき、節句、さなぶり、子ども会

 gな つ    盆、八朔祭り、自治会夏祭り、鎮守の森の音楽会、虫送り行事

 あ き    八幡神社秋祭り、子供達の自然学習会、栗拾い大会、彼岸、若宮講、亥の子

 iふ ゆ    年の瀬、新年、とんど、家祈祷、八幡神社厄除大祭

 jマップ・アクセス

      篠山市アクセス
           JR篠山口駅周辺が大沢自治会の区域

     自動車で・・・ 道路アクセスの詳細はこちらをクリック

 大阪→阪神高速道路:池田IC→中国自動車道:吉川JC→舞鶴若狭自走車道:丹南篠山口IC→大沢

 神戸→三田神戸線:三田西IC→舞鶴若狭自動車道:丹南篠山口IC→大沢

 京都→国道9号線→京都縦貫自動車道→国道372号→大沢

      電車・バスで・・・ 鉄道アクセスの詳細はこちらをクリック

    JR福知山線「篠山口駅」下車→大沢

      篠山市位置図
           ↑ 篠山市位置図

      大沢航空写真
               ↑大沢地域航空写真

 中世のロマンへのご案内
      ロマンの森マップ

      中世のロマンコース

八幡神社を起点とする、時間にして約2時間のコースです。八幡神社はJR篠山口駅西口から山に向かって、徒歩約7分のところにあります。

 

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 ふるさとのむかしばなし(大沢八幡神社にかかるはなし)

 真南条の二村さん(まなんじょうのふたむらさん
   ・・・真南条にある二村神社)

〈宮座争い〉

 室町幕府の支配が揺らぎ始めて、下克上の風潮が全国に広がり、丹波の地がそのうねりに飲み込まれようとしていたころのはなしです。
古市地区の西方の神内村(みうちむら現在の見内)に、式内社「に尊神社」(現在の二村神社)が祀られていました。この神社の氏子は現在の今田町、古市、真南条、大沢地域、大山、南河内、北河内という広い範囲にまたがっていました。

 祭礼ともなると、遠くの村々からも参拝者が集まり、特に9月9日(重陽の節句)に執り行われる秋の例祭は非常に盛大なものでした。祭りの準備は、各村が順番で持ちまわっていましたが、大変な苦労が伴うものなのか、遠くの村が当番んにあたったときはいつも不平不満の声が出ていました。

 祭りの当日は、各村の名主が神殿に列して神事を執り行うのですが、神内(みうち現在の見内)の名主は神社鎮座地の名主ということで、一番上座に列し、次に各村の名主が座するのがならわい(方言、ならわしの意)となっていました。名主は百姓であるとともに、何人かの下人を持つ武士でした。

 彼らは神社への年貢や人足集めなどを受け持っていたのですが、大所帯の村の名主ほど自分達は神内より多くの負担をしているのに、上座に座ることが出来ないと不満に思っていました。 世の中が平穏なときは、直会(なおらい神事の後の酒宴)の席で、「どうしてか神内の名主がいつも上座に着いているのだ。俺達だって・・・」と不平ごとを言う程度で済んでいましたが、世の中が騒々しくなってくると、広い地域を治め多くの戸数を支配する名主たちの間には、自分が一番の上座についてもいいはずだとの思いがだんだん強くなってきました。

 文明14年(1482年)秋の例祭には、そういった日ごろの思いが頂点に達し、直会の半ば、濁り酒に心地よく酔いしれたころ、またもや席順について口論が始まりました。

〈御神像争い〉

 当時、真南条村の名主は、近郷にも名の知れ渡る剛のものあったので、口論のあげく、「それでは力づくで」と御神殿の扉を押し開き、御神像一体(いざなみのみこと)を持ち出しました。それを見た他村の名主たちも、遅れてはならじと御神殿へと殺到していきました。神内の人たちは防戦に努めましたが、何しろ急なことであり、人数も少なく残り一体の御神像(いざなみのみこと)を守護するのが精一杯でした。

 真南条の名主は、御神像を抱きかかえて波賀野村(はがの)を東の方へとひた走りましたが、村はずれまで来てか神内(みうち)追っ手に追いつかれてしまいました。

 そこで、近くにあった大きな棒を拾い上げ、棒を振り回して追っ手たちと一戦を交えることになりました。なにせ、つわものであり、追っ手の人数もあまりおおくなかったので何とか追っ手を追い返すことが出来ました(この場所がいまでも棒振りの地と呼ばれています)

 そして当野の船瀬のあたりまで来ましたが、ここはその地名が示すように、当時は沼地となっていましたので、一旦は古森(地名)まで出て、当野の村まで逃げることにしました。当野の人たちも、常日頃神内の人たちに反感を抱いていたので、村人達が追っ手の行く手をさえぎって、逃げる手助けをしてくれました。名主は、これで、やっと真南条村にたどり着けました。

 さて、真南条村では、村の主だったものたちが集められ、今後の対策について協議がなされました。そしてこの里に流れていた清流の源の岩屋に御神像を安置する事にしました。当然神内の方でも黙っているわけがありません。何回にもわたって、御神像を取り返しに来ました。そこで、真南条では谷川の近くの人たちに、御神像をお守りする役が当てられました。人々は見張り役の当番をつくり、昼夜ともに、御神像のお守りを交代でする事になりました。また、助けてくれた当野の人たちに感謝する意味で、真南条の人々は、食事のときに当野の人たちに膳を供えていたということです。

 この御神像争いのときに、大沢地域は神輿を持ち帰り、いまでは、それらを御神体として、祭事が行われているということです。

 

 中世大沢の3城縄張り

      大沢中世3城

 大沢古地図(明治6年)

      大沢古地図

 135年前(明治6年)の集落地図です。上方が西、右方が北、左が南、下方が東を示します。
中央を左右に走る幅の広い赤い線が旧県道です。この線形は今日でも殆ど変化していません。主要な集落内連絡道として活用され、優れた佇まいが楽しめます。
この県道より上方(西)はなだらかに傾斜する地域であり、居宅が構えられ、集落が形成されたと思われます。畑地、水田、住居が混在しており、急峻な山の地域が迫ります。
県道より下方(東)は平坦な低湿で肥沃な水田ですが、古老によると、農耕牛も入らない、腰まで泥に浸かる水田があったといわれます。この広い地域が徳川時代以降、昭和の始めにかけて、数次の土地改良事業が施工されたところです。ここに、その後、大阪・舞鶴を結ぶ阪鶴鉄道(はんかくてつどう・現JR福知山線)、国道176号線が順次、整備され南北に横断しています。
今日では「大沢」を含むこの地域一帯は4集落に分割され、それぞれが地縁的団体である4自治会として構成されていますが、この時代以前は一体的に融合した土地所有形態であり、水利を基本とした農村地域社会であることを考えると、日常生活においてもそういった地域社会であったことが伺えます。この図面はそのうちの「大沢の地区」として、持ち別れされたものと考えられます。関係4集落の長の署名捺印が見られます。明治6年のことです。

 

       本編は前川修氏による「大沢の歴史」によるところ大です。謝謝。
「むかしばなし」は丹南ライオンズクラブ編集発行の「たんなんの民話と伝説」による。       

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